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【考察】念仏の勧めについて(2)

まず、話を進める前に、そもそも浄土真宗で「行」とは何を指すのかをよく知っていなければなりません。A先生との衝突の原因の一つに、そもそも「行」に対する捉え方が食い違っていることが考えられるからです。


浄土真宗の「行」をどう捉えるか。これによって大きく二つの学説に分かれます。一つは、「行」を「名号」と理解する説、もう一つは、「行」を(他力の)「称名」と理解する説です。

信の対象は「行」です。何を信ずるかと言ったら行を信ずる、行を領受する。じゃあその「行」とは何だというと、それは南無阿弥陀仏の名号だというのが前者の説です。名号のいわれを聞いて領受したのが信心であるから、信ずる対象、つまり「行」は「名号」だというのです。ここから転じて、「行」は疑いを除いて信心を生ぜしめ、往生成仏せしめる「名号のはたらき」、またそのような名号の成就を誓い、名号を回向して衆生を救いたもう「本願のはたらき」と解釈する人もあるようです。

一方「行」は(他力の)称名であるという場合、信心の内容は「称名正定業」です。本願の念仏は、これを頂いてわずか一声する者も必ず往生できる正定業であると決定的に深く信ずる。私の口より出ずるなんまんだぶは、「助けて下さい」という凡夫の祈りではなく、「助けるぞ」と喚んでおられる阿弥陀仏の仰せであり、私が助かることに露ほどの疑いもない如来の大悲心の顕現体であると信ずる。称名は我が計らいの心をもって功徳を積み重ねてゆく自力の行ではなく、本願においてただ一つ選び択られ、往生の行として阿弥陀仏から恵み与えられる他力の行、本願力回向の行であると信ずる。このように、(他力の)「称名」が決定往生の「行」であると信じ、信じて行じるのが浄土真宗であると理解する説があります。

ところでこれは私の憶測ですが、どうも蓮如上人の示された信心正因称名報恩説、いわゆる蓮如教学に立ち、そこから遡って親鸞教学を理解した場合は、「行」とは「名号」あるいは「本願のはたらき」と捉える傾向があるように思えます。一方、七高僧から親鸞聖人への伝承を重んじ、時代に順ずる形で親鸞教学を理解した場合は、「行」とは「他力の称名」と捉える傾向があるように思えます。


「行」を「名号」と理解する説を採用しているグループでは、信心の体である名号、南無阿弥陀仏の六字のこころを説くことに力点が置かれます。成就文に「聞其名号 信心歓喜」とあり、名号のいわれを疑いなく聞くのが信心である。また「真実信心必具名号」で、信心の必然として称えられるのが称名であり、それは報恩の営みであるというのです。ですから説く人によって違いはあるでしょうが、信前はあまり念仏、念仏とは言いません。理由は、おそらく称名正因に陥ることを怖れてなのでしょう。

この説では、もうお気づきの通り信心獲得まで念仏が出てこないです。名号を聞くのが信心ですから、救いに関して、念仏の必然性がありません。それゆえ、極論として念仏は要らないとか、あるいはA先生のような説が出てくる危険性があります。


それでちょっと待ってくれと。もし「行」は「名号」あるいは「本願のはたらき」という意味で、「称名」という意味がないとしたらおかしなことになるぞ、御開山の釈に合わんぞというのが私の意見です。

『教行証文類』は、衰退し、末法の世において行証久しく廃れた聖道の教行証に対して、証道今盛んな浄土の教行証を顕した書物ではないか。また『教行証文類』は浄土宗や『選択集』の教えそのものに向けられた非難、論難に対して、教えの真実性を証明された書物ではないか。『選択集』は題名の通り選択本願念仏、専修念仏によって浄土往生する教えが真実の仏法であることを経釈の文を集めて証明された書物である。その教えが非難されているのだから、まず証明すべきは選択本願念仏、専修念仏という行法の真実性である。

このように考えていきますと、どうしても「行」とは「称名」のことであると理解せざるを得ないのです。


ちなみに、私は「行」は「名号」であるという説は間違いだと言っているのではありません。そのように言われる一面もあるからです。私は「行」とは「称名」であり、「名号」であり、「本願のはたらき」であると領解しています。それだけでなく、「私を往生成仏させる法そのもの」であるとも領解しています。どちらか片方をかついで、もう片方は間違いだと言うことは御開山の釈と違ったものが出てくる危険性を伴うでしょう。

長くなりますので、ここで一旦切ります。



【参照】
「真宗講座」浄土真宗の行(5月前期)定説への疑問
『鹿鳴山 願生寺』私的研究室 16.浄土真宗の行
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大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり

ども、林遊@なんまんだぶです。

浄土真宗の「行論」は、百花繚乱(いろいろの花が咲き乱れること。転じて、秀でた人物が多く出て、すぐれた立派な業績が一時期にたくさん現れること)の観があるのですが、煩瑣すぎてワケが解らなくなっている感もあると思ふ。

で、淳心房さんが問題としている「行論」について理解する為には以下のページが参照になると思ふ。
https://kokotomo.net/2014/05/1974

ともあれAさんが何の説明もなく「石泉」というタームを出して質問者を誤魔化したのであるが、実に不遜な態度だと思ったものである。
要するに御開山が第十八願の「乃至十念」を第十七願によって顕されたことから、衆生の称えるなんまんだぶという称名を諸仏の教位によって表現されたことから派生する論義で、少しく煩瑣な議論になっていると思ふ。
ある意味では学者の学の戯論に陥っているのであって、なんまんだぶを称えるという実践を離れた観念論だと思ふ。御開山には「法体名号」というような観念論としての法体名号ではなく、念仏成仏是真宗という、口に称えられる念仏(なんまんだぶ)であった。

そもそも論だが、名号のいわれやはたらきを聞くことでは救われないのであって、聞其名号とは、わたくしの口に称えられる〔なんまんだぶ〕を聞くことによって救われるのが、浄土真宗という法義であった。乃至十念とは、我が名を称えよという意であり、御開山はその根拠を第十七願によって顕されたことから「法体名号」という概念が生じたのであろう。
御開山は、

 つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。

と「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり(大行者 則称無礙光如来名)」とされているのであり、なんまんだぶは口に称えられる称名であることは当たり前である。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ



No title

>名号のいわれやはたらきを聞くことでは救われないのであって

これは如何なものか?
A師の肩を持つつもりはないが、

この念仏のいはれをよくしりたる人こそほとけには成るべけれ。

されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわ
けたるをもつて、信心決定の体とす。

とあるからね。

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>そもそも論だが、「名号のいわれやはたらきを聞くこと」では救われないのであって、「聞其名号」とは、「わたくしの口に称えられる〔なんまんだぶ〕を聞くこと」によって救われるのが、浄土真宗という法義であった。

→親鸞はこの「聞其名号 : その名号をあきらかに(まさに)聞く」ということを『信巻』に記されました。
 しかし、「名号のいわれやはたらき」については『教巻』に記されています。

親鸞『教行証』(『本典』)教巻
「この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。 ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。」

→ここに「真実の利をもつて如来の本願を説きて経の宗致とす」とあるのが、
 如何なものか さんがいわれる 「この念仏のいはれをよくしりたる人こそほとけには成るべけれ。」にあたるのですが、それを具しているのが、次いで「すなはち仏の名号をもつて経の体とする」とある(なんまんだぶ)であるから、
・この念仏のいはれ
・わたくしの口に称えられる〔なんまんだぶ〕を聞くこと
 のどちらも「教え」としてございます。

>「乃至十念」とは、「我が名を称えよという意」であり、御開山はその根拠を第十七願によって顕されたことから「法体名号」という概念が生じたのであろう。

>御開山は、『本典』にて、
「 つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。」 と述べられている。

→今記されている『行巻』にて「乃至十念(乃至十声)」が記されています。
 また、巻末に『正信偈』があることから、「ただよくこの高僧がたの説かれたことを信ずべし」がこの『行巻』にて伝えられていることであります。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

>浄土真宗の「行」をどう捉えるか。これによって大きく二つの学説に分かれます。一つは、「行」を「名号」と理解する説、もう一つは、「行」を(他力の)「称名」と理解する説です。

これは、様々な学者が種々に論じていて複雑なところですね。

ちなみに、『六要抄』では、『行文類』の標挙及び細註を

二に標挙の中に、「諸仏称名の願」とは、これ第十七願なり。これ則ち往生の行たる名号を説く願なるが故に当巻にこれを出だす。凡そ四十八願の中に於いて、この願は至要なり。もしこの願なくば、名号の徳は何ぞ十方に聞こえん。聞きて信行するはこの願の力なり。もしこの願なくば、超世の願意、諸仏は何んぞ証せん。証に依りて信を立つるは、またこの願の恩なり。
浄土真実の行とは、往生の行の中に仏の本願なるが故に正しく念仏を以てその生因と為す。故に真実という。これ称名なり。余は本願に非ず。故に真実に非ず。
選択本願の行とは、その意また同じ。念仏は正しくこれ選択本願なり。余は選択本願の行にあらず。故に念仏を以て真実の行と云い、選択の行と云う。

と解釈し、「浄土真実の行」、「選択本願の行」を称名と捉えています。

定説に疑問をもつことも勉強になるかと思います。
上で紹介されているサイトと同内容ですが、以下のサイトも参考になるかもしれません。
http://ganshoji.net/sub60.htm

No title

>ちなみに、私は「行」は「名号」であるという説は間違いだと言っているのではありません。そのように言われる一面もあるからです。私は「行」とは「称名」であり、「名号」であり、「本願のはたらき」であると領解しています。それだけでなく、「私を往生成仏させる法そのもの」であるとも領解しています。どちらか片方をかついで、もう片方は間違いだと言うことは御開山の釈と違ったものが出てくる危険性を伴うでしょう。

宗祖が『行文類』に、

称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なり

と説かれていることを踏まえれば、称名は正定業であり、正定業とは念仏であり、念仏とは南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏とは信心ですから、あちらの説は間違いで、こちらの説だけが正しいという見方は誤りを含む危険性があるのかもしれません。

No title

「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。(御文章3帖6通)

コメント返信

皆様、コメントありがとうございます。皆さん仰るように、行論は非常に煩雑で難しいです。

私が言いたいことは、親鸞聖人の思想において「行」には称名という意が確実にあるのであり、称名は本願から出てきた行、つまり阿弥陀仏のお心にかなった行なのだということです。今問題にしている、かの極端な思想は親鸞聖人の教えを学び、理解する上では決して出てこない思想であるということです。

ところで、私も私の口を通して出て下さるなんまんだぶを重要視し、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」の法語を心の灯として称名しておりますが、如何なものかさんのご意見と同意で、林遊さんの「名号のいわれやはたらきを聞くことでは救われないのであって」というのはちょっと行き過ぎかと思います。阿弥陀仏の衆生救済の活動は唯仏与仏の智見であって、我々の想像など及ばない世界であるからです。御文章さんも示されていますが、聖教の言葉と照合すると、合致しないのではないでしょうか。

Abcさんが示されているように、称名も聞名もとちらも教えとしてございます。これを切り離して考えることがよくないですね。

最後に、林遊さん、横からさんの示された外部リンクを記事の後に追加しておきます。

Abcです

こんにちは、Abcです。


>Abcさんが示されているように、称名も聞名もとちらも教えとしてございます。これを切り離して考えることがよくないですね。 (淳心房さん)

→ここに「称名」と「聞名」があるので、「教名」、「証名(執持名号)」について調べました。

「教名(きょうみょう):阿弥陀さまの名前 と いわれを教える」
 『教行証』を披くことは、永らく大谷に任せてありますので、「別の観点」からとしますと、
『正信偈』には、
 「普放無量無辺光 無碍無対光炎王
 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
 超日月光照塵刹」 と「阿弥陀さまのお名前」が記されており、

その解説書の『弥陀如来名号徳』には、
 「無量光といふは、『経』(観経)にのたまはく、「無量寿仏に八万四千の相まします。一々の相におのおの八万四千の随形好まします。一々の好にまた八万四千の光明まします。一々の光明あまねく十方世界を照らしたまふ。念仏の衆生をば摂取して捨てたまはず」といへり。恵心院の僧都(源信)、このひかりを勘へてのたまはく(往生要集・中)、「一々の相におのおの七百五倶胝六百万の光明あり、熾然赫奕たり」(意)といへり。一相より出づるところの光明かくのごとし、いはんや八万四千の相より出でんひかりのおほきことをおしはかりたまふべし。この光明の数のおほきによりて、無量光と申すなり。

 つぎに無辺光といふは、かくのごとく無量のひかり十方を照らすこと、きはほとりなきによりて、無辺光と申すなり。 (乃至)

超日月光と申すなり。十二光のやう、おろおろかきしるして候ふなり。くはしく申し尽しがたく、かきあらはしがたし。」とあります。

しかし、この書物は一部欠落しており、大変残念ではありますが「十二光について」示されております。

また、『正信偈』は、過去に「お釈迦様が広め、七人の高僧がたが教えを尽くされ、私(親鸞)は「ただこの高僧の説を信ずべし」である」と締められていますが、

私はこのうちの、「お釈迦様が広め」が『浄土和讃』に、「七人の高僧がたが教えを尽くされたこと」が『高僧和讃』に、 「拯済無辺極濁悪」という「五濁の衆生」には「ただ阿弥陀さまに救われなければならない」という謂れからは、『正像末法和讃』に示されている と私は観ております。

 いくつか例を挙げますと、
『浄土和讃』
 仏光照曜最第一 光炎王仏となづけたり
 三塗の黒闇ひらくなり 大応供を帰命せよ

→ここでは「帰命 大応供仏」について説かれている。また「光炎王仏」については、先の書物にて「炎王光と申すは、ひかりのさかりにして、火のさかりにもえたるにたとへまゐらするなり。火の炎の煙なきがさかりなるがごとしとなり。」と説かれている。

『浄土高僧和讃』
 煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども
 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり

→こちらは『正信偈』に、
 「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」にあたり、その箇所の解説として、

『正信偈大意』
 「「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」といふは、真実信心をえたるひとは、身は娑婆にあれどもかの摂取の光明のなかにあり。しかれども、煩悩まなこをさへてをがみたてまつらずといへども、弥陀如来はものうきことなくして、つねにわが身を照らしましますといへるこころなり。」と記されているところである。

『正像末法和讃』
 末法五濁の有情の 行・証かなはぬときなれば
 釈迦の遺法ことごとく 竜宮にいりたまひにき

 正像末の三時には 弥陀の本願ひろまれり
 像季末法のこの世には 諸善竜宮にいりたまふ

→ここに「釈迦の遺法」、「諸善竜宮にいりたまふ」と言われていることは「聖道」のことであります。そのため、
『浄土高僧和讃』
 末法五濁の衆生は 聖道の修行せしむとも
 ひとりも証をえじとこそ 教主世尊はときたまへ

 本師道綽禅師は 聖道万行さしおきて
 唯有浄土一門を 通入すべきみちととく

と言われており、この事に対応する『正信偈』の箇所には、
『正信偈』
 「万善自力貶勤修 円満徳号勧専称」と言われていますし、「解説書」では、
『正信偈大意』
 「「万善自力貶勤修 円満徳号勧専称」といふは、万善は自力の行なるがゆゑに、末代の機、修行することかなひがたしといへり。円満の徳号は他力の行なるがゆゑに、末代の機には相応せりといへるこころなり。」

といわれております。またこの「円満徳号勧専称」は「円満-徳号(なもあみだ / わが名)を勧メシム(すすめしむ) レ 専ラ(もっぱら)称ヘヨ(となへよ)」ですので、「阿弥陀さまは、専らに 我が名を称えよ と伝えられている」となります。

「証名(執持名号) (しょうみょう(しつじみょうごう)):名号を疑いなく持たれること」 ← 「証名」は「称名」と同音の「しょうみょう」であり、意も「名号をつよく持たれる 名号をとなえる」であるので、「大行、大信あり。」に含まれている。

『浄土高僧和讃』
信は願より生ずれば 念仏成仏自然なり
 自然はすなはち報土なり 証大涅槃うたがはず

→このうち「念仏:称名念仏」は「大行」であり、「信は願より生ず」、「念仏成仏自然」、「自然はすなはち報土」、「証大涅槃うたがはず」が「大信」であるが、「自然はすなはち報土」、「証大涅槃うたがはず」は「証大涅槃(証知)」と見ることもできる。

さいごに、

 このように記しましたが、A師をはじめとした「あるものがらに固着する原因」としまして「Aには、BもCもDもEもFもG の意味もある」を「AにはBの意味しかない」とするがために、このようなものがらとなっているのでは、と推察されます。

 林遊さんは、過去に「御開山の教えは、多層的な教えである」といわれたように「2,3層」という教えではないが、「南無阿弥陀仏の教えである」というある意味「単層的な教え」でもあると言えるのが、「真宗」であり、「真宗はある観点では単純であるが、ある観点では複雑である」と言われる由縁であります。

 私も、まだまだ未熟な部分があると思いますが、お互い切磋琢磨してゆきたいです。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

いつも有り難うございます。難しいやりとりですが、興味を持って読んでおります。リンク先にもありました「蓮如上人教学江戸宗学への疑問」まだまだ私は概要すら、よくわかっておりませんが、興味がつきません。Abcさん高田派からすると異質になるのでしょうか?私は、みなさまのスリリングなやりとりをみてるだけですが、なんまんだぶつ最強だなと思って念仏してます。

Re:チュウビさん

こんばんわ、Abcです。

上の解説はお読みいただいたでしょうか。最近は、寺の住職さんも、「本山の御意向ですから・・・」となかなか「阿弥陀さまについて」の話がなされません。悲しいことですがそれが実情らしいです。

>「蓮如上人教学江戸宗学への疑問」まだまだ私は概要すら、よくわかっておりませんが、興味がつきません。Abcさん高田派からすると異質になるのでしょうか?
→「異質」といいましょうか、「信因称報説はそこまでいくのか・・・」という感じですね。さらに、「神道を不拝する」という、「親鸞の意見と異なることを平然と行う」という部分にも疑問を抱いております。

>私は、みなさまのスリリングなやりとりをみてるだけですが、なんまんだぶつ最強だなと思って念仏してます。

→さようでしたか、ですが「なんまんだぶつ最強」はその通りです。
私は、上にて「阿弥陀さまの別名とそのいわれ」をしるしました。

 チュウビさんに合わせるならば、前に「金づち」について話しましたよね。
それに、追記するような感じとはなりますが、「金づち」の他の呼び名は「トンカチ」、「玄能(玄翁)」があります。それで「そのいわれ」を記しますと

「金鎚」:打器のひとつで、打つ場所が「金属」であることからその名が付いた。「鎚」でも通るが、たいていは「金づち」と「づち」の部分は平仮名が多いので、「金鎚」とされる。

「トンカチ」:打器のひとつで、釘を打つ音が、打ちこんでいる時は「トントン」となり、打ち終わった時は「カチカチ」ということから「トンカチ」の名前が付いた。

「玄能(玄翁) げんのう」:打器のひとつで、九尾の狐伝説に登場する「玄翁和尚」からその名が付いた。概要としては、九尾の狐が那須塩原に残したとされる「殺生石」を砕いた道具であるとされることから。

でしたね。私はこのように「名称とそのいわれ」を記しますから、上の文章の「光炎王仏」の下りでも「そのいわれ」を示してあります。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re: チュウビ様

親鸞聖人と蓮如上人は、ご信心は同じであっても時代も違えば立場も違います。教え方も当然異なります。『教行証文類』を始めとする親鸞聖人の著作と『御文章』で大きく違う点の一つが「行」です。

親鸞聖人においては、本願の念仏という行と、本願を疑いなく信受した信心を真実の行信として勧められます。
蓮如上人においては、信心の体である名号(南無阿弥陀仏)のいわれを領受せよと真実の信心を勧められます。対して念仏は信後報謝としての勧めという場合がほとんどです。

それで、蓮如上人の信心正因称名報恩説に立って親鸞教学を理解した場合、念仏は信後報謝の位置づけとなり、随分と扱いが軽いものとなりがちです。その極論が親鸞会の「念仏は信後報謝に限る」や、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という発言です。

しかし七高僧から親鸞聖人の伝承で親鸞教学を理解した場合、念仏は往生の正定業の位置づけとなり、前者と扱いが全く異なることになります。

念仏は本願の行であると捉えていたら絶対に親鸞会やA先生のような説は出てこないです。蓮如上人は念仏は往生の行体とわきまえておられましたから、信心を強調されることはあっても先のような発言は全くしておられません。

『教行証文類』の思想や他の親鸞聖人の著書を理解するにあたっては、蓮如教学は一旦除外して、虚心に経典や七高僧の論釈、そして聖人のお言葉を見ていく必要があると感じます。今の本願寺があるのは覚如上人、蓮如上人の功績があまりに偉大だからというのは分かるのですが、それを通してしか親鸞聖人の教えを理解しない/できないようだと、親鸞聖人の教えと違ったものが出てくる可能性が大いにあると言わざるを得ないです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

>念仏は本願の行であると捉えていたら絶対に親鸞会やA先生のような説は出てこないです。蓮如上人は念仏は往生の行体とわきまえておられましたから、信心を強調されることはあっても先のような発言は全くしておられません。

次の点をお示しいただけると、理解がしやすくなると思います。よろしくお願いします。

・言葉の意味として、本願の行、往生の行体とはどういうことでしょうか。

・その上で、念仏は本願の行と捉える、念仏は往生の行体とわきまえる、とはどういうことになるのでしょうか。

・「蓮如上人は念仏は往生の行体とわきまえておられました」とありますが、そのようにお考えになるのはどうしてでしょうか。

No title

「本願名号正定業」といふは、第十七の願のこころなり。十方の諸仏にわが名をほめられんと誓ひましまして、すでにその願成就したまへるすがたは、すなはちいまの本願の名号の体なり。これすなはち、われらが往生をとぐべき行体なりとしるべし。

Re: 名前はまだありません様

> ・言葉の意味として、本願の行、往生の行体とはどういうことでしょうか。
> ・その上で、念仏は本願の行と捉える、念仏は往生の行体とわきまえる、とはどういうことになるのでしょうか。

⇒念仏は浄土往生の行として阿弥陀仏が選び定められた「おこない」であると心得るということです。

> ・「蓮如上人は念仏は往生の行体とわきまえておられました」とありますが、そのようにお考えになるのはどうしてでしょうか。

⇒正信偈大意さんの挙げられたお言葉の通りです。

No title

Abcさん、淳心房さん有難うございました。解説実に面白いですね。とはいえ観念的になりがちな私ですが、あくまでお念仏申して生きていきたいと思ってます。なもあみだぶ。なもあみだぶ。

そのお言葉が根拠ということですね。
どのような意味でしょうか。

No title

十方諸仏の称名が本願の名号の体であり、衆生が往生する行の元である。

No title

衆生が称える念仏は、呪文のような軽いものではないですよ、十方諸仏も称えるもので、十方諸仏の保証付だから、往生の行体なのです。

こういうことです。

Re: 名前はまだありません様

Web上に現代語訳が無かったので淳心房なりに意訳しますと、

「本願名号正定業」とは、第十七願のこころを顕しています。阿弥陀仏は「十方の諸仏に我が名をほめられよう」とお誓いになり、すでにその願が成就したすがたが、すなわち今の本願の名号ということです。この本願の名号が、私達の往生の因となる行そのものであると知りなさい。

というほどの意味です。正信偈大意さん、ご解説ありがとうございます。

ありがとうございました。
行を名号とした場合でも、蓮如上人の上では、行を正定業と言われたところはここくらいということでしょうか。
意外ですね。

No title

 「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

ここが一番わかりやすいでしょうね。他にもあります。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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