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【考察】念仏の勧めについて(3)

」とは「名号」あるいは「本願のはたらき」だと理解している方があります。勿論そのような一面もあります。ですが、それだけの意味でもありません。当然ながら我々の口に現れる「他力の称名」でもあります。というかむしろ、法然聖人からの伝承を考えた場合は「他力の称名」を抜きに理解はできないです。

親鸞聖人は『三経往生文類』『如来二種回向文』などでは「真実の行業あり」と仰せられています。「」について、『唯信鈔文意』では「おこなふとまうすなり」と左訓されています。「」とは「おこなう」「おこない」のことと見られていたことがわかります。もちろんその「おこない」は、それによって迷いの根源である無明煩悩が寂滅し、涅槃の境地に至ることのできるような徳をもった「まことのおこない」(真実行)のことです。

」とは、梵語チャリャー(caryā)の漢訳で、行為・動作・実践の意です。浄土往生する者の正しい行いのことです。浄土真宗では、それが念仏という「行」なのです。これは、我が計らいの心をもって称え、念仏の功徳を積み重ねて往生しようとか、往生をより確かなものにしようとか、如来・浄土に近づこうといった凡聖自力の行ではありません。本願においてただ一つ選択され、回向されている行であり、如来・浄土より届いた浄土往生の正定業ですから大行といい、浄土真実の行というのです。


親鸞聖人は「行文類」において、始めに「諸仏称名の願」と標挙し、割註に「浄土真実の行」「選択本願の行」と列記されています。これについて存覚上人は

浄土真実の行とは、往生の行の中に仏の本願なるが故に正しく念仏を以てその生因と為す。故に真実という。これ称名なり。余は本願に非ず。故に真実に非ず。
選択本願の行とは、その意また同じ。念仏は正しくこれ選択本願なり。余は選択本願の行にあらず。故に念仏を以て真実の行と云い、選択の行と云う。
『六要鈔』

と仰せられ、「称名」「念仏」が「浄土真実の行」「選択本願の行」であると仰せです。

続いて、大行のものがらについて

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。

と指定されています。ここでもし、「」は「名号」の意で「称名」の意がないとしたら、「無碍光如来の名号なり」でいいはずです。それをなぜ「名を称するなり」と仰ったのか、そのお心を領解することができません。次いで、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

と教えられるお心も理解できません。曇鸞大師は無碍光如来の名号そのものに破闇満願のはたらきがあることを説明されていますが、親鸞聖人は、如実の称名に破闇満願のはたらきがあると仰っているからです。

そして、名号のいわれにかなった称名は破闇満願のはたらきがあるから、称名最勝真妙の正業であると仰っています。これは善導大師の称名正定業説を曇鸞教学によって完全に裏付けられた形です。

更に正業(正定業)とは念仏であると続いています。「」が称名念仏であることは自明の理です。

また、念仏とは南無阿弥陀仏であると仰っています。名号というと、阿弥陀仏の御手元にあってまだ衆生に与えられる前の状態の名号とか、あるいは軸仕立ての字で顕した本尊の名号だけを想像しがちですが、名号といっても念仏を離れたものではないことがここから伺えます。私の口に称え、耳に聞こえるなんまんだぶの他に名号があるわけではないんだということでしょう。念仏によって、目に見えない本願のはたらきが称え聞くことのできる名号となり、またそれが本尊という形ある名号となって私達に届いていることが知られるわけです。

それから、決釈に至っては

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

と仰せられ、浄土真実の行とは凡夫や聖者が善根功徳を修め、それによって浄土に生まれたいと願いを発して如来・浄土に近づいていこうとか、往生をより確かなものにしようというような自力の行とは質的に異なっていると仰っています。だから「不回向の行」であるといわれ、大乗の聖者も小乗の聖者も、自らの善をたのまず、また悪人も罪の重い軽いをあげつらうことなく、同じく自力のはからいを離れて、大海のような広大無辺の徳をもって一切を平等に救いたまう選択本願に帰入して、念仏し成仏すべきであると結ばれています。

」に称名、念仏の意がないとしたら、「念仏成仏」とは言われないでしょう。

その直後の同一念仏無別道故のお言葉にしても、浄土へは同じ念仏によって生まれるということですから、「」に念仏の意がないとは到底考えられません。そもそも、この御文を引文する理由がありません。ところが親鸞聖人は、この御文をここだけでなく、「証文類」にも、「真仏土文類」にも引かれています。

また、「行一念釈」においては

釈(散善義)に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。「行文類」

と、行相を念仏一行を修することだと示されています。「」が「他力の称名」であることは明らかです。

こうした『教行証文類』を読んだ高田の覚信房は、行の一念、また「信文類」に顕されている信の一念について疑問があったのでしょう。覚信房に宛てたお手紙には、このように書かれています。

さては、仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
 これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。


行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり」。「本願の名号を一声称えて往生する」ということを聞いて、一声、もしくは十声と称えるのが「」であると仰っています。「」は称名のことであると明確に親鸞聖人が仰っています。


なお、「」には「我々を往生成仏させる法そのもの」という意味も含まれていることが「誓願一仏乗」の思想や、「円融満足極速無碍絶対不二の教」の法語から伺えます。聖人の仰る「」とか、「念仏」という語は一様の理解を許さない、非常に奥が深いものなのです。ただしこれだと庶民は訳が分かりませんので、蓮如上人は苦心され、信前は名号でおさえ、念仏は信後報謝で統一して門徒を勧化されたのでしょう。

浄土真宗の中には、覚如上人、蓮如上人の示された信心正因称名報恩説に立って、そこから遡って親鸞教学や七高僧方の教えを理解しようというスタイルの方々が見受けられますが、私は、本当に親鸞聖人の思想やその教えを学ぼうとしたら、そうではなく七高僧方の教えから『教行証文類』やその他の御聖教を見ていくべきであると思います。もしそうしたならば、親鸞聖人の六字釈を根拠に

・阿弥陀仏は念仏を称えよとは仰っていない
・阿弥陀仏は「我にまかせよ」と仰っているのであって、「念仏を称えよ」ではない


などと主張することは起こり得ないでしょう。
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Re:淳心房さん

こんばんわ、Abcです。

>浄土真実の行とは凡夫や聖者が善根功徳を修め、それによって浄土に生まれたいと願いを発して如来・浄土に近づいていこうとか、往生をより確かなものにしようというような自力の行とは質的に異なっていると仰っています。だから「不回向の行」であるといわれ、大乗の聖者も小乗の聖者も、自らの善をたのまず、また悪人も罪の重い軽いをあげつらうことなく、同じく自力のはからいを離れて、大海のような広大無辺の徳をもって一切を平等に救いたまう選択本願に帰入して、念仏し成仏すべきであると結ばれています。

→懐かしいですね、淳心房さんに最初にコメントした本文には、
「自然法爾」と「不回向の行」について示しましたね。

>大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。

→そしてこのように「無碍光如来の名を称する」という「無碍光如来」は天親菩薩が力を尽くされた名号であります。

『尊号真像銘文』
 「「論曰」は、世親菩薩、弥陀の本願を釈しあらはしたまへる御ことを「論」といふなり、「曰」はこころをあらはすことばなり、この論をば『浄土論』といふ、また『往生論』といふなり。「世尊我一心」といふは、「世尊」は釈迦如来なり、「我」と申すは世親菩薩のわが身とのたまへるなり、「一心」といふは教主世尊の御ことのりをふたごころなく疑なしとなり、すなはちこれまことの信心なり。
帰命尽十方無碍光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。

光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す

この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。「願生安楽国」といふは、世親菩薩、かの無碍光仏を称念し信じて安楽国に生れんと願ひたまへるなり。」

『弥陀如来名号徳』
 「龍樹菩薩は「我説彼尊功徳事 衆善無辺如海水」(十二礼)とをしへたまへり。かるがゆゑに不可思議光仏と申すとみえたり。不可思議光仏のゆゑに「尽十方無碍光仏と申す」と、世親菩薩(天親)は『往生論』(浄土論)にあらはせり。(乃至)

諸仏咨嗟の願(第十七願)に大行あり。大行といふは無碍光仏の御名を称するなり。この行あまねく一切の行を摂す。極速円満せり。かるがゆゑに大行となづく。このゆゑによく衆生の一切の無明を破す。また煩悩を具足せるわれら、無碍光仏の御ちかひをふたごころなく信ずるゆゑに、無量光明土にいたるなり。光明土にいたれば自然に無量の徳を得しめ、広大のひかりを具足す。広大の光を得るゆゑに、さまざまのさとりをひらくなり。」

⇒ここに
 「大行といふは無碍光仏の御名を称するなり。この行あまねく一切の行を摂す。極速円満せり。かるがゆゑに大行となづく。」 とあり、淳心房さんが示されたところにも

 「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。」 とありますから、

 この2文より「親鸞は大行をこのように釈されていた」と見ることができましょう。

ひとまず、「天親菩薩について」と「大行について」を示させていただきました。

帰命尽十方無碍光如来
 Abc

Re: Abc様

懐かしいですね。学が足らずに当時はサッパリでしたが、徐々に不回向の行、自然法爾という言葉の意味が理解できてきました。

「無条件の救い」「衆生の無作」というのを強調するためか、一切の自力を捨てて他力に帰するという教えを誤解してなのか、本願の行としての念仏を説かない方が一定数見受けられます。そのような教えを説く/聞く人に念仏を勧めると自力を勧めている、無条件の救いに私の念仏を足すかのように受け取られてしまいます。

しかし、念仏は本願の行として与えられた行、これを頂いて称える者を救うという本願を受け容れ、南無阿弥陀仏につかえている行為であって、自力を募る行為、自力の行とは質が異なるのでした。このことをこれからも訴えたいと思います。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

親鸞聖人の仏身論

ども、林遊@なんまんだぶです。

善導大師は「就人立信(人について信を立てる)」と、「就行立信(行について信を立てる)」ということを示されました。
法然聖人は、善導大師の就行立信釈によって回心されたのは有名でした。
http://wikidharma.org/5899c9602b997

仏教史上に於いて初めて浄土教として「浄土宗」を立教開宗されたのは法然聖人であって、この法然聖人の念仏思想を抜きにして浄土教を語ることは、異質な概念を浄土教に持ち込むことのになるのであろう。
蓮如上人はどちらかと言えば阿弥陀仏といふ就人立信を強調されたのでした。ある意味では法としての阿弥陀仏を人格化して500年前の衆生を教化されたのですが、信因の語に毒されたAさんはこれが解らんのです(笑
ともあれ、教学云々を論ずるならば、善導・法然教学と親鸞教学と蓮如教学の差異をキチンと理解すべきなのだが、覚如上人の提唱した「信心正因・称名報恩」という語に幻惑されて、衆生の上にはありもしない信心というタームに迷ってきた幾多の同行を知るが故に、きさまらぁ、なんまんだぶせんかいと、林遊はいうのであった。

御開山は、仏陀のさとりを生涯追求された方であり、それは御開山の仏身論を窺がうことで、わずかに少しく領解できるのであった。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E8%81%96%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%BB%8F%E8%BA%AB%E8%AB%96

ともあれ世俗的意味の救いと、仏教に於ける救済論は全く違うのである。「証文類」や「真仏真土文類」には、御開山の示されたさとりが説かれているのであるが、「信心正因・称名報恩」という名言に幻惑されて、なんまんだぶと称えて、なんまんだぶと聞える「名体不二」の世界を知らないのは困ったものであった。どうでもいいけど。

>・阿弥陀仏は念仏を称えよとは仰っていない
>・阿弥陀仏は「我にまかせよ」と仰っているのであって、「念仏を称えよ」ではない

もしAさんが、このように言ったことが事実なら、浄土教の歴史において、なんまんだぶを称え生死を出ずることを期してきた幾千万の同行を愚弄する発言であって、念仏往生という浄土教を破壊する言である。中途半端に、石泉・空華・豊前という宗学を学んだから、願海度出のなんまんだぶが判らないのだろうが、名聞利養の営業用の、なんまんだぶしか知らないから、御開山が示された、愚直に称えるなんまんだぶの意味が判らないのであろう。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> もしAさんが、このように言ったことが事実なら

事実です。それで3回も質問し、毎度同じ質問だとA先生のファンの方からひんしゅくを買ったということがありました。本願成就文にこだわる先生は、信心を強調したいからかあのような発言をし、その根拠を尋ねるとそれは親鸞聖人の六字釈だと言ったのです。

本願から念仏を抜いてしまうようなかの発言は、林遊さんの仰る通りだと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

「本願招喚の勅命」

ども、林遊@なんまんだぶです。

>本願成就文にこだわる先生は、信心を強調したいからかあのような発言をし、その根拠を尋ねるとそれは親鸞聖人の六字釈だと言ったのです。

御開山が善導大師の六字釈を引文し、その上で御開山は独自の六字釈をされたという意図が解ってないのでしょうね。なお文章上では、六字の「字」という形で表現されていますが、なんまんだぶという口業である衆生の上で称えられ聞える「声」の意味を論じているのが六字釈です。
「本願招喚の勅命」とは、阿弥陀如来の「本願招喚の勅命」が声となって聞えることを指示する言(ことば)であって、それを御開山は、本願成就文では「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん(諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念)」といわれていると領解されたのでした。
Aさんは、少しく観念的な視点から、なんまんだぶという凡夫の口先に称えられる「行業」を理解できなかったのであり、なんまんだぶが「誓願一仏乗」の教法であるということを想像することも出来なかったのかな。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%AA%93%E9%A1%98%E4%B8%80%E4%BB%8F%E4%B9%97

たぶん、知性と教養があふれるAさんには、林遊のように愚直になんまんだぶを称えている輩は「反知性主義者」としか見えないのだと思ふ。だから淳心房さんの問いに対して真摯に対応しなかったのだと思ふ。要するに自是他非という教化者特有の隘路に嵌っているのかな、知らんけど。
ともあれ、Aさんは、念仏と信心を「排他関係」で捉えているから、

>・阿弥陀仏は念仏を称えよとは仰っていない
>・阿弥陀仏は「我にまかせよ」と仰っているのであって、「念仏を称えよ」ではない

と、法座の場でも平気で言えるのでしょうね。ある意味では御開山が示された「念仏成仏」という「誓願一仏乗」のご法義を否定し、観念論としての衆生の信心に貶めているのだが、「たまはりたる信心」とは、信心はわたくしの上にあるけれども、それはわたしのものでは無いということがAさんは理解出来なかったのだと思ふ。賢いから(笑
想像ですが、Aさんの脳内では、法座の場で、なんまんだぶを称える者は、

 「口声をひまなくせる、春の田の蛙の昼夜に鳴くがごとし。ついにまた益なし。」
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2012/03/10/%e3%81%93%e3%82%91%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%8d%e3%81%a6%e6%b1%ba%e5%ae%9a%e5%be%80%e7%94%9f%e3%81%ae%e3%81%8a%e3%82%82%e3%81%b2%e3%82%92%e3%81%aa%e3%81%99%e3%81%b9%e3%81%97/

と、思っているのかもです。
齢(よわい)七〇も越えたら、朦朧する信心ではなく、なんまんだぶという口に称えられ耳に聞こえる「本願招喚の勅命」に、有難いこっちゃなあとなるのだが、「痴愚の毒」に侵されたAさんは、これが解らんのやろうな、どうでもいいけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 淳心房さんの問いに対して真摯に対応しなかったのだと思ふ。要するに自是他非という教化者特有の隘路に嵌っているのかな、知らんけど。

⇒どういう意図が知りませんが、2月3日の埼玉恵日会では

http://shingikensho.blog12.fc2.com/blog-entry-1222.html

にて書いた私の【質問】のみ取り上げて、【質問の経緯及び考察】以下については全く触れずに終了しました。

典型的な空華学者であられる先生には、「行」を「称名」と理解することができないのでしょうね。しかし師匠の桐谷順忍和上は「自分の称えた称名がそのまま聴聞の名号の位にまきあがる」と仰って、今問題になっている

・阿弥陀仏は念仏を称えよとは仰っていない
・阿弥陀仏は「我にまかせよ」と仰っているのであって、「念仏を称えよ」ではない

といった思想は和上の上には見られません。稲城和上の書かれたものも、まだ全て目を通したことはありませんが、彼の発言は見たことが無いです。それどころか、

信のものがらは何かというと、前の大行がものがらという事になる。南無阿弥陀仏が、信のものがらです。
http://www.hongwan.net/index.php/%E4%BB%96%E5%8A%9B%E3%81%AE%E4%BF%A1%E3%81%AE%E7%89%B9%E8%89%B2

と仰って、行と信が一具の法であることを教えられています。

仏説にも反し、次第相承の善知識の説にも反し、直接の師匠とも反することを仰る先生は、一体何者なんでしょうね? 大江和上?が提唱したという「十八願を五願に開いた」という説を批判して、「成就文を五願に開いた」という論文を書かれているそうですが、読めているつもりの『教行証文類』が読めていないし、都合の悪い御文は理由をつけて突っ撥ねる姿勢ですから、完成したとしても証明することは難しいでしょう。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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