FC2ブログ

少々根拠を調べてみました

本日は、前回引用した文章の根拠を見ていきたいと思います。


十八願成就文の乃至一念に行の意味もあることは宗祖も存師も教えられている

宗祖(親鸞聖人)のお言葉(『浄土文類聚鈔』
『経』(大経)に「乃至」といふは、上下を兼ねて中を略するの言なり。「一念」といふは、すなはちこれ専念なり。専念はすなはちこれ一声なり。一声はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ憶念なり。憶念はすなはちこれ正念なり。正念はすなはちこれ正業なり。また「乃至一念」といふは、これさらに観想・功徳・遍数等の一念をいふにはあらず。往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念といふなり、知るべし。

存師(存覚上人)のお言葉(『真要鈔』
第十八の願成就の文(大経・下)にいはく、「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」といへり。この文のこころは、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜し、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」となり。こころは、「一切の衆生、無礙光如来の名をきき得て、生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべしと、よろこびおもふこころの一念おこるとき往生は定まるなり。これすなはち弥陀如来、因位のむかし、至心に回向したまへりしゆゑなり」となり。この一念について隠顕の義あり。顕には、十念に対するとき一念といふは称名の一念なり。隠には、真因を決了する安心の一念なり。これすなはち相好・光明等の功徳を観想する念にあらず、ただかの如来の名号をきき得て、機教の分限をおもひ定むる位をさすなり。


七祖、宗祖、蓮師は、阿弥陀仏の第十八願について、
(A) 信と行により往生すると信と行を並列して、 
(B) 信により往生すると信に重きを置いて、
(C) 行により往生すると行に重きを置いて、
お聖教または同じお聖教であってもお言葉ごとに、いずれかの説かれ方で教えられている。


(A)の説かれ方
この真実の称名と真実の信楽をえたる人は、すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへるなり。『三経往生文類』
念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。『末灯鈔』12通
本願を信じ念仏を申さば仏に成る『歎異抄』第12条
など。

(B)の説かれ方
正定の因はただ信心なり。「正信偈」
この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。「信文類」
(48)不思議の仏智を信ずるを 報土の因としたまへり『正像末和讃』
など。

(C)の説かれ方
念仏成仏これ真宗『浄土和讃』
本願の名号は正定の業なり。「正信偈」
弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。『唯信鈔文意』
など。


根拠はほんの一例です。(A)、(B)、(C)それぞれの説かれ方について善知識方が仰せられたお言葉はまだまだ沢山あります。お手持ちの真宗聖典、または『WikiArc』等でよくお調べになることをお勧めします。

思えば、我々退会者がかつて親鸞会教義をまことと信じ込んでしまったのは、一部の断章されたお言葉のみをもって聖教を理解したことと、高森会長の解釈を絶対視して「高森先生の仰ることに間違いない」と盲信していたことにありました。こうした、聖教に依らず、一人の知識の教え、考えのみを鵜呑みにする危険性を我々は過去の経験から痛感しているはずです。どうか、自分の目で確かめる作業を大切にして頂きたいと思います。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

行無き信は観念の遊戯

ども、林遊@なんまんだぶです。

いわゆる一念義の者は、本願成就文の「乃至一念」の一念の語に執着してしまうのでしょう。『大経』名号付属釈の「乃至一念」にも注目してくれや、と思っていたりします。乃至の語をどうとらえているのやら。
http://wikidharma.org/5d0ce32c4e752

浄土真宗は、蓮如さんのご教化のたまもので「信心」を強調します。ある意味では500年前の時代背景に合ったご教化であり、愚直になんまんだぶを称えていた当時の民衆に、行に信を摂(おさ)めた(行中摂信)の「信心」の重要であることを説かれたのだと思ふ。
その為に、蓮如さんは、浄土宗西山派の「機法一体」や「平生業成」の語や、浄土宗浄華院流の「タスケタマヘトタノム」の概念を自家薬籠中のものとして用いておおいに大衆を教化していかれたのでした。

「竹林鈔」
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E7%AB%B9%E6%9E%97%E9%88%94

「帰命本願抄」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%AD%B8%E5%91%BD%E6%9C%AC%E9%A1%98%E6%8A%84

「たすけたまへとおもへば」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%81%9F%E3%81%99%E3%81%91%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%B8%E3%81%A8%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%B8%E3%81%B0

この蓮如上人のご教化によって、浄土真宗は日本最大の教団になったのでした。もっとも浄土真宗という一般的な名称は、明治期になってからの名称であって一般には一向宗とか門徒宗と呼ばれていました。

「門徒」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%96%80%E5%BE%92

ともあれ、かのAさんが「いわれ」とか「はたらき」という抽象的な語がお好みですが、哲学畑の大峯顕師は、

 たとえば、お説教で、名号のおいわれを聞くといいますけれど、おいわれを聞いただけでは助からんので名号そのものを聞かなくちゃならない。名号のおいわれを聞くという考え方は従来の言語論でありまして、その場合には言葉はまだ符合〔符号or記号か?〕もしくは概念にとどまっている。「南無阿弥陀仏」の裏に仏の本願があって、それに救われるというだけでは、名号そのものに救われるということは出てこない。
 名号のいわれを聴くということだと、名号とそして名前にこもっている事柄とが別々のものになってしまう。いわれというものは本来名号をはなれてはないわけで、その両方が一体、名体不ニと言葉では一応いわれておりますが、そういう名体不ニということが本当に理解されているかどうかと思うわけです。

と、おしゃっていましたが、真如から名となって称えられ聞えてくださる〔なんまんだぶ〕という乃至十念の可聞可称の「法」を「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」と、公の場で説いちゃアカンですね。
「いわれ」とか「はたらき」という表現は、蓮如さんが批判された、「十劫安心」に陥りやすいのでした。
深川倫雄和上は「評論」と「実践」ということを厳しく峻別してお勧めでしたが、「行無き信は観念の遊戯」かもなのでした。どうでいいけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




Re: 林遊@なんまんだぶ様

> いわゆる一念義の者は、本願成就文の「乃至一念」の一念の語に執着してしまうのでしょう。『大経』名号付属釈の「乃至一念」にも注目してくれや、と思っていたりします。乃至の語をどうとらえているのやら。

私でさえもそう思います。また、法然聖人の御解釈や、『浄土文類聚鈔』、『浄土真要鈔』などの教えを受けて、称名の意もあると教えられたことを認めてもらいたいものです。私が勝手に言っているのではなく、それが善知識方の仰せなのですから。

蓮如上人の御教化は信心の勧めが中心ですが、それは林遊さんが仰るように、当時の民衆に沿ったものだったのでしょうね。その蓮如上人でも、本願から念仏を抜いてしまうような発言はされていないです。捨て去るべきは自力心であって、念仏ではないのですが・・・。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード