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いくら聞いても、親鸞聖人、蓮如上人と同じ信心になどなりはしない、「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」という阿弥陀仏のお約束を説き続ける高森顕徹会長

昨日の高森顕徹会長の話は、いつもの偽装ロングヒットの映画解説ではなく、蓮如上人の「聖人一流の章」についてでした。内容の一部は既に

『飛雲』係念の宿善?の念仏を勧めた?高森顕徹会長?

に挙がっています。

話の中で高森会長は、

「もろもろの雑行」
=阿弥陀仏の本願に対する人間の一切の計らい心


「一心に弥陀に帰命」
=一心に阿弥陀仏の本願を聞けば


「仏の方より往生は治定せしめたもう」
=(一心に阿弥陀仏の本願を聞けば)阿弥陀仏の不可思議の願力によって往生は治定の身にして下される


と割かし無難な話もしていましたが、一方で相変わらず

阿弥陀仏の本願とは、「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」という阿弥陀仏のお約束

などとも説いていました。


肝心のどのような本願かということが間違っているために、いくらその本願を一心に聞いたところで人間の一切の計らい心は無くなりませんし、「一心に弥陀に帰命」することもありません。「仏のかたより往生は治定」など夢のまた夢です。

まず、仏教の目的は流転輪廻しているこの迷いの世界からの出離であり、成仏です。また、仏陀のさとりの必然としての衆生救済も含まれています。この世の幸福は一瞬のことでしかなく、たちまちのうちに消えてしまう儚いものでしかありません。しばらく私の身の上にあっても、やがて老病死のために離れていってしまいます。

そのような私達にこの世の儚さと、浄土の素晴らしさを教え、阿弥陀仏の本願力によって浄土に往生して、この上ないさとりを開かせて頂く浄土の真宗こそ真実の仏教であると教えていかれたのが親鸞聖人でした。

浄土真宗とは今は教団名ですが、元々は教団名ではなく、教えの名前でした。浄土とは往生浄土ということで、迷いの世界を離れて浄土に往生し、涅槃界に至らせて頂こうということです。このような本来の目的を忘れさせ、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を追い求めさせる教えは浄土真宗でも仏教でもないのです。一方でこの世の無常を説きながら、一方で絶対に崩れない幸福があると人間の欲望を煽り立て、そのために信者と資金を集めさせるような教えは、「外教邪偽の異執」でしかありません。


では、我々はどのようにして浄土に往生したらよいのでしょうか。それについて『正信偈』偈前の文では

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。
その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。


と教えられ、『三経往生文類』には

この真実の称名と真実の信楽をえたる人は、すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへるなり。

と教えられていることかも判るように、真実の行(称名)真実の信(信楽)によってです。これらを、それぞれ私が起こしてというのではなく、本願力の回向によって、つまり阿弥陀仏から与えられて、難思議往生、すなわち浄土(報土)往生するというのです。その浄土往生が決定した位を「正定聚の位に住」すと言われています。

私達はそのように教えられ、また自分の能力が後生、往生に関してたのみにならないことを思い知って、ひとえに本願を信じ念仏して往生しようとするのですが、ともすれば念仏の意味を間違えて我が善根とし、それを積み重ねて往生するかのように思いこんでしまいます。これが高森会長で言う「人間の一切の計らい心」というものです。見た目では同じように手を合わせ、同じように念仏を称えていても、信心が間違っていたら報土往生はできませんから、蓮如上人は「信心をもつて本とせられ候ふ」とその信心を厳しく説かれるのです。


ところで、元々、聖人一流章はそれ単独の御文ではなく、

トーク 帖外ご文章 梯實圓和上『攻めの蓮如上人』

を読まれれば判るように帖外御文章の一節でした。そこで、

答ていはく、我等がこゝろへをき候分は、弥陀の願力に帰したてまつりて朝夕念仏を申し、仏け御たすけ候へとだにも申候へば往生するぞと心得てこそ候へ、そのほかは信心とやらんも安心とやらんも存ぜず候。これがわろく候はゞ御教化候へ、可聴聞候。

と告白した坊主に対して、

まづ聖人一流の御勧化のおもむきは信心をもて本とせられ候。

といって坊主の信心を正していくわけです。

私はずっと代々心得ているのは阿弥陀様の本願力に帰依して朝晩念仏を申して、仏様どうぞこれで助けて下さいませとお願いさせすれば往生するのだと心得ている。その他信心とも安心とも、そんなことは一切私は知りません。もしこれが間違っているとしたら、正しい教えを言ってくれ

という坊主に対して、

親鸞聖人の教えの根本は信心であるのだ。阿弥陀仏の本願を信じ、弥陀をたのみたてまつる信心、これが親鸞聖人の教えの一番根本にあるのだ。

と説いていることが分かります。朝晩念仏をして「これでお助け下さいませ」とお願いしているという、その自力信心を正しているのです。普段、「雑行」を「厚い宿善になる」などと聞かされ、正行と雑行の分別も無いような人に言われた言葉ではないことに注意が必要です。


尤も、今回高森会長は

その身になるまで(信心獲得するまで)の念仏は、無意味かというとそうではない。「宿善」になる。大切な善い種蒔きになる。

と説いていたようですが、いつもは「いくら念仏を称えていても助からない」と言いつつ「獲信の因縁(宿善)として善を修せよ」と、「雑行」の勧めに躍起になっています。それを真受けにして「雑行」をやりまくっている会員が、いきなり「阿弥陀仏の本願に対する人間の一切の計らい心」を捨てよと言われても意味不明と思います。

まずは高森教の邪義を離れ、迷いの世界を厭い離れて浄土を欣い求めるべきことを知り、阿弥陀仏が余の一切の善を「雑行」と選び捨てた心に順って捨て、ただ一行選び択られた本願の念仏を専ら修めて往生を願うようにでもならないと、その信心がどうという話にはならないでしょう。なぜなら真宗の信心は「念仏の信心」であって「念仏と無関係な信心」ではないからです。

その上で、念仏は我が計らいの心から如来・浄土に近づいていこうという自力の行ではなく、如来・浄土から届き与えられた本願力回向の行であり、回向された阿弥陀仏のこころは「助けるぞ、我にまかせよ」という招喚の勅命であると聞いて頂きたいと思います。「助けるぞ」の仰せをそのまま聞くのが、すなわち信です。このような選択本願の行信によって、浄土に往生させて頂く、これが浄土真宗です。


雑行」をやりまくっている状態で、いくら聞いても、親鸞聖人、蓮如上人と同じ信心になどなりはしない、

「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」という阿弥陀仏のお約束

とやらを聞き続けても徒事です。駄作映画の第二弾に期待せずに、さっさと身を引いて本当の親鸞聖人の教えを探しに行った方が、はるかに賢明です。さすがに、こればかりは「まことに宿善まかせ」ですがね・・・。
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懲りない人たち

淳心房様

梯先生の法話のご紹介ありがとうございました。お聖教を拝読する時は断章とならないように出来るだけ気をつけて、時代や背景を含めて味わわなければならず、さらに親鸞聖人の御消息や蓮如上人の御文章は「誰が誰に向かって言ったのか」も心得なければならないことを再認識させていただきました。

かなり時間がかかりましたが、曇鸞大師の浄土論註の「単語訳」が終わりました。読破などと呼ぶには程遠い、文章に出てくる仏語と古語の意味をただ拾うという作業です。梯先生の法話にも出てきた「同一念仏 無別道故」「四海のうちみな兄弟」は論註のお言葉ですが、元になる天親菩薩のお言葉があり、それに対しての註釈の説明文として出てくるお言葉です。「なぜ、ここで『兄弟』という言葉が出てくるのか?」などということも元の文章を読むとわかります。今後も昔の同行のようにお聖教を味わっていきたいと思います。

淳心房様の本文に帰りますが、飛雲様にも書かせていただきましたが、高森会長は親鸞会的宿善論をまた復活させて来ているのですね。どなたかが「ネット等で叩かれてもほとぼりがさめて、回りが忘れたころに自論を復活させる」と仰っていましたが、本当にそんな感じがします。懲りない人たちです。

Re: 園児様

絶えず教学を研鑽されていることを伺い、こちらとしても励みになります。私は恥ずかしいことに中々勉強が進みません。もう私より園児さんの方がはるかに詳しくなっているやも知れませんね(いやマジで)

親鸞会はワンパターンで、批判されるとそれに応じて一旦今までの説を引っ込め、しばらくすると復活させるということを繰り返しています。体験至上主義、若不生者、絶対の幸福、宿善、三願転入、必堕無間、善の勧め、念仏、白道・・・まだあると思います。これだけ教義がコロコロ変わる教えという意味でも「珍らしき法」かも知れません。それでいて、会員は70年一貫して変わらない教えだなどと盲信していることでしょうから、哀れと言うもなお愚かなりです。

故の字なきが故に…

淳心房様

親鸞会の教義が染みついた自分の中から「染み抜き」をするために色々と親鸞会のおかしな点を調べて、今までもいくつかを書かせていただきました。披露していない話もいくつかあります。しかし、なかなかこれが全部を駆逐するには至りません。まあ当ての無いモグラ叩きのように思っていました。

曇鸞大師の浄土論駐の中の阿弥陀仏のお力を示す有名な譬えで
「たとへば浄摩尼珠を、これを濁水に置けば、水すなはち清浄なるがごとし。」
とありました。もちろん、教行信証にも引かれているご文ですが、ここをみてハッとしたのは「そうか、染み探しや染み抜きを目指すよりも経典や聖教を拝読する方が近道だ」と思った次第です。

「同一念仏 無別道故」の「故」の字を故意に抜いて「同一念仏 無別道」と教えている団体を相手にしてもねぇ…。あっ、また書いてしまいました。スミマセン。

No title

関係ない話で恐縮ですが、飛雲で「若不生者」を
「信心をもし生ぜずは」
という意味だと言っているこちらのコメンテーターがいらっしゃいますが、
淳心房さんはどう思われますか?

Re: イロハ様

ここは非常に難しいところです。

第十八願は真実の信心を誓われた願であると「信文類」にはありますので、飛雲さんの解説には疑問がありました。「信文類」の最初には次のようにあります。

至心信楽の願   [正定聚の機]
顕浄土真実信文類 三
真実信

また、『三経往生文類』にも

また真実信心あり。すなはち念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。 信楽の悲願は『大経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生れんと欲うて、乃至十念せん。もし生れずは、正覚を取らじと。ただ五逆と正法を誹謗せんを除かん」と。[文]

とあって、真実信心は第十八願に顕れているというのです。


ちなみに知人に質問したところ、以下の回答を得ています。

↓↓↓

18願が信心を獲させる願でないとしたら、ではどの願が信心を獲させる願なのかな?
→17願が「我が名を聞かしめん」という願で、
御名を聞くこと=信心
だから、17願が信心を獲させる願という解釈だと思われます。
記事中に引用されている大経異訳の御文も行巻に引用されている前半部分からつづけて読めばそのような意味になります。
48願を18願におさめれば、18願は信心を獲させ、念仏を称えさせ、浄土往生させる願といえますが、他の願との関係も伺えば上のようになるでしょう。振りかえって見れば、信楽を獲たものを信楽の身にさせるという解釈になってしまうから、親鸞会の解釈はおかしいというのはチューリップ企画の法論の内容でしたね。


また、以下の記事も参考になると紹介頂きましたのでリンクしておきます。

『元会員から見た浄土真宗親鸞会』 『なぜ生きる2』を読む(7)-阿弥陀仏は「19願→20願→18願」ではなく、「17願→18願」で名号を与えようとされている
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/blog-entry-188.html

No title

「若不生者」が誓いの主であり他は条件ですよね。
こういう条件で生まれなかったら、正覚を取らない
ですから、信心も条件です。
信心の体は名号ですし、両重の因縁の初重の因縁で
因ー名号
縁ー光明
果ー信心
ですから、願でいうなら17願と12願によって18願の信心を獲ることになるのでしょう。
18願はその信心を因として往生という果を獲る願ということでしょう。

No title

>真実信心は第十八願に顕れているというのです。

18願に顕されていることと18願で生じさせるとは違いますよね。
信心が顕されているのは18願だけですから。

No title

「信楽の心で念仏を称えた人を、浄土に生まれさせる」
これが親鸞聖人の18願の説明です。
親鸞会は、
「信楽に生まれさせる、そしてお礼の念仏を称えさせてみせる」
という説明です。
Aさんの説明は
「念仏を称えた人を信楽に生まれさせる」
ということでしょうかね。

「信心と念仏が揃った人を浄土に生まれさせる」
の信心だけ
「信心を生じさせる」
は変ですよね。
「念仏を称えさせてみせる」
も入れないと。
そうなると、
18願は
「信心を生じさせて念仏を称えさせてみせる」
という願になり、高森会長と同じになります。

チューリップ法論は、親鸞会の勝ち?

No title

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

信心=聞=17願成就の名号を聞く

ですから、17願の名号を体とした信心を獲られ、その信心を因として往生するのが18願

こういうことではないですか?

よって「若不生者」は「浄土に生れずは」であって、「信心を生ぜずは」ではない。
お聖教に忠実に読むことが重要かと。

コメント返信

イロハ様
ひふみ様

まず、Abcさんは「若不生者」の「生」が「信楽に生まれることだ」などとは仰っていません。

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

のお言葉については句面の如く受け取っておられると思います。高森教のような主張がしたいわけではないでしょう。Abcさんの問いは高森教とは分断すべきだと思います。私も、「若不生者」の「生」が「信楽に生まれることだ」などとは領解していませんし、そのように主張する気もありません。

その上で、では18願に信楽を獲させるという意味は全く無いのかということを問うておられるのだと思います。「信文類」を挙げたのはそのためでしょう。ちなみに「信文類」には

つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。
(乃至)
この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。

とあります。往相の回向として与えられる大信は、第十八願より出た、つまり第十八願より与えられたものだということです。聖人は十八願の別名として「往相信心の願」という願名を挙げておられます。これは、信心を回向する願、つまり、信楽を獲させる願と言われているということではないのでしょうか。

48願を18願に集約すれば、信心を獲させ、念仏を称えさせ、浄土に往生させると誓われていると見ることができます。18願には、信心と行と往生の果が誓われているからです。そのように本願を見て、質問しておられるのだと思われます。繰り返しになりますが、高森教のような主張がしたくて質問しているのではないでしょう。

皆さんの主張は分かりますが、Abcさんの質問の意図を汲み取らずに勝手に高森教と同類と判断するのもいかがでしょうか? Abcさん、もしコメントをお読みであればお答え頂けると幸いです。

No title

Abcさんのコメント
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
わたしは、「18願」=「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」に疑問が残ります。たしか、「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」は「33願」や「11願」が担っており、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここが問題になっているのです。

「18願」=「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」
だけでなく、
「18願」=「信心を獲させる願」
の意味もあるとは書かれていません。
「18願」=「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」
これを否定しているのです。

もう一つのコメント
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、 :設我得仏十方衆生、 :十方衆生が

わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、わが願力に乗じて、 :信心を
もし生ぜずは、正覚を取らじ :獲なければ仏に成らじ」

にあたるかと思います。

この解釈が「高森さんと同じ解釈である」といわれるのは容易に塑像できますが、高森さんは加えて「念仏ないから信心ひとつ」という念仏誹謗をされておりその点が一番の納得いかないところであります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「念仏ないから信心ひとつ」でなければ「高森さんと同じ解釈である」と認めています。

そこを問題としていることを御理解下さい。

No title

飛雲より引用
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-c397.html

では現益の意味がないのかと言われれば、親鸞聖人は直接仰ってはいませんが、それも含められていると言ってもよい程度の話です。
しかし、現益でいうにしても、

至心信楽をえたるひと、信楽にもし生れずは
信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる

には成りようがありません。国語の問題であって、教えの問題ではありません。ここで議論するのが馬鹿らしくなるレベルですから、これまで言及をしてこなかったのです。

No title

>わたしは、「18願」=「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」に疑問が残ります。

これはさすがにアウトでしょう。言い訳も擁護もできないです。

親鸞聖人は「信心を獲た人を浄土に生まれさせる」と明確に仰っているので、それを否定したら高森邪義レベルですよ。
「若不生者」の解釈で、「信心を獲た人を浄土に生まれさせる」以外の親鸞聖人のお言葉があるなら、Abcさんでも淳心房さんでもいいので、示してください。

No title

なんか誤解があるようですね。
「若不生者」の解釈の中で、「信楽に生まれさせる」は間違いであると飛雲さんが説明されて、18願の解釈はあくまでも「信心を獲た人を浄土に生まれさせる」としか親鸞聖人は仰っていないという話の流れです。「信心を獲た人に信心を生じさせる」でも意味が通じないでしょう。ただし、「信心を獲た人に現益を与える」なら、文章としても因果関係からしても成り立つわけで、それを飛雲さんは言われているのです。

ところがAbcさんは「若不生者」を「信心を獲た人を浄土に生まれさせる」とするのは疑問があるとコメントしたので問題になっているのでしょう。違いますか?

48の願全体として信心を獲させるというのは分かりますが、18願文を読んで「若不生者」が「信心を獲させる」にはならないでしょう?
なるなら、親鸞聖人が「若不生者」を「信心を生じさせる」と解釈されたお言葉を出すべきでしょうが、出さずに理屈で、あーだこーだと言っているのは、高森会長と同じではないですか?

お聖教に忠実にと言ったのは嘘ですか?

No title

一 またのたまはく、

 光明名号の因縁といふことあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり。これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。

しかれば名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。これによりて光明の縁にきざされて名号の因をうといふなり。かるがゆゑに宗師[善導大師の御ことなり]「以光明名号 摂化十方 但使信心求念」(礼讃 六五九)とのたまへり。「但使信心求念」といふは、光明と名号と父母のごとくにて、子をそだてはぐくむべしといへども、子となりて出でくべきたねなきには、父・母となづくべきものなし。子のあるとき、それがために父といひ母といふ号あり。それがごとくに、光明を母にたとへ、名号を父にたとへて、光明の母・名号の父といふことも、報土にまさしく生るべき信心のたねなくは、あるべからず。

しかれば信心をおこして往生を求願するとき、名号もとなへられ光明もこれを摂取するなり。されば名号につきて信心をおこす行者なくは、弥陀如来摂取不捨のちかひ成ずべからず。弥陀如来の摂取不捨の御ちかひなくは、また行者の往生浄土のねがひ、なにによりてか成ぜん。されば本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願といふ、このいはれなり。

本願寺の聖人(親鸞)の御釈『教行信証』(行巻)にのたまはく、「徳号の慈父ましまさずは、能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは、所生の縁乖きなん。光明・名号の父母、これすなはち外縁とす。真実信の業識、これすなはち内因とす。内外因縁和合して報土の真身を得証す」とみえたり。これをたとふるに、日輪、須弥の半ばにめぐりて他州を照らすとき、このさかひ闇冥たり。他州よりこの南州にちかづくとき、夜すでに明くるがごとし。しかれば日輪の出づるによりて夜は明くるものなり。世のひとつねにおもへらく、夜の明けて日輪出づと。いまいふところはしからざるなり。弥陀仏日の照触によりて無明長夜の闇すでにはれて、安養往生の業因たる名号の宝珠をばうるなりとしるべし。


以上は執持鈔ですが
報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきく
が信心を獲ることですが、信心を獲るのは、光明と名号によるというのが、覚如上人です。それをそのまま蓮如上人も引用されていますから、真宗学では、信心は光明と名号によって獲られるということです。18願によって信心を獲るとは、説明されていません。
18願に顕された信心は18願で獲られるではなく、光明と名号によって獲られる、それを否定する意図が理解できないです。

No title

イロハ様

・「若不生者」は、信心を獲た者を浄土に往生させる。
・光明と名号によって信心を獲る。
というのはその通りだと思います。

しかし、親鸞聖人は、
・つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。(中略)しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。(行巻)
・つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。(中略)この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。(信巻)
・つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。(証巻)
と、大行は第十七願により回向され、大信は第十八願により回向され、真実の証は第十一願により回向されているとも教えられているように思います。

つまり、信心は十八願によって回向されると説かれている場合もあると思うのですが、いかがでしょうか?

No title

浄土文類聚鈔でも、
・行といふは、すなはち利他円満の大行なり。すなはちこれ、諸仏咨嗟の願(第十七願)より出でたり。
・浄信といふは、すなはち利他深広の信心なり。すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。
・証といふは、すなはち利他円満の妙果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。
と、行、信、証はそれぞれ第十七願、十八願、第十一願により回向されると説かれているようにみえます。

No title

如来二種回向文には、
『無量寿経優婆提舎願生偈』にいはく、「云何回向 不捨一切苦悩衆生 心常作願 回向為首得成就大悲心故」[文]
この本願力の回向をもつて、如来の回向に二種あり。一つには往相の回向、二つには還相の回向なり。
往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。
真実の行業といふは、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。称名の悲願、『大無量寿経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」[文]
真実信心といふは、念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。信楽の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」[文]
真実証果といふは、必至滅度の悲願(第十一願)にあらはれたり。証果の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」[文]
これらの本誓悲願を、選択本願と申すなり。
この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。
同本異訳の『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「若我成仏 国中有情 若不決定 成等正覚 証大涅槃者 不取菩提」[文]
この悲願は、すなはち真実信楽をえたる人は決定して等正覚にならしめんと誓ひたまへりとなり。等正覚は、すなはち正定聚の位なり。等正覚と申すは、補処の弥勒菩薩とおなじからしめんと誓ひたまへるなり。これらの選択本願は、法蔵菩薩の不思議の弘誓なり。しかれば真実信心の念仏者は、『大経』(下)には「次如弥勒」とのたまへり。これらの大誓願を往相の回向と申すとみえたり。
とあります。

ここでは、真実の行業、真実信心、真実証果は、それぞれ17、18、11願にあらわれていると説かれていますが、その後に「これらの大誓願を往相の回向と申すとみえたり。」とあることから、真実の行業、真実信心、真実証果は、それぞれ17、18、11願により回向されると読み取れます。

教行信証、浄土文類聚鈔、如来二種回向文においては、信心が18願によって回向されると説かれている箇所があると思われますが、いかがでしょうか?
私の理解が誤りであればその点をご指摘頂ければ幸いです。

No title

なお、私のコメントは、イロハ様の
「18願によって信心を獲るとは、説明されていません。」
という部分のみに対するコメントであり、その他の点についてはイロハ様のご意見に同意いたします。

No title

なかなか伝わっていないようですので、分かりやすく説明しましょう。

48ある願は、全て「不取正覚」とあるわけです。これは法蔵菩薩の時に建てられた願であるからです。
しかしすでに仏になられていますので、すべての願成就しています。

ここで18願についてみると、
「信心を獲た人を浄土に生まれさせる」という誓いの内容なら、願が成就してもその通り問題無しです。
では「信心を生じさせる」という誓いの内容だとするとその対象は?十方衆生?
もし「十方衆生に信心を生じさせる」という願ならば、成就していないですよね。それとも十劫安心?
ならば、「信心を獲た人に信心を生じさせる」ですか?
おかしいですよね。
よって、「信心を生じさせる」願ではないということになります。

次にAbcさん淳心房さんXYZさんの出されたお言葉はどういう意味かということになりますが、「信心を回向されている」ということで「信心を生じさせる」ではないです。
患者と薬の喩えなら、薬を調合されて薬を飲んだら必ず病気が治ると薬を勧められていますが、薬を患者に飲ませることまでは力が及んでいないということです。

なので、阿弥陀仏が光明によって薬を飲むように仕向けられているというのが執持鈔です。
XYZさんの出された御文は、薬を飲んだら完治しますから薬を出されていますという意味で、薬を飲ませるでないです。薬を飲ませるという誓いの願はないですが、薬を完成する願と薬を飲ませようと仕向ける力を名号と光明で教えられているわけです。

ここまでのところから「若不生者」の論争の本質が分かるでしょう。
最後に問いますが、皆さんは
「信楽の身に生まれさせてみせる」を肯定しているのですか?

私は否定しています。
「信楽を獲た人を正定聚に入れてみせる」なら賛同します。

Re: イロハ様

> 次にAbcさん淳心房さんXYZさんの出されたお言葉はどういう意味かということになりますが、「信心を回向されている」ということで「信心を生じさせる」ではないです。
> 患者と薬の喩えなら、薬を調合されて薬を飲んだら必ず病気が治ると薬を勧められていますが、薬を患者に飲ませることまでは力が及んでいないということです。
>
> なので、阿弥陀仏が光明によって薬を飲むように仕向けられているというのが執持鈔です。
> XYZさんの出された御文は、薬を飲んだら完治しますから薬を出されていますという意味で、薬を飲ませるでないです。薬を飲ませるという誓いの願はないですが、薬を完成する願と薬を飲ませようと仕向ける力を名号と光明で教えられているわけです。


ご解説ありがとうございます。私もXYZさんの出された根拠が頭にあったので長らく疑問だったのですが、

「信心を回向されている」≠「信心を生じさせる」

ということだったのですね。勘違いをしていたようです。

「わが真実なる誓願を信楽すべし」と信心を勧めてはいるが、信心を生じさせるところまでは誓われていない。同様に「如来のちかひの名号をとなへんことをすすまたまふ」と念仏を勧めてはいるが、念仏を称えさせるところまでは誓われていない。信心を生じ念仏を称えさせるはたらきは光明(12願)と名号(17願)が担っている、そのはたらきによって真実信心を獲た念仏の行者を浄土往生させるのが18願と、このような理解で宜しいでしょうか?

No title

淳心房さんへ

それで良いと思います。

Re: Re: イロハ様

ありがとうございます。ついでと言っては何ですが、もしよかったらお答え下さい。御開山の光号因縁釈について。

まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。ゆゑに宗師(善導)は、「光明名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむ」(礼讃 六五九)とのたまへり。

この初重の因縁では、光明と名号によって信心が生じるとすると、後の

能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。

のお言葉がどうも領解できないのです。初重も後重も共に「報土の真身を得証」する因縁を明かしたものだという説に私は同意せざるを得ないです。このお言葉をどのように理解すると、光明と名号によって信心が生じるということになるのでしょうか。

No title

初重の因縁には2つの解釈があります。
果を信心とするか往生とするかです。
執持鈔と正信偈大意は、前者で説明されています。ただし、親鸞聖人のお言葉をそのまま読むと後者ではないかとなります。執持鈔は親鸞聖人が仰ったこととして書かれています。蓮如上人はそのまま正信偈大意に引用されています。それで解釈が分かれるのでしょう。
今は覚如上人蓮如上人の前者を取ったというこです。

No title

両重の因縁の後に

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。(行巻)

とあります。

「大悲の願」は17願のことですから、17願の名号と光明によって「至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し」となります。これが信心のこととするなら、「名号と光明によって信心を獲る」になりますが、あくまで往生のことだとするなら、「名号と光明によって往生を得る」となります。

コメント返信

イロハ様
ひふみ様

本願寺の聖人(親鸞)の御釈『教行信証』(行巻)にのたまはく、「徳号の慈父ましまさずは、能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは、所生の縁乖きなん。光明・名号の父母、これすなはち外縁とす。真実信の業識、これすなはち内因とす。内外因縁和合して報土の真身を得証す」とみえたり。(執持鈔)

これを読むと、初重の因縁は信心について明かしたものと取れますね。
親鸞聖人の光号因縁釈からすると、光明名号を因縁として信心を獲るという解釈はどうなんだろうと疑問だったのですが、二つの解釈があったわけですか。

大行利益の文についても、そのように二通りの解釈が可能なわけですね。

解説頂きまして、ありがとうございました。

No title

イロハ様

------------------------------------------------------------
「信心を回向されている」ということで「信心を生じさせる」ではないです。
------------------------------------------------------------
ここの理解が誤っていたようです。

調べてみましたら、六要抄でも、行巻の標挙を解釈される中に、

二に標挙の中に、「諸仏称名の願」とは、これ第十七願なり。これ則ち往生の行たる名号を説く願なるが故に当巻にこれを出だす。凡そ四十八願の中に於いて、この願は至要なり。もしこの願なくば、名号の徳は何ぞ十方に聞こえん。聞きて信行するはこの願の力なり。


とありました。ありがとうございました。
また、コメントするかもしれませんが、そのときは宜しくお願いいたします。

Abcです

こんばんわ、件の人がとおりますよ。

>まず、Abcさんは「若不生者」の「生」が「信楽に生まれることだ」などとは仰っていません。

とありましたので、「そんなこと言ったかな」とおもい、コメントをさかのぼりますと、

>Aさんの説明は
>「念仏を称えた人を信楽に生まれさせる」


の箇所のようですね。さて、『信楽』についてですが、
『尊号真像銘文』には、
 「「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。」

 「真実信をえたる人は大願業力のゆゑに、自然に浄土の業因たがはずして、かの業力にひかるるゆゑにゆきやすく、無上大涅槃にのぼるにきはまりなしとのたまへるなり。しかれば「自然之所牽」と申すなり。他力の至心信楽の業因の自然にひくなり。これを「牽」といふなり。「自然」といふは行者のはからひにあらず

とあります。「「自然」といふは行者のはからひにあらず」につきましては、

『御消息』(『末灯抄』、『御書』) 自然法爾ノ事
 「「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。

 弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏たのませたま ひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。」

とございます、

まとめに入りますが、私(Abc)の伝えることは、
X : 「念仏を称えた人を信楽に生まれさせる」
O : 「念仏をふたごころなく称えた人を安楽国に生まれさせる」
O2 : 「念仏をふたごころなく称えた人を11願の益によりて、安楽国に生まれさせる」
O3 : 「念仏をふたごころなく称えた人を12願と13願の益によりて作られた、安楽国に生まれさせる」  であり、

『御文』で言いますところ
 「それ、他力の信心といふはなにの要ぞといへば、かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、たやすく浄土へまゐるべき用意なり。その他力の信心のすがたといふはいかなることぞといへば、なにのやうもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かならず弥陀如来の摂取の光明を放ちて、その身の娑婆にあらんほどは、この光明のなかに摂めおきましますなり。これすなはちわれらが往生の定まりたるすがたなり。

されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。」(『御文』五帖目 当流勧化の章)

とございます通りであります。本願寺の方は「高田派の者(専修寺派のもの)」と聞きますと毛嫌いをしますが、私の伝えていることは蓮如上人もいわれておりますので、今もこのように使わせていただいております。

 なもあみだ なもあみだ
Abc

Abcです

連投もうしわけございません。

>Abcのコメント
>~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>わたしは、「18願」=「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」に疑問が残ります。たしか、「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」は「33願」や「11願」が担っており、
>~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>ここが問題になっているのです。

>「18願」=「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」
>だけでなく、
>「18願」=「信心を獲させる願」
>の意味もあるとは書かれていません。
>「18願」=「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」
>これを否定しているのです。

この「問題の文」の文章を今一度読まれてください。
>大筋はまちがっておりませんが、
という前置きがあるとは思いますが見られていなかったのでしょうか

ですから
>「18願」=「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」
>これを否定しているのです。

ではなく
「18願」=「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」
もあるが、この文章だけが総てではないのではないか。
 「欲生我国」だけが総てではないのではないか。

と伝えたかったのです。ですから飛雲さんの箇所にも示しましたが、

 私は、『教行証 信文類』に
  「次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。」の意より、
  「利他回向の至心をもつて信楽の体とする」から

    「信楽」という「信心を獲た人を浄土に生まれさせる」

  という、「欲生我国」だけが「信楽」の体ではないのではないか と記させていただきました。

と示させていただきました。
なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

Abcさんの解釈は、火星人とよく似ていることを分からせていただきました。
11願と33願を高田派の偉い方に教えてもらってください。

Abcです

>Abcさんの解釈は、火星人とよく似ていることを分からせていただきました。
>11願と33願を高田派の偉い方に教えてもらってください。

火星人さんは、私をトレースしたので、似ているのは当然でしょう。
11願と33願については常盤井さんに後日確認してみます。

Abc

No title

>聴聞していればいつか助かる、と信じていた我が身に大変な大事件が起こりました。心は真っ暗にカキ乱れ、光に向かっているのに何故に最低最悪の酷い目にあい、この世の地獄を見なければならぬのか。この世の自業苦を解決しなければと真剣に聴聞しました。
>真剣に聴聞する心が信罪福心からであり、後生の一大事が何一つも心にかかってない自分が知らされて、お門違いだと見放されました。一生懸命に求道してきたつもりが、何一つも役に立たず、結局空回りで一歩も進んでいない。これから先にいくら求道しても絶対に助からない奴だ。どうしたらいいのだ。分からない分からない。と、もがき苦しんでいた時に「そのままだぞ」と直の呼び声が脳裏にハッキリと聞こえました。「そのまま助ける本願」は本当だった本当だったと疑いが無くなり、湧き出る歓喜の心から念仏を何度も称えさせられました。 (火星人さんのコメント)

「Abcさんの解釈は、火星人とよく似ている」ということは、
「私は上の文に対して異論はない」といっていることですが、

 私は、「真剣に聴聞する心が信罪福心からであり、後生の一大事が何一つも心にかかってない自分が知らされて、お門違いだと見放されました。一生懸命に求道してきたつもりが、何一つも役に立たず、結局空回りで一歩も進んでいない。これから先にいくら求道しても絶対に助からない奴だ。どうしたらいいのだ。分からない分からない。と、もがき苦しんで」などと、「オレはこんなに苦しんでいる(だからおまえたちも苦しまなければならない)」などとは申し上げません。

 そんなに「オレはこんなに苦しんでいる」と自己満足に浸りたいならば、火星人ひとりだけでその「もがき苦しむ場所」にいかれていただきたいものです。

Abc

五願開示

ども、林遊@なんまんだぶです

Abcさん。

件(くだん)のブログコメント欄を斜め読みしてきました。
高森親鸞会関係者の方は、白か黒かをはっきりせよ、という傾向が強いので、味わいを述べると突っ込まれます(笑

Abcさんは、お聖教をよく読んでおられますが、ひょっとして体系的に真宗学(一介の門徒としては好きな言葉ではない)を学んだことがないのかな?
視野が狭いので、高田派の教学というものには疎(うと)いのですが、武内義範著の『親鸞と現代』という著書は好きです。手元に、三願転入について調べようとして買った1941年出版の『教行信証の哲学』という著書があるのですが、20ページほど読んで、西洋哲学の素養がないので理解できなくて読むのをあきらめました(笑

ともあれ、宗派意識というものは、邪魔になっても利することは無いのでした。林遊の場合は、本願を受け容れた上で、何でこうなるかという好奇心が旺盛なので宗派を問わず、感性に反応した文章をUPしてたりします。時々、高田派の門徒の方からネットで『顯正流義鈔』を読めて有難いです、というメッセージを受けることもあったりしますよ。

ところで、Abcさんは高田派の布教使ということですが、少しく蓮如さんの説かれる信心論に流されすぎかもです。知らんけど。
なお浄土真宗本願寺派では「五願開示」といって、『教行証文類』の大綱を示すので、真仏弟子釈の三十三願を『教行証文類』の大綱として見ていません。http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BA%94%E9%A1%98%E9%96%8B%E7%A4%BA

Abcさんは、金沢に在住だと述べておられましたが、『教行証文類』の大綱としては、三十三願は傍系だと思ひます。御開山が三十三願の意に言及されていたな?という記憶から参考文献をUPしておきます。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E9%A1%98

この願の「身心柔軟」という言葉は好きなのですが、家の爺さんが「オメの言うことは少しも間違ってえんけど、「触光柔軟の願」というのがあるさけ、もう少し優しく言えや」と、たしなめられていたものでした(笑

そんなこんなで、布教使としてのAbcさんには理解不能でしょうが、高森親鸞会を辞めたの関係者は、求道という言葉に拒否反応を示すのかもです。
http://wikidharma.org/4ae01c2c21cd5

高田派の布教使という立場では、法を伝えるということに固執するのかもですが、たとえ一人でも、阿弥陀様のご法義を喜んでいる人がいるならば、坊主冥利だと思ひますですよ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: Abc様

確認ですが、Abcさんの主張とは、18願は

> X : 「念仏を称えた人を信楽に生まれさせる」
> O : 「念仏をふたごころなく称えた人を安楽国に生まれさせる」
> O2 : 「念仏をふたごころなく称えた人を11願の益によりて、安楽国に生まれさせる」
> O3 : 「念仏をふたごころなく称えた人を12願と13願の益によりて作られた、安楽国に生まれさせる」

という願であるということでよろしいでしょうか?

私もいきなり話題を振られたのと、『飛雲』のAbcさんのコメントの中で、どれが引用文やらどれがAbcさんの主張やらよく分からなかったので、どういう意図で質問をされたのか当時はよく分かっていませんでした。

親鸞会の退会者は高森顕徹会長の主張の一つである『「若不生者」の「生」は「信楽に生まれることだ」』に過敏に反応しますから、今回も

> 「念仏を称えた人を信楽に生まれさせる」

というAbcさんの説明に対して喧々諤々言われているのだと思います。

なお、私は宗派を問わず親鸞聖人の教えを信奉する者は同胞だという意識です。本願寺派の方は毛嫌いするのかも知れませんが、ここでは本願寺派がどうだとか高田派がどうだとか気にする人は少ないでしょう。ただし、聖教に書いてあることに忠実であろうとする方は多いので、教義と味わいを混同するとツッコまれます。

私はこう味わっているという分には構わないのですが、味わいを教義と勘違いしてきたのが高森顕徹会長なので、その辺を注意してコメントされた方がよろしいかと思います。もうちらほら「その考えは親鸞会と一緒だ」みたいなご意見が出始めているので、Abcさんが要らぬ非難を浴びてほしくないという思いからの助言です。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

これは問題でしょう

Abcさんの最初のコメント全文

--------
ひさびさにコメントさせていただきます。Abcです。

>もっと言うと、「18願」は「信心を獲させる願」ではなく、「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」です。
>もし、18願が信心を獲させる願ならば、阿弥陀仏が成仏された時点で「十方衆生」は信心を獲ていることになりますが、そうではありません。
>なぜなら、「信心を獲させる願」ではなく「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」であるからです。

大筋は間違ってはいませんが、なにやら疑問が残る文面ですね。
「18願」<>「信心を獲させる願」
「18願」=「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」 ですか。

わたしは、「18願」=「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」に疑問が残ります。たしか、「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」は「33願」や「11願」が担っており、「18願」は、

『顕浄土真実教行証文類 信文類』
 「それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。
【乃至】
 大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。
この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。
なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。」 と言われております、


 また、
 「しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。」と「私の側(自力)では「虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。」とあります。
 和讃に「こころは蛇蝎のごとくなり」ともいわれている心であります。

 そのうえで今一度ご確認しますが、
 「「18願」は「信心を獲させる願」ではなく、「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」」と「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」つまり「願生我国」に限定された心はどのようなものでありましょうか。

 この書物には、
 「まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主(天親)、建めに「我一心」とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」とのたまへり。」とございます。

 誠に、お手数ではございますが今一度記していただけると幸いです。
なもあみだ、なもあみだ
Abc

これは問題でしょう

二回目のコメント
ーーーーーーーー
こんばんわ、Abcです。

飛雲さん

ご返信ありがとうございます。
>18願に「至心信楽欲生我国」と信心が明記されていることは言うまでもありません。そして阿弥陀仏が信心を獲させようとはたらいておられることも間違いありません。しかし、18願文の中には、「十方衆生が信心を獲なければ仏に成らじ」とは誓われていないということを説明しただけの話です。

→『信巻』で示したように、「それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。」とありますので、「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」であり「弥陀回向の往相回向の願心より出でたるもの」という解釈であります。 ということは、この逆説の「十方衆生が信心を得なくとも私は仏になる」ということでしょうか?

この「十方衆生」は飛雲さんのいわれているように「念仏者も聖道仏教者も外道のものも」という「十方衆生」ではないことは私も認めるところでありますし、高森さんが言われている「絶対の幸福」という現世利益でないことも認めるところであります。

>もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ(観念法門)

>「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現に世にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。(往生礼讃)

「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、 :設我得仏十方衆生、 :十方衆生が

わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、わが願力に乗じて、 :信心を
もし生ぜずは、正覚を取らじ :獲なければ仏に成らじ」

にあたるかと思います。

この解釈が「高森さんと同じ解釈である」といわれるのは容易に塑像できますが、高森さんは加えて「念仏ないから信心ひとつ」という念仏誹謗をされておりその点が一番の納得いかないところであります。

??さん

>33願は、触光柔軟の願
>11願は、必至滅度の願
>これがなぜ「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」になるの?
全く理解できん。

33願の解釈として『和讃』には
 十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる

とされており、「摂取不捨の利益」と呼ばれるものであります。
「念仏の衆生を見られて ≪摂め取られてすてることがない≫願」ことより
「信心を獲た人を≪浄土に生まれさせる≫願」となります。
『正信念仏偈』には、
「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」とございまして、
このうち、「大悲無倦常照我」が「33願」であるという見方であります。

11願の解釈としまして『和讃』には、
 「真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる
 不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ」とあり、このうち、
「真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる 不退のくらゐにいり」が「18願」であり、
後の「かならず滅度にいたらしむ」が「11願」にあたります。

ですから命題の「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」の「浄土に生まれさせる」が「かならず滅度にいたらしむ」にあたるため、「11願」と私は指定しました。

真宗は「全ては18願のうちである」と言われればそれまでではありますが、そこから細分化したものが、「11,12,13,17,18,19,20,22,33願」であります。「11願」は『証巻』に、「12,13願」は『真仏土巻』に、「17願」は『行巻』に、「18願」は狭義では、『信巻』にあたり 広義では『教行証 全六巻』にあたり、「22願」は『教巻』に、「33願」は「信心を獲て念仏を称えた人が、わが浄土にもし生まれずは、 仏に成らじ」にあたりますから、『行巻』と『信巻』にあたります。

コメントありがとうございます。
 なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

親鸞会における「若不生者」と五願開示についての問題をまとめたもの

http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-181.html

No title

当時の「若不生者」のやり取りは
苦笑の独り言
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-category-1.html
にありますので、それをしっかり読まれるのが良いと思います。
何が問題であったのか、親鸞会の主張がどうであったのか、
今問われていることは、すでに議論尽くされています。

Abcです

おはようございます、Abcです。

>件(くだん)のブログコメント欄を斜め読みしてきました。
高森親鸞会関係者の方は、白か黒かをはっきりせよ、という傾向が強いので、味わいを述べると突っ込まれます(笑  (林遊さん)

→さようでしたか・・・飛雲さんのとこの、今の「件(くだん)の」についてもそうですが、『信楽』について親鸞は様々な箇所で、言葉を換えられてご説明されております。私が「33願、11願」と前々からしているのは、『九願文』からでありますから、『親鸞の著書』となっております。ただ、『味わい』は注意せねばなりませんね

>高田派の布教使という立場では、法を伝えるということに固執するのかもですが、たとえ一人でも、阿弥陀様のご法義を喜んでいる人がいるならば、坊主冥利だと思ひますですよ。 (林遊さん)

→過去に、伊勢の本山にて「布教使として教義を伝える際、この『御書』(大谷でいう『御消息』)のみを提示して伝えればよいのでしょうか。それともわたくしなりの解説(味わい)を含めたうえで発言した方がよいのでしょうか?」と尋ねておのおの2つのやり方を実践した後にいただいたお言葉として、

 「(教義のみについて)あなたが話されていること、また伝えようとすることにつきまして、私たち伝わってまいりました。しかし、この「お手紙」は、親鸞聖人とわたしたち同行の間での問われたこと、また答えられたことではありますが、「教えの説明」だけをなされた場合、わたしたち布教使間にて理解できたとしても、はたしてききにこられた方はおわかりになられるでしょうか」

と言われたものですから、この布教スタイルとなっております。
 しかし、これで「元会員」のかたは「このような解説」わそぐわないということがわかりましたが、ただ問題なのは「どうそぐわないか」という提示がなくただ私の記した文章を総てのせたうえで「これは問題でしょう」としるされるだけだということです。


>確認ですが、Abcさんの主張とは、18願は

>> X : 「念仏を称えた人を信楽に生まれさせる」
>> O : 「念仏をふたごころなく称えた人を安楽国に生まれさせる」
>> O2 : 「念仏をふたごころなく称えた人を11願の益によりて、安楽国に生まれさせる」
>> O3 : 「念仏をふたごころなく称えた人を12願と13願の益によりて作られた、安楽国に生まれさせる」

>という願であるということでよろしいでしょうか?(淳心房さん)

さようであります、「端的に」といわれましたので箇条書きとしてあります。
なお1行目は「X : 」で始まっているので「否定の文」です。

ややや さん

「これは問題でしょう」として私の文章をさらしてはいますが、「どのように問題なのか」をしめしてくださいますようお願いします。
 また、やややさん的な「解説の行い方」もございましたらよろしくお願いします。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

問題点を再掲しておきます。


Abcさんのコメント
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
わたしは、「18願」=「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」に疑問が残ります。たしか、「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」は「33願」や「11願」が担っており、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここが問題になっているのです。

「18願」=「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」
だけでなく、
「18願」=「信心を獲させる願」
の意味もあるとは書かれていません。
「18願」=「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」
これを否定しているのです。

もう一つのコメント
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、 :設我得仏十方衆生、 :十方衆生が

わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、わが願力に乗じて、 :信心を
もし生ぜずは、正覚を取らじ :獲なければ仏に成らじ」

にあたるかと思います。

この解釈が「高森さんと同じ解釈である」といわれるのは容易に塑像できますが、高森さんは加えて「念仏ないから信心ひとつ」という念仏誹謗をされておりその点が一番の納得いかないところであります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「念仏ないから信心ひとつ」でなければ「高森さんと同じ解釈である」と認めています。

そこを問題としていることを御理解下さい。
2019-05-15(18:12) : ひふみ URL : 編集

Re:淳心房さん

何度も連投もうしわけございません。

>確認ですが、Abcさんの主張とは、18願は

>> X : 「念仏を称えた人を信楽に生まれさせる」
>> O : 「念仏をふたごころなく称えた人を安楽国に生まれさせる」
>> O2 : 「念仏をふたごころなく称えた人を11願の益によりて、安楽国に生まれさせる」
>> O3 : 「念仏をふたごころなく称えた人を12願と13願の益によりて作られた、安楽国に生まれさせる」

>という願であるということでよろしいでしょうか?(淳心房さん)


について、親鸞は、
 『』笠間の念仏者 うかがいとはれたる事
「 また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。

 恵心院の和尚(源信)は、『往生要集』(下意 一〇九六)には、本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、「行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず」と仰せられたり。「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにをさめとられまゐらせたり」(同・意)と、たしかにあらはせり。」

とございます。
 「恵心院の和尚(源信)は、『往生要集』(下意 一〇九六)には、「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにをさめとられまゐらせたり」(同・意)と、たしかにあらはせり。」というのが、

>それとも源信僧都が33願の解釈の中で「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」と仰ったのですか? (やややさんのコメント)

の答えであります。それでも

>お聖教にはないAbcさんの独自の解釈で、Abcさんの解釈を裏付けるものはAbcさんの頭の中ということですね。 (やややさんのコメント)

といわれるならば、よっぽどなのでしょう。

 なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

>「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにをさめとられまゐらせたり」(同・意)と、たしかにあらはせり。」

これがなぜ33願になるのですか?

という質問です。
1.親鸞聖人がそう仰っているから。
2.源信僧都がそう仰っているから。
3.他の善知識方がそう仰っているから。
4.どなたも仰っていないが、そう解釈できるから。

いずれでしょうか?

No title

ひふみさま

恵心院の和尚(源信)は、『往生要集』(下意 一〇九六)には、本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、「行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず」と仰せられたり。「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにをさめとられまゐらせたり」(同・意)と、たしかにあらはせり。」

「本願の念仏を信楽するありさま」→どう読んでも18願のこと。

それを源信和尚は「行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず」や「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにをさめとられまゐらせたり」とあらわされた。
だから、当然これも18願のこと。

よって、33願の意ではない。

Abcさんの単なる誤読、文章の理解不足なのは、明らかではないでしょうか。
要するに教義云々を論ずる次元にはないので、Abcさんに問うのは無意味かと・・・

No title

XYZさんへ

>Abcさんの単なる誤読、文章の理解不足なのは、明らかではないでしょうか。

その通りですが、仮にも布教師がその誤読さえ気がつかないのは、如何なものかと思いまして。
淳心房さんも、本派の布教師を糾弾するなら、親しいとはいえ高田派の布教師も、それなりにでも誤りを指摘してあげるのが筋かと思います。

親鸞会に対しては、徹底的に叩きますが、Abcさんを叩くことは本意ではないので、改めてもらえるなら、これ以上言うつもりはないです。
ただし、親鸞会を利するようなことを言い続けるなら、親鸞会と同類と見做します。

Re:ひふみさん

ご質問ありがとうございます。

>>「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにをさめとられまゐらせたり」(同・意)と、たしかにあらはせり。」

>これがなぜ33願になるのですか?

という質問です。
1.親鸞聖人がそう仰っているから。
2.源信僧都がそう仰っているから。
3.他の善知識方がそう仰っているから。
4.どなたも仰っていないが、そう解釈できるから。

>いずれでしょうか?

 やっと、私の読み解ける範疇になりました、ありがとうございます。

たしかに4であったならば、「Abcの勝手な解釈」となりますし、呆れられることも頷けます。
 ですが、わたしの答えとしましては「1.」です。

論拠といたしまして、
1つめに、
 『御消息』の先の文
「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにをさめとられまゐらせたり」(同・意)と、たしかにあらはせり。」 とあります。
  (この箇所だけでは、「これが33願である」とは言えません

2つ目に
 『教行証 信文類』真仏弟子釈 (これも飛雲で提示させていただきました
「真の仏弟子(散善義 四五七)といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ。

第三十三願 触光柔軟の願
『大本』(大経・上 二一)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙りてその身に触るるもの、身心柔軟にして人・天に超過せん。もししからずは正覚を取らじと。

第三十四願 聞名得忍の願
 たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持を得ずは、正覚を取らじ」と。

 『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「もしわれ成仏せんに、周遍十方無量無辺不可思議無等界の有情の輩、仏の威光を蒙りて照触せらるるもの、身心安楽にして人・天に超過せん。もししからずは菩提を取らじ」と。{以上}」

ここにて「33願」と「34願」が提示されているため、
 「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべき」には「33願」及び「34願」が関与していることが読める。

 また、「大涅槃を超証すべき」の言葉は、
 『教行証 証文類』 標挙の文 より
 「つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。

 また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。」

とあることより、「11願」と読み解ける。

であるから、「件の文」には、
>たしか、「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」は「33願」や「11願」が担っており、

 と「33願」と「11願」について言及しております。

また、飛雲さんの箇所にも示しましたが、
 「十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙りてその身に触るる」(33願本文)が、

『浄土和讃』
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる」

にあたり、この箇所にあたる
『正信念仏偈』
 「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」
を示させていただくとともに
蓮如上人『正信偈大意』
 「「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」といふは、真実信心をえたるひとは、身は娑婆にあれどもかの摂取の光明のなかにあり。しかれども、煩悩まなこをさへてをがみたてまつらずといへども、弥陀如来はものうきことなくして、つねにわが身を照らしましますといへるこころなり。」

を示させていただきました。

 よって、
「これがなぜ33願になるのですか?

という質問です。
1.親鸞聖人がそう仰っているから。
2.源信僧都がそう仰っているから。
3.他の善知識方がそう仰っているから。
4.どなたも仰っていないが、そう解釈できるから。

いずれでしょうか?」の回答としまして

「1.」を回答します。
なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

Abcさんは「読み解ける」から親鸞聖人が仰ったことになるという考えなのですね。

高森会長も「読み解ける」から親鸞聖人が仰ったことになるという考えです。
火星人も「読み解ける」から親鸞聖人が仰ったことになるという考えです。

要するに、Abcさんは高森会長と火星人と同じだということです。

理解できないと思いますので、もし淳心房さんに親切心があるなら、何か言ってあげてください。

No title

Abc様

横から失礼します。

論拠として挙げた出発点である
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここにて「33願」と「34願」が提示されているため、
 「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべき」には「33願」及び「34願」が関与していることが読める。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
から解釈が間違っています。

端的に示せば
・成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
ですから、「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべき」は11願となります。

六要抄でも、真仏弟子釈は、

「言真仏弟子」等というは、『散善義』の意は、二尊諸仏の意に随順す、故にこの名あり。『般舟讃』の意は仏語を行じて安楽土に生ずるを以て、またこの称を得。彼此の二文は、同じく浄土修行の人を以て真仏子と名づく。尤も信仰すべし。「由斯」等とは、問う、往生の益を得べしというべし。何ぞ「大涅槃を超証す」というや。答う。往生は初益、涅盤は終益。また生即無生の義に依れば、往生は即ちこれ涅槃の極理なり。この故に勝に従いて証涅槃という。これ必至滅度の意に依るらくのみ。

と解釈されています。

No title

『弥陀経』意   五首
十方微塵世界の
 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる

これは阿弥陀経の意を親鸞聖人が顕わされたものです。
阿弥陀経意=33願意
というのは

1.親鸞聖人がそう仰った
2.他の善知識方がそう仰った
3.どなたも仰っていないがそう読み解ける

いずれでしょうか?

No title

一 わればかりと思ひ、独覚心なること、あさましきことなり。信あらば仏の慈悲をうけとりまうすうへは、わればかりと思ふことはあるまじく候ふ。 触光柔軟の願(第三十三願)候ふときは、心もやはらぐべきことなり。されば縁覚は独覚のさとりなるがゆゑに、仏に成らざるなり。(蓮如上人御一代記)

33願は、信心を獲たら心がやわらぐことだという内容です。

多分意味わからないですよね。

No title

18願が「信心を獲させる願」が間違いだというのはすでにお分かりのようですので、次の

「33願」が「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」

というAbcさんの主張のおかしさを指摘しておきます。

33願
たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙りてその身に触れんもの、身心柔軟にして人・天に超過せん。もししからずは、正覚を取らじ。

33願の成就文
それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍して

これを読んだら「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」ではなりえず、むしろ
「信心を獲させる願」といった方がぴったり来ます。

名号と光明によって信心を獲られるということから、
名号-17願
光明-12願と33願
ですよね。

なぜ、33願が「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」になるのか、全く理解できないです。

No title

『九願文』にある親鸞聖人の33願の解釈のお言葉

この願は十方の衆生、弥陀の光にてらされて、身も心も萬の人、天にすぐれて仏にならむとおもふ心ありとなり

親鸞聖人は「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」だなんてどこにも仰っていませんよ。

親鸞聖人の『九願文』を読み解くと33願は

「信心を獲させる願」

となります。
違いますか?

Abcです

こんばんわ、今回もいろいろいわれていますね。

ひふみさん
>理解できないと思いますので、もし淳心房さんに親切心があるなら、何か言ってあげてください。

→「親切な淳心房さん」の意見を待ってみようと思います。

XYZさん
>論拠として挙げた出発点である
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここにて「33願」と「34願」が提示されているため、
 「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべき」には「33願」及び「34願」が関与していることが読める。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
から解釈が間違っています。

端的に示せば
・成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
ですから、「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべき」は11願となります。

→「「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべき」は11願となります」ということには異論がありません。ただ同時に、ここに「33,34願が記されている意味」についてお考えいただきたく思います。

やややさん
>『九願文』にある親鸞聖人の33願の解釈のお言葉
>この願は十方の衆生、弥陀の光にてらされて、身も心も萬の人、天にすぐれて仏にならむとおもふ心ありとなり
>親鸞聖人は「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」だなんてどこにも仰っていませんよ。
>親鸞聖人の『九願文』を読み解くと33願は「信心を獲させる願」となります。
>違いますか?

→この解説につきましては、件の文を抜きにしても「違う」と申す事ができます。
今示していただいた、「解説文」のうち、
 「十方の衆生、弥陀の光にてらされて、」とあるところから、
XYZさんが示していただきました、

>端的に示せば
>・成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
>ですから、「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべき」は11願となります。

から、「33願の解説として、11願と「まことの信行(本文中の「この信行によりて」)」から「17,18願」」となります。

ですから、やややさんのいわれている
>親鸞聖人の『九願文』を読み解くと33願は「信心を獲させる願」となります。

は、XYZさんの解説から「違う」といえます。

 また、イロハさんの
>一 わればかりと思ひ、独覚心なること、あさましきことなり。信あらば仏の慈悲をうけとりまうすうへは、わればかりと思ふことはあるまじく候ふ。 触光柔軟の願(第三十三願)候ふときは、心もやはらぐべきことなり。されば縁覚は独覚のさとりなるがゆゑに、仏に成らざるなり。(蓮如上人御一代記)

>33願は、信心を獲たら心がやわらぐことだという内容です。

から見ても、「33願は「信心を獲させる願」」とはなりえません。
イロハさんから提示された蓮如上人の言葉からは、「33願は、信心を獲たら心がやわらぐこと」とされております。

イロハさん
>阿弥陀経意=33願意
>というのは

>1.親鸞聖人がそう仰った
>2.他の善知識方がそう仰った
>3.どなたも仰っていないがそう読み解ける

>いずれでしょうか?

→これにつきましては、現時点でコメントを起こしますと余計に混乱を招きますので他の方々や淳心房さん、林遊さんの意見を吟味した上でのコメントとしたいと思います。

みなさま、コメントありがとうございます。
なもあみだ、なもあみだ
 Abc

No title

Abcさんは、基本的に読解力がかなり乏しいですね。
XYZさんが言われていることと私の言っていることは矛盾もしないし、基本的に同じことを言っています。
そのことも理解できないようで残念です。

結局のところ、
33願と成就文、そして親鸞聖人が『九願文』で解説された御文の内容は完全無視して、自己の頭の中にだけある理論が根拠だということでしょう。

全く会話が成り立っていない状態ですが、それで本当に布教されているとしたら、驚きです。

火星人とのやりとりを彷彿とさせます。

飛雲で最後にコメントした以下の言葉が全てを物語っています。


 同時に??さんが、『お聖教』の中でなおかつ的確にうらずけされているものしか「論拠として用いてはならない」と言われていることも判りました。

No title

Rcさんと淳心房さんとの議論の際、淳心房さんは、「まるで親鸞会の会員と話をしているようだ」と言われていましたが、Abcさんと他の方との議論も同じです。

親鸞聖人がこう仰っている、蓮如上人がこう仰っている

これに対して、自己の理屈で返す。

お聖教に忠実にとは口だけで、結局は我を通したいだけだと分からせてもらいました。

なんでお聖教に忠実になれないの?
高森会長の間違いは、お聖教を曲解して断章取義してきたからじゃなかったの?
その反省はないの?
頭を高森会長からすげ替えたら満足なの?

高森会長や阿部師の間違いを指摘しながら、壮大なブーメラン。

溜息しか出ない

No title

Abcさんのコメント
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、 :設我得仏十方衆生、 :十方衆生が
わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、わが願力に乗じて、 :信心を
もし生ぜずは、正覚を取らじ :獲なければ仏に成らじ」
にあたるかと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これが親鸞聖人の解釈である「ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり」と違っていることはわかられたようですから、少しは進歩したのではないですか?
一度に、他のみなさんレベルまでは到達できないでしょうから、生暖かい目で見てあげましょうよ。

Re: Abc様

うーむ、ここまで来ると、イロハさんやひふみさん、XYZさん方の仰ることに同意せざるを得ないですね。

あまりに自分の考えが混入してしまっています。自分の中でこう味わっているという分にはいいのかも知れませんが、教義との整合性を考えると論理の飛躍、不十分な説明が目立ちます。ここは、自説を撤回し、

http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-181.html
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-category-1.html

等をよく読まれて、何が問題点となっているのか理解することが大切かと思います。Abcさんは親鸞会在籍歴が1年ほどで、T社法論のことはよくご存知ないと伺えます。

以上、今の私からのアドバイスです。なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

No title

Abcさん


----------------------------------------------------------
→「「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべき」は11願となります」ということには異論がありません。ただ同時に、ここに「33,34願が記されている意味」についてお考えいただきたく思います。
----------------------------------------------------------

前回のコメントが少し不親切だったかもしれないので補足します。
なお、あの部分のみのコメントにとどめたのは、出発点の解釈が間違っていたら、その後は何を論じても砂上の楼閣ですから、無意味かと思った次第です。

 「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべき」が11願に該当するというは、「33願」及び「34願」はこの部分の引証として経文を引かれたのではないということです。

では、なぜ、「33願」及び「34願」は引かれたのかということですが、「真の仏弟子」に備わる徳を示されるためです。
その33願の意味を、イロハさんは『御一代記』で示され、やややさんは『33願文』と『33願成就文』、『九願文』で示されたということです。

ここまでの内容を理解いただけるでしょうか?

No title

Abcさん

さらに補足すると、
-----------------------------------------------------
 「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべき」には「33願」及び「34願」が関与していることが読める。
-----------------------------------------------------
という主張に対して、
・XYZは、「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべき」は11願に該当するかから、その主張は誤りであると述べた。
・イロハさんは、『御一代記』から33願の意味を説明されて、その主張は誤りであると述べた。
・やややさんは、『33願成就文』、『九願文』から33願の意味を説明されて、その主張は誤りであると述べた。

みな同じことをいっているというのはおわかりいただけますか?

No title

イロハさん
やややさん

私なりに、Abcさんに分かるようにと、上記コメントのように出来る限り簡潔に記してみましたが、何か不十分な点があれば補足をお願いします。

Abcです

深夜遅くにもうしわけございません、Abcです。

>さらに補足すると、
-----------------------------------------------------
 「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべき」には「33願」及び「34願」が関与していることが読める。
-----------------------------------------------------
という主張に対して、
・XYZは、「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべき」は11願に該当するから、その主張は誤りであると述べた。
・イロハさんは、『御一代記』から33願の意味を説明されて、その主張は誤りであると述べた。
・やややさんは、『33願成就文』、『九願文』から33願の意味を説明されて、その主張は誤りであると述べた。

みな同じことをいっているというのはおわかりいただけますか?

>『九願文』にある親鸞聖人の33願の解釈のお言葉
>この願は十方の衆生、弥陀の光にてらされて、身も心も萬の人、天にすぐれて仏にならむとおもふ心ありとなり

ここまで来て自説を通すのも疲れてきたので、いったんXYZさんの解釈を順を追って、尋ねたく思います。

 ただ、やややさんの
>33願の成就文
>それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍して

>これを読んだら「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」ではなりえず、むしろ
>「信心を獲させる願」といった方がぴったり来ます。

の部分がなぜ「信心を獲させる願」となるのかが不明であります。

私たちはいま、「11願」や「33願」などで、「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべき」が、どうかを議論していることと思います。

いま、示していただいた
-----------------------------------------------------
 「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべき」には「33願」及び「34願」が関与していることが読める。
-----------------------------------------------------
という主張は撤回いたします。

 撤回いたしますが、
>これを読んだら「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」ではなりえず、むしろ
>「信心を獲させる願」といった方がぴったり来ます。

についてご説明ください。

もともとの『飛雲』さんのサイトにて

 もっと言うと、18願は信心を獲させる願ではなく、信心を獲た人を浄土に生まれさせる願です。もし、18願が信心を獲させる願ならば、阿弥陀仏が成仏された時点で「十方衆生」は信心を獲ていることになりますが、そうではありません。なぜなら、信心を獲させる願ではなく信心を獲た人を浄土に生まれさせる願であるからです。

とあり成就文の
 「それ衆生ありて、この光に遇ふものは」とあることから、「この光に遇ふもの」という条件が記されております。

それとも、「18願は信心を獲た人を浄土に生まれさせる願であり、33願は信心を獲させる願」ということでしょうか。

 そのあたりも含めてよろしくお願いします。

Abc

No title

Abcさん以外の人は、以下の共通認識です。

1.親鸞聖人は18願を「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」と仰った。
2.親鸞聖人は18願を「信心を獲させる願」とは仰っていない。
3.名号と光明によって信心を獲ることができると善知識方は仰った。
4.名号は17願、光明は12願と33願に誓われている。
5.33願は、「光明によって心がやわらぐ」と信心についての内容と親鸞聖人は仰った。

6.以上のことよりまとめ
信心を獲させる願―17願(名号)、12願(光明)、33願(光明)
信心を獲た人を浄土に生まれさせる願―18願

疑問・反論がある上記の番号を教えてください。

No title

補足

光明名号の因縁といふことあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり。これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。


覚如上人が親鸞聖人の仰ったお言葉として著わされたもので、蓮如上人も引用されています。

ここに12願の光明によって信心を獲るとありますが、12願と33願は共通する部分があって、存覚上人はそのことを『六要鈔』で解説されています。
だから、33願は「信心を獲させる願」と言える訳です。

No title

更に補足で『六要鈔』

次に『大経』の二文は三十三・四の両願なり。第三十三は触光柔軟の願なり。問う、光明の功徳は第十二に在り。何ぞ重ねて願ずるや。
答う、彼の摂仏身は即ち光体たり。この摂衆生は即ち光用たり。体用異なるが故に、二願これ別なり。「蒙我」等とは、『平等覚経』『大阿弥陀』は共に「見我」という。蒙は冥応に約し、見は顕益に約す。但し見というといえども、心見に約すれば、同じく冥利に属す。この願は正しく如来の無瞋善根の利を顕わす。これ歓喜光所照の益なり。
問う、光明の所治は瞋恚に限るや。
答う、柔軟というに就きては。無瞋を蒙むるといえども、兼てまた無貪・無痴を摂すべし。知る所以は、成就の文に云わく「この光に遇う者は、三垢消滅し、身意柔軟にして歓喜踊躍す」と已上。柔軟歓喜は願意の顕なるに就きて無瞋の益を説く。三垢消滅はその消滅の広く貪痴に亘ることを顕わす。
問う。身と心とに於いて、柔軟の義を論ずること、差別は如何。
答う、『論註』の意に依るに、仏は三業を以て諸の衆生の虚誑の三業を治したもう。既に三業を治す、身心共に柔軟の益を得ること、その義分明なり。『論註』の下に云わく「衆生は身見を以ての故に三塗の身・卑賤の身・醜陋の身・八難の身・流転の身を受く。かくの如き等の衆生は、阿弥陀如来の相好光明の身を見たてまつれば、上のごときの種種の身業の繋縛、皆解脱することを得て、如来の家に入りて畢竟じて平等の身業を得」。また云わく「衆生は邪見を以ての故に、心に分別を生じて、もしは有、もしは無、もしは非、もしは是、もしは好、もしは醜、もしは善、もしは悪、もしは彼、もしは此、かくの如き等の種種の分別あり。分別を以ての故に長く三有に淪みて、種種の分別の苦・取捨の苦を受く。長く大夜に寝ねて、出期あることなし。この衆生、もし阿弥陀如来の平等の光照に遇い、もしは阿弥陀如来の平等の意業を聞く。これ等の衆生は、上のごときの種種の意業の繋縛、皆解脱することを得て、如来の家に入りて畢竟じて平等の意業を得」已上。二文は次の如く身心の益を明かす。
問う、今の解釈の中に柔軟の言なし、如何。
答う、柔軟の言は且く瞋に約すといえども、広く論ぜば貪痴の二惑を遮せず。今の解釈の中に、意業の益を解するに、柔軟といわず。ただ繋縛解脱の徳を明かす。ここに知りぬ、この義は即ちこれ柔軟なり。これに准じて知るべし。身業に明かす所の繁縛解脱は同じく柔軟たりということを。問う。如来の所治は三業に亘るとは、経文は何が故ぞ口業を挙げざるや。答う。唯これ文の略せるなり。義は必ずこれあり。口を以て身に摂す。即ち開合ならくのみ。或いは色心といい、或いは身意という。口はこれ身の摂なり。また色の摂なり。その益は普く三業に渉ることを信ずべし。故に『論』と『註』と同じく三業に亘りてその功徳を歎ず。『註』に荘厳口業の徳を釈して云わく「衆生は[キョウ02]慢を以ての故に、正法を誹謗し、賢聖を毀呰し、尊長を捐斥す。かくの如きの人は、抜舌・[イン01][ア01]の苦・言教不行の苦・無名聞の苦、かくの如き等の種種の諸苦を受くべし。衆生は、阿弥陀如来の至徳の名号、説法の音声を聞けば、上のごときの種種の口業の繋縛、皆解脱することを得て、如来の家に入りて畢竟じて平等の口業を得」已上。
問う。摂取の益を蒙ることは、十二と当願と何の願の益なるや。
答う。一仏の光明は更に隔つる所なし。両願の利益は強ちに違害せず。但し第十二は摂法身の故に仏の自利に約す。第三十三は摂衆生の故に仏の利他に約す。故に摂取の益は利他の辺に就きて且く当願に約るに、その義、便あり。この故に憬興は当願を名づけて「蒙光獲利」という。寂は「光明摂益の願」という。両師の立名、その意はここに在り。

Abcです

おはようございます、Abcです。

ギモンに思った箇所は、

>6.以上のことよりまとめ
>信心を獲させる願―17願(名号)、12願(光明)、33願(光明)
>信心を獲た人を浄土に生まれさせる願―18願

でしたが、その次の補足コメント

>ここに12願の光明によって信心を獲るとありますが、12願と33願は共通する部分があって、存覚上人はそのことを『六要鈔』で解説されています。
だから、33願は「信心を獲させる願」と言える訳です。

で、ひとまずのところは大丈夫です。

 ただ、今回のこの討論で「私の読解力のなさ」が改めて露呈いたしましたとともに、今後もこのようなことがあるかもしれませんので、その際は今回のようにご意見をお待ちしております。

 この度は、数々の御意見をたまわるとともに私の「読みの甘さ」を改めて知る有意義な討論でした。誠にありがとうございます。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

Abcさん

おはようございます。

>いま、示していただいた
-----------------------------------------------------
 「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべき」には「33願」及び「34願」が関与していることが読める。
-----------------------------------------------------
という主張は撤回いたします。

上記主張を撤回するということ、了解いたしました。

Abcさんの主張は多岐にわたっていますので、まず、ひふみさんが挙げられた1~6に疑問や反論があるかを述べていただくと、みなさんもAbcさんの認識を理解できると思います。

No title

Abcさん

誰にでも間違い勘違いはあります。
当然私にもあるでしょう。
間違いや知らないことを学びながら進歩していけば良いです。
切磋琢磨していきましょう。

No title

Abcさん

------------------------------------------------------------
その次の補足コメント

>ここに12願の光明によって信心を獲るとありますが、12願と33願は共通する部分があって、存覚上人はそのことを『六要鈔』で解説されています。
だから、33願は「信心を獲させる願」と言える訳です。

で、ひとまずのところは大丈夫です。
------------------------------------------------------------
についてです。

ひふみさんが挙げた六要鈔のお言葉の中から、上述の疑問点に特に関係のある箇所を挙げると、

・問う、光明の功徳は第十二に在り。何ぞ重ねて願ずるや。
答う、彼の摂仏身は即ち光体たり。この摂衆生は即ち光用たり。体用異なるが故に、二願これ別なり。「蒙我」等とは、『平等覚経』『大阿弥陀』は共に「見我」という。蒙は冥応に約し、見は顕益に約す。但し見というといえども、心見に約すれば、同じく冥利に属す。この願は正しく如来の無瞋善根の利を顕わす。これ歓喜光所照の益なり。

・問う。摂取の益を蒙ることは、十二と当願と何の願の益なるや。
答う。一仏の光明は更に隔つる所なし。両願の利益は強ちに違害せず。但し第十二は摂法身の故に仏の自利に約す。第三十三は摂衆生の故に仏の利他に約す。故に摂取の益は利他の辺に就きて且く当願に約るに、その義、便あり。この故に憬興は当願を名づけて「蒙光獲利」という。寂は「光明摂益の願」という。両師の立名、その意はここに在り。

になるかと思います。

前半の問答では、光明は12願に誓われているのに、33願を重ねて誓われた理由について、光明の「体」と光明の「用(はたらき)」の違いから説明されています。すなわち、12願は「設我得仏 光明有能限量 下至不照 百千億那由他 諸仏国者 不取正覚」という願文の上に明らかなように、法蔵菩薩ご自身が光明無量の仏になることが誓われているのに対して、33願は「設我得仏 十方無量不可思議 諸仏世界衆生之類 蒙我光明 触其身者 身心柔軟 超過人・天 若不爾者 不取正覚」という願文に見られるように、光明を蒙る衆生が受ける利益が誓われています。12願と33願は共に光明について誓われたものですが、そのような違いがあるということです。

そして、後半の問答では、12願と33願のいずれの願の益で、摂取の益を蒙るのかということが問題にされていますが、それについて「一仏の光明は更に隔つる所なし。両願の利益は強ちに違害せず。」と存師は仰っています。一仏の光明に隔てはないのだから、両願の利益は決して相違するものではないというご説明です。
このことと「12願の光明によって信心を獲る」ということを踏まえれば、33願は「信心を獲させる願」と言えるということになります。

コメント返信

イロハ様
ひふみ様
XYZ様

ご解説ありがとうございました。今仕事から帰ったところで、またコメント欄があれていたらと心配しておりましたが、ひとまず大丈夫なようで安心しました。
この度は私の疑問にも答えて頂く形になり、ありがとうございました。T社法論は随分昔に読むには読んだのですが、法論の内容や問題点以前に親鸞会の議論の仕方に憤りを感じてしまい、肝心の内容や問題点が頭に入っていなかったようです。親鸞会に愛想を尽かすきっかけになったことはよかったですが、今後折を見て掘り下げたいと思います。

Abcです

みなさまへ

この度は、私のギモンに答えて下さり誠にありがとうございました。

そのほかのものについて、私が学ばせていただいたことについても示しておきます。

>1.親鸞聖人は18願を「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」と仰った。

これは、学ばせていただきました
>信心を獲させる願―17願(名号)、12願(光明)、33願(光明)
>信心を獲た人を浄土に生まれさせる願―18願

から受けたまっておりますとともに、
>本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、「行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず」と仰せられたり。「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにをさめとられまゐらせたり」(同・意)と、たしかにあらはせり。(XYZさんのコメント)

も「本願の念仏を信楽するありさま」が18願で、33願は「名号の徳(名号のはたらき)」と学ばさせていただきました。


>2.親鸞聖人は18願を「信心を獲させる願」とは仰っていない。

これを認めると「十劫安心」となる、でしたね。

>3.名号と光明によって信心を獲ることができると善知識方は仰った。
>4.名号は17願、光明は12願と33願に誓われている。

この「信心を獲させる願―17願(名号)、12願(光明)、33願(光明)」からとともにいま XYZさんのコメントにて示された『六要鈔』の箇所も参考になりました。
(このコメントが示される前の『六要鈔』全文も参考にさせていただきました。

>5.33願は、「光明によって心がやわらぐ」と信心についての内容と親鸞聖人は仰った。

>一 わればかりと思ひ、独覚心なること、あさましきことなり。信あらば仏の慈悲をうけとりまうすうへは、わればかりと思ふことはあるまじく候ふ。 触光柔軟の願(第三十三願)候ふときは、心もやはらぐべきことなり。されば縁覚は独覚のさとりなるがゆゑに、仏に成らざるなり。(蓮如上人御一代記)

>33願は、信心を獲たら心がやわらぐことだという内容です。

とイロハさんが示していただいた箇所でございますね。誠にありがとうございます。

以上です。
この認識が違えていたならば(いや、仮に正しかったとしても)コメントいただけますと有り難いです。

コメントお待ちしております。
Abc

No title

Abcさんへ

多分単なるミスとは思いますが
>33願は「名号の徳(名号のはたらき)」と学ばさせていただきました。

は違います。33願は光明です。

他はその通りで良いのではないかと思います。

真宗学は違います奥が深いです。

Abcです

ひふみさん へ

>多分単なるミスとは思いますが
>>33願は「名号の徳(名号のはたらき)」と学ばさせていただきました。

>は違います。33願は光明です。

>他はその通りで良いのではないかと思います。

>真宗学は、奥が深いです。

これにて最終校正が整いました。
この度は、まことにまことにありがとうございました。

ひとりで「味わい」を延々と喋って高森さんや火星人と同じ道を歩み、親鸞に無礼を蒙ることを「違っている」と伝えて下さり、また認識の違いを改めて下さりありがとうございます。

また、よろしくお願いします。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

Abcさん

私のコメントは言葉足らずの点などがあったかと思いますが、お役に立てたようでよかったです。

私も共に学ばせていただくご縁となりました。

No title

Abcさん 立派ですよ。
間違いを間違いと認めることのなんと難しいことか。
それこそ3歳の子供でも知っているが、80歳の翁でもすることが難しいことです。
それに今回の問題は難しかったですよ。
若不生者は分かりますが、33願は頭に無かったですし、六要鈔が出てきたときには正直驚きました。
高森顕徹会ではこれが無かったですね。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

安養浄土の往生の正因は念仏を本とす

ども、林遊@なんまんだぶです。

Abcさん。

高田派は、御開山の真筆を40%ほど伝持してきた教団ですね。
その意味では東西両本願寺に対抗すべき位置にあったのですが、不毛な跡目争いをしていた為と、判りやすい信心を説いたご法義の大衆化という意味で蓮如さんの教化に負けたのでした。←勝ち負けという語に脊髄反射したツッコミは却下。

真慧上人の『顯正流義鈔』などを拝読すると、伝持されてきた御開山の書物を引用されていますし、「教行証」という表記は、行から信を開いたという御開山の思想の淵源が窺えて有難いです。
その意味では、御開山が法然聖人から享けられた教・行・証という三法門の立場ということが窺えます。なんといっても御開山面授の直弟子が学んだ浄土真宗の系統であって、御開山の顔も知らない曾孫の覚如上人の提唱した「信因称報説」に迎合する必要はないと思っていたりします。
ともあれ、あの強烈な個性を持った蓮如さんの教線に負けたのは、跡目争いに熱中して、当時の大衆の自意識を受け取れなかったからだと思ふ。一向一揆で権力側に味方したのも遠因かな。

林遊は、『顯正流義鈔』の解説で「念仏真慧」、「信心蓮如」というVS構造で、この文を見るのも面白いと記しましたが、本願寺派(Abcさんの表現では大谷)では、「信因称報説」に呪縛されて、なんまんだぶを称えると称名正因の異安心のように思われることへのカウンターとして「行中摂信」の大行論を展開すると、在野の門徒としてはドキドキ・ハラハラとして楽しめるのでした。
で、Abcへの非難に対して、なんで高田派が大谷の本典解釈に付き合わなければアカンのやという思いもあるのでした。本願寺派の教学体系は、微に入り細にわたってややこしい教学になっていますが、実践という意味では、愚直な門徒が、なんまんだぶと称え往生を期する想いには勝てないと思っていたりします。このことは、Abcさんの対論者が、なんまんだぶという語を記さなかったことからも、おわかりでしょう。
ともあれ、訳がわからなくても、阿弥陀如来は、なんまんだぶを称えたものを摂取するとの仰せですから、ほがらかになんまんだぶと称えさせて下さいましょうや。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re:林遊さん

こんばんわ、夜分遅くでございますのでこれを読まれているころはあけがたでしょうか? Abcです。

>Abcへの非難に対して、なんで高田派が大谷の本典解釈に付き合わなければアカンのやという思いもあるのでした。本願寺派の教学体系は、微に入り細にわたってややこしい教学になっています。

→それでも大谷が「祖師相承のおん法義」といわれる御法義もまた大谷が言われる「祖師のご遺訓」でありますから、学ばせていただいております。

ただそうしますと
「専修寺からのなんまんだぶを称えることの重要性」と
「本願寺からの信心が伴ってからの名号の重要性(信心正因 称名報恩)」という2つが
あることとなり、(現実問題としてございます)その結果危惧することとしましては
「二兎追うもの一兎も得ず」とならないだろうかということであります。


>実践という意味では、愚直な門徒が、なんまんだぶと称え往生を期する想いには勝てないと思っていたりします。このことは、Abcさんの対論者が、なんまんだぶという語を記さなかったことからも、おわかりでしょう。
ともあれ、訳がわからなくても、阿弥陀如来は、なんまんだぶを称えたものを摂取するとの仰せですから、ほがらかになんまんだぶと称えさせて下さいましょうや。

これが、「専修寺からのなんまんだぶを称えることの重要性」ではありますが、
「Abcの対論者」いわく、「信心を獲させる願―17願(名号)、12願(光明)、33願(光明)」と「17願」を含んでおりますから「信心を獲させる願」だといわれております。

ご意見ありがとうございます。
なもあみだ、なもあみだ
 Abc

※私は「親鸞(祖師聖人)の教え」として、「大谷」、「高田」、「横曽根(木辺)」、「出雲寺」の文献を調べておりますが、殊に「横曽根(木辺)」、「出雲寺」は保有末寺が少なくなおかつ「大谷」の末寺としての立ち位置もございますので、なかなか文献が出てまいりません。(他には最近まで「本願寺派」であった「浄興寺」についても調べております。

これも総て「宗派の垣根を越えて」というスローガンのもとにであります。

Abcです

とくよしみね さん

>Abcさん 立派ですよ。
>それに今回の問題は難しかったですよ。
>若不生者は分かりますが、33願は頭に無かったですし、六要鈔が出てきたときには正直驚きました。

一介の布教使としまして、親鸞や常盤井法主より賜っているのは
「世尊我一心 帰命尽十方無碍光如来 願生安楽国」ということであり、
「世尊(または阿弥陀様)は、私たちに対し一心に(ふたごころなく) 「帰命尽十方無碍光如来」と名号を称えさせていただき 安楽国を願生せよ と言われているのである」というご指導と、
 「帰命尽十方無碍光如来」という十字であります。

ましてや33願は「標挙の文」としては存在しませんので、「辺り」をつけるのが厳しかったというのもありますね。

ですが、私は『九願文』に示されているからは、と思い一連の流れとなっております。

とくよしみねさんも「このどうしようもないAbcの解釈」…は斜め読みで構いませんので、XYZさんやひふみさんの提示された文献をご参照ください。

コメントありがとうございます。
なもあみだ、なもあみだ

Abc

No title

失礼いたします。お世話様です。今回の件は私には難しい話でしたが、一件落着したようで安堵しました。一瞬アワワと焦りましたが、Abcさんが素直にアタマを下げられたので、なんとも徳のある方だと思いましたですよ。諸先輩方の応酬についていけませんでしたが、ゆっくり噛み締めたいと思います。皆さまお疲れ様でした。なもあみだぶ、なもあみだぶ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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