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【考察】選択本願の行信について(5)

『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』(梯實圓)より。


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 阿弥陀仏が念仏一行を往生の行として選択されたのは、すでに法然聖人もいわれているように、第十八願でした。親鸞聖人も、この願をとくに選択本願といわれています。ところで、選択された称名念仏の行体は「南無阿弥陀仏」という名号ですが、それを十方の衆生に施し与えるために、阿弥陀仏は第十七願をたてられたのです。十方世界にまします無量の仏陀たちに、広大無辺な南無阿弥陀仏の徳を讃嘆させて、十方の衆生に聞かせようと誓われていたのです。この諸仏の諸仏の称揚、讃嘆によって、十方の衆生は、疑い心を破られ、本願成就の名号が往生成仏の正定業であると疑いなく受けいれる信心が開け、念仏の行者となっていくのです。

 それを『親鸞聖人御消息』第十九通には、

諸仏称名の願と申し、諸仏咨嗟の願と申し候ふなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。また十方衆生の疑心をとどめん料ときこえて候ふ。『弥陀経』の十方諸仏の証誠のやうにてきこえたり。詮ずるところは、方便の御誓願と信じまゐらせ候ふ。念仏往生の願は、如来の往相回向の正業・正因なりとみえて候ふ。                                          (『註釈版聖典』七七六頁)

といわれています。この第十七願が成就して、十方の諸仏が阿弥陀仏の本願の名号をほめたたえ、念仏往生を勧められているありさまを、釈尊のうえでいえば『無量寿経』であり、十方諸仏のうえでいえば『阿弥陀経』の諸仏の証誠、護念であって、さきに「教文類」で明かされた真実教がそれでした。

 こうして南無阿弥陀仏を往生の正業、正因と選び定められたのは念仏往生の願(第十八願)ですが、その法義を十方の衆生に与えるために、十方の諸仏をして讃嘆し証誠させるという巧妙な方法をとられたところに、阿弥陀仏の大悲摂化の具体化があるわけですから、とくに第十七願を「大悲の願」といわれるのです。
(p.189~p.190)
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阿弥陀仏が本願において「念仏を称える者を極楽に迎える」と誓われていることを聞いて、仰せ通り念仏一行を称えるのが真実の行です。本願のいわれを聞いて疑い無いのが真実の信心です。こうした往生の行であり、信であるような南無阿弥陀仏を与えて救うというのが第十八願でした。一つの南無阿弥陀仏を法の側から明かせば念仏であり、機の側から明かせば信心です。これが「如来の往相回向の正業・正因」です。

真実の信心で念仏しなさい

これが親鸞聖人の教えであり、元を正せば阿弥陀仏の思し召しでした。真実の行とは、本願の仰せ通りに名号を称すること、真実の信心とは、名号願力を聞いて疑い無く往生をおまかせすることですから、私は

阿弥陀仏は「念仏を称えよ」と仰っており、また「我にまかせよ」と仰っている

と主張します。「念仏を称えよ」の仰せに順ってただ念仏しているのが阿弥陀仏にまかせているすがたであり、「我にまかせよ」の仰せに順って疑い無く往生をまかせているのが念仏を称えているすがたです。これは二つであって一つ、一つであって二つ、分けるに分けられない不離不二の選択本願の行信です。

ただし、真実の信心には必ず念仏が伴いますが、念仏には必ずしも願力の信心が伴っているとは言えません。ですから、南無阿弥陀仏のいわれをしっかりと聞いて信心獲得しなさいと教えられるのです。


我にまかせよ」と仰せの本願を聞いて、その仰せの通りに受け容れて往生をおまかせする信心が肝要です。この信心が報土の因であり、横超の大菩提心であり、よく成仏の因種となると教えられたのが親鸞聖人です。

しかしながら、その信心は「念仏往生の願(第十八願)より出でたり」(信文類)で、決して念仏と離れた信心ではないことも気をつけておかねばならないことです。「念仏を称えよ」と仰せの本願でもあり、

阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

などというものではないのです。

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。総序
念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。『末灯鈔』12通

このように「念仏を称えよ」という行と「我にまかせよ」という信を共に教えられたのが親鸞聖人と知れば、一方を肯定してもう一方を否定するような主張は出てこないのではないでしょうか。
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No title

阿部師の邪義には厳しいですね。身内には甘いような

「我にまかせよ」

ども、林遊@なんまんだぶです。

>「我にまかせよ」と仰せの本願を聞いて、その仰せの通りに受け容れて往生をおまかせする信心が肝要です。この信心が報土の因であり、横超の大菩提心であり、よく成仏の因種となると教えられたのが親鸞聖人です。

家のジジババ(両親)は、仏法は若い時に聴けよと煩かったものです。多分『御一代記聞書』の、

 一 仏法者申され候ふ。わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。ただわかきときたしなめと候ふ。

の意を言っていたのでしょうが、後生は「我にまかせよ」という言葉の意味がサッパリ解りませんでした。
そんなこんなで、ジジババが信心と煩いので、そもそも「信」ちゃあどういう意味だろうと漢字辞典の「信」を開いて、和語では、まこと、しんじる、まかせるという意味があることを知りました。
https://www.kanjipedia.jp/kanji/0003599100/

その意味において、浄土真宗の「信」とは、後生の一大事を阿弥陀仏にまかせるという意味なのでした。
高森親鸞会では、自覚としての信心獲得という語に狂奔するのですが、なんまんだぶと称えて、なんまんだぶと耳に聞こえるのは「我にまかせよ」という阿弥陀如来の決定摂取の信なでした。求道地獄に陥っている高森親鸞会の会員はこれがわからんのでしょう。知らんけど。
まかせる(信)というのは、自らの存在を全て投げ打つ宗教的決断なのですが、信心を獲るという妄想に取りつかれた方には理解不能の領域なのかもです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 後生は「我にまかせよ」という言葉の意味がサッパリ解りませんでした。

林遊さんもそんな時がありましたか・・・。私も当然ながらそうでした。
また、言葉の意味は分かっても、「まかせるとはどういうことだ?」「どうやってまかせるんだ?」と疑問に思ったりして、ますます悩んでいきましたね。

> なんまんだぶと称えて、なんまんだぶと耳に聞こえるのは「我にまかせよ」という阿弥陀如来の決定摂取の信

これが本願の名号を計らいをまじえずに聞き受けた信心なのですが、親鸞会の場合はまず名号(念仏)と信心をぶった切ってありもしない信心を妄想させ、次に方法論として独自の三願転入論を説き与えてありもしない求道の道程を進ませようとします。会員は、求道に精も根も尽き果てた先に弥陀の呼び声が聞こえて救われると、「信心を獲るという妄想」をしているわけですね。

なんまんだぶと称えて、今口に称えられ耳に聞こえるなんまんだぶは「我をたのめ、我にまかせよ」との招喚の勅命であり、それを計らいをまじえずに聞く以外に信心はないのですが、こういうのは戯論だとか観念の遊戯だとか無力だとか信仰の幼稚園だとか言って撥ね付け、仰る通り求道地獄に陥っているわけです。

令和という時代になりましたが、一人でも多くの会員が教義の誤りに気付き、「我にまかせよ」と喚ばせたもう本願の命令をそのまま聞き受けて、お念仏申す和合僧のお仲間に加わって頂きたいと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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