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【考察】選択本願の行信について(6)

親鸞聖人は、阿弥陀仏が諸仏に超え勝れた、世に二つと無い素晴らしい誓いを発されたことを

無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。正信偈

と称讃しておられます。阿弥陀仏の本願が諸仏の本願より勝れているのは、十方衆生を善悪・賢愚の隔てなく救う第十八願があるからです。なので、『正信偈』で言われる無上殊勝の願希有の大弘誓とは、第十八願を指しているというべきです。蓮如上人は、諸仏方が決して発せなかった「超世の大願」、「無上の誓願」を発し、私達をお救い下さるとして

それ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、むなしくみな十方三世の諸仏の悲願にもれて、すてはてられたるわれらごときの凡夫なり。しかればここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成の古仏として、いまのごときの諸仏にすてられたる末代不善の凡夫、五障・三従の女人をば、弥陀にかぎりてわれひとりたすけんといふ超世の大願をおこして、われら一切衆生を平等にすくはんと誓ひたまひて、無上の誓願をおこして、すでに阿弥陀仏と成りましましけり。この如来をひとすぢにたのみたてまつらずは、末代の凡夫、極楽に往生するみち、ふたつもみつもあるべからざるものなり。『御文章』2帖目8通

と教えられていることは、当ブログの読者の皆様ならよくご承知の通りです。それから2帖目8通では、

さればこの信心をとりてかの弥陀の報土にまゐらんとおもふについて、なにとやうにこころをももちて、なにとやうにその信心とやらんをこころうべきや。ねんごろにこれをきかんとおもふなり。

と問いを出し、その答えである「当流親鸞聖人のをしへたまへるところの他力信心のおもむき」については

なにのやうもなく、わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念なれば、かならず遍照の光明のなかに摂め取られまゐらするなり。

と仰せられています。ここでは、「弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」という信と、「もろもろの雑行をすてて専修専念」という行によって「遍照の光明のなかに摂め取られまゐらする」という現生の果が得られると示されています。蓮如上人は他力信心のおもむきを懇ろに説き示す御文ばかり書かれていますが、このように往生の行信を教えられている御文も少なからずあることが判ると思います。


更にそのお言葉の中の「一心一向」について見てみますと、これを蓮如上人は

一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。『御文章』2帖目9通

と釈し、他の仏や余行に心をかけず、もっぱら阿弥陀仏を信ずることという意味で用いられています。これは、『大無量寿経』

一向専念無量寿仏

と同じ意味であることが分かります。1帖目15通等からもその意が読み取れます。

ところで、この一向専念無量寿仏というお言葉は法然聖人が大変お気に召した言葉で、『選択集』三輩章にも取り上げられています。そこには、

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
(中略)
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。


とあります。「諸行を廃してただ念仏を用ゐる」から「一向」というというのです。「一向」という文字の中に、専ら阿弥陀仏一仏を信ずるという意味だけでなく、専ら念仏一行を修するという意味もあることが分かります。

一向」について、親鸞聖人は一向専念無量寿仏の釈ではありませんが、善導大師の「一心専念」について

「一心専念」(散善義 四六三)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。『一念多念証文』

と教えられています。「一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず」ですから、「一向」には念仏一行という意味があるのです。親鸞会のように雑行を勧められ、雑行をやりまくっていたら「一向」とは言えません。それが「余の善にうつらず」です。「余の仏を念ぜず」だけを「一向」だと思っているのは浅はかな理解です。

このようなことですから、「弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」=「一向専念無量寿仏」であって、

本願にふたごころない真実信心で、専ら本願の行である念仏一行を修める

という選択本願の行信を勧められていることが伺えます。


一方で、「専修専念」も、「専修」を先ほどの『一念多念証文』より伺うと「本願のみなをふたごころなくもつぱら修する」という行信と見ることができます。また、「専念」は「」を心念のこととすると信心と見ることができるでしょう。尤も、親鸞聖人は善導大師の「専心専念」を釈して

「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。「行文類」

と「専念」を念仏一行と解釈されています。いずれにせよ「もろもろの雑行をすてて専修専念」ですから、ここも

もろもろの雑行をすてて、本願にふたごころない真実信心で念仏一行を専ら修する

という選択本願の行信を勧められていることが伺えます。


このように見れば、顕わではありませんが蓮如上人も本願の行としての念仏を教えられていたことが伺えます。本願から念仏を抜いてしまったら、もはや本願ではないのです。なぜに本願を選択本願というのか。

阿弥陀仏は「我にまかせよ」と仰っているのであって、「念仏を称えよ」ではない

という説が正しいと思っている方は、今一度それを考えてみた方がよろしいかと思います。



【参照】
『飛雲』高森会長のために「一向専念無量寿仏」の意味を教えてあげます
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Abcです

こんばんわ、Abcです。

>一向専念無量寿仏

とございますが、「一向」とは、下代では「ふたごころなく」、上代では「一心」となります。 次の「専念」もまた同じ意味であります。

今示していただいた、
>「一心専念」(散善義 四六三)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。(『一念多念証文』)

>「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。(「行文類」)

でありますね。ありがとうございます。

「無量寿仏」とは、今さらではございますが阿弥陀様であります。
文献では、

「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。

「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃 七一一)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

 この文どものこころは、おもふほどは申さず、よからんひとにたづぬべし。ふかきことは、これにてもおしはかりたまふべし。 (『唯信抄文意』より)

に見えます「「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、」でありますね。

 また、最後に示されている「お手紙」を彷彿とさせる、

「しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃 七一一)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。」 (『唯信抄文意』より) は、

「四月七日の御文、五月二十六日たしかにたしかにみ候ひぬ。さては、仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

 これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。あなかしこ、あなかしこ。」(『御書』『末灯抄』『御消息』より) や

「誓願・名号同一の事

 御文くはしくうけたまはり候ひぬ。さては、この御不審しかるべしともおぼえず候ふ。そのゆゑは、誓願・名号と申してかはりたること候はず。誓願をはなれたる名号も候はず、名号をはなれたる誓願も候はず候ふ。かく申し候ふも、はからひにて候ふなり。ただ誓願を不思議と信じ、また名号を不思議と一念信じとなへつるうへは、なんでふわがはからひをいたすべき。ききわけ、しりわくるなどわづらはしくは仰せられ候ふやらん。これみなひがことにて候ふなり。ただ不思議と信じつるうへは、とかく御はからひあるべからず候ふ。往生の業には、わたくしのはからひはあるまじく候ふなり。あなかしこ、あなかしこ。

 ただ如来にまかせまゐらせおはしますべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。」(『御書』『末灯抄』『御消息』より) などもございますね。

今回は、私の側も念には念を入れて記させていただきました。
よろしければ、御一読ください。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Abcです

追記です。申しわけございません。

今示した文献にて、

>「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。 (『唯信抄文意』より)

とございますね。
 これは、親鸞が記されました「これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。」でありますから、

 親鸞が記された「念仏を称ふべし」であります。
おそらくこれを提示しますと、「これは観経の解釈(若しくは、法然上人までの解釈)」と言われるのでしょうね。はたしてこの文章を親鸞は「私たち(関東の同行)の手前」と嫌々記されたのでしょうか。

 嫌々「『唯信抄』『後世物語』『自力他力事』をよくよく御覧候べし」言われたのでしょうか。

Abc

Re: Abc様

おそらく『観無量寿経』の応称無量寿仏、称南無無量寿仏等を根拠に

・強いて「念仏を称えよ」というなら、お釈迦様が「念仏を称えよ」と仰っている

と彼の先生は主張されていると思います。ところが、法然聖人は『大無量寿経』の第十八願より伺うと、世尊の思召しは、 人々をして一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあると言われています。

答へていはく、「仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」(散善義)といふ。定散の諸行は本願にあらず。ゆゑにこれを付属せず。またそのなかにおいて、観仏三昧は殊勝の行といへども、仏の本願にあらず。ゆゑに付属せず。念仏三昧はこれ仏の本願なるがゆゑに、もつてこれを付属す。「仏の本願に望む」といふは、『双巻経』(大経)の四十八願のなかの第十八の願を指す。「一向専称」といふは、同経の三輩のなかの「一向専念」を指す。本願の義、つぶさに前に弁ずるがごとし。(選択集)
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%81%B8%E6%8A%9E%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%BF%B5%E4%BB%8F%E9%9B%86_(%E4%B8%83%E7%A5%96)#.E8.A6.B3.E4.BB.8F.E4.B8.89.E6.98.A7.E3.81.A8.E5.BF.B5.E4.BB.8F.E4.B8.89.E6.98.A7.E3.81.AE.E4.B8.80.E7.B5.8C.E4.B8.A1.E5.AE.97

『観無量寿経』は顕の義では第十九願の意ですが、隠彰の義では第十八願の意が説かれている経典です。善導大師、法然聖人は『大無量寿経』の第十八願から『観無量寿経』を見られたわけで、第十八願に念仏が本願の行として誓われているからその意に随って釈尊は念仏を説かれ勧められているわけです。本となる本願に「念仏を称えよ」という法蔵(阿弥陀)の思し召しがあるから、釈尊はそれに応じて念仏を説かれ勧められたわけで、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」のなら釈尊が念仏を勧められるはずがありません。

覚如、蓮如上人の信因称報説の上で善導大師、法然聖人の教えを見ると彼の先生のような教説になってしまうのかも知れません。高田派では信因称報説は採用していないと思いますので、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」というような説は到底受け入れられないかと。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

Re:淳心房さん

おはようございます、Abcです。
御一読ありがとうございます。

>覚如、蓮如上人の信因称報説の上で善導大師、法然聖人の教えを見ると彼の先生のような教説になってしまうのかも知れません。高田派では信因称報説は採用していないと思いますので、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」というような説は到底受け入れられないかと。

彼の先生からしましたら仰るように、私のところの解説は「観経の立場からの解説」ではありますが。先の「3つ」の御教示の

・念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。(『唯信抄文意』)

・信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。(『御書』『末灯抄』『御消息』より)

・誓願・名号と申してかはりたること候はず。誓願をはなれたる名号も候はず、名号をはなれたる誓願も候はず候ふ。(『御書』『末灯抄』『御消息』より)

 と親鸞は示されておりますから、あえて「~説」と挙げるならば、

>「念仏を称えよ」の仰せに順ってただ念仏しているのが阿弥陀仏にまかせているすがたであり、「我にまかせよ」の仰せに順って疑い無く往生をまかせているのが念仏を称えているすがたです。これは二つであって一つ、一つであって二つ、分けるに分けられない不離不二の選択本願の行信です。

>ただし、真実の信心には必ず念仏が伴いますが、念仏には必ずしも願力の信心が伴っているとは言えません。ですから、南無阿弥陀仏のいわれをしっかりと聞いて信心獲得しなさいと教えられるのです。 (淳心房さん)

 から、「不離不二の選択本願の行信説」とでもいえましょうか。

(あえて「~説」と挙げるならば、から以下の文は味わいであります。お気を付け下さい。)

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re: Re:Abc様

> 「不離不二の選択本願の行信説」とでもいえましょうか。

⇒そこは念仏往生(念仏成仏)の法義、称名正定業説の上に立っている等と仰って下さればよいのではないかと思います。


なお、私は教義(本願)を離れた味わいは妄念であり、味わいを離れた教義(本願)は画餅であると考えています。先の一件でお互い色々と学びましたが、そうびくびくすることもなく、間違えたら正しい方向に修正していけばいいじゃんと気楽に構えることも時に大事かなと思います。親鸞会ではないですが、「誤りを犯さないことを誇りとするよりも 誤りを直ちに改めることを誇りとしよう」というわけです。私らは死ぬまで煩悩具足で、誤りや罪、悪を一つも犯さずに生きていくことなんてできません。しかし、如来の光を受けていたら、時間はかかるかも知れないが良い方向に変わっていけるのです。

こんなこと書いていいかなと迷ったらメール下さい。web上では匿名で顔も見えません。様々な考えの人が、自分の立場で思ったことを思いのままに発言するものです。こんな意図で言ったのではないのだけど、別の意味に受け取られてしまったということが、個人的やり取りよりも遥かに多いです。他ブログやツイッターなんかでよく炎上してますでしょ?

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

「三法門」と「四法門」

ども、林遊@なんまんだぶです。

「どこにそんなことを仰ってるんだ?」

という語に反応してブログを書いた記憶が……(笑
http://wikidharma.org/5ce3856412e7d

ともあれ「信因称報」を究極的に推し進めていくと念仏(なんまんだぶ)の否定につながりかねない危険性があります。
せっかく第十八願に信と行を誓われているのを無視するような領解は、いびつなものが出てくるように思ふ。
梯實圓和上は、『法然教学の研究』はしがきで、

「江戸時代以来、鎮西派や西山派はもちろんのこと、真宗においても法然教学の研究は盛んになされてきたが宗派の壁にさえぎられて、法然の実像は、必ずしも明らかに理解されてこなかったようである。そして又、法然と親鸞の関係も必ずしも正確に把握されていなかった嫌いがある。その理由は覚如、蓮如の信因称報説をとおして親鸞教学を理解したことと、『西方指南抄』や醍醐本『法然聖人伝記』『三部経大意』などをみずに法然教学を理解したために、両者の教学が大きくへだたってしまったのである。しかし虚心に法然を法然の立場で理解し、親鸞をその聖教をとおして理解するならば、親鸞は忠実な法然の継承者であり、まさに法然から出て法然に還った人であるとさえいえるのである。」

とされておられました。
行と信を解釈するときに「三法門」と「四法門」という概念を使います。(門とは分類という意)
で、「三法門」で語っているときに「四法門」の立場でツッコミをいれたり、「四法門」を論じているときに「三法門」を持ち出すとわけがわからなくなります。
これは私見ですが、御開山の直弟子の方(高田派等)は、「三法門」に近いので法然聖人に親和性があるし「四法門」の方は覚如上人に近いのかなと思っていたりします。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%9B%E6%B3%95

ともあれ「信巻」には、出体釈が無いということの意味を正確に受け取らないと「信心正因」という言葉が誤解を生むと思っています。
そもそも論ですが、何故、法然聖人が既存の宗派とは別に浄土宗を建立しなければならなかったかという原点から考察してみる必要があると思ってます。
そのような意味では、林遊のようなアホは、先人が「凡情を遮せず」という語を使われた意図がありがたいこっちゃです。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%87%A1%E6%83%85%E3%82%92%E9%81%AE%E3%81%9B%E3%81%9A

ともあれ「信因称報説」は、何が言いたいのかを正確に受け取らないと、高森親鸞会のように信心に狂奔するのかもですね。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E5%8F%A3%E4%BC%9D%E9%88%94#.28.E4.BA.8C.29.E4.BF.A1.E5.9B.A0.E7.A7.B0.E5.A0.B1.E8.AA.AC.E3.81.AE.E7.A2.BA.E7.AB.8B

そういう訳で教学を学ぶなら、先人が「仏智深きがゆえに我が領解を浅しとす」と言われたように、自分の文字力(文章を理解する能力)で白黒をつけるようなことは避けたいものだと思っていたりします。
「弥陀の智願海は、深広にして涯底なし。」でした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E8%A1%8C%E6%96%87%E9%A1%9E#no26

で、Abcさんにツッコミですが、

>から、「不離不二の選択本願の行信説」とでもいえましょうか。

ご法義の上では、不離と不二は、あらわそうとしている意味が違います。
行信不離、二種一具深信、機法一体、不二、一如などの語は同じようなことを言っているように見えますが、歴史的背景がある言葉なので、この語は、このような意味で使った、と括弧書きしてもらえるとありがたいです。

なお、前掲の『三部経大意』や『西方指南抄』などは、高田派で伝持されてきたのであって、「九願文」を依用するより、御開山の光号摂化釈の淵源とされる『三部経大意』を熟読することをお奨めです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

読ませて頂きました。

阿弥陀仏報へてのたまはく、 来生せんと欲せば、まさにわが名を念ずべし。休息することあることなくは、 すなはち来生することを得ん (般舟三昧経)

ただ、これを出しても「真実のお経は大無量寿経だけだ」等と返されそうですね。真実のお経で示すなら、異訳経になりますが、

仏の言く、若(なん)じ起ちて更た袈裟を被て西に向て拝し、まさに日の所没の処に当りて、阿弥陀仏の爲に礼を作し、頭脳を以て地に著け、南無阿弥陀三耶三仏檀と言え。(大阿弥陀経)

と釈尊が阿難に念仏を勧められています。これに対してもどう返してくるか・・・。いずれにせよ、彼の先生の説は大分無理があります。

四法門で法を語るのは結構ですが、あの発言はないと思います。

なお、御恩報謝の話や、自力他力の水際の話などはとても分かり易く、また有難い話をする方なので、当方としては先生の全てを否定するつもりは更々ありません。念のため。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

Re:林遊さん

こんばんわ、Abcです。

>で、Abcさんにツッコミですが、

>>から、「不離不二の選択本願の行信説」とでもいえましょうか。

>ご法義の上では、不離と不二は、あらわそうとしている意味が違います。
行信不離、二種一具深信、機法一体、不二、一如などの語は同じようなことを言っているように見えますが、歴史的背景がある言葉なので、この語は、このような意味で使った、と括弧書きしてもらえるとありがたいです。

ご指摘ありがとうございます。

私は、この「3つの親鸞が記された言葉」から「信行は一つである(17願と18願はひとつである)」ということを伝えようとしました。

 ということは、「行信不離」からの「不離の選択本願の行信説」の方がよろしかったでしょうか。

また、林遊さんが述べられている見解、

>これは私見ですが、御開山の直弟子の方(高田派等)は、「三法門」に近いので法然聖人に親和性があるし「四法門」の方は覚如上人に近いのかなと思っていたりします。

につきまして仰られているような認識で間違いありません。
 なお、「出雲路」の善鸞(慈信房)に下付されたものも私と同じ「十字名号」と「天親回向文」とされます。
 (その後、慈信房は「父上より賜りし、十字の嘉号」として「無碍光信仰」をされますが、この「無碍光信仰」が善くないというわけではなくて、(それでも何をしても良いという解釈は如何かとは思います)「夜中に私は父上から教わっていたのだ」という「秘事法門」が善くないという認識です。)

 『和讃』には、
「天親論主は一心に 無碍光に帰命す
 本願力に乗ずれば 報土にいたるとのべたまふ」

「尽十方の無碍光仏 一心に帰命するをこそ
 天親論主のみことには 願作仏心とのべたまへ」

などとございます。この『和讃』からは、ともに

「天親論主は一心に 無碍光に帰命す」
「尽十方の無碍光仏 一心に帰命する」

とございます。このことが「親鸞が私たちに伝えられたこと」であるとともに、「晩年に筆を走らせていたこころ」と受け取っております。

下の句には、「本願力に乗ずれば 報土にいたるとのべたまふ」、「願作仏心とのべたまへ」とございます。これが先刻の法論での「18願からの11願・12願・13願のいわれ」でありますね。 誠に、ありがたいことです。

 なもあみだ、なもあみだ
Abc

念仏高田

ども、林遊@なんまんだぶです。

Abcさん。

>私は、この「3つの親鸞が記された言葉」から「信行は一つである(17願と18願はひとつである)」ということを伝えようとしました。
> ということは、「行信不離」からの「不離の選択本願の行信説」の方がよろしかったでしょうか。

おっしゃりたいことはよく分かります。

ただ、お示しの御消息の、

 信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E8%81%96%E4%BA%BA%E5%BE%A1%E6%B6%88%E6%81%AF#no7

という表現は、二つのものが一つであるという意味ではなく「離れない」ということを御開山は仰りたかったのだと思います。
御開山が「行」という言葉であらわそうとされていることと、「信」ということで表現しようとされることは違います。
ですから御開山は、

 信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。

と「はなれたる」という言葉を使われたのでしょう。
なお「信の一念・行の一念」という言葉遣いは、あきらかに『教行証文類』の「行巻」の行一念釈と「信巻」の信一念釈を指しています。御開山ってものすごく言葉に敏感な方でした。
お示しの「選択本願」という語は広く言えば四十八願、要(かなめ)をいえば第十八願です。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%81%B8%E6%8A%9E%E6%9C%AC%E9%A1%98

この第十八願には「至心信楽 欲生我国」という信と「乃至十念」という行があるのですが、「念」とは元来は心念(citta)の意味であり、これを十声のなんまんだぶの行であると定義されたのは善導大師でした。
法然聖人は、この善導大師の意を受けられて「念声是一」論を展開されました。観念の念から称念(なんまんだぶ)の念へと展開されたのは善導大師のお手柄でした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BF%B5%E5%A3%B0%E6%98%AF%E4%B8%80

法然聖人が仏道に懊悩してさとりへの道に悩んで一切経を読破していた時に、善導大師の『観経疏』の。

 一心専念弥陀名号、行住坐臥、不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故(一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるが故に)
の文を、十念とは十声のなんまんだぶであるとして回心されたことは有名です。
http://wikidharma.org/5899c9602b997

この「念声是一」論に対して論難したのが、御開山と同い年の明恵上人高弁でした。

 この義はなはだ不可なり。念はこれ心所、声はこれ色、心色すでに異なり、何ぞ一体と為すや。

というのでした。
『観経』に「具足十念 称南無阿弥陀仏(十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ)」とあるではないかと応酬しても、そもそも経典が違うではないか、違う経典を持ってくるな!と、明恵上人は言うはずです。

同じような発想が、当ブログ主が問題としている、

 阿弥陀仏は「我にまかせよ」と仰っているのであって、「念仏を称えよ」ではない。

という主張につながるのでした。
こういうところは念仏高田派の方に強烈なツッコミを入れて欲しいところだったりします。

そこで御開山は法然聖人に指示に従い、第十八願の「乃至十念」は、称名であることを第十七願の「諸仏称名」の願の称という語に『阿弥陀経』の諸仏讃嘆の意を、第十七願であると見られ、諸仏讃嘆の「略讃」としての、なんまんだぶとと同じ行(行い)であるから、大行といわれたのであった。

高田派系であろう武内義範師は、煩瑣な行信論に対して、なんまんだぶを称える行為を、

 すなわち能行としての行は、そのままそれが象徴的行為として、すべての仏、 一切の衆生、一切の世界のありとあらゆるものが仏の名をたたえている、その全体の大きなコーラスのなかに流れ込み、融入している。阿弥陀仏の名をたたえることが、大いなる称名の流れのなかに、つまり諸仏称揚、諸仏称讃の願の内容に流れ入っている。そこでは、行の意味は単にひとりの人間の行為ではなくて、その行為自身が実は深い象徴的な根底をもっていることとなる。だからその行為によって、象徴的な世界が開かれて、私自身の称名の行為がその象徴的な世界のなかに映されている、とそういうふうに考えられる。
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E3%80%8E%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E3%81%A8%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%80%8F%E8%A1%8C%E5%B7%BB%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0

といわれていたが、なんまんだぶと称える行為が「大きなコーラスのなかに流れ込み、融入している」という指示は、ありがたいこっちゃ。
Abcさんは、本派の教学に従って、ご法義を述べて高田派の宗義を示さないのですが、わざわざ「三法門」と「四法門」という言葉を示したのですが念仏高田という語の意味が判ってます?

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re:林遊さん

おはようございます、Abcです。

> この義はなはだ不可なり。念はこれ心所、声はこれ色、心色すでに異なり、何ぞ一体と為すや。

>というのでした。
>『観経』に「具足十念 称南無阿弥陀仏(十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ)」とあるではないかと応酬しても、そもそも経典が違うではないか、違う経典を持ってくるな!と、明恵上人は言うはずです。

→「違う経典を持ってくるな」というのは、今の話し合いの中でもしきりに言われておりますね。「大経にはこのように書いてある」ということについては、源空聖人がよく「双巻経にのたまわく…」と言われているところからも読み取れるかと思いますし、私もまなばさせていただいております。

>Abcさんは、本派の教学に従って、ご法義を述べて高田派の宗義を示さないのですが、わざわざ「三法門」と「四法門」という言葉を示したのですが念仏高田という語の意味が判ってます?

→「三法門」は『教行証』ともいわれるように、「教え、行い、あかし」と認識しており、約生の立場(私たちの立場)では、「教えをいただき、なんまんだぶを称えさせていただき、不退のくらいに生まれさせていただく」という謂れと受け取っております。なお、「三法門」では「なんまんだぶを称えさせていただく」と「なんまんだぶに帰命させていただく」ということをさきをどいわれました「行信不離」の立場より統合されております。

この解釈に対しましてもツッコミがあるかとはおもいますが、ありましたらよろしくおねがいします。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

両重因縁

ども、林遊@なんまんだぶです。

Abcさん。

林遊が使うツッコミという語は非難ではありません。
こういう解釈がありますよと提示しているだけです。

実は、第十八願の乃至十念が称名であるということを立証するために、法然聖人滅後の弟子たちは苦労されていたのでした。
法然聖人の念仏一行に対しての非難は、リンク先の『興福寺奏状』や『摧邪輪』『延暦寺奏状』などに共通した非難でした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA%E5%A5%8F%E7%8A%B6%E3%81%A8%E6%95%99%E8%A1%8C%E8%A8%BC%E6%96%87%E9%A1%9E#.E7.AC.AC.E4.B8.83.E3.80.81.E5.BF.B5.E4.BB.8F.E3.82.92.E8.AA.A4.E3.82.8B.E5.A4.B1

現代でも、口になんまんだぶと称えることが仏教の「行:だとは馬鹿じゃないの?と思われているかもですが。
御開山は、そのような論難に対して、

 大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。p.141

と第十八願の乃至十念を第十七願の「選択称名の願」によって証明されたのでした。(往相回向の願と選択称名の願名は親鸞聖人の命名)

これには『三部経大意』などにる法然聖人の指示があったからだと思われます。そして、

 しかればすなわち、光明の縁と名号の因と和合せば、摂取不捨の益をかぶらむことうたがふべからず。

という示唆から「行巻」の「両重因縁」を釈されたのでしょう。
「両重因縁」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%A1%E9%87%8D%E5%9B%A0%E7%B8%81


>なんまんだぶを称えさせていただき、不退のくらいに生まれさせていただく
ここで、生まれさせていただくという表現は「不退の位につく」とか「不退に住す」という表現がいいかな。
仏教では「生」とは主に「四生」を意味しているので、誤解されるかもです。
「四生」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%9B%E7%94%9F

なお、自分だけの字力(文章読解力)だけでお聖教を読もうとすると迷路にはまります。淳心房さんが紹介されていましたが『聖典セミナー』の教行の巻と信の巻はお奨めです。
https://hongwanji-shuppan.com/item/category.html?cid=65

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re:林遊さん

こんばんわ、ご返信ありがとうございます。Abcです。

>林遊が使うツッコミという語は非難ではありません。
こういう解釈がありますよと提示しているだけです。

→先刻の「ツッコミの嵐」より戦々恐々としておりましたので、林遊さんの御説明におきましてもやはり戦々恐々としている節がございます。

>実は、第十八願の乃至十念が称名であるということを立証するために、法然聖人滅後の弟子たちは苦労されていたのでした。
法然聖人の念仏一行に対しての非難は、リンク先の『興福寺奏状』や『摧邪輪』『延暦寺奏状』などに共通した非難でした。

明恵上人の『摧邪輪』は「反・選択」の書物として有名ですね。
この「十念」は、「十声」などとも呼ばれ、聖覚法印の記された書物を親鸞が解説された『唯信抄文意』には、
 「「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。(乃至)念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。」とございますね。

 先刻、私が示した書物の一つでもありました。

 このように聖覚法印や親鸞も「法然聖人滅後の弟子たちとして苦労されて」おいででした。

>現代でも、口になんまんだぶと称えることが仏教の「行:だとは馬鹿じゃないの?と思われているかもですが。
御開山は、そのような論難に対して、

> 大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。p.141

>と第十八願の乃至十念を第十七願の「選択称名の願」によって証明されたのでした。(往相回向の願と選択称名の願名は親鸞聖人の命名)

→「大行釈」ですね、誠にありがたいです。私たち「高田派」は林遊さんが言われています「念仏高田」でありますので、根本としまして「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。」ということがございます。

>これには『三部経大意』などにる法然聖人の指示があったからだと思われます。そして、

> 「しかればすなわち、光明の縁と名号の因と和合せば、摂取不捨の益をかぶらむことうたがふべからず。」 という示唆から「行巻」の「両重因縁」を釈されたのでしょう。

→『三部経大意』のWikiArc読ませていただきました、ありがとうございます。

 大変私ごととはなりますが、私は
「自信教人信 自ら信じ、人をして信ぜしむ
難中転更難 難が中に転たさらに難し
大悲伝普化 大悲を伝えて普く化すれば
真成報仏恩 真成に仏恩を報ずるなり」

の「自信教人信」をよく用います。「帰せよの命」として阿弥陀様をお勧めする前に、「私が阿弥陀様にお任せしていなかったならば、妄言を言っている」ということにつながりかねないからです。

>>なんまんだぶを称えさせていただき、不退のくらいに生まれさせていただく
>ここで、生まれさせていただくという表現は「不退の位につく」とか「不退に住す」という表現がいいかな。
仏教では「生」とは主に「四生」を意味しているので、誤解されるかもです。

→アドバイスありがとうございます。先ほどの「はなれたる」など「一見同じような意味合いでも異なる使われ方をされている言葉」があり、その点も今後の私側の課題であります。

>なお、自分だけの字力(文章読解力)だけでお聖教を読もうとすると迷路にはまります。淳心房さんが紹介されていましたが『聖典セミナー』の教行の巻と信の巻はお奨めです。

→いまも油断をすると迷路で右往左往せねばなりません。阿弥陀様のお導きがありながら、誠に恥ずかしい限りであります。

数々の文献の御紹介、ありがとうございます。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

『三部経大意』

ども、林遊@なんまんだぶです。

Abcさん。

『三部経大意』は、真宗高田派本山専修寺に秘蔵されていたのですが、
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E4%B8%89%E9%83%A8%E7%B5%8C%E5%A4%A7%E6%84%8F

第十八願の根本願の他に、第十二願、第十三願、そして諸仏称揚の願の第十七願をあげ、称名の出拠とされているのは御開山の五願六法に大きな影響を与えていると思います。
林遊は、これで御開山が五願六法とされていた意義を知ることが出来、納得したものです。また、行巻の「両重因縁釈」の淵源も『三部経大意』なのでした。
そして、特異だといわれる御開山の至上心釈もまた、『三部経大意』を見ることによって、決して特異ではなく法然聖人の意を承けておられることが判ります。
そのような意味では高田派で伝持されてきた『三部経大意』は、高田派の僧分の方は熟読すべきだと思ひます。
また高田派で伝持されてきた『西方指南鈔』も、また御開山の思想の根源を知る上で熟読すべきでしょうね。『西方指南鈔』は最近、現代語訳が出ていますから、より身近に接することができるようになっています。
http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-16144-9/

『西方指南鈔』は鎮西浄土宗側からは親鸞の著書であるという意で、浄土真宗側からは法然の法語録であるという意から、あまり読まれて来なかった経緯があるのですが、読むことをお勧めです。ネットでは原文をSATからGetして林遊がUPしてあります。
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E3%80%8E%E8%A5%BF%E6%96%B9%E6%8C%87%E5%8D%97%E6%8A%84%E3%80%8F

その他、近代に入って大谷派の清沢満之の再発見によって知識人にもてはやされた『歎異抄』で有名な悪人正機説も、法然聖人の『三心料簡事』が淵源でした。

 善人尚以往生況悪人乎事(善人なお以つて往生す、いわんや悪人おやの事)
http://wikidharma.org/5ce7e4e4c317d

もちろん史料批判は大事であることはいうまでもないのであり、安易に寺の縁起の伝説などに騙されてはならないと思っていたりします。
例えば御開山の『御臨末の御書』などは、文体や思想からして、御開山の御著書でないことは明瞭だと思っています。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re:林遊さん

こんばんわ、Abcです。

>『三部経大意』は、真宗高田派本山専修寺に秘蔵されていたのですが、
>そのような意味では高田派で伝持されてきた『三部経大意』は、高田派の僧分の方は熟読すべきだと思ひます。
また高田派で伝持されてきた『西方指南鈔』も、また御開山の思想の根源を知る上で熟読すべきでしょうね。『西方指南鈔』は最近、現代語訳が出ていますから、より身近に接することができるようになっています。

→仰るように「高田派の僧分の方は熟読すべきだ」と思われるのは尤もなことであります。ですが、いま林遊さんが「秘蔵されていた」と記したことからも判るように「秘蔵」です。
 私もはしくれながら「高田派の僧分」であることは違いませんが、私の現時点での資料として

『真宗聖典』…親鸞会で用いられている書物です。
『御書』…親鸞のお手紙のほかに高田派の上人たちのお手紙も収められています。
『高田意訳聖典』…『文類偈』と『正信偈』の解説のほかに、『和讃の解説』が数首と『お手紙』の解説があります。
『ブッダの真理のことば』(佐々木 閑 著・NHK出版 刊)…『ダンマパダ』について記されています。
『親鸞『西方指南抄』』(新井俊一 著・春秋社 刊)…いましがたオススメしていただいた書物です。

画像資料として、
『浄興寺』…浄興寺に納められているものの解説

となっております。資料としては一かけらにも満たないものばかりではありますが、これらも「真宗を話させていただく上での足掛かり」であります。

 以上の塩梅でありますから、「『三部経大意』は、真宗高田派本山専修寺に秘蔵されていたが、秘蔵されていたが故に認識されていなかった」というなんともいえない限りであります。

 ただ、
>林遊は、これで御開山が五願六法とされていた意義を知ることが出来、納得したものです。また、行巻の「両重因縁釈」の淵源も『三部経大意』なのでした。
そして、特異だといわれる御開山の至上心釈もまた、『三部経大意』を見ることによって、決して特異ではなく法然聖人の意を承けておられることが判ります。

と申されていることも、「『三部経大意』という書物の大きな役割」であるのでしょう。私は<<これから>>この書物を拝読したいと思っております。

 この度は、ご指導ご鞭撻ありがとうございます。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

失われた環

ども。林遊@なんまんだぶです。

Abcさん。

ミッシング-リンク(失われた環)という言葉がありますが、御開山の思想の淵源を辿っていくには、法然教学を考察することは必須です。また当時の浄土教思想を学ぶには、隆寛、聖覚、幸西、証空という方々の思想を学ぶと、御開山はこれが仰りたかったのか、とキリスト教の譬喩でいえば「目から鱗」です。

証空上人は、親鸞会では、覚如上人創作の、「体失不体失の往生の事」によって悪役になっていますが、証空上人は、即便往生と当得往生の二種往生を説かれ、御開山の思想と非常に近い方でした。ただ、証空上人は、直接法然聖人の浄土門に入られた方で 法然聖人や御開山や前掲の諸師などの他の門弟と違い、聖道門を捨てて浄土門帰す(捨聖帰浄)という体験を持っていませんでした。(証空辞典p.6)
このことは、徹底した「廃立」に立つ御開山と、「開会」に立つ証空上人の思想の違いでした。
「法然聖人の他力思想」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%B3%95%E7%84%B6%E8%81%96%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%BB%96%E5%8A%9B%E6%80%9D%E6%83%B3

御開山は、非常にラジカル(徹底し、急進的)な利他力義の信心を説かれるのですが、これは鎮西浄土宗側からは一念義といわれた幸西大徳の影響を承けておられるのでした。
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%80%E5%BF%B5%E7%BE%A9

この一念を信の一念であると取り切って「信心正因 称名報恩」として展開されたのが覚如上人です。そして、これによって関東の門徒を大谷本願寺(廟堂)に統合しようとされたのでした。この覚如上人の野心は、やがて蓮如さんの「聖人一流のご勧化」として日本中に展開されたのでした。
これによって、お家騒動にあけくれ皇室の権威を利用したり、蓮如さんの説く無碍光宗とは違うのであり、高田派こそ浄土真宗の正統だとして、慈覚大師が一刀三礼で彫り上げた阿弥陀如来立像を延暦寺から譲られたとする、権力に迎合し保身を計ったたのが高田派でした。
ある意味では、蓮如さんは長年住み慣れた大谷本願寺を破却されて、捨て身の布教活動をされたのですが、権力の跡目争いに汲汲としていたから高田派は衰退したのでした。少なくとも越前のアホな門徒の目から見ればそうなります。

もっとも「信心正因 称名報恩」とは、何が言いたいのかも考察せずに、言葉に嵌って御法義を述べる坊さんには、困ったものです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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