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救われるのに「努力が要る、頑張る必要がある」かのように教えて「自力」を勧める高森顕徹会長と、「自力をすてて」と言われながら「自力に励んで」いる親鸞会会員

今年の親鸞会の降誕会も、当然と言えば当然ですが邪義満載の高森教に終わりました。


はじめに、頂いた情報によると高森会長は初日、「自力」の説明において

世間一般で「自力」とは「自分だけの力」のことで、「自力で努力しなさい、頑張りなさい」と使っている。
「自力」を努力とか、自分だけの力と思っている人が教えをどんなに聞いてもわからない。
救われるのに努力は要らないとか頑張る必要はないと思っていたら、全く教えが分からない。無碍の一道に出られない。


などと話していたそうです。ということは、裏を返せば教えが分かっている人というのは

救われる(無碍の一道に出る)には「努力が要る、頑張る必要がある」と思っている

というわけです。高森会長としては、会員には組織拡大要員として人やお金を集めてもらわなければ困りますから当然ですが、そうやって救われるのに「努力が要る、頑張る必要がある」という思いこそ「自力」であることに会員の皆さんはまだ気づかないでしょうか? その「自力」のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来に後生おまかせしたのを「他力に帰する」というのですが、昨日紹介したように

親鸞聖人の仰る自力とは、死んだらどうなるか判らない心

というような頓珍漢な説明を真受けにしていたら一生分からないでしょう。

我々は、救われるのに努力や頑張る必要は一切ありません。ただ如来の回向を受け容れるだけです。会員はこれを無力(むりき)とか観念の遊戯としか思えないでしょうが、これが「自力をすてて他力に帰する」です。


次に、ちょっと細かいですが

「他力」は、自分以外の力を世間では「他力」と言っているが、親鸞聖人の教えていかれた浄土真宗で「他」は「阿弥陀仏」のことであり「他力」とは「阿弥陀仏のお力」

という説明には異議があります。

他力」とは正確には「利他力」ということで、仏の救済活動を仏の側から明らかにした語です。他を利益する力、それを「他力」というのです。この場合の他は、阿弥陀仏から見て他である私達のことですから、「他力」の「他」は「私達衆生」のことであるとするのが『浄土論註』の引文から見て親しい解釈であると思います。

問うていはく、なんの因縁ありてか〈速得成就阿耨多羅三藐三菩提〉といへるやと。

答へていはく、『論』(浄土論)に〈五門の行を修してもつて自利利他成就したまへるがゆゑに〉といへり。

しかるに覈に其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。他利と利他と、談ずるに左右あり。もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ。まさに知るべし、この意なり。およそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の起すところの諸行は、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑに。
「行文類」覈求其本釈

親鸞聖人は「行文類」において「他力といふは如来の本願力なり」とだけ仰って、後は『浄土論註』と元照律師の『観経義疏』の引文のみです。「他」は何かという具体的な説明がありません。それで『浄土論註』を紐解いてみますと、以上のように解釈することができます。ただ、コメント欄にあるように、「他力」の「他」を阿弥陀仏だと説明する方やそのような文献もありますので、記事内容を修正しました。

この「利他」とか、あるいは「他利」ということをきちんと知らないと、念仏往生と信心正因、また念仏往生と平生業成とは違ったことのように聞こえるかも知れませんのでここで取り上げておきます。


そして極めつけは、『飛雲』18願文さえもまともに理解できない高森顕徹会長とその信者達にあるように

どんな人も煩悩を持ったまま、「信楽」にしてみせると約束されているのが阿弥陀仏の本願。
本願によって「信楽」の身になれる。「信」は「大安心」、「楽」は大満足。別の言葉で「破闇満願」。


という従来の教義の復活でしょう。これらの教えから、会員は救われると「死んだらどうなるか判らない心」がすたって「死んだらどうなるかハッキリ判った心」になる、大安心大満足の「絶対の幸福」になるといった間違った本願を信じることになります。そして、その世界に憧れて、一方無常や罪悪にせめたてられて、より一層の組織拡大活動を余儀なくされていくでしょう。それこそ高森会長や一部幹部の思う壺だということを知らず、無知とは恐ろしいものです。それでいて、「高森センセーありがとうございましたー!」なんていう狂信者の弁論を聞いて喜んでいるのですから、どこまでも哀れ哀れです。


このようにして、過去と似たようなことを同じように話して終わった平成最後の親鸞会の降誕会でした。別に同じ話をしてもいいんです。似たような話をしてもいいんです。それが「真実誠満」の話なら。しかし、中身は空虚でうそいつわりの、言葉だけ真宗用語を使って人を組織拡大活動に駆り立てるだけの邪義であり、それを垂れ流し続け、聞く者を騙し続けているから批判せずにいられないんです。

浄土真宗の教え、親鸞聖人が教えていかれたことは、「自力をすてて他力に帰する」一つ

とか何とか言っていたようですが、どうですか、会員の皆さん。「自力をすてて他力に帰する」ということがどういうことか分かりましたか? そして、「自力をすてて他力に帰する」ことができましたか? 

皆さんが信心獲得のため、救いに近づくだろうと思って日々やっている様々な活動、努力、頑張り、それこそが「雑行雑修」であり「自力」なんですよ? 「自力をすてて」と言われながら「自力に励んで」いるのが、偽らざる親鸞会会員の実態です。

私達が如何様に努力しようと頑張ろうと、後生の解決、報土往生には何の役にも立ちません。それで阿弥陀仏は果てしなく流転輪廻を繰り返して苦悩の絶えない私達衆生を哀れに思召して、気の遠くなる長期間においてご修行されていた時、片時も清浄真実の心を失わず、私達を救うことに少しの疑いもなく、私達に回向することを第一として、あらゆる功徳がまどかに具わって衆生の煩悩を問題とせずに救いたもう、思い計ることも、讃え尽くすことも、説き尽くすこともできない至上の尊号、すなわち南無阿弥陀仏を成就されたのです。

この南無阿弥陀仏の名号は、これを頂いて称える者の身に速やかに往生成仏の因を満足せしめるはたらきがあります。そして我々を救いたい、救いたいという如来の大悲心そのものです。ですから、南無阿弥陀仏とは、「助けるぞ」「我にまかせよ」と久遠劫来喚び続けておられる本願の仰せなのです。この大悲やるせない仏心をそのまま聞き受けて、計らいを離れて後生、往生を仏にまかせたのが「自力をすてて他力に帰する」ということです。私達が「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と称えているままが、如来招喚の勅命に呼び覚まされて、本願をまことと受け容れて浄土に向かう人生を歩んでいるすがたなのです。

如来の大悲回向をそのまま受け容れる以外に、後生助かる道は二つも三つもありません。どうぞ、そのように本願の名号を聞き受け、疑いなく信受してお念仏して頂きたいと思います。



【参照】
『WikiArc』他力
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No title

真の知識にあふことは
 かたきがなかになほかたし
 流転輪廻のきはなきは
 疑情のさはりにしくぞなき 

自力の《自》=他力の《他》=この私

他なる私を救う力(=はたらき)なのですから、
《他力本願》。
謝った用法…《ヒトサマ任せ》なる意味で、高森さんは
会員のヒト達に説いておられるワケですね。

かくいう私も…
自力の《自》=他力の《他》=この私
…であることを、比較的最近まで知らずにおりまして。

Re:淳心房さん

こんばんわ、Abcです。

>「他力」とは正確には「利他力」ということで、仏の救済活動を仏の側から明らかにした語です。他を利益する力、それを「他力」というのです。この場合の他は、私達衆生のことですから、「他力」の「他」は「阿弥陀仏」のこととするのは誤りです。

→これについて私は、「間違いともいえませんし、また「他」という語句の全てを説明しているとは言えない」とも答えます。

親鸞会が「他力」の指標としている「他力とは如来の本願力なり」から示しますと、

他力:「仏→私たち」へと向けられているお力のことであります。
蓮如上人の御言葉では「仏のかたより往生は治定せしめたまう」であります。

ですから、淳心房さんのいわんとしていることをくみ取りますと、
「この場合の他は、私達衆生のことですから、」ではなく
「この場合の他の根機とは、私達衆生のことですから、」ということでありますから、

私は、「「他」は「阿弥陀仏」のことであり「他力」とは「阿弥陀仏のお力」」を正しいとみております、ただ、その後の「信楽」のくだりは、推して知るべしですが。

引用として、「笠間の念仏者、伺い問われたること」を記します。

親鸞『御消息』
 「まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。」

長いですし、少し読みにくいと思うので、箇条書きにします。

自力:行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふ

 →行者各々が余の仏号を称念したり、余の善根を修行してわが身をたのんだり、わがはからひのこころを以って、乱れ心を繕う心

他力:弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。

 →弥陀如来の御ちかひ(教)の中の、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽する(行信) ということであり、それが形となられた(証)のが、「南無阿弥陀仏」であります。 「他力は本願を信楽して往生必定なる」ということから源空聖人(法然上人)は、「他力には義なきを義とす」とありますように、「他力=自然法爾」であり、「自然とはもとよりしからしむ御ことばなり。」であります。

因みに、真仏土は「12・13願」でありますから、「阿弥陀様が時間・場所・地位を選ばず待っておられ」ますから、人によっては「阿弥陀様はお立ち尽くめである」といわれております。

 化身土は「19・20願」であり、「因果相順の理」によりて、向かわされる場所であります。ただこれも弥陀の本意ではありませんが、「疑城胎宮」は「阿弥陀様がおつくりになられた場所」の一部ではあります。

おわりに

繰り返しとはなりますが、「私は、「「他」は「阿弥陀仏」のことであり「他力」とは「阿弥陀仏のお力」」を正しいとみております」です。

※「他力といふは如来の本願力なり。」は、『教行証 行巻』にございます。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Abcです

連投もうしわけございません、Abcです。

先ほど、私が
>それが形となられた(証)のが、「南無阿弥陀仏」であります。

としるしましたが、「衆生の前に、「形あるおすがた」として来現される」のは「方便法身」といわれます。 ですから、前にも申し上げました、「仏像のすがた」、「名号のすがた」ともに「阿弥陀様」であります。

 いや、もう少し広めますと「船のすがた」、「薬のすがた」などもございます。

 少し話がズレますが、「この紙ににりんごを示してください」というオーダーがあったとします。

 ある人は、「リンゴの輪郭を示して(色を塗ってないやつです)、梨と間違えるだろうからと、横に「リンゴ」と書きました」

 またある人は、「リンゴを描いて、梨と間違えるだろうからとその絵に赤く色づけをしました」

 別の人は、「「林檎」と止めはねに気を配りながら、記しました。」

この3人は、示す方法が違えど「りんごについて」示されております。

話を戻しますと、この「りんご」を「阿弥陀様」にあてはめますと、
ひとり目は、「モノクロで示された阿弥陀様のおすがた と 「あみださま」の文字」
ふたり目は、「黄金色に輝かれている阿弥陀様の絵像」
3人目は、「阿弥陀仏」と記された となります。

(無量寿の阿弥陀様をリンゴにあてはめるなど、、、と思われる方もいらっしゃるでしょうがここはお許しください。)

今示しました通り、「阿弥陀様」には、「絵像・木像」「名号」という大きなくくりがあり、更にそこに「三字名号」「六字名号」「七字名号」「九字名号」「十字名号」があり、

「阿弥陀仏」の別号としまして「道場樹」、「講堂」、「無碍光」、「清浄光」、「超日月光」、「十二光」などなどありますが、全て「方便法身」であります。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re: Abc様

「他力」の「他」が私達衆生を指すとは

『WikiArc』他利利他の深義
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-8c0402.html

等の説明をご覧頂きたいと思います。「他力」とは如来の本願力ですが、それは「(他なる私達衆生を救う)如来の本願力」ということです。「他力」とは誰の立場から見られた語なのかをよく知っていなければならないと思い書きました。

他利利他の深義

ども、林遊@なんまんだぶです。

Abcさん。

大乗の菩薩は、自利(自らが悟りを得る利益)と利他(他者をさとりへ誘う利益を与えること)の二利を修することで悟りへの道を歩むのでした。
この自利と利他という仏教語の概念を理解していないと、他力って何のこっちゃになります。
というわけで、淳心房さんが論じられている利他と他利については以下のリンク先が参考になるかもです。我田引水(笑

浄土真宗では、自力と他力について厳しい廃立が行われるのですが、主体の転換をせまられるわけですから難中の難なのでしょうね。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%96%E5%8A%9B


Re:淳心房さん

おはようございます、Abcです。

『飛雲』さんのところの、「信楽」についてですかね。

仰る通り、
>「信楽」を獲た人を「信楽」の身にさせるという誓いではありません。

>もっと言うと、18願は信心を獲させる願ではなく、信心を獲た人を浄土に生まれさせる願です。もし、18願が信心を獲させる願ならば、阿弥陀仏が成仏された時点で「十方衆生」は信心を獲ていることになりますが、そうではありません。

とあります通り、「18願が信心を獲させる願ならば、阿弥陀仏が成仏された時点で「十方衆生」は信心を獲ていること」ではなく「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」でありますから「十劫安心」とはならないのであります。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re:林遊さん

おはようございます、Abcです。

>淳心房さんが論じられている利他と他利については以下のリンク先が参考になるかもです。我田引水(笑

我田引水ですね(笑

「利他」は約仏であり、「他利」は約生であるが、「いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ」とあります通り「いままさに仏力を談ぜん」であるから、「利他」が用いられているのですね。 ありがとうございます。

今言われた、「自利利他」は「捨自帰他」に同じとされます。

この「捨自帰他」は、「捨レ自-帰レ他  自らのはからいを捨てさせていただき、他を済度させたまうおん誓いに帰せよ」といういわれでありますからこのように言われるのだと考えます。

ただ、「善のすすめ」といわれている高森さんがついでのように
「浄土真宗の教え、親鸞聖人が教えていかれたことは、「自力をすてて他力に帰する」一つ」などと申し上げても脈絡がないことは明らかかとおもいます。

話を戻しますと、「自利利他」とは「自利(自業自得の考え)から利他(如来のおん誓い)に変えさせて(翻させて)いただく教え」ともいえましょう。「自力の三心翻し」と言われているのが「捨自」にあたるのはそのような謂れかとおもいます。

お二方、ご指摘ありがとうございます。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/他力

他力(たりき)は、仏教用語で、衆生を悟りに導く仏・菩薩の力、仏・菩薩の加護のこと。特に、浄土門では阿弥陀仏の力、弥陀の本願力を指す[1]。弥陀(他力)の本願とは一切の衆生を救おうとすることであると解されている[1]。浄土宗・浄土真宗でも「他力」の「他」とは阿弥陀如来を指し、「力」とは如来の本願力(はたらき)をいう[2]。

Re: これは?様

『大辞泉』「他力」、『広辞苑』第五版、「他力」

ではそのように説明されているということです。

No title

稲城選恵和尚によると

すなわち「他力と云うは如来の本願力なり」である。「他」は如来であり、「力」は本願力である。(『大乗仏教の極致としての他力本願ということ』P25)

Re: 稲城和尚の著書様

稲城選恵和上の説明ではそういうことだということです。


ただ、Abcさん始め、御二方からご意見を頂き、記事の表現が不適切であったと思います。申し訳ありません。修正を加えます。

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>>「他力」とは正確には「利他力」ということで、仏の救済活動を仏の側から明らかにした語です。他を利益する力、それを「他力」というのです。この場合の他は、私達衆生のことですから、「他力」の「他」は「阿弥陀仏」のこととするのは誤りです。

これについて、「お二方からのコメントを読んだ上」で、今一度コメントいたします。

>「他力」とは正確には「利他力」ということで、仏の救済活動を仏の側から明らかにした語です。他を利益する力、それを「他力」というのです。

この箇所は、異議はございません。ここにつきましては以上であります。

>この場合の他は、私達衆生のことですから、「他力」の「他」は「阿弥陀仏」のこととするのは誤りです。

この箇所が一番引っかかります。
「往生の根機とは我々衆生のためである」このようにいわれますとその通りではありますが、「「他力」の「他」は「阿弥陀仏」のこととするのは誤り」というのは、いささかどうかと思います。

「「他力」の「他」は「阿弥陀仏」のこととするのは誤り」でないとするならば、同じ理論で
「「自力」の「自」は「衆生」のこととするのは誤り」となります。そのようになったならば、もう「約仏」、「約生」云々ではなく、「誰に説いているのか」、「そもそもなんの話なのか」となってしまいます。引き合いに出すのは淳心房さんに悪いですが、「高森さんのよくわからない話以上によくわからなくなります」

また、33願意の『和讃』といたしまして、

「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつらん」

とございます。「十方微塵世界の 念仏の衆生」は、上で言う「往生の根機」でありますし、
 「摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつらん」は

「摂取不捨の利益」 に対して私たちは 「阿弥陀仏」となづけたてまつりているであり、淳心房さんの言葉を借りますと、「摂取不捨の利益 = 仏の救済活動を仏の側から明らかにした語であり、他を利益する力、それを「他力」というのです」となります。 よって、「他力 = 本願力 = 他を利益する力 = 私たちが「あみださま」と名づけたもの」となります。

Abc

Abcさん

ども、林遊@なんまんだぶです。

Abcさん。
少しく苦言を呈しますが、貴兄が「義なきを義とす」という語を多用されますが、意味が判って使ってらっしゃいますか?

WikiArcには、いわゆる高田派伝持の『顕智書写本』をUPしてありますが、この文で「義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは佛智の不思議にてあるなり。」とある語をどのように理解しておられるのでしょうか。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%8D%B2%E5%BE%97%E5%90%8D%E5%8F%B7%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95%E7%88%BE

ひょっとして高森親鸞会のように「思考停止」の道具として使われているのではないですか。貴兄の他力という語の理解についてそのような感想を持ちました。
ご法義の言葉を使うということは、その言葉の持っている背景や歴史をキチンと押さえておいて使わないと単なる妄想になります。貴兄の「ともいえる」という表現は個人の味わいとしては意味があるのでしょうが、法を説く布教使としては如何なものかと思量します。

ともあれ、御開山が使われた「他力」という言葉の概念は世俗語と違う世界観をあらわす言葉なのですが、以下に梯實圓和上の『親鸞聖人の教え・問答集』での他力という語の解釈をリンクしておきます。惜しいことに絶版ですが図書館などで読めるかもです。
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E8%81%96%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88%E3%83%BB%E5%95%8F%E7%AD%94%E9%9B%86#mark-001

なお、WikiArcの「他利利他の深義」にUPしてある梯實圓和上の論文は抜粋なので、暇があったら先輩方が「他利利他の深義」をどのように考察されたかの経緯を示す全文をUPするかもしれません。

そんなこんなで、貴兄が多用する「義なきを義とす」という言葉は、主体の転換を示す言葉であって、他力の他は、阿弥陀仏の利他力を示す語であって、私を中心として阿弥陀仏を他とする言葉ではなかったのでした。
ですから、御開山は、利他深広の信楽、利他真実、利他の真心、利他回向の至心、利他真実の信心、利他真実の欲生心、利他の信海、利他円満の妙位、利他の一心などなど利他という言葉を使われたのでした。
いわば、天動説か地動説かというコペルニクス的思想の翻りが、御開山の他力思想なのでした。世俗的に言えば、私が大切なのではないのです、私を大切に思っていて下さる阿弥陀様を大切にしましょうというのが、越前の門徒の領解でした。だから越前の門徒は、阿弥陀様を親様と呼称してきたのでした。

どうでもいいけど、言葉の辞書的意味を知ることと、言葉の指し示す意味を知ることは違うのですが、言葉に迷うとろくなことがないですよ。知らんけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

No title

https://higan.net/somosan/2014/07/jirikitariki/

◯「他力」の「他」って誰のこと?

「他力」という言葉は、一般的には「他人の力を当てにする」というようなネガティブな意味に使われます。しかしこの成仏道を前提とした「他力」という言葉の「他」というのは、私以外の人という意味とは全く異なります。

では「他」とは、誰を指す言葉なのでしょうか。親鸞聖人は、「他力といふは如来の本願力なり」とおっしゃっておられます。如来とは阿弥陀仏のことです。ですからこの言葉は、他力というのは阿弥陀仏の本願(あらゆる命を必ず救うという願い)のはたらきのことであるというように理解できます。そしてこの「他力」という言葉を理解するのに、実は二つの立場があります。一つは主語を私にした理解、もう一つは主語を阿弥陀仏にした理解です。私を主語にすると、私に対しての「他」、つまりここでは阿弥陀仏が「他」ということになり、そのはたらきが本願力=「他力」であると受け取れます。しかし阿弥陀仏を主語にすると、今度は「他」というのは私になります。ですから、私を目当てとしたはたらきこそが、阿弥陀仏の本願のはたらき=「他力」であると受け取れます。

私を主語とした時には、私の依り所とすべきところが明らかにされます。私が依り所とすべきは、阿弥陀仏という仏さまの願いのはたらきであったと受け取ることができます。逆に阿弥陀仏を主語にしますと、はたらきの主体は完全に阿弥陀仏であるということがより明確にされます。はたらきの主体はあくまで阿弥陀仏であり、私はその阿弥陀仏に願いとはたらきの対象であるという構図が見えてくることでしょう。そうとらえますと、「他力」というのは他(私)を救うはたらきのことであると理解ができます。

コメント返信

Abc様、これは?様、稲城和尚の著書様のご意見を受け止め、記事内容を修正しました。

なお、私が「他力」の「他」を「私達衆生」のことだと説明したのは記事内で申し上げた通りです。

「衆生を利する如来の本願力」=「他力」

これは変わりません。また皆様もそうであろうと思います。しかし、この「他力」の「他」は誰を指すのか、また「他」に対する「自」は誰か、親鸞聖人は説明されていません。それで引用されている『浄土論註』からすると、仏からして言えば「利他」であるから仏が他なる衆生を利するということである。衆生からして言えば「他利」であるから他なる仏が衆生を利するということである。今は仏力を談じようとしているのだから「利他」と言うのである、というのです。誰を主体とするかで、自、他の意味が変わってくるわけです。

詳しい説明は記事終わりの【参照】や、林遊さんのコメントにあるリンク先をご覧頂ければと思います。

Re: こんなのはどうでしょう様

ご意見ありがとうございます。示して頂いたリンク先の説明は大変参考になりました。

淳心房から見たらこんなのどうでしょうさんは他であり、こんなのどうでしょうさんから見たら淳心房は他である。自も他も、誰を主体とするかで変わるわけですね。

片方を是とし、片方を非とする表現は問題があると感じ、そのような表現は記事中から取り除きました。勉強不足であったことを恥じて、より一層教義の理解が深まるよう取り組んでいきたいと思います。

Re:林遊さん

こんばんは、御指摘ありがとうございます。Abcです。

>この文で「義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは佛智の不思議にてあるなり。」とある語をどのように理解しておられるのでしょうか。

「この自然について、もはやあれこれと詮索すべきではありません。それ以上詮索するのなら、はからいのないことが本来の意味であるにも拘らず、なおある種の計らいになってしまいます。自然とは、私たちの考え、思いなどがまったく及ばない仏の知恵そのものなのです。」

と理解しております。


>ひょっとして高森親鸞会のように「思考停止」の道具として使われているのではないですか。貴兄の他力という語の理解についてそのような感想を持ちました。

「思考停止」ですか・・・「真宗」(大谷)では、「信知」「証知」の説明だけでよいのにもかかわらず、私のところは「教知」「行知」についても説いております。この2つを説くということは、「「南無阿弥陀仏」と称えさせていただく縁」もそうですし、林遊さんが今しがた言われている、「その言葉の持っている背景や歴史をキチンと押さえておいて使う」という謂れからともいえます。

>ご法義の言葉を使うということは、その言葉の持っている背景や歴史をキチンと押さえておいて使わないと単なる妄想になります。貴兄の「ともいえる」という表現は個人の味わいとしては意味があるのでしょうが、法を説く布教使としては如何なものかと思量します。

「適切な裏付けがないのに安易に「ともいえる」と使ってはならない」と、御指摘されるのでしょうか。 ですが、この「ともいえる」の逆にあたる「としかいえない」としたならば、「Aの解釈はA'としてしか解釈できない」と解釈の幅を狭めてしまいかねません。

まずはご返信まで。

Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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