このようにして親鸞会教義が徹底されました(9)

親鸞会の教義が正しいと思い込まされた理由の一つが、『本願寺なぜ答えぬ』に本願寺が反論できないということでした。今日は、宿善論争における親鸞会の主張について書きたいと思います。


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◎宿善論争

(※詳しくは親鸞会発行『本願寺なぜ答えぬ』を参照して下さい。)

親鸞会と本願寺は、親鸞聖人の教義解釈で争っている。その一つが、宿善ということについてだ。
親鸞会が、獲信の因縁として善を修せよと主張しているのに対し、本願寺はまとめると以下のように論文で主張している。

「親鸞聖人の教えに善の勧めはない」
「善を勧める親鸞会は間違っている」
「善をすすめた文証などあろうはずがない」

これでは善を排斥し、悪をせよということかと問いたくなる。

今日は、親鸞聖人の教えに善の勧めがどのように教えられているかを、根拠を挙げてみていく。それにより、本願寺が如何に親鸞聖人の教えを踏み躙っているか明らかにしたい。



まず、仏教の根幹は因果の道理。「善因善果 悪因悪果 自因自果」は宇宙の鉄則だ。それを無視された親鸞聖人とでも思っているのだろうか。
木を見て森を見ず。森を見て山を見ず。仏教の山全体が廃悪修善を教えていることを知らないのだ。

『七仏通戒偈』にも
「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」
とある。廃悪修善を勧めるのが諸仏の教えである。

本願寺サン、因果の道理をお忘れか。七仏通戒偈を知らざるや。


本師本仏の阿弥陀仏が19願「修諸功徳」と誓われている。
阿弥陀仏は48の願を建てられたが、その中に「あらゆる人を救いとる」と誓われた願が、18・19・20の三願である。
「どんな人をも、必ず絶対の幸福に救う」の18願へ導くことは難中の難事で、どうしても善巧方便が必要だった。
19・20の二願は、その必要に応じて建立されたものである。

自惚れ強く、どうしても自力の執着離れ切れず流転を重ねる我々に、実行できるだけやってみよ、気の済むまでやってみよ(19・20の随他意の願)。
できないときに、できないままを、無条件で救いとる(18の随自意の願)というのが、弥陀の正意なのだ。
弥陀がもし18願のみで救済できるなら、方便二願を建てられるはずがない。


弥陀の19願の願意を明らかにされたのが『観経』。そこには、定散二善が教えられている。
釈尊がイダイケに定善散善を説かれたのは、実行させるためである。善ができると自惚れているイダイケに、始めから「善のできないお前だよ」とは言われずに、「できると思うならやってごらん」と実地にやらせてみられた。そこに仏の慈愛が光っている。

「弥陀の19願や、定散二善は、獲信の因縁」と、親鸞会は理解する。


次に親鸞聖人のお言葉を見てみよう。
19・20の方便願を経て、親鸞聖人は18願真実の願に救い摂られたことを三願転入の御文で告白されている。

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、まことに由あるかな。

この三願転入の道程は、決して親鸞聖人お一人のことではない。
御和讃では、弥陀が19願を建てられた御心を、

至心発願欲生と
十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ
現其人前と願じける

釈迦は要門ひらきつつ
定散諸機をこしらえて
正雜二行方便し
ひとえに専修をすすめしむ


と述べられた。十方衆生が通らねばならぬ道程が19願だから、善導大師は19願を「要門」と仰る。
要門とは、必要、重要、かなめの教えということ。
19願を通らねば、18願の絶対界へはアリ一匹出られないのだ。
「我々には18願だけでよい。19・20願は方便だから必要ない」という者は、仮(方便)従りしか真(真実)に入れずということが全く分かっていないのである。


釈迦が45年のほとんどを使って善を教えられたのは、実は阿弥陀仏の命令だったことを、

臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
観経一部にあらわして
定散諸機をすすめけり


と言われる。19願が不必要なら、不必要な願を建てられた阿弥陀仏が悪いということになる。

そして、獲信の因縁にならぬ諸善はないことを、

諸善万行ことごとく
至心発願せるゆえに
往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり


と教えられている。

このことは、『三経往生文類』にも見えるが、今は『愚禿鈔』と『高僧和讃』のお言葉を挙げておく。

ひそかに観経(十九願)の三心往生を按ずれば、これすなわち、諸機自力各別の三心なり。大経(十八願)の三信に帰せんがためなり。

万行諸善の小路(十九願)より
本願一実の大道(十八願)に
帰入しぬれば涅槃の
さとりはすなはちひらくなり



『一念多念証文』では、

「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。


(※これは最近親鸞会で盛んに用いられている根拠です)

と書かれ、「この要門・仮門よりもろもろの衆生を勧めこしらへて」とハッキリ仰っている。19願の善をやらねば奥座敷の18願へは進めない。全ての人が通らねばならぬ道程なのだ。


我々に善ができるかできないか、実地にやってみなければどちらもハッキリしない。合点だけでは、観念の遊戯に止まるのみである。

19願は我々に善を実行させるための願であり、我々に雜行(諸善をやって後生の一大事助かろうとする心)を分からせ、雜行を捨てさせるための本願なのだ。

善をやらねば信仰は進まないし、絶対に果報は得られない。「善をすてよ」「善をする必要はない」と言う者が如何に間違いか分かるだろう。

雑行の正しい意味と、親鸞聖人の正しい教えを高森先生から聞かせて頂ける身の幸を噛み締めて、光に向かって一層奮起しよう。

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今、こうして書いてみると、何でこんなのに騙されてしまったのかと悔やまれます。無知とはおそろしいものです。
当ブログでは、親鸞会が提示した根拠が親鸞会でいうところの「善のすすめ」の根拠にはなっていないことを繰り返し書いてきました。
親鸞会の宿善論の誤りは、

親鸞会教義の誤り
飛雲

も参照して下さい。

(つづく)
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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