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人はいずれ死ぬ。ならば人生には意味がないのか? そもそも生まれてきたことに意味は無かったのか?(『進撃の巨人』調査兵団、エルヴィン・スミス団長の名言集より)

アニメ「進撃の巨人」Season 3 Part.2が現在TVで放映されています。先日は第53話「完全試合」でした。

アニメ『進撃の巨人』Season3 Part.2 第53話「完全試合」の海外の反応をまとめました!

こちらに内容がまとめられていますので見ていない方はご覧あれ。なお、「進撃の巨人」を全く知らない方は

『ピクシブ百科事典』進撃の巨人

等をご覧頂ければと思います。


このアニメではSeason 1の第一話から既に巨人の襲撃に遭って、主人公エレンのお母さんが目の前で巨人に喰われ、その後も実に多くの兵士や民間人が巨人との闘いで命を落としていきます。第53話「完全試合」でも、獣の巨人の巨大岩の投てきによって多くの兵士が死に、調査兵団は壊滅的打撃を受けています。諫山創さん(作者)は、よくこれだけ自分で生み出したキャラクターを次から次へと殺せるものだと思ってしまいます(笑)

いよいよ死ぬことが現実化を帯びてきた新兵は、むざむざ殺されて死んでいく未来を前に生きる意味、自分が今していることの意味を泣き泣き問いかけています。その時、恐怖に慄く兵士たちを扇動し、片道切符の特攻を決意させんとして放たれたエルヴィン団長のセリフがタイトルに示した言葉です。詳しくは

【進撃の巨人】ミケ&エルヴィンの名言集まとめ!

等をご覧下さい。当ブログでは生きる意味を問うている部分のみ略出とします。

それにしても、約75年前には、アニメで流れているような、いや、それどころではない過酷な現実がまさに展開していたわけです。第二次世界大戦ではこの世の地獄さながらに自国、他国問わず多くの兵士や民間人の命が失われていきました。片道分の燃料しか積まずに爆撃機で突っ込んでいった、若い兵士達の心情はいかばかりであったか。想像しかできませんが、第53話を見て考えさせられたことです。


この世界には巨人はいませんが、巨人はいなくても私達は死んでいきます。死を目の前に、いよいよもうダメだとなった時に、人というのは強烈に生きる意味、生きてきた意味、自分がしてきたことの意味を問わずにはいられない、そんな生物である気がします。あるいは、辛い現実がずっと続いて終わりが見えない時や、毎日同じことの繰り返しでやがて終わっていく人生だと感じた時などもそうでしょう。

しかも、死んでいくのは老いた人が先とは限りません。最近、悲惨な交通事故が続いていますが、池袋の事故にしろ、大津の事故にしろ、犠牲になったのはいくつにもならない小さな命です。若くても、いつ死がやってくるやら分かりません。人生80年、100年時代と言われる昨今ですが、実は自分が今まで死なずに命長らえさせてもらっていることの方が不思議なのです。

『武庫之荘 寺院 浄土真宗本願寺派 真光寺』生きる意味と死ぬ意味

には、梯實圓和上の言葉を通して生きることの意味と死ぬことの意味が問いかけられています。

死にがけに、別に死にがけでなくてもよいけれど、私は何をしにこの世に生まれてきたのか、いろいろと悲しいことやつらいことやら、時には忘れてしまいたいようないやな思い出もあった、そんな中で何のために生きてきたのか、そんなむなしい思いを抱いて、この世を終わっていくということは惨めです。これは誰のことでもない、自分自身が惨めなのです。なぜそんな生き方をしなければならないのか、なぜそんなに惨めな思いをしなければならないのか、そのとき生きることの意味と方向と、そしてさらに必ず来る死を心豊かに受け容れることができるか否かが問われます。

(中略)

まあ、そういうことで、死んだらいったいどうなるのだろうかと思いながら、ただ不安と、そしていらだたしさだけが残るということが、我われの現実ではないでしょうか。死ぬことがどんな意味をもっているか、それがわからないのです。こんなことを言ったら、「え、死ぬことに意味があるのですか」と言った人がありました。そうでしょうね、生きることにこそ意味があるけれども、死ぬことには意味がないと、大方の人は考えるはずです。その無意味な死をいやおうなく受け容れなければならないというのだから、これは無惨です。無意味な死を受け容れることができないで、追いつめられて追いこまれていきます。ああでもない、こうでもないと言っているうちに、ふと気がついてみたら「おまえの持ち時間、もう切れたよ、さようなら」と人生が終わっていこうとするのです。そんな死を前にして、しかもなお、これもありがたいご縁ですと、受け容れられるかどうか、このことが問題となってくるのです。つらいことや嫌なことはあったけれども、「私にとってこの一生、ありがたい人生でございました」と、自分の人生に合掌して終わっていければそれでいいのではないですか。金があろうとなかろうと、地位があろうとなかろうと、どんな人生であろうと、自分にとってかけがえのない人生なのだから、そのかけがえのない人生を、むなしい愚痴の中で終わってたまるかと、私は思います。


当記事では一部抜粋に止めますが、全文は上リンク先や、『お念仏申す人生を生きる』の本をご覧下さい。

もし、この記事をご覧になっている方の中で生きることの意味、死ぬことの意味について考えているという方がありましたら、別に私の言うことは信じなくても構いませんが、どうかうやむやにせずにきちんと向き合って頂きたいものです。向き合わずにうやむやに済ませ、どうにも止めることのできない時間の流れに押し流され、

「おまえの持ち時間、もう切れたよ、さようなら」

と人生が終わってしまうことの方が後悔が大きいのではないかと思います。


さて、浄土真宗では、生きることの意味も死ぬことの意味も分からず、無意味な生と死を繰り返して果てしなく迷いの世界を経巡って苦悩していくのが私達であるとし、そのような私達を善悪賢愚の隔てなく、浄土に迎え取って真の安らぎを与えようと誓われた阿弥陀仏の本願が説かれています。本願は、南無阿弥陀仏(必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい)という言葉となって私達に響き込んできます。こうした本願の仰せを、計らいをまじえずに、仰せのままに聞き受けた時、即時に阿弥陀仏の光明の中に摂取され、必ず浄土に往って仏に生まれるべき身と定まります。

本願の念仏は、これを頂いて称える者の身に速やかに往生成仏の因を満足させるはたらきがありますから、私達は「必ず救うぞ」と仰せの本願を疑い無く受け容れて、仰せの通りになんまんだぶ、なんまんだぶと称名させて頂くのが、まこと本願のおこころにかなった念仏の行者であるというのです。

こうした大いなる本願の慈悲に気付いた時、私達は生まれてきたことの意味だけでなく死んでいくことの意味をも知らされ、生きることも死ぬことも共に有難いことであると受け容れられる心の境地が開かれてゆくのではないかと思います。また、自分を生んで育ててくれた両親や、お世話になった様々な方々、自分の生きる糧として犠牲になった多くの生命に感謝、懺悔、報謝して生きてゆく人生へと転換させられてゆきます。

勿論これらのことは教えをよく身に受けてたしなんでいく中で徐々に知らされていくものであり、また一人一人感性が違いますから受け取り方も様々であろうと思います。ただ、死んでいく時に用事があるというような教えではなく、今生きている者に、生きることと死ぬことの意味をしっかりと確認し、生きることも死ぬことも共に有難いことであると安心して浄土へ向かって生きるべきことを教えたのが親鸞聖人であると知って頂きたいです。

私達はつい、いつまでも生きているように思っていますが、いつ命の持ち時間が切れるやら分かりません。ですから、この教えを聞くべき時は今です。この記事では極めて簡単に、教えの一部を述べたまでですが、

浄土真宗の法話案内

には、各地の法話情報が紹介されていますので、ご縁のある方、関心を持たれた方は、足を運んで聴聞して頂ければと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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Abcです

おはようございます、Abcです。

読ませていただきました、今回は「生きる意味と死ぬ意味」ですか、常々考えさせられる論題であります。

>それにしても、約75年前には、アニメで流れているような、いや、それどころではない過酷な現実がまさに展開していたわけです。第二次世界大戦ではこの世の地獄さながらに自国、他国問わず多くの兵士や民間人の命が失われていきました。片道分の燃料しか積まずに爆撃機で突っ込んでいった、若い兵士達の心情はいかばかりであったか。想像しかできませんが、第53話を見て考えさせられたことです。

→75年前(1944年)は軍縮規約や配給が滞るなどという問題があり、その当時の方々は、「配給のジャガイモ1つ手に入れるのにも苦労したものである」、「食用油を手に入れるために機械油を用いた」などなど、困窮した時代でありました。

 この困窮した歴史をもつ日本としまして「中東におられる難民の方々」は、「自分たちが通ってきた道であるからこそ、手助けを行いたい」となさられますが、現代の「物資が満たされた社会」に生きている人からしましたら、まことに冷酷ではありますが「中東の情勢」も「大東亜戦争にて起こった、軍縮規約および生活困窮」も「資料上の出来事」、「テレビの向こうの世界」としてしか受け取られておりません。

>死にがけに、別に死にがけでなくてもよいけれど、私は何をしにこの世に生まれてきたのか、いろいろと悲しいことやつらいことやら、時には忘れてしまいたいようないやな思い出もあった、そんな中で何のために生きてきたのか、そんなむなしい思いを抱いて、この世を終わっていくということは惨めです。これは誰のことでもない、自分自身が惨めなのです。なぜそんな生き方をしなければならないのか、なぜそんなに惨めな思いをしなければならないのか、そのとき生きることの意味と方向と、そしてさらに必ず来る死を心豊かに受け容れることができるか否かが問われます。 (梯實圓和上の言葉より)

→そのような解釈が出てくることは想像に難くありませんが、「これは誰のことでもない、自分自身が惨めなのです。」というのは、辛辣な言い方をしますと「自分自身のエゴ」であります。
 また、「そのとき生きることの意味と方向と、そしてさらに必ず来る死を心豊かに受け容れることができるか否かが問われます。」とありますが、「必ず来る死を心豊かに受け容れることができるか否か」ということではありますが、「私たち凡夫は煩悩にてできているので、「死を心豊かに受け容れることができない」となります」です。
 更に、これは「生きる意味について論ずることは有意義であるが、死ぬ意味について論ずることは無意味である」と「死」ということをないがしろにする所以でもあります。
 「生きる意味(生苦)からの仏道修行は、『聖道仏教(上座部仏教)』の基」であり、この「生きる意味(生苦)からの仏道修行」を行う殊勝な心がけの者がいるということに対して否定は行いません。実際そのような方たちが、延暦寺や清水寺に出家されているのですから、尊いことであります。

 一方、『浄土仏教(大乗仏教)』は、身も蓋もな言い方をしますと、「阿弥陀様にお任せする仏教」であります。私が過去に所属していました真言宗では、「数多くいらっしゃる仏さまの中」に「雲に乗られたおすがた」として、「阿弥陀様」がいらっしゃいました。このことは現在の高野山でもございます。
 また、真言宗の僧からは、時たま「阿弥陀仏以外の仏を軽んじているのか」といわれますが、「阿弥陀様にお任せすることは、あなたが言われているそのほかの仏様がお勧めになられていることなのです。」とお答えさせていただきました。

>人はいずれ死ぬ。ならば人生には意味がないのか? そもそも生まれてきたことに意味は無かったのか?(『進撃の巨人』調査兵団、エルヴィン・スミス団長の名言集より) (タイトルより)

→この言葉も大変考えさせられる言葉でありますが、私は欅坂46の『サイレントマジョリティー』のなかに、
「Yesでいいのか、サイレントマジョリティー」
「Noと言いなよ、サイレントマジョリティー」
 などなどありまして、この「サイレントマジョリティー」が,
私のところでは「大谷の意見」ひいては「真宗の総意」となっていることに警鐘を鳴らしたくおもいます。

(俗に染まりすぎである、という意見はいまは置いておきます。)

 Abc

Re: Abc様

ありがとうございます。

私などは戦後何十年も経って生まれた口ですので、当時の困窮ぶりや厳しさ、空襲による不安などは全く分かりません。祖父はもう少しで戦争に駆り出されるところであった、父は戦後間もない生まれで幼い頃栄養失調になった、など伝え聞いていますが、本当に過酷な中をよく生き抜いたものだと思います。

この記事は、「生きる意味とその方向性」について考える縁となるようにと思って書きました。私自身がこれに迷い、生きる意味は無いと絶望していましたので、同じようにこれについて考え、悩んでいる方に一つの答えを示したいと思っているのです。本願を信じ念仏を申して、摂取不捨の光益にあずかり、決定往生の身となることが、生死を超えてさとりに至る唯一の道であり、これこそ人間として生まれてきた意味であると、私は訴えていきたいです。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

追伸: Abc様

それにしてもAbcさんが欅坂46を出されたことはちと驚きでした(笑)
欅坂46の歌はメッセージ性があって好きですが、結局のところメンバーの皆さんは大人に歌を通して言わされているだけではありませんか、踊らされてはいませんかと、NGTの事件などを見て思ったりします。

俗を知り、皆さんの考えていることを共感してこそ、胸を打つ話ができると思いますよ。染まり具合で言ったら私の方がはるかに染まりまくっていますから(笑) しかし真実の信心は俗にあって俗を超えています。お互いに、如来の恩徳を感じつつ、お互いの方法でこの念仏の教えを皆さんに紹介していけたらいいですね。

生きていることに意味があるように、死んで往くことにも意味がある

ども、林遊@なんまんだぶです。

梯實圓和上は、深い仏教思想を持つと同時に、難解な仏教思想を判りやすく説いて下さいました。難しいことを易しく、易しいことを深く説いて下さる和上でした。

和上は、よく「死ぬ」ということを過去形、現在形、未来形という形で表現され、死ぬということを本質的に理解できないことが苦悩であるといわれてましたです。浄土教は、その死ぬということの意味を追求してきた仏教でもあったのでした。
http://wikidharma.org/5bf2b81e6eb8b

そもそも浄土真宗ということを全く知らない人に「浄土真宗ってどういう教えなんや?」と、問われて、生きていることに意味があるように、死んで往くことにも意味があるというのが浄土真宗という仏教です、と答えたら妙に納得してくれたものです。

ともあれ、「分別」という事について和上の考察をリンクしておきます。


>>
 普通、私達がものを考えるときには、物ごとを分けて考えます。私、あなた、彼というふうに、また生と死、愛と憎しみ、敵と味方、善と悪、過去と未来と現在というように、他の者と区別して物事を捉え、認識して行くわけです。いわゆる概念的思惟というものです。  ある事柄を表す言葉、すなわち概念というものをもって私達は考えております。ところで概念というものは、例えば遠いと近いという場合、ずーっと続いている事柄をどこかで勝手に分けてあそこは近い、あそこは遠いというように区分けするわけです。

 つまり「言葉」でもってものごとをを文節し、判断を行い、そして理解していく訳です。いわゆる概念的思惟といわれるものです。こういうふうに「言葉」でものを文節して、そして知る事を分別と仏教では顕わし  こういう「有愛」にせよ「非有愛」にせよ、いずれも正しく「いのち」を捉えていない迷いであると仏さまはおっしゃるのです。

 釈尊が、「生・死」を超え、「愛憎」を超えていくために、六年にわたる深い思索と厳しい修行を繰り返して、そして三十五歳の時におさとりを開かれたといわれていますが、それはこの生と死を同じように肯定できる精神の領域を開かれたことでした。

 生に執着して死を拒絶するというのでもない、死に執われて生を拒絶するというのでも無い。寧ろこの生と死を一望のもとに見通して、生きる事も素晴らしいが、死ぬ事だって素晴らしいのだといえるような、そんな領域に到達されたわけです。

 愛と憎しみを超えて、一人一人のすばらしい「いのち」の輝きを見る目を開かれたのでした。これがさとりの智慧というものでしょうね。

 生きることも素晴らしいが死ぬることだって素晴らしいのだ、決して生を拒絶して死を願望する事も無い。また生に執われて死を拒絶する事も無い。生と死をそのまま肯定して、しかも意味有らしめていくような精神の領域を開く、それをさとりというのです。

 それは生と死を分け隔てする分別を超えて、そして生と死を一望のもとに見通せるような、そうゆう領域を開いたわけですから、その智慧を無分別智と呼ぶ訳です。

 これが対人関係の場合は愛と憎しみを超えるということになりましょう。私達は誰かを愛し、また誰かを憎みながら生きています。それは愛と憎しみという分別の産物です。

 つまり分別というのは私の存在についていえば生と死、対人関係についていえば愛と憎しみ。倫理的な価値観についていえば善と悪、論理な判断でいえば肯定と否定、そして存在一般についていえば「有」と「無」ということになりましょう。取りあえず対人関係では「愛」と「憎しみ」という事ですね。皆さんにもやはり有るでしょう。

 好きな人ばかりが居る訳ではない、大体好きな人か十人おれば、嫌いな奴も大体それくらいはいるものです。バランスを取っている訳です。「あいつさえいなければいうことないのに」と思う人が一人や二人はいるものです。

 しかしその人がいなくなってヤレヤレと思ったら、ちゃんと替わりが出てくる、もっと程度の悪い奴が替わりに出てくるというようなものです。娑婆というのはそういうように出来ています。それでバランスを取っているのでしょうね。

 良いばかりの状態があるわけもないし、悪いばかりの状態が続くわけでもありません。大体バランスが取れているようです。

 ところで、このような「愛」と「憎しみ」というのは何故生まれてくるのかというと、自分の都合を中心にしてものを考えていくからでしょう。当然の事ですが「愛する者」というのは自分に都合の良い人です。その人が存在している事が私にとってプラスになる、その場合、その人は「好きな人」・「愛する人」という事でしょうね。いつまでも元気で生きていて下さいというのは大体そういう人に対して云うことです。

 反対は何かといえば自分に都合の悪い奴、あいつが生きているというのは胸糞が悪いという人が居りますね。早く死んでくれたら良いという、こういう人が何人かいるわけです。これは自分にとって都合の悪いものです。そうすると「愛」と「憎しみ」が生まれてくるその根源には自分にとって都合が善いか、都合が悪いか、という事でしょう。

 そうするとその根底にあるのは自分の都合を中心にしてものを考え、判断することで、それを仏教では「無明・愚痴」と名付けているのです。

 こうして私どもは、順境に対して貪欲・愛を起こし、逆境に対して憎しみ、つまり瞋恚を起こす。その根源に自分の都合を絶対のものと考える愚かさがある。それを愚癡と呼ぶ。それを貪欲・瞋恚・愚癡の三毒と呼ぶわけです。
 このような「愛」と「憎しみ」、その根底にある自己中心的な発想、それを突き破っていく。そしてこの「愛」と「憎しみ」を超えていく、これが仏道というものです。そこで悟りとは何かといえば、それは怨親平等の心であるといわれます。親鸞聖人の「和讃」の中に

平等心をうるときを
 一子地となづけたり
 一子地は仏性なり
 安養にいたりてさとるべし

 という言葉があります。『諸経和讃』です。これは『涅槃経』というお経にある言葉です。平等心とは怨親平等の心ということです。自分にとって都合の悪い奴も、自分にとって都合の善い者も全く同じ重さで見ていけるような心境ですね。

 私を大切にしてくれる者も、私を抹殺しようとする者に対しても同じ重さで、それを見る事が出来るような心境、これを平等心というのですね。いわゆる「怨」とは怨憎、「親」は親愛、その怨憎と親愛を平等に見ていく、そんな境地、それを悟りというのであって、その悟りの実現に向かっているのが浄土(安養界)に往生するということであるといわれるのです。

 ここでもやはり愛と憎しみという、真反対の立場にある事柄を突き抜け、それを超えていく、そしてその二つを超えて両者を平等に見ていくような心、それが悟りであるというのです。しかしこれはもはや分別の中からは出てきません。もっと根源的に、「有」と「無」とを超えて初めて実現することがらなのです。
>>
http://hongwan.net/5a626fe006562

御開山は、この意を龍樹菩薩の「空の思想」を依用して、

(2)
南天竺に比丘あらん
 龍樹菩薩となづくべし
 有無の邪見を破すべしと
 世尊はかねてときたまふ

と、云われていたのでした。
Abcさんが提起した触光柔軟の願(第三十三願)で紛糾したのですが、柔軟心とは要するに、拘らない心に拠る生き方であったのでしょう。これが安直に答えを求めようとする高森親鸞会の関係者には解らんのでした。知らんけど。

かって林遊の法友でもあった佐々 真利子女史は、藤原正遠師の「訳が判らなくてもお念仏しなさい」という言葉によって救われたのですが、なんまんだぶと称えて、なんまんだぶと聞える言葉が、如来、我にあって我を呼びたもう、阿弥陀如来なのでした。ありがたいこっちゃ。
http://hongwan.net/5ce961ff9df04

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

No title

>平等心とは怨親平等の心ということです。自分にとって都合の悪い奴も、自分にとって都合の善い者も全く同じ重さで見ていけるような心境ですね。

過去に親鸞会に所属していたことを原罪のように一生背負っていかなければならないとして、親鸞会関係者を都合の悪い奴と不当差別する教学自慢の在家者に、よく知ってもらいたいことです。

知らんけど

Re: 林遊@なんまんだぶ様

梯實圓和上の文章を紹介頂きありがとうございます。思えば10年前、退会した直後に、私を退会に導いてくれた先輩から勧められたのが「本願のこころ」でしたが、それ以来事あるごとに和上の文章に接しています。直接お会いしていた方が羨ましいと共に、御存命の時に会いに行かなかった/行けなかった自分が情けないです。


> 「訳が判らなくてもお念仏しなさい」

信心に迷っている方はこのお言葉を聞いて頂きたいです。別に私達は南無阿弥陀仏という意味が本当に分かってはいません。善知識のお導きによって「我にまかせよ、必ず救うぞ」というお心だと聞かせては頂きますが、私はそれをお心の通りに受け取らせて頂いたばかりです。我々が頭を働かせて「分かった」というのは実は誤解なのだと梯和上は仰せですがさもあらんと思います。

この生死の問題は私の力ではどうにもならんと自力を離れ、ひとえに本願力のなされるままに本願を仰ぎお念仏申すことこそ、我々が救われていく道であります。色々と先哲が言葉を尽くして教えて下さっているが、本当のところはサッパリ分からん、分からんが有難い、それが念仏でありますね。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

Re:淳心房さん

おはようございます、Abcです。

>それにしてもAbcさんが欅坂46を出されたことはちと驚きでした(笑)
欅坂46の歌はメッセージ性があって好きですが、結局のところメンバーの皆さんは大人に歌を通して言わされているだけではありませんか、踊らされてはいませんかと、NGTの事件などを見て思ったりします。 (淳心房さん)

→たしかに「大人に歌を通して言わされているだけではありませんか、踊らされてはいませんか」という部分は否めません。

 同じ「欅坂関係者」としましても、今言いました「踊らされている方(アイドルの方)」と「歌を通して伝えよとされている方(例の会見での代表の方)」という2つがございます。ですから、「欅坂46の歌はメッセージ性がある」といういい部分と、
「メンバーの皆さんは大人に歌を通して言わされているだけ」という短所があるということです。

>俗を知り、皆さんの考えていることを共感してこそ、胸を打つ話ができると思いますよ。

→アドバイスありがとうございます。私は、お話(法話、説法)「いったん門徒さんから、「ギモンの箇所」を集めてから、その紙(ギモンに思われていることを記された紙)を見て、答える」というスタンスをとっております。
 ただ、お互い人間なもので「文面の受け取り違い」などはやはりよくあります。私の解説方法はあまりに「俗に寄せすぎる」がために、専門家(他の布教使の方や、歴史書を紐解いている方)からいろいろ言われます。

 最近では、「三法門」と「四法門」についてまなばさせて頂きました。
私もまだまだ学ぶべきことがいろいろありますので、お互い切磋琢磨していきたいと思います。

 なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re: Re:Abc様

アイドルの皆さんは皆さんなりの考えで、また様々な状況や思いの中で、グループの中で毎日闘っているのでしょうね。願わくは、そんな皆さんにも弥陀大悲の本願が届くようにと、そう思います。

ちなみに華光会では、聖教量、現量、比量という言葉を用いて、宗教体験と、教えと、それを確かめ合う座談(信心の沙汰)の3つが上手く機能している状態を目指しているそうです。一部、すごい過激な人がいるので華光会の座談には疑問や否定的な意見がありますが・・・。少なくとも幻想的な楽を目指して組織拡大活動をしているよりはずっといい環境ではないかと思います。

仏教は対機説法ですからお相手の質問を通してその心を汲み取り、それに応じた話をして本願の念仏と信心をお伝えすることが理にかなっているでしょうね。本願寺の常例布教では話をするだけで終わりのスタイルなので、それでは皆さんに信心を徹底するのは難しいと思います。その点、疑問点を吸い上げて話をするというAbcさんのスタイルは良いことだと思います。

自信教人信難中転更難の聖語の如く、これは本当に難しいですね。我々の計らいで信を獲させるわけではありませんから。しかし仏恩報謝は先に目覚めた者のつとめですから、これからもお互いに色々と吸収して、大乗無上の法を有縁の方々に届けていきたいものです。本当に、無駄なものは一つも無いので、何事も本願をお伝えする縁に変えて、皆ともに浄土の旅とさせて頂きたいと思います。

なまんだぶつ、なまんだぶつ、なまんだぶつ・・・

Re:淳心房さん

何度もご返信ありがとうございます。

>本願寺の常例布教では話をするだけで終わりのスタイルなので、それでは皆さんに信心を徹底するのは難しいと思います。その点、疑問点を吸い上げて話をするというAbcさんのスタイルは良いことだと思います。

→ありがとうございます。この「ギモンに思われたことを紙に」というスタイルはお察しではあると思いますが、親鸞からの流れであります。
 親鸞は、よく同行からのギモンに
 「四月七日の御文、五月二十六日たしかにたしかにみ候ひぬ。」
 「この御文どものやう、くはしくみ候ふ。」
 「閏十月一日の御文、たしかにみ候ふ。」

などの書き始めより、一つ一つ(時には単語にまで焦点をおとされて)おこたえになられておいでです。

蓮如上人も、『信心正因』という観点はさしおき、この「お手紙」という手段を取られて、門徒に広められましたことは『御文』を見られると明らかかと思います。

「私の布教使としてのありさま」とは、「同行(門徒)とともにあるべき」と考えております。人によっては「きれいごとではないか」と一蹴されかねませんが、少なくとも私はいま示された「ひとつひとつギモンを拾って」というある意味「地道な道筋」ともおもわれる道をたどってこそと考えております。

「主に私が伝えさせていただくこと」は
 「自信教人信」(善導禅師より) 自ら信じ、人をして信ぜしむ(『三部経大意』より)

 「自然法爾」 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。 (『自然法爾の事』より)

 「帰命尽十方無碍光如来(南無阿弥陀仏)」 「帰命尽十方無碍光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。(『尊号真像銘文』より)

です。これらを細分化するかしないかはまた別の話ですが、大まかには今並べたことですね。お互い人間ですから、時にはぶつかりますが、その「ぶつかったこと」も「ありがたいご縁」として切磋琢磨したいものです。

なもあみだ、なもあみだ
 Abc

Re: Re:Abc様

仏教は対機説法なので、本来は授業や講演会のスタイルというよりは家庭教師や個人レッスンのスタイルとでも言いましょうか。とにかく一人一人に応じて相応しい教えを授けて下さったわけですね。

この時代にAbcさんのような思想の僧侶がおられるのは有難いことです。林遊さんは「たとえ一人でも、阿弥陀様のご法義を喜んでいる人がいるならば、坊主冥利だと思ひます」と仰っていますが、私もそう思います。私も、たとえ一人でも本願を信じ念仏を申して下さる方がいれば、書いた甲斐があったというものです。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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