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【考察】選択本願の行信について(13)

梯實圓和上はまた、このようにも解説されています。以下は、「信文類」

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主(天親)、建めに「我一心」(浄土論 二九)とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」(同 三三)とのたまへり。

の講讃部分です。

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 「信文類」のはじめに「この心すなはちこれ念仏往生の願より出でたり」(『註釈版聖典』二一一頁)といわれているように、真実信心は念仏往生の本願によって回向された心でした。その「念仏往生」について親鸞聖人は、『一念多念文意』に「浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし」(『註釈版聖典』六九四頁)といわれています。それは一念往生に固執して多念往生を否定したり、逆に多念往生に固執して一念往生を否定したりする一念多念の諍いを誡められた言葉でした。一念往生に限定するのでもなく、多念往生に限定するのでもなく、一念多念を超えて、一念多念を包摂している本願力回向の行信による往生を念仏往生といわれているのです。したがって、念仏往生の本願を疑いなく信受している真実信心は、同時に「念仏申さんと思い立つ心」でもあるのです。『歎異抄』第一条に、

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
                                              (『註釈版聖典』八三一頁)


といわれているとおりです。ですから、信心はかならず念仏となって実践されていきますから、「真実信心はかならず名号を具す」といわれたのです。また本願の念仏はかならず信心を具していますから、法然聖人は『選択集』に「念仏の行者かならず三心を具足す」(『註釈版聖典』七祖篇一二三一頁)といわれたのでした。いいかえれば、信を具していない行も、行を具していない信も、いずれも本願力回向の行信ではないということになります。

 もともと本願の信と行は、決して離れることのない在りようをしていました。そのことを『親鸞聖人御消息』第七章には、次のように説明されています。

信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。
                                        (『註釈版聖典』七四九~七五〇頁)


 信は念仏往生の本願を疑いなく領受している心相を表しており、行は領受したとおりに本願の名号を一声十声と口に称えていることをいいます。したがって、信と行と言葉の表す意味は違っていますが、本願が疑いなく心に領受され、領受した通りに口に称え顕されているのですから、両者は決して離れたものではありません。念仏往生の本願を聞きながら、念仏もうさんと思い立つ心の起こらない信心はありえません。また如来が回向された行ならば、疑いなく信受した行でなければなりませんから、信を離れた行は第十八願の行ではありません。こうして第十八願に誓われ、本願力によって回向された信と行は、本来離れることのできない救済法として私のうえに実現しているものだったのです。そのことを「行と信とは御ちかひを申すなり」といわれたのです。行を重視して信を軽視したり、信を重視するあまり行を軽視したりすることは、本願を取捨する不敬になります。そこで真実信心には名号を称念する行を具していて、決して行を離れた信ではないことを表して「真実の信心はかならず名号を具す」といい、如実の信心は行不離の信であることを明らかにされたのです。

 こうして信と行とは離れない関係にありますが、往生の正因が決定する時はいつかということになりますと、それは本願の名号という時間を超えた法が機のうえに実現した時ですから、信心のおこった時ということになります。すなわち信の一念(時剋の一念)が正因決定の時になります。称名は、その信心、名号が行者の口業に現れて相続しているすがたです。その行体からいえば、一声、一声、無上の功徳である名号正定業が相続しているありさまであり、その行相からいえば、私たちの口を通して本願招喚の勅命(名号)が響流している姿でした。そして、それを聞いて喜ぶ行者の思いからいえば、仏恩報謝の営みであったというべきでしょう。

 しかし、同じように称名していても、願力回向の信心を具していない称名があります。それは、念仏が如来より回向された行であることに気づかず、自分が称えて功徳を積み重ね、その功徳を回向して往生しようと祈願している自力念仏です。それは本願の名号が告げている真実のいわれ(名義)に背いて、自己の見解に基づいて行っていますから不如実修行と名づけ、方便化土にしか往生することのできない化土の業因であると誡められています。こうして自力の称念を誡め、願力回向の救いを疑いなく領解して行うようにと勧誡する意味をこめて、「名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」といわれたのです。


(『聖典セミナー 教行信証[信の巻]』p.254~p.258)
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『教行証文類』は往還二種の回向を顕されたものですが、それは第十二願、第十三願によって成就した真仏、真土を大悲の淵源とし、そこから第十七願を通して衆生に与えられる如来の救済法でした。南無阿弥陀仏を往生の正業、正因と選び定められたのは念仏往生の願(第十八願)ですが、阿弥陀仏はその法義を与えるために、十方諸仏に名号の功徳を讃嘆させ、証誠させるという巧妙な方法を取られています。阿弥陀仏の大悲は、第十七願によって十方世界に展開していくというので、特に第十七願を「大悲の願」()といわれます。

この「大悲の願」によって与えられた本願の名号によって、我々の疑い心は破られ、信心を成就され、念仏の行者たらしめれていきます。成就文に

諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念

等とある通りです。これが機受の極要を顕された真宗の至極であることは言うまでもありません。

ただしその成就された信心は、「この心すなはちこれ念仏往生の願より出でたり」と言われたように念仏と離れた信心ではありません。それを分かり易く表したのが「信行一念章」のお言葉と言えるでしょう。


このような「信行一念章」や、『末灯鈔』12通等に顕著に表れている、阿弥陀仏より選択回向された名号を信じ称えて浄土に往生する第十八願の法門を念仏往生と言います。この場合は、特に行と信に時間的な前後を分けません。念仏と信心は別々の二つのことではなく、同じ南無阿弥陀仏を心に領受し、口に称える選択本願の行信であるからです。

それに対して、「信と行とを機の上で前後して起るものとして語る場合に「信心正因 称名報恩」」と言われます。体は同じように阿弥陀仏一仏に向かって合掌礼拝し、口では同じように念仏一行を称えて往生を願ってはいても、本願を疑い、我が計らいの心をもって、念仏を私の功徳のように思って称えているようでは、化土にとどまり、報土往生はできません。念仏往生のつもりで、心は諸行往生のままだという者がけっこう多いのです。『歎異抄』の作者が嘆いていたのもこのことでした。

また、法然聖人在世当時から、生涯一声でも多く念仏を称え続け、その人が臨終の来迎を感得した時に初めて往生が定まるという多念義、臨終業成説を主張する者が法然門下にもあったようです。念仏は一念に限らず、生涯に亘ってその人を荘厳していく相続の行であることは間違いないのですが、この人達は一念を軽視して多念を重視し、臨終の来迎を待たずしては往生が定まることなどあり得ないといい、一念に往生が定まると主張する者と水火の如く諍っていました。

一方で、信は一念(一声)の念仏により往生は決定するという主張は正しいのですが、これはともするとその後の称名は往生には不要なのだから称えなくてもよいという考えに陥りがちです。更に誤解が進むと、阿弥陀仏はどんな悪もさわりとせずに救って下さるのだから、悪を恐れることなく、心のおもむくままにやりたいようにやればよいといった造悪無碍の異義に陥り、放逸無慚となっていきます。こういう考えの者が世間のひんしゅくを買い、聖道諸宗が浄土宗を非難し迫害する一因となったのは周知の通りです。

そこで、本願を疑いなく信受した信の一念が肝要であり、その時に摂取不捨の利益にあずかって正定聚の位に住せしめられ、臨終を待つことなく往生は定まる。その上の称名は往生を祈願するものでも、往生をより確かなものにしようとするものでもなく、はや往生を定めて下された御恩に報いる信後相続の行であるというので、覚如上人は信心正因称名報恩説、また平生業成説をもって教えを説かれたのでした。


私は、念仏往生の法義と、信心正因、平生業成は別々の法義とは捉えていません。むしろ、念仏往生の法義を正しく言い表した、念仏往生の真実義が信心正因、平生業成という法義であると思っています。念仏往生と平生業成と二つの教えがあるというのは、あくまで一つの説ですので、支持する方はそれはそれでいいでしょう。しかし、元である念仏往生の本願から念仏を抜いてしまうような発言は看過できません。

私達は、往生の行も信も、阿弥陀仏の清浄願心の回向成就したもうた大悲回向の行信であると聞き受けて、もっぱら念仏の一行につかえ、ただ本願の信心を崇めて往生一定と期することが、聖人のお心にかなうことであると思います。

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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No title

ども、林遊@なんまんだぶです。

淳心房さんは、「正雑二行の沙汰」ということを述べてらしましたが、信心に狂奔する方は「行」を軽視するのでしょう。行の無い仏教なんて何処にあるんじゃです。
もっとも高森親鸞会では、その仏教の行を、信を獲る過程として「有漏善」を修すように勧める(宿善の勧めや三願転入など)ので、会員は「大行」である〔なんまんだぶ〕を知らないのでしょう。
こういうところから、会員の方は「行信」という概念(物事に共通する特徴という意味)すら知らないのだと思われます。

淳心房さんは、以下の末灯鈔(12)の「有阿弥陀仏への御返事」をリンクされてましたが、

 尋ね仰せられ候ふ念仏の不審の事。念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E8%81%96%E4%BA%BA%E5%BE%A1%E6%B6%88%E6%81%AF#.E6.9C.AB.E7.81.AF.E9.88.94.2812.29

この文は、高森親鸞会の本願寺への非難である「念仏さえ称えておれば極楽へ往ける」という論難と同じ発想から出る非難に、御開山が答えられた御消息でした。信心に固執して名号を称えるということを知らない「信一念義」の輩の主張は、数百年経っても同じようです。

 弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

という「行中摂信」の本願力回向の〔なんまんだぶ〕の《大行》を知らないからの妄言でした。
善導大師は、何によって信を確立するかとして「就人立信」(人について信を立てる)と「就行立信」(行について信を立てる)と示して下さいましたが、この「就行立信」釈について法然聖人が廻心されたのは有名な話でした。
「法然聖人における回心の構造」
http://wikidharma.org/5899c9602b997

御開山は、この就行立信釈を展開されて、本願力回向の大行(なんまんだぶ)とされたのでした。
林遊のような愚鈍な門徒は「大経讃」の結論である、

念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして
 自然の浄土をえぞしらぬ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%92%8C%E8%AE%83#no71

を受容して、なんまんだぶを称えているばかりでしたです、ありがたいこっちゃ。
いわゆる、我々だけが真実を求道している、という高森親鸞会の大半の会員の選民思想とは全く違うご法義が、我が名を称えよという行に信を摂めた浄土真宗のご法義でした。賢い高森親鸞会の会員にはワカランやろなあ、どうでもいいけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

会員の脳内では、およそ行の優劣として

高森会長からの聴聞≧献金・勧誘活動、無条件服従≧おつとめ>世福>・・・>念仏

という形で位置付けられていると思われます。尤も最近は

・その身になるまで(信心獲得するまで)の念仏は、無意味かというとそうではない。「宿善」になる。大切な善い種蒔きになる。

と説いたり、アニメ映画の親鸞聖人のお弟子に

「念仏は尊いものだから、よく称えなさい」

などと言わせたりしているので、念仏の位置づけは変わっていると思います。ただし、高森会長からの直の聴聞に勝る行とまではいかないでしょう。


親鸞会は褒めて言えば「信一念義」に属しますね。しかしながら、雑行を勧めて専修念仏を説かず、信心はハッキリスッキリ体験、摩訶不思議な驚天動地の体験、絶対の幸福という幻想的な楽ですから、実態は「信一念義」とも違う邪義です。そんな教えで、聞いている者が真宗の信心など分かるはずもないでしょう。

会員の皆さんには、急ぎ邪義を捨てて、「我が名を称える者を極楽へ迎える」と大悲を込めて与えたもうなんまんだぶを称え、その声は「必ず助けるから安心してまかせなさい」と招喚したもう弥陀の勅命であると聞き受けて頂きたいものです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

一念義と多念義

ども、林遊@なんまんだぶです。

一念義、多念義ということは、法然聖人在世時代から水火のごとく諍(あらそ)ったといわれますが、その当時の実態はよくわからないそうです。
浄土真宗では「安心門」と「起行門」ということを言いますが、一念義は安心門に立ってご法義を語り、「多念義」は起行門に立って論じているのだと思ふ。
『浄土宗大辞典』は、鎮西浄土宗の教義を前面に打ち出しているのですが、江戸時代と違って浄土真宗に対しても書かれているし、仏教の通途の教義概念を学ぶには役立ちます。

「一念義」
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%80%E5%BF%B5%E7%BE%A9

「多念義」
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%A4%9A%E5%BF%B5%E7%BE%A9

なお、高森親鸞会では、本願成就文の一念をまるで目的(絶対の幸福等)のように捉えていますが、本願成就文の一念は「初発の義」といって信心が開け発った最初の時刻を表すのであっていわばスタートを示す語でした。
御開山は「時節の延促」という語を使われますが、一念とは、喩えばゴムチューブをのばして離した時に最初の一点に戻るように、相続する信心の初発を示す語なのでした。
高森親鸞会では、さとりと信を混同しているように見えるのも信心を目的化しているからだと強く思ふ。それは高森親鸞会では「起行門」で説くべきことを「安心門」で説き、安心門で説くべきことを起行門で説くから会員は頭の中がぐちゃぐちゃになっているのでしょう。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BF%A1%E3%81%AE%E4%B8%80%E5%BF%B5

浄土真宗の先達は、いろんな補助線としての名目(教義上の術語)を使ってご法義を説明しようとされてきたのですが、高森親鸞会では高森顕徹氏が真宗学についての教義概念について疎いため、信心を目的化して会員を妄想の絶対の幸福という信へ駆りたてていったのでしょう。それには「必堕無間」という恐怖心を煽り、信心をその対極としての「絶対の幸福」としたのでしょうね。恐怖心は人を駆り立てるモチベーションとしては最強ですから。あと、会員同士の閉じられた世界での同調圧力も、我こそはという選民思想として働いたのかもです(笑

ともあれ、高森親鸞会のヘンテコ教義に対抗する為には、淳心房さんのように本物の浄土真宗のご法義を説いていくのが正攻法だと思ひますです。
高森親鸞会の会員は、AなのかBなのかという二項対立でご法義を対論するのですが、これに引っ張られると、おかしくなる場合が多いので放置して置くのがベターでしょうね。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 一念義、多念義ということは、法然聖人在世時代から水火のごとく諍(あらそ)ったといわれますが、その当時の実態はよくわからないそうです。

⇒そうでしたか。様々な文献で取り上げられていますし、親鸞聖人が『一念多念文意』を著して一念多念に偏執することを誡めておられますから諍いがあったこと自体は間違いなさそうですが、確かに具体的に誰と誰がどんな論争をしたかというような記述は紹介されていませんね。


> 高森親鸞会では高森顕徹氏が真宗学についての教義概念について疎いため、信心を目的化して会員を妄想の絶対の幸福という信へ駆りたてていったのでしょう。それには「必堕無間」という恐怖心を煽り、信心をその対極としての「絶対の幸福」としたのでしょうね。恐怖心は人を駆り立てるモチベーションとしては最強ですから。あと、会員同士の閉じられた世界での同調圧力も、我こそはという選民思想として働いたのかもです(笑

⇒全く同感です。必堕無間の恐怖と、絶対の幸福への憧憬という、飴とムチの使い分けによってライバル宗教の組織拡大法を取り入れたのが親鸞会でした。しかし、ネット社会の到来によって自分の過去も、教義のルーツも全て知られてしまうような現代には、過去のような勧誘方法は通用しないのでした。残っているのは篤い高森信者と、情報弱者が大半でしょう。

これからもよく教義について学び、理解を深め、二種の回向と真実の教行信証を軸に浄土真宗のご法義を紹介していけたらと思います。まだまだ浅学なため、林遊さんには教えて頂きたいことばかりです。なお、記事の中で「こう書き改めた方がよい」という箇所がありましたらお示し頂けたら幸いです。

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プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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