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【考察】念仏の勧めについて(1)

【考察】選択本願の行信について

のカテゴリーでは、行も信も共に選択本願に誓われたものであることを考察しました。

何度か書いていますが、私は信因称報説そのものを否定しているのではありません。ただ、誰にでも信因称報説で教えを説くことが必ずしも良いとは限らないと思うのです。他力本願という法語もそうですが、信因称報説にしても、これらは、いわば真宗の奥義みたいなもので、無常や罪悪と聞いてもポカン、菩提や出離と聞いてもピンと来ないような方には反って誤解が多かろうと思います。

私は煩悩にまみれた愚かな罪深い人間であり、この世は火宅無常の世界であって真の安らぎ、幸福と言えるものはどこにもない。生きることの意味も死ぬことの意味も判らず、無意味な生と死を繰り返して果てしなく迷いの世界を輪廻して苦悩から離れられない。人間に生まれてきたのはこの果てしない輪廻から出離することだ。と、このように生死からの出離を願うようでなければ、本当の意味で浄土教は理解できないでしょう。

更に、正雑二行の沙汰をし、私のような者が生死を離れて安らかな浄土に生まれるには念仏によるしかないと、念仏一行を称えて往生を願うようになった人でないと信心正因称名報恩の真意が伝わらないと思います。それどころか、誤解した挙句に信に惑い行に迷っていく結果につながる気がしてなりません。実際、信因称報説が行き過ぎて念仏軽視となり、ありもしない「高森の信」に惑い「高森の行」に迷ったのが親鸞会会員です。


釈尊によって説かれ、その後浄土の祖師方を始め多くの有名無名の方々によって伝持されてきた念仏往生の教えは、親鸞聖人に至っていよいよ花開き、その真髄は信心正因、平生業成と明らかにされました。ところが、親鸞聖人より約800年、蓮如上人より約500年の時を経た現代において、信心と念仏を対立関係で見て、信心正因だから救われるために念仏は要らないとか、あるいは「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」などと、信心を重視し念仏を軽視する方が真宗内で見受けられます。

しかも、真宗に無知な素人が言っているのならまだしも、後者は浄土真宗の看板を背負う布教使の発言です。まさか後の世において、そのような発言をする者が浄土真宗内から現れるとは、さすがの親鸞聖人も予想しておられなかったと思います。


念仏と信心は共に本願に誓われた一具の法であり、別々の事柄ではありませんでした。本願の念仏には内に本願の仰せを計らいなく受け容れている信心を具足しており、本願を疑いをまじえずに受け容れているということは、仰せの通りにお念仏申すことです。共に南無阿弥陀仏につかえているのが念仏であり信心でした。

ところが、同じく法然聖人から教えを受けて、同じくお念仏を申して弥陀一仏の悲願を仰ぐ方々の中で、どうしても自力の執心捨てやらず、定散心をもって往生を願う同門の方がおられました。そればかりか、諸行本願義という説を立てて、諸行も往生の因となると選択本願念仏の教えを根底から揺るがしかねないことを言い出す者も出てくるありさまでした。それで親鸞聖人は、『選択集』の伝授を受け、浄土宗の未来を託された法然聖人の弟子の一人として、本願の念仏とその信心を顕かに説き開いて下さったのです。

その内、本願の念仏が浄土真実の行、選択本願の行であって、弥陀、釈迦、諸仏の本意にかなった大行であることは「行文類」に顕かにされています。『教行証文類』は『選択集』の法義の真実性を明らかにせんと著されたものですが、あの膨大な引文の中で『選択集』からの引用は「行文類」だけです。一見、不思議に思えるこのことによって、「行文類」が選択本願念仏の本質を明らかにし、その法義の真実性を証明するためのものであったことが分かります。

「行文類」が読めていれば例の発言は出てこないはずですが、かの先生は何とその「行文類」を根拠にあのような発言をしたのです。以前私が「何宗の布教使なのでしょうか」と言った意味が少しは伝わるでしょうか?

次に、本願の信心とは真実の信心とも言われますが、これは「信文類」に顕かにされている本願の念仏についての信心です。念仏は、これを頂いてわずか一声称える者も必ず往生させる正定業であると決定的に深く信ずることで、これを法の深信と言います。これが真実の信心です。『往生礼讃』にはこれを

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。

と教えられ、親鸞聖人は『教行証文類』に引いて真実の信心を顕かにされています。信心、信心と言いますが、その内容は「称名正定業」なのです。選択本願の行なのです。念仏と無関係な信心ではありません。

なお、正確には『往生礼讃』ではなく『集諸経礼懴儀』からの引文です。そこには「下至十声聞等に及ぶまで」とあり、親鸞聖人は「」に注目し、敢えて『集諸経礼懴儀』から引文されたのでしょう。


真宗では、信心正因称名報恩を教えの旗印としてこれを前面に押し出し、他宗との差別化を図っていますが、説く者が信心と念仏の関係をよく知らない、あるいは間違っているために、真宗内では反って念仏の声が聞かれなくなり、信心を獲られないという結果になっていると危惧せざるを得ません。

信心正因とは、一つには往生が定まる時を顕す法語です。念仏という衆生救済の法は万人に共通に与えられていますが、その法に実際に救われるのは、一人ひとりが法を受け容れた時です。念仏した時に救われるのではなく、念仏する者を往生成仏させる本願を疑いをまじえずに受け容れた時に救われるのです。

また、「念仏する」という衆生の動作によって救われるのでもなく、「念仏する者を往生成仏させる」本願を信受したのが救いだというので、信心が正因だと言われるのです。口では同じく南無阿弥陀仏を称え、身体は同じく浄土三部経を読誦し、弥陀一仏を観察し、礼拝し、讃嘆供養していても、心に本願の仰せを信受していない者は報土往生の大益を失い、化土にとどまります。それで往生の肝要はただ信心一つだと言われるわけです。

先に述べたように、念仏と信心は共に弥陀の方より回向される南無阿弥陀仏につかえていることであって、別々の事柄ではありませんでした。しかし、同じく念仏していても信心が異なるということが同門の方々でさえもあったのです。それで親鸞聖人は念仏に具わっている信心を別開して顕かにし、唯円房は『歎異抄』を著して、信心が異なるために化土へとどまることがないようにと教えを遺して下さったのです。

だからといって、開かれた側の念仏は無用だとか、往生に役立たない、称えよと仰せではない、ということでは決してないのです。信心一つで助かるのであって念仏は要らないとか、阿弥陀仏に仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではないなどという説は本願の正しい領解ではありません。あくまで信楽受持するのは弥陀仏の本願念仏であって、念仏と信心は決して対立しないのです。

それと、称名報恩とは信心を獲た上の称名は報恩と心得て念仏しなさいと、称名を生涯相続すべき念仏者のつとめとして教えられた法語です。一念の信心で往生が定まるというのは正しい領解なのですが、これを少し間違うと念仏を称えることは無意味ではないかと取られかねません。実際そのような者がおり、それは一念義と言われ、親鸞聖人は念仏往生を正しく領解した者とは言えないと教えられています。

往生は本願を信受する一念に定まり、念仏は生涯に亘って行者の人生を荘厳していく。信心も念仏も本願に誓われた信であり行であり、「往生のみち」を歩もうとする者に与えられた真実の行信です。


本願の念仏を称えることは、阿弥陀仏の本願、阿弥陀仏のお心にかなってのことです。このカテゴリーでは、念仏の勧めについて伺っていきたいと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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Abcです

こんばんわ、Abcです。

※このコメントは、「Abcの見解」が色濃くあるため批判が来るのは承知の上で投稿します。

>念仏と信心は共に弥陀の方より回向される南無阿弥陀仏につかえていることであって、別々の事柄ではありませんでした。

>開かれた側の念仏は無用だとか、往生に役立たない、称えよと仰せではない、ということでは決してないのです。信心一つで助かるのであって念仏は要らないとか、阿弥陀仏に仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではないなどという説は本願の正しい領解ではありません。あくまで信楽受持するのは弥陀仏の本願念仏であって、念仏と信心は決して対立しないのです。

 エントリーありがとうございます。読ませていただきました。
私の説き方はA師以外にも「法然上人の説き方」と揶揄されます。

 そもそも、「称名」は仰られるように「念仏正因」ではありません。(認めたくはありませんが

 ただ、大谷の方でも「念仏業因」といういわれ方はなされるかと思います。
また、『本典』には、
 「諸仏称名の願 浄土真実の行 選択本願の行」 とございます。

 おそらく (ここからは推測となりますが、) A師は、「そのようにいわれるが、「念仏正因」ではないから、祖師聖人は「念仏を称えよ」と仰ってはいない」のである。 と返されるのでしょう。

 ただ・・・ ただ、ここで問題になるのは、A師がいう「祖師聖人は「念仏を称えよ」と仰ってはいない」を推すのなら、

教行証 のうち、

教巻 : △ 『大本』のうちの「十八成就文」と他いくつか
行巻 : × 「祖師聖人は「念仏を称えよ」と仰ってはいない」らしいので
信巻 : ◎ と いいたいところだが、
 「深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。」

 と「一心にただ仏語を信じて 、 行によりて 仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず」 とあり、「一心にただ仏語を信じて」のみとすると 「一向専念無量寿仏」 のうちの「一向」のみであるため、「なにに一向なのか」という根本的な問題になる。

また、「阿弥陀さまは「我が名を称えよ」といわれていない」としたならば、
蓮如上人の『御文』本師本仏の章
 「弥陀にかぎりてわれひとりたすけんといふ超世の大願をおこして、われら一切衆生を平等にすくはんと誓ひたまひて、無上の誓願をおこして、すでに阿弥陀仏と成りましましけり。
 親鸞聖人のをしへたまへるところの他力信心のおもむきといふは、なにのやうもなく、わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念なれば、かならず遍照の光明のなかに摂め取られまゐらするなり。」
 は「違えている」となります。

 なぜならば、「弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」は「信心」ですが、「もろもろの雑行をすてて専修専念なれ」は、「念仏」だからです。

 そして、「もろもろの雑行をすてて専修専念なれば、かならず遍照の光明のなかに摂め取られまゐらするなり。」と「摂め取られまゐらす」の前にあるということからこの「もろもろの雑行をすてて専修専念なれ : 念仏」は、あり体に言う「お礼の念仏」でないことも明らかです。

証巻 、 真仏土巻 : 『信巻』の一部のみの解説から「第11の願」及び「第12・13の願」の解説はなされることはなく 了顕の『腹籠りの御聖教』という別名のみが告げられる。

ですね。

そして、これが「このエントリーにて伝えたいこと」ですが、
 上記の状態だと『信巻』の一部しか解説しない こととなります。
 それはいいです、A師は「『信巻』の一部しか解説しないかた」という認識となりますが、ひとまずは置いておきます。
 ただ、問題なのは、「この状態では『正信偈』及び『正信偈大意』の解説が出ない」が、「おつとめ」として朝晩拝読するという状態となります。

『正信念仏偈(正信偈)』と『念仏正信偈(文類偈)』はともに「釈尊は阿弥陀さまのいわれを説くためにお生まれになられた と それを伝えられた七人の高僧 について」であります。ですから、これを説明する私としましては「法然上人の教え方」となるのは私も認めるところですが、

 逆に、「祖師聖人の教え」として「信心を獲よ」だけ伝えられて、聴衆は「???」となるのでは、ということです。

 「親鸞の教え」とは、常に
 「当流親鸞聖人のをしへたまへるところの他力信心のおもむきといふは、なにのやうもなく、わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念なれば、かならず遍照の光明のなかに摂め取られまゐらす」 (蓮如上人『御文』)

 「恵心院の和尚(源信)は、『往生要集』(下意 一〇九六)には、本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、「行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず」と仰せられたり。「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにをさめとられまゐらせたり」(同・意)と、たしかにあらはせり。しかれば、「無明煩悩を具して安養浄土に往生すれば、かならずすなはち無上仏果にいたる」と、釈迦如来説きたまへり。」(『御消息』)

 「諸仏称名の願(第十七願)と申し、諸仏咨嗟の願(同)と申し候ふなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。また十方衆生の疑心をとどめん料ときこえて候ふ。『弥陀経』の十方諸仏の証誠のやうにてきこえたり。詮ずるところは、方便の御誓願と信じまゐらせ候ふ。念仏往生の願(第十八願)は如来の往相回向の正業・正因なりとみえて候ふ。まことの信心あるひとは、等正覚の弥勒とひとしければ、如来とひとしとも、諸仏のほめさせたまひたりとこそ、きこえて候へ。また弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人(法然)の仰せにて候へ。」(『御消息』)

 →ここでは、「諸仏称名の願(第十七願)と申し、諸仏咨嗟の願(同)と申し候ふなるは、方便の御誓願と信じまゐらせ候ふ。念仏往生の願(第十八願)は如来の往相回向の正業・正因なりとみえて候ふ。」として「17願と18願」を説明されている。 また、
 「他力には、しかれば、義なきを義とすと候ふなり。このひとびとの仰せのやうは、これにはつやつやとしらぬことにて候へば、とかく申すべきにあらず候ふ。また「来」の字は、衆生利益のためには、きたると申す、方便なり。さとりをひらきては、かへると申す。ときにしたがひて、きたるともかへるとも申すとみえて候ふ。なにごともなにごとも、またまた申すべく候ふ。」とあることより、「来」と「帰」の文意にても説明なされている。

 「この念仏往生の願を一向に信じてふたごころなきを、一向専修とは申すなり。如来二種の回向と申すことは、この二種の回向の願を信じ、ふたごころなきを、真実の信心と申す。この真実の信心のおこることは、釈迦・弥陀の二尊の御はからひよりおこりたりとしらせたまふべし。」(『御消息』より)

 などなどございます。A師も『御文章』、『御消息』として手元にあるのですから御覧いたたきたいところでありますし、いまの「祖師聖人は「念仏を称えよ」と仰ってはいない」を推す限りは、「おつとめの御説明ができない」ということとなります。

 なもあみだ、なもあみだ
 Abc

Re: Abc様

コメントありがとうございます。

思うに、この対立の理由は、一つには浄土真宗で「行」とは何を指すのかということでそもそも考えが違っていることかなと。私は、「行」とは「他力の称名」であると捉えています。ただし、「名号」「本願のはたらき」などの意味があることを否定するのではありません。A先生は、「行」とは「本願のはたらき」だと説明していました。典型的な空華の思想です。

二つには、親鸞聖人の教えを、七高僧→親鸞聖人の伝承から理解するか、覚師・蓮師の信因称報説をもって理解するかの違いかなと思います。私は前者であり、覚師・蓮師の教えは親鸞聖人の教えの中で信心正因説、称名報恩説と伺える部分に特化した教えであると理解しています。A先生は、明らかに後者でしょうね。

師匠の一人が稲城和上で、和上は蓮如上人の大家と言われているようですからその影響を受けるのは当然だし、教えられることの中で尤もな部分も多いのですが、念仏と信心を対立関係でとらえて

・阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない
・阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

と説明するのは間違っています。こう教えられた根拠は一箇所もありません。

信因称報説に立つのはかまいませんが、また成就文を重視するのはかまいませんが、本願から念仏を抜いてしまうような、念仏は阿弥陀仏の本意ではないような発言は厳に慎むべきです。念仏往生説の破壊にも取れる説で、信因称報説を突き詰めていくとこうなってしまうのかと残念であり、そして看過できない説です。


「法然上人の説き方」、いいじゃないですか。親鸞聖人は法然聖人の教えによって救われたんですから。それに親鸞聖人は、浄土真宗は法然聖人が開いたと仰っているんですから。AbcさんはAbcさんの伝え方があるのですし、聖教に則って教えを説かれているなら構わないんじゃないでしょうか。

Abcさんには、本願の念仏とその信心を伝えて、皆人共に浄土往生の本懐を遂げる「後の世を渡す橋」としての活躍を念じております。なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

同一念仏無別道故

ども、林遊@なんまんだぶです。

Aさんは、これは法然聖人の教え、これは親鸞聖人の教えと言ふそうですね。
これは、覚如上人以降に展開された「信因詳報説」に拠って法然聖人を理解しようという立場であって、御開山の念仏思想と齟齬を生じます。
御開山は、信を強調されますが、その基底には「本願名号正定業」の口称の〔なんまんだぶ〕があるから信を強調することができたのでした。

「正信念仏偈」に、

 本願名号正定業 至心信楽願為因

  本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願(第十八願)を因とす。

   本願の名号は、正しく往生の決定する行業である。その行法を受けいれた第十八願の信心を往生の正因とする。

と、あるように、本願に選択された名号(なんまんだぶ)が浄土教の基底です。
この事は、『尊号真像銘文』で、「和朝愚禿釈親鸞「正信偈」文」として、自ら解説されたり、
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%B0%8A%E5%8F%B7%E7%9C%9F%E5%83%8F%E9%8A%98%E6%96%87#.E6.AD.A3.E4.BF.A1.E5.81.88.E3.81.AE.E6.96.87

ご自身の影像の賛に「本願名号正定業」以下の文を記しておられることからも窺えます。

「鏡のご影」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:K-goei.jpg

「安城のご影」
http://labo.wikidharma.org/images/c/c3/Kumagawa1.jpg

御開山は、法然聖人に出遇われて、

 ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば、「上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷ひければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」と、やうやうに人の申し候ひしときも仰せ候ひしなり。(『恵信尼消息』p811)

と述懐されておられた、と妻の恵信尼公は記していますが、生死出づべき道とは、法然聖人の示された、なんまんだぶを称える「仏法」なのでした。
御開山の比叡山時代には、学問的思惟よりも実践を重視する堂僧であったといわれますが、その行を選択本願の行であったと法然聖人に示された時に、御開山の中で回心が生じたのだと思ふ。後年、それを大行・大信の本願力回向として展開されたのが『教行証文類』であった。
御開山の信心思想を紐解くには、「信巻」だけでなく「証巻」や「真仏土巻」を読み解かないと解らないと思われるのだが、御開山は恐ろしいほどに透脱された方であった。

ともあれ、御開山は、なんまんだぶと称えて成仏する「法」の根底を明らかにして下さったのであった。

御開山は、愚直になんまんだぶを称えている人に対して、


 故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。いまにいたるまでおもひあはせられ候ふなり。(『御消息』p.771)

と、法然聖人の仰せを邂逅し記述されておられるのだが、信心とか安心という概念すら知らないけれど、なんまんだぶと称えた者を必ず済度するというのが阿弥陀仏の本願であった。

ある意味では、真宗教学は蓮如さんのご教化があまりにも偉大であったから、信因称報説の枠組み内でしか、御開山の念仏思想を領解できなかったのだと思ふ。Aさんのもその類であろうと思っていたりする。

Aさんは、自力と他力という語を対概念として捉えてしまったが為に、本願海度出の[なんまんだぶ]が解らないのであろう。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E8%81%96%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88%E3%83%BB%E5%95%8F%E7%AD%94%E9%9B%86

自己の内面世界では、何を思ってもいいのだが、自分の想いと違う御開山の門徒を正法誹謗と断定するのは、Aさんこそ誹謗正法であるといえるであろう。
左派特有の、指導する我と指導される愚昧な民衆という思考の論理構造が透けて見えるのだが、この構造を破壊するのが「同一念仏無別道故(同一に念仏して別の道なきがゆゑなり)」であった。Aさんは、この『論註』の言葉の意味を知らないのでしょうね。どうもいいけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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