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【考察】念仏の勧めについて(16)

本日は、曇鸞大師の「念仏の一行」の勧めを見てみたいと思います。が、まずその前に、曇鸞大師の十八願観を見ておきます。

願(第十八願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、十方の衆生、心を至して信楽してわが国に生ぜんと欲して、すなはち十念に至るまでせん。もし生ずることを得ずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とを除く」と。
仏願力によるがゆゑに十念の念仏をもつてすなはち往生を得。往生を得るがゆゑに、すなはち三界輪転の事を勉る。輪転なきがゆゑに、ゆゑに速やかなることを得る一の証なり。
曇鸞大師『浄土論註』三願的証

【現代語訳】
第十八願に、<わたしが仏になったとき、あらゆる人々が、まことの心で信じ喜び、わたしの国に生れると思って、たとえば十声念仏する。もし、わたしの国に生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる>と誓われている。
この仏の願のはたらきによるから、たとえば十声念仏して往生することができる。往生することができるのだからもはや迷いの世界をさまようことはない。浄土に往生することができ、もはやさまようことがないというのが、速やかに仏となることができるということの第一の証である。


仏願力によるがゆゑに十念の念仏をもつてすなはち往生を得」と、本願の説明に念仏は外しておられません。それも「仏願力によるがゆゑに」ですから、往生は全く阿弥陀仏の本願力、つまり他力に由ると教えられています。と同時に、仏願力が成就した、すなわち本願成就の立場であることも分かります。また、天親菩薩が「大無量寿経の立場」なら、天親菩薩の浄土論を註釈した曇鸞大師も当然ながら「大無量寿経の立場」です。その曇鸞大師が第十八願をこのようにご覧になっているのです。

阿弥陀仏が「念仏を称えよと仰っている」、その本願が成就してはたらいているから仏願力によって十声念仏して往生することができる。曇鸞大師は、このように教えられています。


では改めて、曇鸞大師の「念仏の一行」の勧めを伺います。今回も

【飛雲】「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い4

より一部引用します。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
曇鸞大師のところでは

三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を梵焼して楽邦に帰したまひき

という曇鸞大師がどのようにして救われられたのかを蓮如上人は詳しく

かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、仏法のそこをならひきはめたりといふとも、いのちみじかくは、ひとをたすくることいくばくならんとて、陶隠居といふひとにあうて、まづ長生不死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支と申す三蔵にゆきあひてのたまはく、「仏法のなかに長生不死の法は、この土の仙経にすぐれたる法やある」と問ひたまへば、三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。

と解説なされています。
曇鸞大師が菩提流支から言われたことは、「これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」です。信前の曇鸞大師に勧められたのは、「念仏すれば」です。
これを簡単に言うと、

Q.どうすれば救われますか?

A.念仏すれば


こういうことになります。
善の勧めもなく、いきなりの念仏の勧めです。

龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師の教えられたことは、念仏です。もちろん、信心の伴った念仏であることは言うまでもありません。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

菩提流支から「念仏すれば」と教えを受け、「一向に浄土に帰し」たのが曇鸞大師であると判ります。この関係は、法然聖人から

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

と教えを受け、その通り念仏して救われた親鸞聖人との関係に似ています。なお、その念仏は信心を具足した他力の念仏であるのは当然のことです。


曇鸞大師は、当然ですが信心についても教えられています。三願的証の後に

後の学者、他力の乗ずべきことを聞きて、まさに信心を生ずべし。みづから局分することなかれ。

経の始めに「如是」と称するは、信を能入となすことを彰す。

とあるのがそれです。「信」という言葉は、その字からも判るように、人の言葉に対して噓偽りがないことを言います。噓偽りのない仏様のまことの言葉を聞く時に、それを疑うことはまことに失礼なことです。ですから、「信」には「疑いをまじえない」という意味が自ずとそなわっているのです。このことから、念仏往生の法義を私達の上で言えば、本願の仰せを疑いをまじえずに受け容れた信心を正因とすることが明らかになるのです。

善知識方は、こうした信心を正因とする念仏往生の法義を示されてきました。どなたとして、信心を伴っていない念仏を勧めている方はありません。ただ、多くは行の中に信心を摂めて説かれたために、信心が顕わに示されなかったというだけです。その中で、親鸞聖人は、七高僧の誰よりも信心を強調し、行から別開して明らかにされたのでした。

しかし、行から信を開いたからといって、信のみあればよくて行は不要であるということではありません。信心はあくまで念仏の信心であって、念仏と無関係な信心ではありません。念仏(行)と信心(信)は如来の御ちかひです。その念仏を本願から抜いてしまうような発言は、本願に対する不敬でしょう。

私達は、「名号を称える者を極楽に迎えよう」という本願を計らいをまじえずに受け容れ、仰せの通り称名して、往生を一定と期すべきであります。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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いままさに仏力を談ぜんとす

ども、林遊@なんまんだぶです。

論註教学を、法然教団に持ち込んだのは隆寛律師だとされています。
法然聖人は『選択本願念仏集』で、

 初めに正しく往生浄土を明かす教といふは、いはく三経一論これなり。「三経」とは、一には『無量寿経』、二には『観無量寿経』、三には『阿弥陀経』なり。
「一論」とは、天親の『往生論』(浄土論)これなり。1187

と、三経一論として『往生論』を挙げておられますが、『浄土論』や、その注釈書である曇鸞大師の『浄土論註』について深く考察されたところはありませんでした。

もちろん、諸宗兼学の学僧で「智慧第一の法然房」とたたえられていた法然聖人でしたから深い仏教思想を持っておられ『浄土論』の教学も理解されていました。
その、法然聖人は自らの生死出ずべき道を求められて、善導大師の『観経疏』の一文に依って回心されたのは有名な話です。
http://wikidharma.org/5899c9602b997

その為に偏依善導(ひとえに善導に依る)とされ善導大師の示唆に拠って、初めて往生浄土の仏法である「浄土宗」を開宗されました。それまでは浄土門は寓宗とされており、一宗として認知されていませんでした。
「偏依善導」
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%81%8F%E4%BE%9D%E5%96%84%E5%B0%8E

この法然浄土宗に対して聖道門の側から、そんなものは仏教では無いと、「興福寺奏状」や「延暦寺奏状」、『擢邪輪』などの論難が加えられました、この非難に対して、選択本願念仏の法門の真実性を顕し、法然聖人の真意であるとして浄土真宗こそ真の仏法であるということを、釈尊の言葉と祖師たちの釈文によって証明されたのが御開山でした。
なお、御開山は浄土真宗を開かれたのは法然聖人だとされています。為念。
(99)
智慧光のちからより
 本師源空あらはれて
 浄土真宗をひらきつつ
 選択本願のべたまふ

その為に法然、善導教学を包み込む形で「論註教学」を導入し、法然聖人の説かれた浄土法門は「八万四千の法門」の「余」に説かれた本願力の法門であるとし「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」p.737 とされたのでした。
要するに『選択本願念仏集』の結論である、

 称名必得生 依仏本願故(名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり)

の「仏の本願」の意味を『浄土論』、『浄土論註』の「本願力」の語に依って法然聖人の真意を明らかにされたのでした。
仏教史上で『無量寿経』の願」に着目し、衆生の往生の因果は本願力という他力(利他力)に拠るのだとされた嚆矢は曇鸞大師でした。
私見ですが、この曇鸞教学に目覚めたから、『浄土論』、そして『浄土論註』を著された天親菩薩と曇鸞大師の一字をとり「親鸞」と名乗られたのだと思ふ。

『浄土論』の「世尊我一心 帰命尽十方 無礙光如来 願生安楽国」を曇鸞大師は讃歎門で釈して「「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。」とされておられ、これを御開山は「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。」とされたのであった。いうまでもないことだが、この無碍光如来の名(みな)とは、なんまんだぶである。

ともあれ、淳心房さんが挙げられた「三願的証」の元を言えば、本願による済度である「覈求其本釈」であった。
「覈求其本釈」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%88%E6%B1%82%E5%85%B6%E6%9C%AC%E9%87%88

本願によって救われるとして、その本願の淵源である「世尊我一心 帰命尽十方 無礙光如来 願生安楽国」という、帰命尽十方 無礙光如来という、なんまんだぶを説かないなら、それは、もうすでに御開山の開顕された浄土真宗ではないのであった。

どのような意味においても、

 阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

という領解は梯實圓和上が仰った

称名を否定するような領解の仕方というのは本願を正しく理解した事ではないのです。ちゃんと有るものは有る通りに理解しなければいけないのです。有るものを無いとして理解するような理解の仕方は正しくないのです。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E8%A1%8C%E4%BF%A1%E4%B8%8D%E9%9B%A2

だと、思ふ。
それにしても「本願成就文」にのみ立つ人は、十劫の昔になんまんだぶが成就しているから、これを心に思ふのが浄土真宗の信心です、といいたいのかもだな。念仏はおまけかな(笑
「十劫安心」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%8D%81%E5%8A%AB%E5%AE%89%E5%BF%83

ところで近頃は「はたらき」という言葉を多用するのだが「はたらき」とは法であり、この「法(誓願一仏乗)」とは、なんまんだぶであるという視点が欠けているのかもである。どうでもいいけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


Re: 林遊@なんまんだぶ様

一つの記事のようなご解説、ありがとうございます。

> 論註教学を、法然教団に持ち込んだのは隆寛律師だとされています

→そうでしたか。法然聖人は三経一論によって浄土宗を立教開宗されたと『選択集』に述べられていますが、確かに『浄土論』についての考察は『選択集』には不思議と無いんですよね。


善導、法然の打ち立てた称名正定業説を論註教学によって跡付け、称名こそ最勝真妙の正業であり、念仏往生の法門こそ最高にして唯一無二の成仏道であると証明されたのが親鸞聖人でした。その称名を本願から除くような発言をし、これこそ親鸞聖人の教えだと言わんばかりの主張はまことに許し難いです。

> 称名を否定するような領解の仕方というのは本願を正しく理解した事ではないのです。ちゃんと有るものは有る通りに理解しなければいけないのです。有るものを無いとして理解するような理解の仕方は正しくないのです。

→これがA先生の理解の仕方です。こんなことを言うと「A先生は称名を否定していません」なんて擁護発言が飛び込んできそうですが、じゃあ「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」とは何だという話です。

そして本願から称名を除くだけでなく、更に、歎異抄や御消息は親鸞聖人の教えではないとまで言い切っています。最晩年の著作の一つである『尊号真像銘文』も「あれは法然聖人の教えだ」と放言しており、『教行証文類』以外の著作は親鸞聖人の教えと認めないという姿勢です。そんなんでよく浄土真宗の布教使が名乗れるなと思ってしまいます。

都合の良い部分を断章し、都合の悪い根拠は無視か理由をつけて撥ね付ける、こうした部分は高森顕徹会長と変わりません。このような先生に育てられる未来のお坊さんはどうなってしまうのかと危惧しています。これを機に、称名は本願の行であること、本願を疑いなく受け容れて称名一行を修める一心一行の勧めこそ親鸞聖人の真意であることを訴えていきたいです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・←念仏は信心のオマケではなく、阿弥陀仏の大悲の願心の御回向によるものです

念仏成仏

ども、林遊@なんまんだぶです。

明治維新によって、日本は圧倒的な西欧文明・文化の波に晒されました。

このような文化に接して、仏教側では、キリスト教(耶蘇教)に対する警戒心が沸き起こり右往左往することもあったようです。特に浄土真宗では、弥陀一仏への信仰を説くので、一神教のキリスト教と混淆されるのではないかと恐れたそうです。
その時に、ある和上が耶蘇教が来ても何の心配もいらん。ご当流には『浄土論』『浄土論註』がある。これさえあれば耶蘇教は恐るるに足らず、と言われたそうです。

御開山は、『浄土論註』によって願作仏心、度衆生心という浄土の菩提心と、往相・還相の本願力回向の二相の壮大な体系である浄土思想を展開されました。
それが、『大経』の結論である、
(71)
念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして
 自然の浄土をえぞしらぬ

という「念仏成仏」の法門でした。

>善導、法然の打ち立てた称名正定業説を論註教学によって跡付け、称名こそ最勝真妙の正業であり、念仏往生の法門こそ最高にして唯一無二の成仏道であると証明されたのが親鸞聖人でした。

ということですね。
Aさんは、

>>引用開始
十八願を五願に開いたって説に立つから、名号が称名になるんです。
だって、十八願は 乃至十念は、私の称名だもの。深川和上も、この説だったね。
突き詰めて行くと、十八願を五願に開いたって説に立つと、突き詰めて行くと、「名号を聞くということは称名を聞くってこと」になって行くわけよ。そうすると、おかしい。矛盾してくるわけよ。だって、称名はどこから出たんだ?って言ったら、「無量寿経のお説教を聞いて」でしょ。聞其名号 信心歓喜でしょ。聞其名号 信心歓喜の名号は、念仏じゃないじゃない。これ、念仏だったらおかしいじゃない。どこから、念仏が出て来るわけ?何もないところから、念仏出ないでしょ。
お釈迦さまが、無量寿経のお説教をなさったから、念仏しているんでしょ、私らは。だ
から、「聞其名号の、名号はあくまでも、大経」です。
>>引用終了

と言っていますから、本願成就文の「聞其名号 信心歓喜」の名号は「無量寿経の説教」だと思っているのかもです。だから「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない 」と言うのかもですね。
しかし、これだと「流通分」の、

 仏語弥勒 其有得聞 彼仏名号 歓喜踊躍 乃至一念。当知此人 為得大利。則是具足 無上功徳。
 (仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。)

の文が解釈出来なくなるのだがなあ。
現代の坊さんは成就文の「信の一念」はうるさく説くのだが「教文類」で示される、

 この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。

「真実の利」であり「無上の功徳」である、「行一念」のなんまんだぶをもっと説くべきだと思ふ。
なお、Aさんは釈尊の説かれた『無量寿経』に固執し、釈尊が『無量寿経』を説かれた背景に思索が及んでいないように思われる。救主と教主を混同しているのであろう。
御開山の仏身観は、

(55)
弥陀成仏のこのかたは
 いまに十劫とときたれど
 塵点久遠劫よりも
 ひさしき仏とみえたまふ

とあるように、

 弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。……

の、弥陀の本願が淵源であって、釈尊はそれを説かれた十方諸仏の一仏であった。

「親鸞聖人の仏身論」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E8%81%96%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%BB%8F%E8%BA%AB%E8%AB%96

Aさんが否定的な五願開示
「五願開示」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BA%94%E9%A1%98%E9%96%8B%E7%A4%BA

とまれ、Aさんは「業因」と「正因」をぐちゃぐちゃにしているのだと思ふ。どうでもいいか。


なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。(教文類)

ですから、阿弥陀仏の名号は無量寿経そのものであると言えるでしょう。A先生は成就文の「聞其名号 信心歓喜」に固執し、「名号を聞いて信心歓喜」ということと、続く「乃至一念」を『教行証文類』では信の一念と解釈されていることから

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

と言っているのだと思われます。しかし、成就文の乃至一念に称名の意があることは『浄土文類聚鈔』や『真要鈔』に言われており、断章取義です。


成就文に固執し本願文を無視・軽視していること、自分の説に合わせて聖教を理解していることが相まって、あのような穴ぼこだらけ、聖教に対して矛盾だらけのヘンテコな説が出てくるのでしょう。

親鸞聖人は中心という言葉を使われていませんが、無量寿経の中心は何かと言ったら「如来の本願を説きて経の宗致とす」ですから如来の本願、すなわち十八願であることは明らかです。本願が成就していることは確かに大事なことですが、すでに成仏して十劫というのですから本願成就は前提なんですよね。成就文の教説は親鸞聖人の教えにとって大事であることに変わりはありませんが、だからといって本願文をなおざりにしていいわけがありません。

根本は本願です。それに対すれば成就文は幹であり枝葉でしょう。その本願に念仏を見出してこられたのが高僧方であり、それを受け継がれたのが親鸞聖人です。自分の説に合わせて法を理解しないでもらいたいものです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

所帰人法

ども、林遊@なんまんだぶです。

経の体を名号とするとは、『論註』に、

 「無量寿」はこれ安楽浄土の如来の別号なり。釈迦牟尼仏、王舎城および舎衛国にましまして、大衆のなかにおいて無量寿仏の荘厳功徳を説きたまへり。すなはち仏(阿弥陀仏)の名号をもつて経の体となす。
http://wikidharma.org/5d538b1bdacba

と、ありますね。浄土三部経の体は名号であるとされ、御開山はこの文を依用されたのでしょう。
この名号とは、「尽十方 無礙光如来」の口業の讃歎門でした。


成就文の「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念」の乃至一念を、法然聖人やその門下では「行の一念」とみられていましたが、御開山は「信の一念」と見られました。
その根拠となったのが『無量寿経』の成就文に相当する『無量寿如來会』の、

 他方の仏国の所有衆生、無量寿如来の名号を聞きて、乃至、能く一念の浄信を発して歓喜愛楽し、所有の善根を廻向して、無量寿国に生ぜんと願ずる者は、願に随いてみな生じて、不退転、乃至、無上正等菩提を得ん。五無間・誹毀正法、及び謗聖者を除く。(信巻p.213で引文)
http://wikidharma.org/5d538ddd4d997

の「乃至能発一念浄信歓喜愛楽(乃至、能く一念の浄信を発して歓喜愛楽し」の文の「浄信」の語によって『大経』の「乃至一念」「信の一念」とみられたことは有名です。
この文には「無量寿如来の名号を聞きて」とありますから、この名号を「経」であるとみることは出来ません。

浄土真宗の布教使は、『御文章』の影響からか、阿弥陀如来を人格化して「阿弥陀さま」と表現することが多いのですが、このことから「名体不二」の名号を軽視するのかもです。
安心論題に「所帰人法」として、人(仏)に帰すのか法に帰すのかの論題がありますが、Aさんは、仏を人格化するあまりに、なんまんだぶが衆生を浄土へ運載する「行法」であることに思いが至らないのかもです。
「所帰人法」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%AE%89%E5%BF%83%E8%AB%96%E9%A1%8C/%E6%89%80%E5%B8%B0%E4%BA%BA%E6%B3%95

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> この文には「無量寿如来の名号を聞きて」とありますから、この名号を「経」であるとみることは出来ません。

そうでしたか。私は、如来会ではありませんが、名号を説いたものが『無量寿経』ですから、『無量寿経』は名号そのものであると思っていました。『聖典セミナー[教行の巻]』にも

 このような本願成就の名号を、十方の諸仏に讃嘆させ、十方の衆生に聞かせようと誓われたのが第十七願であり、具体的に諸仏が名号を讃嘆されているすがたが『無量寿経』だったのです。いいかえれば、名号の内容を説き明かしたのが『無量寿経』なのですから、『無量寿経』は阿弥陀仏の本願の名号そのものであり、名号が本体であるような経典ですから、「すなはち仏の名号をもって経の体とするなり」といわれたのです。
 こうして『無量寿経』を聞くことは、本願の名号を聞くことであり、名号を聞くことは、「仏願の生起本末を聞く」ことでした。その「仏願」とは第十八願を指し、「生起本末」とは、『無量寿経』に詳しく説かれているように、阿弥陀仏の本願の因果が衆生の往生の因果を成立させていくということですから、『無量寿経』は「如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり」といわれたのです。要するに『無量寿経』は、南無阿弥陀仏という一句の名号にこめられている救いのいわれを、本願の始終をもって説き明かされた経典であるということです。その本願の名号が私たちの口に現れ出ているすがたが大行であり、それを疑いなく聞き受けているありさまを大信というのです。(p.140~p.141)

とあります。


これはさておき、

> 浄土真宗の布教使は、『御文章』の影響からか、阿弥陀如来を人格化して「阿弥陀さま」と表現することが多いのですが・・・

この問題もありますね。ただ、名号を軽視ではなく、称名を軽視している、というのが本当のところだと思います。やはり一番の問題は『御文章』の信因称報説に立って親鸞教学を見るために、称名を軽んずる、また行としての念仏を説かない点ではないでしょうか。A先生などその典型です。「聞其名号信心歓喜」で、名号は「まかせよ、救う」ということで、「念仏を称えよ」ではない、という論法です。親鸞聖人が明らかにされた信心とは、念仏一行を称える際の信心であるということに思いが至らないというのが何とも情けない話です。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

仏願の生起本末

ども、林遊@なんまんだぶです。

Aさんの発言再掲
>>引用開始
十八願を五願に開いたって説に立つから、名号が称名になるんです。
だって、十八願は 乃至十念は、私の称名だもの。深川和上も、この説だったね。
突き詰めて行くと、十八願を五願に開いたって説に立つと、突き詰めて行くと、「名号を聞くということは称名を聞くってこと」になって行くわけよ。そうすると、おかしい。矛盾してくるわけよ。だって、称名はどこから出たんだ?って言ったら、「無量寿経のお説教を聞いて」でしょ。聞其名号 信心歓喜でしょ。聞其名号 信心歓喜の名号は、念仏じゃないじゃない。これ、念仏だったらおかしいじゃない。どこから、念仏が出て来るわけ?何もないところから、念仏出ないでしょ。
お釈迦さまが、無量寿経のお説教をなさったから、念仏しているんでしょ、私らは。だから、「聞其名号の、名号はあくまでも、大経」です。
>>引用終了

ここで、「聞其名号 信心歓喜」の名号を直ちに『無量寿経』とするからAさんは混乱しているのです。
梯實圓和上のように、仏願の生起本末を出せばよいのでした、

 しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。p.251
http://wikidharma.org/5d54909abe883

仏願の本末とは、如より来生した法蔵菩薩の因果をいい、その因果の果(末)が、なんまんだぶという救済の「法」が成就し、衆生を救済しつつあることでした。
「仏願の生起本末」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%8F%E9%A1%98%E3%81%AE%E7%94%9F%E8%B5%B7%E6%9C%AC%E6%9C%AB

ですから次下の「現生十種の益」に、真実信心の行者(念仏者)の利益を挙げられたのでした。
「現生十益」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%8F%BE%E7%94%9F%E5%8D%81%E7%9B%8A


最近は、念仏者という言い方をしませんから、信を骨張して

 穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。p.131
http://wikidharma.org/5d54994dc1a5e

の「行に迷ひ信に惑ひ」なのかもです。

深川倫雄和上は、わたしが助かる研究をするよりも、弥陀が如何にして我を助けたまふかの研究をしたほうがええ。

と仰っていましたです。阿弥陀仏は称名をもって私を済度なさるのでした。ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 梯實圓和上のように、仏願の生起本末を出せばよいのでした

確かにそうですね。それで、

其の名号を聞く
=仏願の生起本末を聞く
=18願の因果を聞く

すなわち、聞其名号の「聞」とは18願を疑いなく聞くことなのでしたね。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)

にもそのことが顕れています。その本願から乃至十念の念仏が出てくるわけで、

> 称名はどこから出たんだ?

本願からですということになります。

本願を亡き者にし、成就文に固執する先生にはこれが分からんのでしょうね。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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