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【考察】選択本願の行信について(12)

御消息「信行一念章」を取り上げて、梯實圓和上は次のように解説されています。

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   大行と大信

 さて「行文類」は「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり」と、これから明かす大行ばかりか、のちに巻を改めて明かす大信までも挙げられています。これは往生の因として与えられている行と信は、決して切り離すことができない一具の法であるからです。『親鸞聖人御消息』第七通には、行と信の関係を述べて、

行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。        (『註釈版聖典』七四九~七五〇頁)


といわれています。「行というのは、本願の名号をわずか一声称えただけでも往生できる(無上の功徳をもった名号である)ということを聞いて、仰せにしたがって一声、あるいは十声、さらには一生涯称えることを行というのです。この本願の仰せを聞いて少しも疑いをまじえないことを信の一念(二心をまじえない一心)というのです。このように信と行とは二つあるようですが、行を一声するだけでも往生ができるという本願を聞いて疑いをまじえないことを信というのですから、行を離れた信はないと、お聞かせにあずかっています。また(本願を疑いながら称えているような念仏は、方便の自力行であって、第十八願に誓われている本願他力の真実行ではありませんから)信を離れた行はないとお心得ください。(信も行も)みな阿弥陀仏が第十八願において選択して与えて下さった御誓いのたまものである(本願力回向の法である)と心得なさい」といわれるのです。

 こうして行は、所信(信じられる)の行法といわれるように、万人を救う普遍の法を表す言葉であり、信は念仏往生の本願に呼び覚まされて、念仏を私の救われる道であると疑いなく受けいれた状態を表しています。このように疑いなく行法を受けいれることによって、万人の道が私の道となるのですから、信心が肝要であるといわれるのです。

 このように信心の内容は、選択本願の行のほかにはありません。信は疑いの「ない」状態をあらわしているのですから、「ある」状態をいえば、行法が私のうえに「ある」といわねばなりません。いいかえれば、信心とは、行法が機のうえにある状態をいうのですから、はからいなく念仏しているすがたが本願を信じているすがたなのです。『親鸞聖人御消息』第六通に、

本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、「行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず」と仰せられたり。                                        (『註釈版聖典』七四七頁)


といわれたのは、そのゆえです。本願を信じているすがたが念仏しているすがたであり、はからいなく念仏していることを、本願を信じているというのです。

 このように、行は所信の法であり、信はそれを疑いなく受けいれている機のありさまをいいますから、信心のことを機という言葉で表される場合があります。もともと機という言葉は、阿弥陀仏が救いの目当て(対象)とされているものを表す言葉なのですが、そのような機のうえに起こっている「信心」のことを、また「機」という言葉で表される場合があります。親鸞聖人が「行文類」の一乗海釈のなかで、一乗といわれる本願の法(南無阿弥陀仏)を、法(教法)と機(信心)に分けて表し、念仏という法の徳をただちに讃嘆して「しかるに本願一乗海を案ずるに、円融満足極速無礙絶対不二の教なり」(『註釈版聖典』一九九頁)といい、続いてその法が私たちのうえに届いて、私たちを仏になるべきもの(正定聚の機)に転換していることをたたえて、「しかるに一乗海の機を案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり、知るべし」(『註釈版聖典』一九九頁)といわれています。このように信心を絶対不二の機と呼ぶことによって、念仏という絶対不二の教法が、信心という絶対不二の機を成立させ、煩悩具足の凡夫でしかない私たちが仏になることを知らせようとされたのでした。

 こうして親鸞聖人にとって行と信とは、一つの南無阿弥陀仏を法として表すか、機として表すかの違いであって、決して別物ではなかったことがわかります。そして、法(行)が機(信)となると明かすことによって、機(信)は法(行)の徳を内に保ってよく往生成仏の因となるという道理が明らかになり、「念仏成仏」という浄土真宗の法門理論を完成していかれたのでした。のちに蓮如上人は、親鸞聖人の行信論を機法論として受け継ぎ、機法一体の南無阿弥陀仏という教語をもって、真宗の信心の内容をつまびらかにしていかれます。

『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』p.166~p.170
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念仏と信心は、共に「弥陀の御ちかひ」の内容であり、切り離すことができない一具の法です。そもそも本願の念仏は、我が計らいによって一声でも多く称えて功徳を積んでいこうとか、往生をより確かなものにしようとする自力の行ではありません。一声一声が「我にまかせよ、必ず浄土に迎え取る」という力強い本願力に支えられ、本願の仰せを計らいなく受け容れて、その仰せに順って現れ出ている他力回向の行です。

信心と言っても、その対象は念仏という行法です。それゆえ、『往生礼讃』には

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。

と教えられ、名号を称することわずか十声、一声の者までも往生させるという念仏往生の本願を決定的に深く信ずることが真実の信心であると明かされています。こうした本願の念仏と組み合う『観経』の三心は、『大経』第十八願の至心・信楽・欲生我国の三信と同じ他力の三心です。


なお、如来の衆生救済の道理を如来の側から明かせば、本願の名号(南無阿弥陀仏)という如来の行(法)が来たって我々の心に信心が開け起こるのですから、『教行証文類』は行、信の次第で説かれています。ただ、行と信は本来一体であるものを敢えて二つに分けて詳細に釈されたものですから、至る所に行と信は不離であることが示されています。そして、信を行におさめて念仏往生と言われるのです。

これを衆生の側から明かせば、本願の名号のいわれを計らいなく聞き受けるところに信心が開け起こります。救済が成立する時は、念仏した時ではなく、念仏往生の本願を受け容れた信の一念の時と言わねばなりません。ここに、念仏往生の法義はそのまま信心正因の法義であるという道理が明かされます。

それから、信心を獲た上での称名は、救いを祈願して称えるものではありません。これは、すでに摂取不捨の利益にあずけしめたもうた如来広大の恩徳を報謝する行であるとして、明確には覚如上人以来、称名を報恩の義で示されてきたのです。


確かに信の一念に関しては、私が念仏するとかしないとかそのような我々の行為、所作は問題になりません。ただ「我にまかせよ」との如来の仰せを仰せのままに聞き受けるのみです。

この点に関してはその通りなのですが、だからといって「念仏を称えよではない」は行き過ぎでしょう。覚如上人も蓮如上人も、その他数多く現れた和上様方も、信心正因称名報恩で教えを説かれてはいても、このような、本願から念仏を抜いていると受け取れる発言はされていません。少なくとも私は聞いたことも読んだこともありません。勿論私の不勉強もあるでしょうから、どなたか

阿弥陀仏は念仏を称えよとは仰っていない
阿弥陀仏は「我にまかせよ」と仰っているのであって、「念仏を称えよ」ではない

等と示された御文、あるいはそう教えられた和上様方の文章や言葉がありましたらどうぞご教示下さい。なお、当然ですが成就文から念仏を抜いてしまった高森顕徹会長のような人物は論外です。
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本願成就文の一念義

ども、林遊@なんまんだぶです。

淳心房さんが引用されていた梯實圓和上の聖典セミナー『口伝鈔』にもあるように「信因称報説」は、覚如上人が盛んに論じられたのですが、この枠に納めてしまうと御開山の豊饒な念仏思想が解らなくおそれがあります。
件のAさんは、ある意味では本願成就門に立って法義を論じているから、

 ・阿弥陀仏は念仏を称えよとは仰っていない
 ・阿弥陀仏は「我にまかせよ」と仰っているのであって、「念仏を称えよ」ではない。

というのですが、これは、ある意味では高森顕徹氏と同根の一念義系の思想だったりします。
これは、本願成就文に立って一念の「信」を強調するあまりに、御開山が示された「ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり」という浄土真宗の「行」を、報恩行であると限定してしまったことからおこるのでした。
御開山の本願成就文の釈は、なんまんだぶという《法》を受け容れた、私の往生が決定(けつじょう)する《時》をあらわす釈であり、本願名号正定業という行を論ずる釈ではないのですが、これをぐちゃぐちゃにするから訳がわからなくなるのでした。
聖典セミナー『口伝鈔』では、

 それゆえ「本願の名号は正定の業なり」(『註釈版聖典』二〇三頁)といわれたのです。その本願の名号を疑いなく信受して、はからいなく称えているのが第十八願の称名ですから、そなわっている徳をいえば正定業にちがいありません。それを称名正定業とも、念仏往生ともいわれるのでした。このように念仏往生とは如来より回向されている本願の名号という法のもつ無上の徳を顕す法門であって、往生が決定する時を指定する法門ではありませんでした。親鸞聖人が「行文類」に、行一念の遍数釈(『同』一八七頁)を施し、称名は一声に無量の功徳を具足している最勝の行であり至極の易行であるから、万人を平等に救う一乗無上の行法であると、法の徳の絶対性を顕揚されたのはそのゆえでした。

 それに引き替え、「信文類」では信一念の時剋釈を施し、往生の定まる時刻を指定されていました。信心は、名号という法を疑いなく聞き受ける衆生 (機) の領受の心相を顕すのを主としていたからです。一切の衆生の往生を決定せしめる業因は、智慧と慈悲が円かに満ちた名号ですが、一人一人の往生が定まるのは、その名号を一人一人が疑いなく信受した時です。その機の往生の決定する時 (正因決定の時) を示すのが信の一念でした。このように念仏往生は、行法の徳の超絶性を顕す法門であり、信心正因は、法を受け容れている機の上で往生が定まる時がいつであるかを顕す法門だったのです。もし名号を受け容れて称えている人 (機受) の側から言えば、念仏は正因決定後の営みであって、お救いくださった仏徳を讃嘆し、仏恩を報謝するほかにはありません。そのように信と行とを機の上で前後して起るものとして語る場合に信心正因、称名報恩といわれるのです。
http://wikidharma.org/5c7b78e78711a

と、あるように

 信と行とを機の上で前後して起るものとして語る場合に「信心正因 称名報恩」

というのでした。
これは、なんまんだぶを往生の業因として受容した一念の後の称名をどのように位置づけるかという論理をいうのであって、一念義系の思想でよく用いられた論理でした。
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E8%A5%BF%E6%96%B9%E6%8C%87%E5%8D%97%E6%8A%84/%E4%B8%AD%E6%9C%AB#.E4.B8.89.E6.A9.9F.E5.88.86.E5.88.A5

御開山は、『一念多念証文』の「総結」で、

 浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし、これにてしらせたまふべし。   南無阿弥陀仏

とされておられますが、本願成就文の一念に固執するAさんは法座で称える営業用の南無阿弥陀仏以外のなんまんだぶを知らないのでしょうや、どうでもいいけど。

そのような意味では、七祖それぞれの教学を正確に学んで、御開山がそれをどのように領解し展開されたかということを学ばなければ『教行証文類』は理解できないですね。

ようするに、本願力回向のなんまんだぶを称えて浄土に往生し、仏陀のさとりを目指そうという実に簡単な本願力回向のご法義なのですが、越前の古参の門徒は難しいことは分りませんが、坊主の評論の論理に騙されずに、なんまんだぶを称える「行中摂信」の実践の行を修して往生成仏を期してきたものでした。

ともあれ、Aさんは、法然教学と、覚如・蓮如教学の違いを説明しようとしてぐちゃぐちゃになっている感もします。問いも悪いけど(笑
http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/53340819.html

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


Re: 林遊@なんまんだぶ様

>  信と行とを機の上で前後して起るものとして語る場合に「信心正因 称名報恩」

これですね。信を離れた行、行を離れた信は無いのですが、機の上では本願を領受して(信)、その上の称名は御恩報謝(行)というのでしょう。多念義の臨終業成説に、信心正因、平生業成説を訴えられたことや、多念を軽んずる者に称名相続を勧めるのに称名報恩説で教えを説かれたことなど、当時の時代背景や、人々の思想を考慮に入れないといけないと思います。

親鸞聖人の上では、本願の行としての念仏と、その本願を計らいをまじえずに受け容れる信心とを勧められています。ともに「如来の御ちかひ」であるからです。せめて林遊さんや越前の御門徒方のように常にお念仏申す方々に信心正因を説き示していくなら有りでしょうが、念仏誹謗、念仏軽視してきた親鸞会出身者には、正雑二行の沙汰をまずしなければいかんです。

かのご法座では、以前正雑二行の沙汰ができていないと思われる質問文がありましたので、先生の発言と合わせて懸念されるのでこうして念仏往生と信心正因、平生業成は別々ではないのだぞということを訴えています。先生の信心は、私は間違ってはいないと思っていますが、信心を重視し過ぎるあまりかの発言が飛び出したのかと思うと何とも言えない気持ちになります。

私に教えを説いて下さった恩のある先生ですので公に教義批判をするのはためらわれていましたが、「行文類」の六字釈を「念仏を称えよと仰っていない」の根拠としたのでこれは勘弁ならんと思い立ちました。先生や、先生を尊敬する方々には申し訳ないですが、この点に関しては言わせてもらいます。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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