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【考察】念仏往生の法義と信心正因、平生業成について(10)

前回までの記事で、法然聖人も信心正因、平生業成を説いていること、七高僧方も、親鸞聖人や蓮如上人と同じく「本願成就の立場」であることを述べました。

それにも関わらず、法然聖人まではどちらかと言えば「念仏を称えて往生」という行証直接の法門の顕し方が主で、蓮如上人は「信心を獲て往生」という信証直接の法門の顕し方が主です。ただ、後に述べるように信心を無視・軽視した七高僧方ではありませんし、行法としての念仏を説かなかった蓮如上人でもありません。

親鸞聖人は、『浄土文類聚鈔』では前者寄りの顕し方で、『教行証文類』では後者寄りの顕し方で教えられています。『教行証文類』では名号のいわれを疑いなく聞き受けたその時に信心が決定し、願力回向の信心が横超の菩提心であり報土の真因であると信心正因、平生業成を明かされていますが、『浄土文類聚鈔』では行の中に信を摂めて教えられています。ただし、「寄り」というだけで、「行文類」には念仏成仏と説かれ、『文類聚鈔』には浄信を説かれています。

『御消息』では、「念仏を称える者を極楽に迎える」本願をふかく信じて称えよと教えられ、行の一念と信の一念と聞くと二つあるように聞こえるけれども、行を離れた信も、信を離れた行も無く、それは「弥陀の御ちかひ」なのだとして真実の信心と念仏の両方を勧められています。また、聖人のお言葉とされる『歎異抄』では念仏が大胆に打ち出され、

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

との法然聖人の教えを

ただ念仏のみぞまことにておはします

とそのまま受け容れておられます。

蓮如上人の『御文章』には信前に念仏の勧めはなく、他力の信心を勧め、念仏は信後報謝の意で教えられています。かと思いきや、『正信偈大意』では第十七願成就のすがたが本願の名号、すなわち「南無阿弥陀仏」であるといい、「われらが往生をとぐべき行体」であると教えられています。また、

三国の祖師等、念仏の一行をすすめ

と仰せられ、七高僧方が勧められたのは「念仏の一行」であるとし、それぞれの時代、国、地域で念仏の教えを弘められた功績を釈して教えられています。


となると、法然聖人までは『観無量寿経』の立場で親鸞聖人以降は『大無量寿経』の立場とかそういうことではなく、各人が大きく二種類の立場で教えを説かれていると考える方が自然です。では、その二種類の立場とは何でしょうか?

これについて私は、一つは法(行)の立場、もう一つは機(信)の立場であると考えます。

七高僧方はどちらかと言えば法の立場で、阿弥陀仏が本願の名号を成就し、これを称える者を救うという顕し方をされています。光明、名号をもって衆生を救うという立場ですから、「念仏」という行法の勧めが中心です。ただし、行者にとっては本願を疑いなく受け容れる「信心」が肝要ですから、「信を能入となす」(『浄土論註』)、「ただ信心をもつて求念すれば」(『往生礼讃』)、「生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。」(『選択集』)等とも教えられています。

仏教である限りは「教行証」です。それで、浄土三部経という「教」より、本願の念仏という「行」が示され、念仏して「証」をひらくという教えられ方を古来なされています。ただ仏教では「行」ずる際の信心を重んじるので、行を述べる際に信心を問題にするのは当然のことです。例えば『観経疏』至誠心釈で、内心の虚仮を厳しく論じられていたのはそのためでした。信心を述べられてはいましたが、多くは「行」に含む形で示されていたのです。

親鸞聖人は、「行」より信心を別開され、信心を非常に重視された方でした。ただ、その信心は自分で起こすものではなく如来回向の名号が届いて行者の信心となるという、本願力回向の信心でした。信心といっても行、念仏の他にはないということで、法の上では念仏成仏し、機の上では信心正因であると言われています。

ですから親鸞聖人は、そのどちらとも言えます。法の立場では仏の造作(大行)を、機の立場では衆生の無作(大信)を往生の因として教えられます。一つの南無阿弥陀仏を行で顕すか、信で顕すかで、その顕し方が異なっています。これについて判り易いのが『尊号真像銘文』

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。
(中略)
「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。
(中略)
「以信為能入」といふは、真実信心をえたる人の、如来の本願の実報土によく入るとしるべしとのたまへるみことなり。信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。


でしょう。「仏名をとなふる」という念仏と、本願を計らい無く信受した「真実信心」とは、共に「無上涅槃のさとりをひらくたね」「無上涅槃をさとるたね」であるというのです。それを梯和上は、存覚上人のお言葉を通して

本来一つの南無阿弥陀仏を救う法として表すのが大行であり、救われる機がそれを受け取る側から表すのが大信である。だから機法の違いはあるが本体はまったく一つである

と教えられています。このように顕し方が異なるため、『歎異抄』と『御文章』を対比して、念仏往生と信心正因、念仏往生と平生業成と二つ教えがあるように教える方、またそう受け止めてしまう方があるのでしょう。

蓮如上人は『御文章』では機の立場で、我々が往生すべき他力信心のいわれを心得よと、信心を勧められています。一方、『正信偈大意』では『教行証文類』自体が約仏の顕し方ですから、それに従って念仏を行法の上で教えられています。また『御一代記聞書』では道徳に念仏を勧めています。その後自力の念仏と他力の念仏の違いを説いて、他力の念仏を称えるよう教えられています。


浄土真宗では蓮如上人の『御文章』をもって親鸞聖人の教えの代用としてきた歴史がありますから、機の立場で教えを説く先生が多く見受けられます。信心正因称名報恩説を採用して、報土の真因は信心であり、念仏は信後報謝、あるいは本願招喚の勅命という形で教えられ、勧められるのは信心です。

一方、本当かどうか知りませんが、高森会長が言うには、本願寺の僧侶は念仏を重視して「念仏さえ称えておれば死んだら極楽、死んだら仏、死んだらお助け」と説いているそうです。私は聞いたことがないし、平生聞信の一念に往生定まることを言わずにそう教えているとすれば確かに問題ですが、念仏を本とし、信心を正因とする教えですから、念仏も信心も共に往相回向の行信として勧めていく必要があると感じます。

それぞれの時代や国で独自の発揮をなされた高僧知識方ですが、教えられ方が違います。その当時その国でどのような教説が流行っていたのか、それに対してどのように本願念仏の教えを明らかにしていかれたのか、それらも合わせて検証しなければならないと思います。



【参照】
『WikiArc』約仏、約生
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安楽仏国にいたるには
   無上宝珠の名号と
   真実信心ひとつにて
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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