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【考察】選択本願の行信について(7)

【考察】選択本願の行信について(6)では、『御文章』2帖目8通を通して、

さればこの信心をとりてかの弥陀の報土にまゐらんとおもふについて、なにとやうにこころをももちて、なにとやうにその信心とやらんをこころうべきや。ねんごろにこれをきかんとおもふなり。

の問いに対して蓮如上人はどう教えられているかを考察しました。結論としては

弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念

本願にふたごころない真実信心で念仏一行を専ら修せよ」「真実の信心で念仏しなさい」ということでした。


そして2帖目8通では、最後に称名報恩の意義を示して終わっています。ところで、信心正因称名報恩説を確立されたのは覚如上人ですが、『WikiArc』トーク:口伝鈔 信因称報説の確立によれば

しかし親鸞聖人や直弟子の間では、念仏往生 (念仏成仏) の領解も当然のこととして行われていました。『親鸞聖人御消息』に、

 弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり (『同』七八五頁)

といわれているものはその典型でした。いわば聖人や直弟子の著作には、たとえば『歎異抄』第二条のように、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」(『同』八三二頁)という念仏往生の教説と、

第十四条に、「一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚の位にをさめしめたまひて、(中略) 一生のあひだ申すところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり」(『同』八四五頁)といわれるような信心正因、称名報恩の教説が並存していました。それを信心正因、称名報恩説こそ親鸞聖人の法義の特色であるとして、それに統一しようとされたのが覚如上人だったのです。『改邪紗』に、信因称報説を挙げ、

それ本願の三信心といふは、至心・信楽・欲生これなり。まさしく願成就したまふには、「聞其名号信心歓喜 乃至一念」(大経・下)と等説けり。この文について凡夫往生の得否は乃至一念発起の時分なり。このとき願力をもつて往生決得すといふは、すなはち摂取不捨のときなり。(中略)しかれば祖師聖人(親鸞)御相承弘通の一流の肝要これにあり。ここをしらざるをもつて他門とし、これをしれるをもつて御門弟のしるしとす。そのほかかならずしも外相において一向専修行者のしるしをあらはすべきゆゑなし。 (『註釈版聖典』九三五頁)

といい、信心正因、称名報恩の宗義を知るか知らないかによって、当流と他門とが分かれるといわれていました。この信因称報説を中心に「聖人一流の御勧化のおもむき」を全国に伝道していかれるのが、やがて本願寺に出現される蓮如上人だったのです。


とあります。念仏往生 (念仏成仏) と信心正因称名報恩の教説が並存していたのを、「信心正因、称名報恩説こそ親鸞聖人の法義の特色であるとして、それに統一しようとされたのが覚如上人」であったというのです。

なお、覚如上人は本願寺を中心とする中央集権的教団体制の確立を目指していたと

覚如における信の思想 ――真宗教学史における信解釈の問題―― 信楽峻麿

に書かれています。また西山浄土宗では、報恩感謝の称名念仏を力説するそうです。覚如上人は西山浄土宗の阿日房彰空に従って浄土教義を修学したそうですから、称名報恩のルーツはここにあるのかも知れません。

さて、それから「この信因称報説を中心に「聖人一流の御勧化のおもむき」を全国に伝道していかれるのが、やがて本願寺に出現される蓮如上人だった」そうです。蓮如上人が信因称報説を中心に教えを説かれた理由については覚如上人の影響の他にも様々な説がありますが、浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺では

 そのころ、人々の間には、呪術的効果を期待する念仏が広く行われていました。それには死者の霊魂を慰なぐさめ、怨霊をしずめる鎮魂の大念仏・百万遍念仏や、農耕儀礼と結びつき、先祖の霊を供養し豊作を願う日待念仏・彼岸念仏などがあり、さらに念仏おどり・念仏狂言のように芸能に結びついた念仏もありました。

 もともと親鸞聖人は源信和尚や法然聖人の念仏を、さらに純化し高めましたが、その聖人の念仏を受け継ぐ人々の中にも、自力的、呪術的なとらえ方をする傾向が出てきました。蓮如上人は、こうした真宗念仏の呪術化をとどめようとして、念仏を報恩として位置づけ強調しました。そして上人は、この信心正因・称名報恩の立場こそが、親鸞聖人の真意であると信じて疑わなかったのであります。


と説明しています。また、蓮如上人当時は時宗が流行っており、度々示されるように

それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。『御文章』5帖目11通

という無信単称の念仏者が多い時代でした。これは考えを変えれば、信心はどうかとして極楽に往生したいと思う人、そのために念仏を称える人がそれだけいたということでもあります。そのような人々には、真実信心を獲ることが往生の上で肝要だと伝えるのが大事ですから、蓮如上人の『御文章』に書かれている御化導は、まさに時機相応であったと言えます。


こうして無信単称の者、また一生涯称名相続しなければ往生できないという多念義の者に対しては信心正因、一念の信心を強調されたのですが、一方でこれが行き過ぎると、では称名することは往生のためには無意味だと称名を妨げることになりかねません。実際、一声の念仏、または一念の信心にて往生には事足りると、その後の称名を軽視する一念義の異義があります。更に誤解が進むと、悪は往生の妨げとはならないのだから悪を造ってもよい、それどころか、悪人成仏なのだから悪こそ往生の正因だと放逸無慚に陥っていきます。

ですから蓮如上人は、掟を作って門徒の方々の振る舞いを正されると共に、称名報恩を説いて一生涯称名相続すべきことを示されたのでしょう。特に蓮如上人の時代は、信教の自由もなく、聖道諸宗によって念仏者が迫害されていました。門徒の方々の生活を守り、かつ浄土真宗の正しい信心と念仏を伝えて皆人共に浄土往生の本懐を遂げること、蓮如上人はこのようなことを念頭に置いて教えを伝えられたのだと拝されます。


このような時代背景や対機を考えず、誰にでも信心正因称名報恩説でもって教えを説けばよいというものではないと思います。これでは、称名は信後の報謝であり、お礼の意なのですから、これで信前の人は念仏が有難いと思ったり、日々の生活の中で積極的に称えようと思ったりするものなのか疑問です。それに加えて、自力念仏ではいけない、念仏をいくら称えても助からない等と言われようものなら、とにかく信心、信心で信心を追い求めて念仏にこころがかからず、結果として称名を妨げることにつながってしまうのではないでしょうか。

『真宗大谷派 東本願寺 念仏寺』「念佛はなぜ消えていったか」 真宗行信論

には、そういった問題点が取り上げられていますので、ここに紹介しておきます。
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No title

リンク先見ました。
土井先生の考察は論理的でわかり易いですね。

声につきて往生の思いをなすべし

ども、林遊@なんまんだぶです。

称名報恩説を力説する人に対して、あんたの親様はすくってやるから礼を言えという親様か? 何と水臭い(他人行儀)親様やな、それなら人間の間の取引と変わらんではないか、とツッコミを入れたことがありました(笑

信因称報説は、淳心房さんがリンクされた文に、

 一人一人の往生が定まるのは、その名号を一人一人が疑いなく信受した時です。その機の往生の決定する時 (正因決定の時) を示すのが信の一念でした。このように念仏往生は、行法の徳の超絶性を顕す法門であり、信心正因は、法を受け容れている機の上で往生が定まる時がいつであるかを顕す法門だったのです。もし名号を受け容れて称えている人 (機受) の側から言えば、念仏は正因決定後の営みであって、お救いくださった仏徳を讃嘆し、仏恩を報謝するほかにはありません。そのように信と行とを機の上で前後して起るものとして語る場合に信心正因、称名報恩といわれるのです。

と、あるように「信と行とを機の上で前後して起るものとして語る場合」の論理でした。いわゆる「説」であり、御開山の思想の一面を発展させたものであって、これに捉われると返って法然聖人を通して御開山が領解された念仏思想を誤解することになるかもです。

灘本和上は、『やさしい 安心論題の話』安心論題/十念誓意で、

 「乃至十念」の称名は、その体徳からいえば、名号の全現ですから一声一声が正定業(まさしく往生の決定する業因)であります。しかし、これを称える行者の用心をいえば、ご恩尊や有難やと感謝する思いから称える報恩の念仏であります。けれども、これを誓われた阿弥陀仏の思召しは、報恩を求めるためではありません。信心の行者の生活の中に、嬉しい時も悲しい時も、何ともない時でも、折にふれて思い出しては仏のみ名を称えさせてくださるのであります。まことに「大慈大悲のきわまりなきこと」を感佩せずにはおれません。

と、いわれていましたが、一声、一声の、なんまんだぶが、後生は我にまかせよという「本願招喚の勅命」なのでした。
法然聖人は、称えて聞えるなんまんだぶの「声につきて往生の思いをなすべし」といわれておられましたが、阿弥陀如来は、いつでもどもでも誰にでも、声となって(垂名)顕現して下さる仏さまなのでした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%8F%AF%E8%81%9E%E5%8F%AF%E7%A7%B0
越前の門徒は、阿弥陀如来の名号摂化を、

 われ、名号となりて衆生に至り、衆生かえらずんば、われもまた還らじ

と、よく言っていましたが、私の称える回向された名号願力が、わたしを往生成仏せしめるのでした。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

コメント返信

maelstrom様

法然聖人親鸞聖人と、覚如上人蓮如上人では、念仏についての教化に乖離が見られます。全部ではありませんが、前者は往生の行として、後者は報恩のつとめとして教えられています。やはり、法然聖人親鸞聖人の教えを承けての覚如上人蓮如上人の御教化だなということをつくづく思います。


林遊@なんまんだぶ様

法然聖人は、ただ南無阿弥陀仏と申せとは教えられず、口に称え耳に聞こえる南無阿弥陀仏の

・こゑについて决定往生のおもひをなすべし
・声につきて決定往生のおもひをなすへし

等と仰っていますね。名号を称え聞いて、名号の中に込められている「我にまかせよ、必ず救うぞ」の仏心を頂いて必ず往生できると思いとる。これが信心であり、しかもこの信心は凡夫に根ざしたものではなく、その本は如来の大悲心であり、「如来よりたまはりたる信心」でした。

「その上の」称名は御恩報謝と言われても全くその通りでしっくりくるのですが、称名を信後の報恩に限定するかのような説き方はイカンです。一昔前までの親鸞会などまさにそうでした。最近は、信前も信後もお礼とか、信前は宿善としての念仏だなどと教えだしたようで少し変わってきましたが、いずれにせよ諸善を捨てるつもりはないでしょうから「念仏の信心」を獲得する方は皆無に等しいでしょう。

それにしても、親鸞聖人と蓮如上人では教え方に随分と乖離が見られるのに、専ら蓮如上人の教えを説いて「親鸞聖人の教え」と振れ回っている坊さんには、違和感を感じざるを得ないです。木村無相さんはひたすら偏依親鸞というほど親鸞聖人の御消息にかじりついてオーム念仏を訴えられた方ですが、私も親鸞聖人のお聖教にかじりついて選択本願の行信を訴えたいと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

本願招喚の勅命

ども、林遊@なんまんだぶです。

梯實圓和上は『法然教学の研究』の中で、

 法然が「声について決定往生のおもひをなすべし」といわれたのを、名号に表現されている決定摂取の本願を聞くことだと理解し、それを継承されたのが親鸞の「行文類」(真聖全二・二二頁)の六字釈の「帰命者本願招喚之勅命也」という妙釈だったとみることができよう。

と、示して下さっていました。

深川倫雄和上は、なんまんだぶの訳はなぁ、そのまま来いよ間違わさんぞ待っておるぞ、ちゅうことじゃと仰ってました。
ありがたいことです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

有難い仰せです。『法然教学の研究』読んでみたいですが、他の『顕浄土方便化身土文類講讃』や『一念多念文意講讃』と同様に、もはや手に入らないのが残念です。もっと早い内に集めておけばよかったなぁ・・・

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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