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【考察】念仏往生の法義と信心正因、平生業成について(7)

信心正因」を仰せられたのは何も親鸞聖人だけではないですし、また親鸞聖人が最初なのでもありません。そのことは師匠である法然聖人が既に『選択集』に仰せです。

念仏の行者かならず三心を具足すべき文。

 『観無量寿経』にのたまはく、「もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生しなん。なんらをか三となす。一には至誠心、二には深心、三には回向発願心なり。三心を具すればかならずかの国に生ず」と。
三心章

何も口で「南無阿弥陀仏」と申せばよいなどとは、法然聖人は仰っていません。「かならず三心を具足すべき」と、念仏の信心を非常に重視しておられます。それは後に紹介しますが、三心の内一心でも欠けたら往生できないと善導大師が仰っているからです。

『選択集』ではその三心を『観経疏』の至誠心、深心、回向発願心釈で説明されていますが、『観経』の三心は阿弥陀仏の本願を説く『大経』第十八願の「至心・信楽・欲生」の三信であると見られたのは法然聖人でした。第十八願の至心信楽欲生を具体的に三心として開いて説かれているのが『観経』の三心であるとみられたのは法然聖人が初めてであったそうです。

しかれば経に云く。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具する者は、かならずかの国に生ず。 おおよそ三心は万行に通ずるが故に、善導和尚この三心を釈して以って正行・雑行の二行とす。いまこの経の三心は即ち本願の三心を開くなり。しかる故は、至心とは至誠心なり、信楽とは深心、欲生我国とは廻向発願心なり。 これを以ってこれを案ずるに必生彼国の言は深き意(こころ)のあるべきか。必は不必に対する言なり。正行を修す者は、必ず彼の国に生ず。雑行を修する者は必ずしも彼の国に生ぜず、人・天等に通ずるが故に。(観無量寿経釈)

ですから、法然聖人の教えられる『観経』の三心は、本願の念仏と組み合う『大経』の三信を表していることが伺えます。『観無量寿経』は方便の経と言いますが、経の表面に顕わに説かれている定散二善の自力の諸行と組み合う自力の三心もあれば、表立って説かれてはいないが経の底に微かに説かれている、本願の念仏と組み合う他力の三心もあると親鸞聖人が教えられたことをしっかり認識していなくてはなりません。法然聖人、ひいては善導大師が教えられたのは後者です。本願の念仏と組み合う他力の三心であり、『観経』隠彰の義であって真実の法門なのです。

『観無量寿経』は方便、『大無量寿経』は真実、善導大師や法然聖人が教えられたのは『観無量寿経』の教え、親鸞聖人が教えられたのは『大無量寿経』の教え、「念仏往生」は法然聖人の教え、「平生業成」は親鸞聖人の教え、などという話を聞いていますと、あたかも

・「念仏往生」の法門では助からない、ただ「平生業成」の教えでのみ助かる
・法然聖人の教えは方便の教え、親鸞聖人の教えは真実の教え

であるかのように聞こえてしまいますが、「念仏往生」と「平生業成」は別物ではありませんし、『大経』を抜きの法然聖人でもありません。第一、浄土三部経の講釈をなされるほど浄土三部経に精通しておられたのが法然聖人ですから、今の時代の誰よりも『大経』の意に明らかであったと言えましょう。そういうことを知ってか知らずか、「念仏往生」と「平生業成」を別物であるかのように説いている先生があるようで・・・


さて、法然聖人は『観経』の三心について善導大師の『観経疏』の至誠心釈、深心釈、回向発願心釈を引いて

わたくしにいはく、引くところの三心はこれ行者の至要なり。所以はいかんぞ。『経』(観経)にはすなはち、「具三心者必生彼国」といふ。あきらかに知りぬ、三を具すればかならず生ずることを得べし。『釈』(礼讃)にはすなはち、「若少一心即不得生」といふ。あきらかに知りぬ、一も少けぬればこれさらに不可なり。これによりて極楽に生れんと欲はん人は、まつたく三心を具足すべし。

と、三心(念仏往生の本願を疑いなく信受する信心)は「行者の至要」であると仰せられています。この三心の内、一心でも欠けたら往生できないとも述べられ、極楽に往生しようとする者は、必ず三心を具足しなさいと教えられています。その三心は、中心の第二深心におさまるため、深心を述べた所で有名な

次に「深心」とは、いはく深信の心なり。まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。ゆゑにいま二種の信心を建立して、九品の往生を決定するものなり。

という信疑決判を教えられています。生死に迷うか、涅槃の城に往くかは、本願を信じるか、疑うかで決まるというのです。三心といっても、計らいをまじえずに、念仏往生の本願を疑いなく聞き受けた深心(信楽)の他にはありませんから、法然聖人の教えは念仏を本とし、信心を正因とする教えであったのです。それで親鸞聖人は法然聖人を「本師源空明仏教」と讃嘆し、

生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。
すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。
「正信偈」源空章

と朝晩教えられていることは浄土真宗の方ならよくご存知の通りです。


こうした法然聖人の教えを正しく継承し、念仏も信心も共に阿弥陀仏より回向成就せられた選択本願の大行、大信であると明らかにされたのが親鸞聖人でした。大部な「信文類」は、「行文類」に明かされた本願の念仏の信心を明らかにしたもので、信心といっても念仏の法を計らいをまじえずに聞き受けた一心(信楽)の他はない、念仏を称えることの他に信心は無い、それは我々の中から出てきた信心ではなく如来の大悲心が届いたすがたであることを教えられています。念仏と信心は共に与えられる不離不二の行信ですから、浄土真宗から「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」などという教えが出てくるはずがないのです。

同様に、念仏往生の本願を疑いなく受け容れたのが信心ですから、「念仏がないから信心一つ」という教えも浄土真宗にはありません。念仏が本願力回向の行であるから、我々としてはその念仏が往生の業であることに疑いない信心が肝要なのです。信じさせる法(念仏)を抜きにした信心は凡夫自力の信心に過ぎません。

そして後者の教義では「信心一つ」と言いながらその信心を獲るために雑行を勧めているのですから、そんな教えをまともに信じている人が信心も安心も分からないのは当然すぎるほど当然のことです。

念仏も信心も、「我が真実なる誓願を疑いなく受け容れて念仏せよ」という本願が成就して、阿弥陀仏が大悲を込めて恵み与えて下さる選択本願の行信ですから、私達はただ仰いでこれを信じ、専らお念仏申しましょう。



【参照】
『WikiArc』三心
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Abcです

こんばんわ、Abcです。

私は、直前のコメントにて
>「弥陀の名号を(自力であれ他力であれ)称えさせていただける縁(えにし)に出逢われた」とのことで「他力の念仏」であります。 と伝えました。

念仏 について 自力あり他力あり。

 自力念仏(20願) :自らの功徳のために自らが殊勝な心にて称える念仏。
 「義なきを義とす」という教えを自らが思量で量る為に、「なほ義あるべし。」となってしまいます。 因みに、20願を修めているものに「19願をせよ」と言われているのも紛れもない親鸞会であります。

 他力念仏(18願) :自らに功徳を与えんがために親様(如来)がお誓いを立てられ(建立無上殊勝願 『正信念仏偈』)ること。

『尊号真像銘文』より
 「然至我宗 弥陀本願 定行因於十念 善導料簡 決器量於三心 非利智精進 専念実易勤

 「然至我宗者」といふは、聖覚和尚ののたまはく、「わが浄土宗は、弥陀の本願の実報土の正因として、乃至十声・一声称念すれば無上菩提にいたるとをしへたまふ、善導和尚の御をしへには、三心を具すればかならず安楽に生るとのたまへるなり」(唯信鈔・意)と、聖覚和尚ののたまへるなり。」

ともございます。ここにある「聖覚和尚」と言われる方は、親鸞会のビデオの中でも「聖覚法印」として挙げられている方であります。私のところでは「安居院流 節談説法の方」として有名であります。

ここに「自力であれ他力であれ」と伝えていますように、20願と18願とがあることとなっております。

 ですが、淳心房さんが言われているように、
>『観経』の三心は阿弥陀仏の本願を説く『大経』第十八願の「至心・信楽・欲生」の三信であると見られたのは法然聖人でした。第十八願の至心信楽欲生を具体的に三心として開いて説かれているのが『観経』の三心であるとみられたのは法然聖人が初めてであったそうです。

とございます通りであります。今記した『尊号真像銘文』にも「三心」という言葉が見受けられますね。

ここで、再びですが、『化身土巻(20願) 標挙の文』を記します。

「阿弥陀経之意也
  至心回向之願  不定聚機 難思往生」 です。

ここに「至心回向之願」とございます。これは、
「至心(18願)に回向させたまえる(向かわせよう)願」と言われますし、

『小経』
「若有善男子・善女人、聞説阿弥陀仏執持名号、若一日、若二日、若三日、若四日、若五日、若六日、若七日、一心不乱、専持名号 以称名故 諸罪消滅 即是 多善根 福徳因縁 其人、臨命終時、阿弥陀仏、与諸聖衆現在其前。是人終時、心不顛倒、即得往生阿弥陀仏極楽国土。」

とございますから「一心不乱の願」とも称されます。

ここからは、「あくまで私の見解(味わい)」となりますが、
 「是人終時、心不顛倒、即得往生阿弥陀仏極楽国土」というのは「この人終りの時、 心は顛倒(転倒 / ころげる)せず、 安楽国に即ち往生を得る」とのことろり、
 「不断煩悩得涅槃 煩悩をたたずして、涅槃への分別を得る 『正信念仏偈』」
 と記されているとみております。

なもあみだ なもあみだ
Abc

 余談ですが、先ほど示しました『化身土巻 標挙の文』には、
 「無量寿仏観経之意 
  至心発願之願(19願)  邪定聚機 双樹林下往生

  阿弥陀経之意也
  至心回向之願(20願)  不定聚機 難思往生 」

とあり、このことから
 『観経 : 19→18 への回向』
 『小経 : 20→18 への回向』とも見られますが、

今の文、
 「経(観経)に云く。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具する者は、かならずかの国に生ず。 おおよそ三心は万行に通ずるが故に、善導和尚この三心を釈して以って正行・雑行の二行とす。いまこの経の三心は即ち本願の三心を開くなり。しかる故は、至心とは至誠心なり、信楽とは深心、欲生我国とは廻向発願心なり。 これを以ってこれを案ずるに必生彼国の言は深き意(こころ)のあるべきか。」との釈されていることによって、

 『観経 : 19→18 への回向』
 『観経 : 20→18 への回向』 という2つの見方があるということであり、この二願を総括するという意味で、「三願転入釈」は『方便化身土巻』にしか記すことができなかったとされます。

上にあわせますと、「経(観経)に云く。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具する者は、かならずかの国に生ず。」のうち

「経(観経)に云く。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり」が、18願であり、
『観経』のなかにて「浅心、自力回向発願心のものは化土に往生するのだ」と言われているのではと私はこの2つの説を見て感じました。(別の御意見があることは、承知の上です。)

会通

ども、林遊@なんまんだぶです。

Abcさん。

何でも会通(一見、矛盾して入るようにみえる記述を道理に照らしあわせ、一貫した趣意のものとして説明すること。)してしまうと、返って原義が判らなくなることもあります。

また、近代になって使われた用語で先輩方を括ってしまうと誤解を生むかもです。聖覚法印は安居院流の唱道(お説教)の大家でしたが、節談説法の方とされると聖覚さんから何それといわれるかもです。たしかに『唯信鈔』などを拝読すると、時々七五調を使用しているので判りやすいのですが節談と云えるか疑問です。
しかして、その『唯信鈔』を解釈した御開山の『唯信鈔文意』は、めちゃくちゃ難しいですね。

なお、『観経』の三心は上品上生の段だけにあるのですが、この三心は九品全部に通じるのだとされたのは善導大師でした。かって『観経』を読んで、何で下品の我らに三心という難しいことが必要なんじゃと疑問を持ったものです(笑

これは、あの智慧第一といわれた法然聖人が『観経疏』の至誠心釈を読まれて、「このような法蔵菩薩と同じような至誠心をおこすことは凡夫には不可能である」と『観経疏』を二回読まれても善導大師の真意を理解できなかったといわれています。
こういうところは高田派で伝持されてきた『三部経大意』に詳しいのですが、リンクしておきます。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%89%E9%83%A8%E7%B5%8C%E5%A4%A7%E6%84%8F

また、お示しの『尊号真像銘文』の聖覚法印の文は漢文なので、その元となった『聖覚法印表白文』をリンクしておきます。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%81%96%E8%A6%9A%E6%B3%95%E5%8D%B0%E8%A1%A8%E7%99%BD%E6%96%87

なお、本願寺派の註釈版聖典は脚註も豊富なのでお奨めです。で、WikiArcではページを入力することによって注釈版、七祖篇とも当該ページへジャンプできるようになっていますので、出来たら出拠のページを示して頂けるとありがたいかも。
もし本願寺派の聖典をお持ちでないならば、WikiArcでは、冒頭のPageNoをクリックすることでページ数を表示し、七祖ではInnmonをクリックすることで御開山が引文された部分を知ることができるようになっています。(時々抜けている場合もあるかも)

そんなこんなで、概念の違う用語を会通しすぎると、返って法然聖人や御開山が見ておられた世界が解らなくなるかもです。超高齢女性心でした。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re:林遊さん

こんばんわ、Abcです。

>何でも会通(一見、矛盾して入るようにみえる記述を道理に照らしあわせ、一貫した趣意のものとして説明すること。)してしまうと、返って原義が判らなくなることもあります。

今ご指摘いただきました「脆弱性」をはらんでいるが故に、「教義」とはせずに「味わい(私的考察)」といたしました。

原義はあくまでも、

(世尊は、私たちに)『大経』第十八願の「至心信楽・欲生我国」を伝えられた のうち、、
 (世尊は、私たちに ~と伝えられた) ⇒ 「世尊 我」
 「至心信楽」 ⇒ 「一心 帰命尽十方無碍光如来」
 「欲生我国」 ⇒ 「願生安楽国」

と考えておりますし、これについてはそのように伝えております。(ただ、私の技量が拙く はたして伝わっているかどうかという事象が 何よりも懸念していることでもありますが。)

>もし本願寺派の聖典をお持ちでないならば、WikiArcでは、冒頭のPageNoをクリックすることでページ数を表示し、七祖ではInnmonをクリックすることで御開山が引文された部分を知ることができるようになっています。

ありがとうございます。私の家柄は、蓮如上人時代からのいざこざで『本願寺派の聖典』をもつことは禁じられておりますゆえこのアドバイスは大変ありがたいことであります。(明治五年の件にて少し緩和され、『大谷派勧行集(『正信偈』と『文類偈』と『和讃』、『御文』が少し載せられている書物)』(『赤本』とも言われるらしいです。)という書物は、授けていただきました。)

なもあみだ、なもあみだ
Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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