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善知識だのみの異義について

本日は高森顕徹会長の講演が予定されていましたが、例によって急遽取り止めとなったようです。また邪義を明らかにするチャンスだったのに、拍子抜けです。壇上で死ぬのは本望とか何とか言っていましたが、本当は自宅か病院のベッドで死にたいのでしょう。

いつも直前で中止ですから迷惑な話ですよね? それに、中止となったらなったで息子なり何なり代理を立てて説法すればいいのに。しかし息子は毎度毎度、譬えまで同じ話しかしないし、講師長の誰かが話すにしても上手く説いたら息子の面目を潰して批判の対象になりかねないし、何とも難しい所です。ともかく言えることは、それぞれがそれぞれの思惑で動いており、会員の往生・獲信を目的とし、立ち上がる者は親鸞会上層部には一人もいないということです。

会員も会員で、「高森先生でなければ本当の親鸞聖人の教えは説き切れない」「高森先生から聞かなければ救われない」などと信じていることでしょう。一人の知識を絶対視して「誰が何と言おうと高森先生が正しい」と信じ、会での活動は勿論、生活の至るところまで会長や上司、会の方針に従おうとする。逆に、そうしなければ後生は助からないと思う。そのような善知識だのみの異義に陥っていますから手に負えません。


さて、今日は善知識だのみの異義について、今一度安心論題/五重義相より伺います。

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「善知識だのみ」は、知識掃命ともいわれます。これは阿弥陀仏に帰命するといっても、現に法を説いてくださる善知識がなけれぱ何にもならないのだから、善知識だけをたのみにすればよいのだ、と善知識に帰命すべきことを主張するものであります。

たしかに、阿弥陀如来のおこころは、生きた人間を通して私どもに伝えられるのであって、私に直接するのは善知識であります。ですから、救いの法を説いてくださる善知識を尊重し敬慕するのは当然でありましょう。しかし、阿弥陀如来をそっちのけにして、善知識を帰命(信)の対象とするならぱ、それは本末転倒といわねばなりません。

そこで、蓮師は善知識だのみの誤りを指摘せられ、善知識は「弥陀に帰命せよ」と勧める使いであって、あくまで帰命すべきは阿弥陀如来である旨を述べられ、更にこれを明らかにするために、五重の義を立てられたのです。

これによって、宿善開発して善知識にあい、その善知識の勧めによって弥陀に帰命する信心を得て、往生決定の身となる旨を示され、「帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきことを、大きなる誤りなり」と誠められています。

思うに、善知識が真の正しい善知識であれば、このような善知識だのみは生じないでありましょうし、たとい一部にそういう誤った見解が生じても、善知識がその誤をただしてくださるでありましょう。

しかし、偽り邪な善知識の場合が問題であります。現実には「帰するところの弥陀をすてて」とまではいかないにしても、人々を説得し心服させる才能にたけた者が指導者となり、指導される人々はその人を阿弥陀仏と同等に生き仏として無条件に帰依尊崇するということになれば、どのような事態になるか。実に危険きわまりないものといわねばなりません。

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最後の一段は、これこそ親鸞会そのものと言っていい内容です。ちなみに、谷口春子さんの手紙をまとめた『絶対の幸福』という本には、高森会長のことを

「尊き善知識会長先生」(p.33)
「偉大なる善知識会長先生」(p.36)
「生き仏様会長先生」(p.54)
「阿弥陀仏の御化身であらせられる尊き会長先生」(p.56)


などと言葉を尽くして誉め讃えています。これが発刊された意図は、高森会長に従って真剣に親鸞聖人の教えを聞き開けば絶対の幸福になれると会員に希望を抱かせることと、高森会長が生き仏のように尊い善知識であると会員に思い込ませることにあったと言えましょう。

「自分は善知識だのみではない」。こう思っている人が実は善知識だのみというケースが少なくないです。例えば、高森会長の説く二河白道の譬えは本来の譬え話と随分変わっていますが、それを「私達に分かり易くするために敢えて譬え話を変えてお話下さった」などと忖度しているとしたら、それは完全に黒でしょう。

親鸞聖人が白道を(自力の)求道心、信心と解釈された箇所は一箇所もありません。その他、親鸞聖人が19願を勧められた根拠も、親鸞聖人が「獲信の因縁(宿善)として善を修せよ」と諸善を勧められた根拠も一箇所もありません。親鸞聖人が一切衆生必堕無間と教えられた根拠も一箇所もありません。

聖教に根拠が無くても、聖教と真反対だと指摘されても、「高森先生に間違いがあるはずがない」と思い込む。非難してくる人の主張を聖教の上でろくに確かめもせずに間違いと決めつける。意識無意識に関わらず、高森会長の主張を擁護しようという立場で物事を考える。こんなのは典型的な善知識だのみです。某所では

・お聖教に書かれていることよりも、特定の先生の言うことを盲目的に受けいれてしまう
・その先生が説く内容にお聖教に反していることがあったとしても、その批判に対して思考停止してしまう


という書き込みがなされていましたが、親鸞会ではなくても同様の知識帰命的な方は少なからずいるようです。


ところで、話が上手い、人徳がある、カリスマ性がある等の勝れた資質をもつ宗教者が教位に立つと、聞く人は教えよりも教えを説く人が表に立ってしまって、依るべき法が見えなくなってしまうことがあります。

『WikiArc』トーク:人惑を受けず

にはそういう現象の危険性について書かれているので参照して下さい。私達が依るべきなのは教え、法であって、教えを説く人ではありません。教えを聞かせて下さる先生を尊敬し、大事に思う気持ちは大切ですが、どんな先生も完璧ではありません。間違うことだってあります。だって人間だもの。

間違えないことも大事ですが、間違えたら素直に認めて改めることはもっと大事です。そうやって我々は自分の理解能力が取るに足らないものであることを思い知らされ、いよいよ念仏のみぞまことと信知させされ、たのむべきは弥陀如来であり安養の浄土であるといよいよ明確に知らされていくのだと思います。

阿弥陀仏や釈尊、また七高僧方や親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人といった歴代の善知識方のお心を教えを基に推し量ることは大事でありますが、目の前の知識の心を必要以上に推し量って何でも善意に解釈するのは如何かと思います。特に聖教に真っ向から反する説に関しては如何を通り越して危険です。

聖教に無い説を説いて、それは違うでしょうと指摘を受けても間違いを認めない。根拠にならない根拠を挙げてあくまで自説を正当化する。それでいて、間違いだと批判する者を正法誹謗だと逆批判する。そのような人は、念仏者としてまことに不適当と言わざるを得ません。たとえ教え全体としては全く違っていても、正しい部分が多くても、それではその人の根本的な性格は高森顕徹会長と同じです。私も気をつけたいところです。

親鸞会は勿論、それ以外の団体や集まりでもそういう危険性がありますから注意が必要です。最後にこのことを述べて、当記事は終わりたいと思います。
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…生き仏様?…阿弥陀仏の御化身?…誰のコト!?

>「生き仏様会長先生」(p.54)
>「阿弥陀仏の御化身であらせられる尊き会長先生」(p.56)

…歯が浮くドコロか、抜けそうですw
あれだけ会員のヒト達を疲弊などさせたりする仏様とか、
三千大千世界のドコにおられるのでしょうか!?

Re: まあち様

でしょう? でも、一昔前の熱心な会員は、そのように信じ切って親鸞会の活動に身を捧げてきたのですよ(*_*;

あと、周囲にそう言わせるのが巧妙な手段ですね。「私も親鸞学徒の一人です」などと言い、謙虚なふりをして、尊き善知識会長先生を演じてきたわけです。未だ深いMC下にある会員は哀れ哀れです。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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