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「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という説の根拠は?

高森顕徹会長が主張している/いた「一切衆生必堕無間」の根拠は、辛うじて1箇所あります。

そもそも、開山聖人(親鸞)の御一流には、それ信心といふことをもつて先とせられたり。その信心といふはなにの用ぞといふに、無善造悪のわれらがやうなるあさましき凡夫が、たやすく弥陀の浄土へまゐりなんずるための出立なり。この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。

とある『御文章2帖目2通』のお言葉がそれです。ただし、以前から随所に指摘されているように、これは他の「一切衆生必堕無間」を否定する膨大な根拠を全て無視しての暴論であり、断章取義です。


一方、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という説の根拠は?

私はただの1箇所も発見できていません。尤も、これを覆す、これと真反対な根拠なら沢山見つかりますが。


ちなみに、これを主張している先生が示している「行文類」親鸞聖人の六字釈は、根拠にはなりません。そのような内容はどこにも書かれていないし、第一、そんなことを顕そうとして南無阿弥陀仏の六字を釈されたのではないからです。これは、よほどの思い込みと、こじつけ解釈をしなければ、到底出てきようの無い説です。人には『教行信証』は読めないと言いながら、読めていないのはどちらでしょうか。


平生業成の立場なのか何なのか知りませんが、その立場であろう覚師や蓮師の上にも彼の主張は見られません。経、論、釈のいずれにも、また宗祖、覚師、蓮師の上にも無い、それどころか、祖師方の説と真反対の説を唱えておきながら、批判されると正法誹謗だと言う。「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」が正法だというのならば、根拠の一つや二つ提示頂きたいものです。根拠が示せないようなら、どのように理由をつけても、それは仏説、師説に反する「珍らしき法」です。
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阿弥陀経の文意

ども、林遊@なんまんだぶです。

浄土真宗の坊さんなら『阿弥陀経』は何百回も読誦してきていると思ふのだが、わけがワカランままに読んでいたのだろうか。

と、いうわけで、淳心房さん支援のために取り急ぎ『一念多念文意講讃』より、『阿弥陀経』の文意をUPしておきます。第十七願はどういう意義なのかということの参照になると思ふ。また、リンクや脚注は暇があったらやっておきます。
法然聖人は、

 まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。
一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。
http://wikidharma.org/5d04966ea85b3

と、随自意と随他意について述べておられましたが、御開山は、これを承けておられるのでした。
ともあれ、浄土真宗の「大綱」という大枠を忘れると、枝葉末節の論理や語に嵌ってしまうのかもですね。御開山の思想は小さな枠でくくられるような思想ではなかったのでした。

「阿弥陀経の文意」
http://wikidharma.org/5d04963896378

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

UPありがとうございます。残念ながら梯實圓和上の『一念多念文意講讃』や『方便化身土文類講讃』は現在入手困難でして、大変参考になります。これから読ませて頂きます。


> 浄土真宗の「大綱」という大枠を忘れると、枝葉末節の論理や語に嵌ってしまうのかも

→はい。誠にその通りと感じます。個人的なことですが、退会後しばらくは、本願力回向と今の救いを説かれるかどうかが真実の教えかどうかの判定基準としていました。現在は、「真実の教行信証」を説いて選択本願の行信を勧めているかどうかということも判定基準に加えています。「大綱」、非常に大事です。

行としてのなんまんだぶを否定するような説はいけません。信因称報説で教えを説くのはけっこうですが、念仏という行法は諸善と違って捨て去るべきものではないのですから、念仏と信心を並べて片方を取って片方を捨てるような説は浄土真宗の教えに反するでしょう。「行と信とは御ちかひを申すなり」の法語の通りに受け容れるべきと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

「真の仏弟子」

ども、林遊@なんまんだぶです。

>行としてのなんまんだぶを否定するような説はいけません。信因称報説で教えを説くのはけっこうですが、念仏という行法は諸善と違って捨て去るべきものではないのですから、念仏と信心を並べて片方を取って片方を捨てるような説は浄土真宗の教えに反するでしょう。「行と信とは御ちかひを申すなり」の法語の通りに受け容れるべきと思います。

UPした文章の末尾には、

 こうして「一日乃至七日」の念仏は、弥陀の本願にかない、釈尊出世の本懐にかない、諸仏の証誠にかなった真実の行業であって、真の仏弟子としては決してゆるがせにできないことであるといって、多念の念仏がひがごとでないことを明らかにされたのである。

と、あるようにいかなる形でも凡愚の口先に称えられている〔なんまんだぶ〕を否定するような坊主の見解は「真の仏弟子」としては見過ごせないことですね。
「真仏弟子」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BB%8F%E5%BC%9F%E5%AD%90

林遊は、在野の一門徒ですが、何の間違いか、深川倫雄和上や梯實圓和上や稲城選恵和上にお育てをうけましたが、どの和上も南無阿弥陀仏(なんまんだぶ)を「誓願一仏乗」の教法として示して下さったものでした。ありがたいことです。
反面で、何で真宗坊主は世俗まみれの法話ではなく、まともに本願力回向のご法義をキッチリと説かないのだろうとブチ切れて坊主を悪口をいってたりします。もちろん林遊自身は他者に法を説くような器ではないのですが「慶所聞 嘆所獲」で、ネット上に聞いて慶んだ文章をUPして自分の学びの場として遊んでいます(笑

そんなこんなで、心のゆるみをもって,ハラハラドキドキとしてご法義を語るのも、蓮如さんの仰った談合かもです。
「談合」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%93%AE%E5%A6%82%E4%B8%8A%E4%BA%BA%E5%BE%A1%E4%B8%80%E4%BB%A3%E8%A8%98%E8%81%9E%E6%9B%B8#no49

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

淳心房さん、林遊さん、Abcさんいつも詳しい解説ありがとうございます。A師の発言の正法誹謗というのにはビックリしました。稲城選恵和上のお弟子さんということは、A師のような解釈は他にも少なからずいるということでしょうか?ずいぶん極端に感じました。この問題は、人間関係もあるので、あまり口出ししたくなかったのですが、そうも言ってられないぐらい、あの発言にはちょっと納得いかないですね。

Re: 林遊@なんまんだぶ様

どうもかの先生は、私が言っている念仏とは

私が私の機根に合わせて選び取って私がなしている行であり、如来の願力は、念仏したことを評価して臨終に来迎し浄土に迎え取ることであると考えている限り、念仏しているけれども確実に来迎に預かれるかどうかに一抹の不安が必ず出てくる。行動の主体が私であり如来はその可否を評価する者であるからである。(第十七講 二 信心正定業より)

というような自力の念仏のことだと思い込んでいる節があります。私は、念仏は

私のような愚かな者のために如来がかねてから選び定められていた道

であるというつもりで発言し、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」と主張したのですが、そもそも行に念仏という概念を持たない先生には理解できなかったのかも知れません。


この私ですら、うーんと思ってしまう話をする方がありますから、林遊さんなら尚更でしょうね・・・。私はよほどの間違いではない限り指摘するつもりはありませんでしたし今後もありません。今回のことでも、親鸞聖人のお言葉に向き合って認めて下さればこうして書くつもりもありませんでした。しかし、御承知のように『教行信証』や都合のいい文章以外認めないといった態度です。あんた、どなたの教えを説き、どなたの教えによって生かされているんだと言いたいです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

Re: チュウビ様

> A師の発言の正法誹謗というのにはビックリしました。稲城選恵和上のお弟子さんということは、A師のような解釈は他にも少なからずいるということでしょうか?

→同感です。他人の教えを批判する以上批判を受けることは免れませんが、俺がいつ正法を謗ったよ?という思いです。逆に「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という説が正法なの?とも思いました。なら経・論・釈の根拠を示せと。

親鸞会とは違って一律的ではなく、派によっても違えば同じ派でも個人の間で理解や見解は随分異なると思います。A先生はハッキリ物事を言うタイプなのであのようにハッキリ仰っていますが、口や文章には出さないまでも真宗の中にはA先生のような考えをお持ちの方もいらっしゃると思います。信因称報説を突き詰めていくと「救いに念仏は要らん」という考えになるからです。

しかし、「信心の内容は称名正定業という事柄」であって、本願の念仏はこれを頂いてわずか一声の者をも必ず往生成仏させる正定業であると決定的に深く信ずることを法の深信といい、これを真実の信心というのですから、念仏と離れたものではないことはご存知の通りです。

念仏は私の上に現れているものですが、決して私の行いではなく、本願力が私に届いて躍動しているすがたでした。その本源を辿れば、阿弥陀仏が第十七願において諸仏に名号を讃嘆させて十方世界にあまねく聞かせ、第十八願に「乃至十念(我が名を称えよ)」と称名を往生の行として誓われていることにあったのです。それが寸分の狂いなくはたらいて、本願を信じ念仏する者は必ず浄土往生する本願が成就したことを示しているのが本願成就文です。林遊さんが仰っているように、本願があっての本願成就文です。


私は人間関係を捨てて諍ってでもこのことを明らかにしようとしていますが、チュウビさんまで巻き込むつもりはありません。親鸞会を退会した時からの私の癖でしてね、間違っていることは間違っているとハッキリ言ってしまうタイプの人間なんですよ。そういう意味ではA先生と同タイプです。チュウビさんはほどほどになさって下さい(笑) いつもルパン氏のお相手お疲れ様です。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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