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【考察】念仏の勧めについて(13)

『飛雲』「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い3

には、高森教の邪義と「念仏の一行」を勧められた七高僧方について書かれています。一部、引用します。

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親鸞聖人も蓮如上人も、念仏の行よりも念仏の信心を強調されただけで、念仏の行を疎かにされることなど少し考えたらあり得ないと判りそうなものですが判らないのでしょう。18願は念仏往生の願と親鸞聖人も蓮如上人も仰っているのですから、念仏の抜けた念仏往生の願とは何ぞやという話です。

親鸞聖人の直接の師匠である法然上人も、そしてその前の高僧方も、念仏だけを勧められて、その教えの通りに親鸞聖人は救われられていますので、親鸞聖人が念仏の行を軽視したり、疎かにしたり、はたまた自力の念仏を貶めることはあろう筈がありません。

ところが高森会長もその信者の愉快な仲間達も、自力の念仏を嫌って、貶め、謗っているのですから、その信心が念仏の信心でないことは明々白々で、彼らの言う信心は、念仏と無関係な外道の信心と言わざるとえません。自力の念仏を称えていても無間地獄だと言って、念仏無間の創価学会のまねをしている信心が、真宗とは何の関係もありません。

ここまで言っても理解も信用もしないでしょうから、親鸞聖人の教えを凝縮された『正信偈』とそれを解説なされた蓮如上人の『正信偈大意』を通して今後説明していきます。

印度西天の論家、中夏日域の高僧、大聖興世の正意を顕し、如来の本誓、機に応ぜることを明かす

ここを蓮如上人は

この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。

と教えられています。

七高僧方は「念仏の一行をすすめ」です。日本語の問題ですが、「念仏をすすめ」と「念仏の一行をすすめ」では意味が違います。
念仏をすすめ」は、念仏を勧められていても、他の行も勧められている可能性はあることになりますが、「念仏の一行をすすめ」は、他の行を勧められていないので、「一行」なのです。勧められる行は念仏のみ、これが歴代の善知識方の共通した教えです。

当然のことで言うまでもないことですが、思考停止の会員のために敢えて言っておきますと、信前の人に対して「念仏の一行をすすめ」です。
要するに、行としては念仏以外には勧められていないのが七高僧であり、親鸞聖人も蓮如上人もそれに倣われているのです。蓮如上人は、往生の業である念仏が信後には報謝の念仏になると言われているのを、信前の念仏を排除されたのだと勘違いして、信前に念仏を勧めるのは間違いだという創価学会並みの教義を振りまわすのが親鸞会です。

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ここで、高森会長の説とA先生の説は全く違います。高森会長は「聞く一つ」と言いながら、説くべき仏願の生起本末、南無阿弥陀仏の六字のこころを正しく説きません。因果の道理を強調して雑行を勧める教え、宿善を厚くせよという教え、三願転入の教え等、邪義を織り交ぜて聞く者を騙し続けています。対してA先生は

・南無阿弥陀仏が往生の証拠
・弥陀をたのむとは「阿弥陀仏にまかせる」ということだ
・「我にまかせよ、必ず助ける」との仰せが届いているから安心せよ
・諸仏が称讃称揚する南無阿弥陀仏を聞いて信心歓喜乃至一念する
・本願の仰せが届いていると信じられたならこちらの計らいは要らんでしょ

(※私が聞いた内容の一部です。なお、不正確な部分があるかも知れません)

等と教えられています。この部分に関しては高森会長の邪義とは全く異なります。私も、ここは特に異論はありません。異論があるのは、

・阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない
・阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない


等という主張に関してです。せっかく上記のように教えられていながら、なぜこうなってしまうのかと残念です。

A先生からは、念仏を否定する言葉や、「信前に念仏を勧めるのは間違いだという創価学会並みの教義」を直接説いている発言は聞いたことがありません。ところが、彼の発言は本願から念仏を抜いてしまっているも同然であり、またA先生の主張からは、信前は聞名の勧めのみで称名の勧めは無いと主張しているようにしか聞こえないのです。


ですが、蓮如上人は七高僧方の勧めは「念仏の一行」であったと言い切り、

「弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」といふは、弘経大士といふは、天竺(印度)・震旦(中国)・わが朝の菩薩・祖師等のことなり。かの人師、未来の極濁悪のわれらをあはれみすくひたまはんとて出生したまへり。しかれば道俗等、みなかの三国の高祖の説を信じたてまつるべきものなり。さればわれらが真実報土の往生ををしへたまふことは、しかしながらこの祖師等の御恩にあらずといふことなし。よくよくその恩徳を報謝したてまつるべきものなり。

とも教えられています。親鸞聖人も蓮如上人も、「念仏の一行」を勧められた「かの三国の高祖の説を信じたてまつるべきものなり」と教えられていることが判ります。平生業成の立場であるはずの親鸞聖人、蓮如上人がこう仰っているのですから、浄土真宗の教えから「念仏の一行」の勧めを抜くことはできません。

こうした「念仏の一行」の勧めは、その根源は弥陀の本願にあったということは以前に述べた通りです。

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

からこその釈尊始め諸仏の称揚讃嘆であり、浄飯王への念仏三昧の勧めであり、七高僧方の「念仏の一行」の勧めなわけです。もし根源である弥陀の本願に念仏の勧めが誓われていなければ、これらは一切あり得なかったでしょう。当然ながら、いま私の口から出ているなんまんだぶも無かったのです。ということは、A先生が強調している

いまの南無阿弥陀仏『御文章』4帖目8通

は無かったことになります。


なお、引用部分と重なりますが、善知識方は信前の人に対して「念仏の一行をすすめ」です。この念仏は当然ですが、内に本願を疑いなく受け容れた信心を具足した他力の念仏です。

信前の人に対していきなり他力の念仏と思われるかも知れませんが、本願とは噓や偽りや裏切りがつきものの人間の言葉ではありません。阿弥陀仏という真実の仏様の、真実の言葉です。それを私達の方で疑ったり計らったりするというのはまことに失礼なことです。仏様の真実の言葉に対しては、さかしまな凡夫の計らいをまじえずに、仰せを仰せのままに受けるべきだからです。仏様の仰せに対して計らいをまじえないことを他力というと親鸞聖人は仰せられました。

「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。
(乃至)
この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。
尊号真像銘文』

また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。『末灯鈔』2通

他力の行信の内、特に「本願を疑いなく受け容れた信心」を別に開いて明らかにして下さったのが親鸞聖人、蓮如上人であって、信前の称名を排除したり、聞名のみすればよいので称名は要らないと言ったり、そもそも阿弥陀仏は称名せよとは仰せでないなどと主張されることは御二方の上には決してありませんでした。

聞名ばかり強調して称名を本願から抜いてしまう先生には、今一度、七高僧方から親鸞聖人への伝承を学び直し、一心一行を勧められたのが親鸞聖人であると理解して頂きたいものです。そうであったならば、あのような発言は出てこなかったでしょうに・・・。
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No title

>信前の称名を排除したり、聞名のみすればよいので称名は要らないと言ったり、そもそも阿弥陀仏は称名せよとは仰せでないなどと主張されることは御二方の上には決してありませんでした。

この部分は、阿弥陀仏や御二方は「自力の称名を勧めている」という趣旨ですか?

Re: わかりません様

違います。たとえ自力の称名だからとて称えるなとは教えられていないということです。

阿弥陀仏、釈尊、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人、いずれも他力の称名を勧めています。ところが実際問題として、本願の仰せを疑いなく聞いて、自力を捨てて他力に帰するまでは自力の称名に陥ってしまうという現実があります。しかし、そういった信前の称名を排除したり、自力の称名だから称えてはならないと称名自体を押し留めるようなことは教えられていないということです。

No title

ご回答ありがとうございました。
では、自力の称名を称えている人には、何を伝えるのですか?

Re: わかりません様

信心の体である南無阿弥陀仏の六字のこころを伝えたらよいと思います。

No title

ご回答有り難うございました。

>信心の体である南無阿弥陀仏の六字のこころを伝えたらよいと思います。
この御回答の趣旨は、親鸞聖人が「本願招喚の勅命」とされていることを伝えたらよいという事ですか?

Re: わかりません様

本願招喚の勅命であるだけでなく、発願回向と即是其行の意もあることを伝えたらよいと思います。

阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではないなどという珍説は、「帰命は本願招喚の勅命なり」の誤読が元ですからね。その後の聖人のお言葉も合わせて領解することで、我々が普段称えている称名がどのような意義をもっているのかを教えられたのが「親鸞聖人の六字釈」であり、

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

と言いたくて釈を施されたわけではないことが判ると思います。ちなみにですが、わかりませんさんは、今問題にしているようなA先生の説を正しいと思っているのですか? 見解を教えて下さい。

No title

私の考えについては、別途、お伝えします。

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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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