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【考察】念仏の勧めについて(4)

私達のような凡夫が速やかに生死を離れ、浄土に往生しようと思ったら、「念仏を称える者を極楽に迎えよう」と誓われた本願の仰せを疑いを差し挟まずに受け容れ、本願の仰せのままにお念仏を申して、ひとえに往生を阿弥陀さまにおまかせするだけです。これだけです。これを『歎異抄』第十二条には

他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。

と仰せられています。愚直に浄土より届いたなんまんだぶを称え、なんまんだぶに往生をまかせて、後生をくつろがせて頂く。あとは、縁に触れ折に触れ、一生涯お念仏を申して、如来広大の恩徳、師主知識の恩徳に思いを致して慶びつつ、浄土へ向かって生きてゆく。このことが、法然聖人の教えられた

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

の聖語にズバリおさまっています。教義の本質は何も難しくない、本当に簡単な教えなのです。逆に、複雑で難しい教えあれば、それを理解することのできる一部の賢善な者しか救われません。

ところが、簡単なるが故に、それはどうにでも取られてしまうという危険性があり、またこの教えを、既成仏教の方々を相手に真実の仏法であると証明することは反って大変な大事業だったわけです。『教行証文類』が非常に複雑で難しいのは、こうした念仏往生の法義の真実性を経論釈の上で理論的に証明した書物だからです。


ご承知のように、浄土宗には聖道諸宗を始め、朝廷からも激しい非難が加えられました。その項目は多岐にわたりますが、中でも手厳しい非難は専修念仏という行法に対する論難と、菩提心撥去に対する論難でしょう。

なぜ、凡夫が南無阿弥陀仏と仏名を称えたくらいのことで阿弥陀仏の報土に往生することができるのか。一口に念仏と言っても無漏の定心念仏が最上であって仏名を称えるということは最下の行ではないか。それを法然は、さも本願に誓われた最上の行のように言っているが間違いも甚だしい。その上、念仏以外の行をする必要はないと、様々な経典に広く説かれた諸善万行を捨てさせることは仏法を破壊する謗法罪である。

簡単に言いますと、前者についてはこのような非難が加えられたのです。

こうした論難を破って、法然聖人の明かされた選択本願念仏の教えが真実の仏法であることを証明する場合、どうしたらよいでしょうか。

仏教である限りは教行証の枠組みを出ません。仏陀の教説にかなった教え、すなわちその宗の拠り所となる経典があり、そこに説かれる行を実践して、説かれている通りのさとりを得る。その教行証を示し、そしてそれは歴代の高僧方が教えてきた真実の教法であると菩薩方の論や高僧方の釈によって証明する。これによって、浄土宗の教えが教行証に則った、れっきとした仏教であることを示す以外にはないでしょう。

その内、教は『無量寿経』であると断定されますが、問題は次の行です。

なぜ、凡夫が南無阿弥陀仏と仏名を称えたくらいのことで阿弥陀仏の報土に往生することができるのか。

これに明確に回答し、本願の念仏は弥陀、釈迦、諸仏の本意にかなった大行であり、法然聖人ばかりでなく、インド・中国・日本の高僧方が広く勧められた最高の仏道であると証明しなくてはならなかったわけです。これが「行文類」が撰述された動機です。ですから、「行文類」だけは経典は勿論、七高僧すべての文が引文され、そればかりか広く聖道の祖師方の文までも集められて、選択本願念仏という行法の真実性が証明されているのです。


『教行証文類』は相手が同行や庶民ではなく、聖道諸宗の学僧でしたから、経・論・釈の文を縦横無尽に引いて非常に複雑で重厚な学術書として仕上がっています。ですから、一様な理解を許さないのは当然です。確かにそこに説かれる御文の一つ一つを正確に知るには、その道一筋に何十年も研鑽しなければ分からないものかも知れません。ただ、現段階でも、「行文類」で証明したかったことの一つは、

なんまんだぶは本願力回向の行であって自力の行ではないんだ、どんな行よりも勝れた最高の行なんだ、浄土往生の決定版のおこないなんだ、なんまんだぶの他に「往生のみち」はないんだ

ということに尽きるということは理解できます。それが高僧方の数々の念仏讃仰の文や、「念仏成仏」の法語、選択易行の至極を顕開された行一念釈、そして

これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。

【現代語訳】
これらの経論釈の文は、念仏が真実の行であることを顕す明らかな証文です。これらによって明らかに、念仏は如来が選び取られた本願の行であり、他に超え勝れたたぐいなき行であり、万物が分け隔てなく円に融け合っている真実が顕現している正真の法であり、何ものにも妨げられることなく衆生を救う究極の大行であるということを知ることができました。

決示のお言葉、更には一乗海釈のお言葉などから伺うことができましょう。


こうした大行である念仏には、当然大信を具足しています。その大信を別に開いて顕したのが「信文類」です。念仏という行法の尊高性を示したのが「行文類」とすれば、「信文類」はその法を受け容れる機受の極要を示したものと言えるでしょう。

万人を救う法は成就して届いていても、私が受け容れなければ救いは成立しません。救いの法を信受した時に、万人の往生の道が私の往生の道となります。それで、念仏成仏という法を機の上で適示するならば、信心正因のいわれが自ずから明らかになってきます。こうした念仏成仏と信心正因との交際を明らかにされたのが両重因縁釈でありました。

親鸞聖人の上では、念仏成仏といっても信心正因を離れたものではなく、信心正因といっても念仏成仏の法義から逸脱したものでもありませんでした。それがいつの間にやら、信心正因ばかりが強調されて本願の行である念仏が本願から消えてしまいかねない事態に陥っています。

あるいは「無条件の救い」という表現にこだわっているからなのか、あるいは一切の自力を捨てて他力に帰するという教えを誤解してなのか、真宗には我々の上に「行」が無いかのように説く者、聞く者が一定層いるようです。そのような方々に念仏を勧めると、どうも自力の勧めの如く、あるいは、無条件の救いに私の念仏を足して救いが成立すると言っているかの如く聞こえてしまうようなのです。

念仏は、本願の行として誓われ、私達に与えられている行ですから「不回向の行」であると言われます。それは、「念仏を称える者を極楽に迎える」という本願を受け容れて、その仰せに順って一声、十声、そして一生涯称える本願随順の行でした。要は南無阿弥陀仏につかえている行為であって、自力を募る行、自力の行とは質を異にするものだったのです。


私達は、阿弥陀さまから「なんまんだぶ」という素晴らしい行を与えられているのです。それを疑いを差し挟まずに領受したのが信心であり、届いたまま口に出ているのが称名であって、こうした行も信も「如来の御ちかひ」以外の何物でもなかったのです。私達は本願の仰せのままに「南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず救う)」を受け容れて(信)、仰せのままに称名して(行)、往生を一定と期するべきであります。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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