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【考察】念仏の勧めについて(6)

お隣のブログのコメント欄が随分と炎上していたようで驚きでした。全てのコメントを追うのでまた時間がかかってしまいました。あちらには時系列的に事の顛末をおおすじで書かせて頂きましたので、ご参考下さい。

随分とけなし合いのコメントの応酬がなされていてそこは残念に思います。ただ、私にはそれと同じくらい残念に思うことがあります。それは、「A先生がどのような御心であのように仰ったのか」を問題にする人はあれど、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という教え自体が浄土真宗には無いと認識されている方がA先生側にはいらっしゃらないということです。それと、聖教の言葉をもってA先生の主張の真実性を証明しようという方もA先生側にはいらっしゃらないということです。

先生は『教行信証』の教えからそう仰ったようですが、『教行証文類』のどこを読んでもそのような教えは見当たりません。こんなやり取りをしていて思い出したのが、かつてmixiの三願転入の法論で、「こうへい氏」が19願を勧めた根拠を尋ねられて「教行信証全体です」とか宣っていたことです。


さて、本題に入ります。

第十七願の「称名」とは、少なくとも文面上は我々の称名念仏ではなく、諸仏が阿弥陀仏の名号を褒め讃えることです。その第十七願を、親鸞聖人は「行文類」の始めに「諸仏称名の願」と標挙して、真実の行を与えることを誓われた願と見られています。では、「諸仏称名」ということをどのように解釈すれば行を誓われた願名になるのでしょうか。

これについて、大きく二つの説に分かれます。一つは、諸仏の讃嘆を通して衆生に回向され、衆生往生の因行となっている「名号」を誓った願と見る説です。諸仏が称揚・称讃する名号はもともと往生の因行として如来が選択された行体ですから、讃嘆される所の法を主と見ていけば「この行(名号)を領受せよ」と、行を誓った願になります。これは、「行文類」で明かされる大行とは、衆生のうえに届いて、信心となり称名となってはたらいている「名号」そのものを指しているという学説を主張する人たちが多く採用している説です。

もう一つは、諸仏が称名を勧めた願と見る説です。諸仏の讃嘆には、経典を説いて広く仏徳を褒め讃える広讃と、名号を称えて端的に褒め讃える略讃とがあります。ここで、第十七願の「咨嗟」は広讃を表していますが、「称我名」は略讃を表していて、「咨嗟称我名」とは、諸仏が十方の衆生に「我が名を称えよと咨嗟する」ことと読むことができます。このように諸仏が称名を勧めた願と見れば、第十七願は行を誓った願と見ることができるというのです。この説は、「行文類」で明かされる大行とは他力の称名を指していると見る人たちが多く採用している説です。


親鸞聖人は、第十七願の称名には、もともとの意味であった広讃の称揚の義のほかに略讃の称念の意味を見られていたと考えられるのです。前回、聖人は「咨嗟称我名」を「咨嗟して我が名を称する」と読まれたと書きましたが、ここから、ほめられること(咨嗟)と別に、称えられること(称)を挙げられているように見えるのです。特に『唯信鈔文意』にはそれが顕著です。

おほよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八大願のなかに、第十七の願に、「十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となへられん」と誓ひたまへる、一乗大智海の誓願成就したまへるによりてなり。
『阿弥陀経』の証誠護念のありさまにてあきらかなり。証誠護念の御こころは『大経』にもあらはれたり。また称名の本願は選択の正因たること、この悲願にあらはれたり。この文のこころはおもふほどは申さず、これにておしはからせたまふべし。


『唯信鈔文意』ではまず第十七願のことを

「十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となへられん」と誓ひたまへる、一乗大智海の誓願

と仰っています。ここでは、諸仏に名号を誉め讃えられることとは別に、諸仏に名号を称えられることを誓っているように見えます。更にその後には、

称名の本願は選択の正因たること、この悲願にあらはれたり

と言われています。この場合の称名は称揚ではなくて名号を称える称念のことであるのは明らかです。称名が本願において選択された往生の正因であることは、この悲願(第十七願)によって明らかに知ることができるというのです。

親鸞聖人は第十七願名に「選択称名の願」「往相正業の願」という名称を立てられています。これは、「称我名」を称名すなわち略讃の称念仏名をあらわす一面があるとみられたからでしょう。

ともあれ、諸仏讃嘆の名号は、人師の上では我々の称える念仏となっていることからも伺えるように、諸仏が名号を讃嘆するのは我々に聞かせるだけでなく、「名を称えよ」と称名を勧める一面もあるとみられるのです。

実際、『観無量寿経』では下三品に念仏が勧められ、流通分に至っては阿難に、それまで広く説いてきた定散二善ではなく、念仏を付属されています。『阿弥陀経』でも、顕わには一日乃至七日の自力念仏の勧めが説かれていますが、隠彰の義では真実の一心による他力念仏の勧めが説かれています。そして『無量寿経』でも、流通分では弥勒菩薩に念仏を付属されています。「行文類」にも

勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。

とあります。それは、とりもなおさず本願の念仏が

自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。


等とあるように阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、阿弥陀如来が選び取られた法であり、阿弥陀仏の本願の行であるからです。それゆえ、釈尊は阿弥陀仏の第十七願の要請に応じて娑婆世界に応現し、『無量寿経』を説いて阿弥陀仏の本願を讃嘆し、南無阿弥陀仏の名号のいわれを説き明かされたのです。


諸仏が讃えるのも南無阿弥陀仏。我々が称えるのも南無阿弥陀仏。諸仏と我々とは大変な差がありますが、どちらも南無阿弥陀仏で一緒です。如実讃嘆の称名は、諸仏の讃嘆と徳を同じくすると先徳が教えられる通りです。称名は確かに私達の口にあらわれ出ていますが、決して人間の煩悩妄念から出たものではなく、真如一実の功徳法海から流れ出てきた如来行だったのです。

称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。

の聖語の通り、如実の称名は往生の正定業であり、正定業は念仏であり、念仏は南無阿弥陀仏です。こうした往生の正定業である念仏、南無阿弥陀仏を回向するというのが第十七願です。それで祖師は、名号を誓った願、諸仏が称名を勧めた願ということで、真実行である念仏の根拠を第十七願に見出されたのでしょう。

念仏は阿弥陀仏がその徳を全て収め、これで助かってくれよと大悲を込めて与えられている本願の行ですから、本願の仰せを計らいをまじえずに受け容れ、仰せの通りに称名させて頂くことが阿弥陀仏の本意にかなうことであるのです。それを親鸞聖人は

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。

と仰ったのだと拝します。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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No title

本願=念仏=名号=信心
なのですから、何かボタンの掛け違いなのだとおもいます。

親鸞会の末期にいろいろなことが起こり始めています。元会員や現会員に正しい情報を伝える場も少なくなってきています。できましたら退会者同士で議論を続けることは避けていただいたほうがよろしいかとおもいます。

Re: 元講師様

ご意見を頂きありがとうございます。私もそう思いますし、何より退会者同士で諍うことは本意ではありません。親鸞会にとってプラスにこそなれ、マイナスにはなりませんからね。できるだけ避けたいことではあります。

しかしすみません。間違いを間違いと認めない先生の信奉者とよろしくやろうというつもりもありません。今は、あちらはあちらで、こちらはこちらで、お互いがお互いの信じる道を進むよりないと思います。ただ、将来それが一つの道に通じる可能性がないわけでもありません。同じ真宗でも色々別れているように、一つにまとまるというのは非常に難しいことです。

No title

>同じ真宗でも色々別れているように、一つにまとまるというのは非常に難しいことです。

おっしゃる通り、親鸞会退会者が一つにまとまる必要はないとおもいます。
せっかくあのような親鸞会の束縛から解き放たれたのですから、自由に自分の聞きたい方から聞きたい教えを聞き求めればよろしいかと存じます。
師のすべてが正しいわけでもないですし、師のすべてが間違っているわけでもないとおもいます。よき部分を聞かせていただき、間違えていると感じる部分は受け取らなければよいとおもいます。
これが私が、親鸞会講師をやめて相当な年月を経てようやくたどりついた心境です。今では、親鸞会の在り方はともかく高森会長の説法も懐かしく思われます。
すでによくご領解されていることと存じますが、善知識は、仏とは異なりますし、全知全能のイキガミでもありません。ここが親鸞会の問題の本質であったのでしょう。私も聞法の機縁にあわせていただくと、自分の心にあわないことがあるたびに知識を批判する心がおこります。そのたびに我が身を正そうという心の持ち方をするのがよい、と最近思うようになりました。

眺める月は同じ

眺める月は同じ。ただ…(その月を眺めるべく)
登る峰が違ってただけのハナシです。

>ただ、将来それが一つの道に通じる可能性がないわけでもありません。

私も、この言葉を信じたいものです。

コメント返信

> 師のすべてが正しいわけでもないですし、師のすべてが間違っているわけでもないとおもいます。よき部分を聞かせていただき、間違えていると感じる部分は受け取らなければよいとおもいます。

⇒全くその通りです。私の先輩も全く同じことを話していました。

私もA先生の全てを否定しているのではありません。今でも、「お天道様を見れば傘は要らない」とか、御恩報謝の話とか、参考になった話、感銘を受けた話はいくつもあり、そういう点ではA先生に感謝もしているのです。ところが、一つを批判するとあたかも全てを批判しているように受け取られてしまうのが残念なところです。


> 自分の心にあわないことがあるたびに知識を批判する心がおこります。そのたびに我が身を正そうという心の持ち方をするのがよい

⇒これもその通りと思います。私も今後聞法する際に注意しようと感じました。


まあち様

時間はかかるかもしれませんが、私も信じています。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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