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時代と共に変わる教え(6)ー虎の説法から鼠の説法、そして猫の説法へ

先月5月24日より、親鸞会の映画第二弾が公開されています。私はまだ観ていませんが、

『元会員から見た浄土真宗親鸞会』映画『歎異抄をひらく』を観て

にはいつもの元会員さんが映画の感想を書かれています。また、

『映画-Movie Walker』「歎異抄をひらく」の映画の感想・評価・レビュー(残念に思った人)

では親鸞会の映画だと見抜いた方の感想が書かれていますので、それぞれ参照して下さい。


それにしても気になったのは、いつもの元会員さんの記事の、

1つ意外だった点は、少年時代の唯円とその友人達に、親鸞聖人が本尊を渡されるシーンで、
聖人のお弟子が
「念仏は尊いものだから、よく称えなさい」
と、称名念仏を勧めていたことでした。


という点です。時代は変わったが、それと共に親鸞会の教えも変わったなと思いました。というのも

『親鸞会教義の誤り』宿善とは5
『用管窺天記』常に虎の説法

等にもありますが、かつて高森会長は大沼法竜師の著作を盗作してこのように書いていたからです。

    常に虎の説法

 信前の人に、称名念仏をはげみなさい、そうすれば早く助かると勧めなさるのは、二十願のすすめで浄土宗の教えである。即ち『浄土和讃』に、
  定散自力の称名は
  果遂のちかひに帰してこそ
  おしえざれども自然に
  真如の門に転入する。
と説かれているように、一声でも念仏称えた者は一度は晴れて満足の明信仏智の第十八願の世界まで転入させずにはおかぬというのが二十願で果遂の誓というのだが、この果遂について一生の果遂、二生の果遂等があり、自力念仏の人が此の世で他力に入るのは一生の果遂であり、次生で他力に入るのは二生の果遂である。このように無窮に果遂を味うことが出来るが一度は他力の信に入らねば報土の往生は絶対に出来ないのだ。
 然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
 勿論、機には未熟の者もあるから、いくら信心正因、称名報恩、信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧めても、直にその通りになれない人もあろうけれども、それは機の過失であって法門は常に信因称報の仏意を説き示さなければならない。
 喩えば、虎の手本をみて虎を描こうと思っても、どうしても最初の間は虎ではなく猫の絵になってしまうが、たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに本当の虎の絵がかけるようになるように、手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或は定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。
 或る画家が弟子に虎を描かす為に虎の手本を渡した。ところが弟子のかいたものは、どうみても虎ではなく、猫の絵であった。画家は再三描かせてみたが、やはり猫しか書けなかった。そこで師匠は虎をかゝせることをあきらめて猫の手本をわたした。その弟子は一生猫より描くことが出来なくなったという。
 未熟な人に合せて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて信心を得る方法には称名せよなどと教えればあたかも猫の手本を与えて虎をかく方法とするようなものである。故に教家は常に虎の説法をしなければならないのである。

(『顕正』p.122~p.127)


かつては信心正因称名報恩の元に「常に虎の説法をせよ」と第十八願の法門を教えていた昭和の高森会長ですが、親鸞会結成35周年(平成5年)辺りから突如として「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」等と言い出し、第十九願の法門を勧めるようになりました。そして、令和に入って高森会長はアニメの親鸞聖人のお弟子に

「念仏は尊いものだから、よく称えなさい」

と言わせています。親鸞聖人の生涯の思いが

あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかし

であるとするなら、ここでは親鸞聖人は信心決定のために念仏を勧めていたことが判ります。それもどうやら、話の前後から、阿弥陀仏が本願においてただ一つ選択し回向されている往生の正定業であるから勧められているというわけでもなく、かと言って信心決定の上の報謝の称名として勧められているわけでもなさそうです。映画では諸善万行(雑行)を勧められてはいないようですので、これは第二十願の勧めと言えるでしょう。


時代は昭和から平成へ、そして令和と変化しましたが、それに伴って高森会長の話も変化しました。どう変化したかと言えば、タイトルに示したように

虎の説法から鼠の説法、そして猫の説法へ

です。これは『親鸞会教義の誤り』に倣い、第十八願の法門を説くことを「虎の説法」、第十九願の法門を説くことを「鼠の説法」、第二十願の法門を説くことを「猫の説法」と名づけたものです。こんな一世紀と経たない内にコロコロ変わってしまう教えが、三世十方を貫く教えなわけがないでしょう。

ちなみに先ほどは第二十願の勧めと言いましたが、これは「与えて言えば」の話です。映画には「絶対の幸福」という幻想的な楽、現世利益が強調されていたそうですから、「奪って言えば」本願と無関係な高森教の勧めです。浄土往生を付け足して浄土真宗に見せかけているだけで、実態は浄土真宗とはかけ離れた邪偽の宗教の勧めに過ぎません。

親鸞会と無関係な一般の方には、この映画は親鸞会へ導入するだけの映画に過ぎないことを注意して頂くと共に、会員の皆さんは、せっかく高額な財施をしても真宗の肝要も歎異抄の真意も何も無い映画を造っただけの親鸞会、高森会長に見切りをつける機縁として頂きたいと思います。
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肝心要の…

久々のコメントになります。

映画《歎異抄をひらく》のレビューを載せてるブログ様を拝読しましたが…
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/blog-entry-206.html

肝心要の《第2章》には全く触れられてなかった事が意外でした。

流石の高森さんも、「タダもいらぬタダじゃった」とか、
「知り過ぎた知らん」とか、ハズカシクなったのでしょうか…?

Re: まあち様

お久しぶりです。こちらもたまにブログ拝見してますよ♪ 逆さに読んでニヤリとしています(笑)

歎異抄第二条はアニメの第六部で既に描いていますから、枠の関係もあってカットしたのかなと個人的には思っています。第六条が無いらしいのも同様の理由かなと。まあちさんのご意見もあるいはそうかも分かりません。

第八条には触れていないようですから非行非善の念仏も説かれていないでしょうし、第十条にも触れていないようですから義なきを義とすの意義も説かれていないのでしょう。ひらいている自身がその書物のことも、親鸞聖人の教えもよく分かっていないのですから、滑稽な内容にしかならないのは当然です。親鸞会の教義を知ることはできても浄土真宗の念仏と信心については残念ながら知ることはできない、結局はそのような映画なのでした。会員の皆様には早く気付いてもらいたいばかりです。

明信仏智

ども、林遊@なんまんだぶです。

虎と猫と鼠の語で、高森親鸞会が配布していた本願寺非難のチラシを思い出した。

今まで親鸞聖人の教えをネジ曲げて大衆をだまし、仏法を喰い物にして来た人達は、本当の親鸞聖人の教えが大衆に知れ亘ることを極度に怖れます。
それは丁度牛肉だと喰わされていた大衆がネズミの肉であったことを知ればどんなにか憤激し離反することは必至だからです。
http://hongwan.net/5cf5209d151bd

真実を求め開顕している僕/私ってかっこいい、と妄想して活動していたのだろうが、あの頃の過激な高森親鸞会の会員は何処へいったのだろう。
英国のチャーチルの語として取り上げられるネット伝説風に言えば、
若い時に真実を求めない者は、情熱が足りない。人生の半ばを過ぎても自己の真実を妄想する者は知能が足りない、なのかもなあ。

梯實圓和上は、『親鸞聖人の教え問答集』で、

Q.わかっていると思っていたことがわからなくなってきて、頭の中が混乱してきました。少しずつ整理していきたいと思います。とにかく自力・他力という言葉には常識的な部分と常識を超えた部分とがあるようですね。

A.その通りです。たとえば自力・他力を「自分の力」と「他人の力」というような対句とみるのは常識的な見方です。そして自力とは自分の力をたのみとして修行し、さとりに向かって向上することを勧める教えであるというのは正しいわけです。これは常識的な教えですからね。
しかしその反対に「他力とは他人の力」ということで、他人の力をあてにして、自分は何もしないことであると他力を常識的に理解するのは間違いです。

それというのも浄土教というのは、元来大人の宗教なんです。いい歳をして悪いことだと知りながら、性懲りもなく愛憎や憎悪の煩悩を起こし、人を妬んだりそねんだりして、自分で悩み苦しんでいる。そんな自分の愚かさと惨めさに気づきながら、その悪循環を断ち切れない自分に絶望したところから、浄土教は始るのです。その意味で浄土の教えは決して「きれいごと」の宗教ではありません。
そうした自分のぶざまな愚かさを見すえながら、そんな自分に希望と安らぎを与えてくれる阿弥陀如来の本願のはたらきを「他力」と仰いでいるのです。だから他力とは、私を人間の常識を超えた精神の領域へと開眼させ、導く阿弥陀仏の本願力を讃える言葉だったのです。
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2011/08/12/%E5%A4%A7%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99/

と仰っていたものである。
なお、

>ちなみに先ほどは第二十願の勧めと言いましたが、これは「与えて言えば」の話です。映画には「絶対の幸福」という幻想的な楽、現世利益が強調されていたそうですから、「奪って言えば」本願と無関係な高森教の勧めです。

の「与えて言えば」と「奪って言えば」は仏教では「与奪」というのですが、淳心房さんは判ってらっしゃるのだけど、高森親鸞会の会員の方は基礎的な仏教用語や名目を知らないために、阿呆みたいな高森顕徹氏の「言葉」を忖度し(深い御心(笑 )に迷うのでしょうね。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%8E%E5%A5%AA

蓮如さんは、このような知識に迷うなとして、

 そもそも予がまえへゝきたりて、見参対面をとげたりといふとも、さればわれらがちからにて後生をたすくべきむねなし。信心をとりて弥陀如来をたのみたてまつらんひとならでは、後生はたすかるべからず。
わがまへゝきたらんずるよりは、山野の墓原へゆきて五輪卒塔婆をおがみたらんずるは、まことにもてその利益もあるべし。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BE%80%E7%94%9F%E3%81%AE%E5%96%84%E7%9F%A5%E8%AD%98

と、私に就くのではない、阿弥陀仏のおまかせするのだよ、と懇ろにお示しでした。
高森顕徹氏は、

一声でも念仏称えた者は一度は晴れて満足の明信仏智の第十八願の世界まで転入させずにはおかぬというのが二十願で果遂の誓というのだが、この果遂について一生の果遂、二生の果遂等があり、自力念仏の人が此の世で他力に入るのは一生の果遂であり、次生で他力に入るのは二生の果遂である。このように無窮に果遂を味うことが出来るが一度は他力の信に入らねば報土の往生は絶対に出来ないのだ。

というのですが、たぶん「果遂」という言葉の意味も判らずに使っているのでしょう。パクリだから仕方がないのか(笑
ただ、昔の親鸞会では「明信仏智」ということを喧しく云っていましたが、これ何処へいったんだろ(笑


なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ



Re: 林遊@なんまんだぶ様

過激な会員の多くは、時代の変化や高森会長及び自身の加齢・衰えと共にあるいは疲弊し、あるいは消極化し、あるいは邪義に気付いて、熱烈な布教活動をしなくなったのではないかと思います。あと、今になって昔みたいなことをやったら、誰でもがスマホを持ち、情報が瞬時に世界中に拡散してしまう時代なので非常にまずいでしょうね。

梯和上の「浄土教は大人の宗教」という解説は大変重い言葉だと感じます。打倒本願寺が目的で、真宗を私利私欲を満たす手段として利用している者は勿論、悪人を救うということを隠れ蓑に自己の罪悪を正当化している者は本当の意味で浄土教、分けても浄土真宗が分かっていないと言えるでしょう。私も注意しなければならないと感じつつ、内奥から激しく湧き上がってくる煩悩に押し流されて懺悔せざるを得ません。と同時にようこんな者を助けようと思い立たれたなと大悲の深さに驚くばかりです。

「与奪」ということに関して教えて頂きありがとうございます。「百歩譲っても」「本当のところは」等と書くべきだったかも知れません。法語に関して間違った意味に用いてしまうことが恥ずかしいことにあると思います。その際は指摘して頂ければと思います。

高森会長は大沼師や伊藤師の本は根本聖典として仰いで熟読しているのですが、利用することしか考えていなかったため、その意味を一々調べるようなことはしていないと思われます。「明信仏智」と言ってハッキリスッキリ信心を訴えていたのも、大経の智慧段を前後を含めてしっかり読めばそんな意味ではないと難なく破られてしまうので今は引っ込めたのかもです。

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%8F%E8%AA%AC_%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C_(%E5%B7%BB%E4%B8%8B)#.E8.83.8E.E7.94.9F.E3.83.BB.E5.8C.96.E7.94.9F

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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