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【考察】念仏の勧めについて(14)

本日は、龍樹菩薩の「念仏の一行」の勧めを見てみたいと思います。まず、

『飛雲』「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い4

より一部引用します。

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念仏の一行をすすめられた七高僧方が、具体的にどう教えられたのかを龍樹菩薩から順に見ていきます。

『正信偈』の

難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ

を蓮如上人は『正信偈大意』で

かの龍樹の『十住毘婆沙論』に、念仏をほめたまふに二種の道をたてたまふ。一つには難行道、二つには易行道なり。その難行道の修しがたきことをたとふるに、陸地のみちを歩ぶがごとしといへり、易行道の修しやすきことをたとふるに、水のうへを船に乗りてゆくがごとしといへり。

と解説されています。
龍樹菩薩は、「難行道」という諸善と「易行道」という念仏を対比されて、「易行道」の念仏を褒め称えておられると仰ったのです。「修しやすき」ですから、行です。「念仏をほめたまふ」であって、「本願をほめたまふ」「信心をほめたまふ」と仰っていないところが重要です。

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蓮如上人はA先生式に言えば「平生業成の立場」の方ということになりますが、その蓮如上人が、龍樹菩薩はこのようにして念仏を誉め讃え、「念仏の一行」を勧められた、この龍樹菩薩の説を信じなさいと仰っていることになります。


親鸞聖人は、龍樹菩薩の「念仏の一行」の勧めを「行文類」に引いておられますが、それを分かり易く

本師龍樹菩薩は
 『智度』『十住毘婆沙』等
 つくりておほく西をほめ
 すすめて念仏せしめたり

本師龍樹菩薩は
 大乗無上の法をとき
 歓喜地を証してぞ
 ひとへに念仏すすめける

本師龍樹菩薩の
 をしへをつたへきかんひと
 本願こころにかけしめて
 つねに弥陀を称すべし

不退のくらゐすみやかに
 えんとおもはんひとはみな
 恭敬の心に執持して
 弥陀の名号称すべし

一切菩薩ののたまはく
 われら因地にありしとき
 無量劫をへめぐりて
 万善諸行を修せしかど

恩愛はなはだたちがたく
 生死はなはだつきがたし
 念仏三昧行じてぞ
 罪障を滅し度脱せし
(以上、『高僧和讃』より)

と教えられています。勿論、その念仏は「本願こころにかけしめて」「恭敬の心に執持して」とあるように他力の念仏であることは言うまでもありません。Abcさん、もしご覧になっていましたら、和讃の解説をお願いします。

親鸞聖人も、A先生式に言えば「平生業成の立場」の方ということになりますが、龍樹菩薩の「念仏の一行」の勧めを称讃し、『正信偈』ではこうした龍樹菩薩の教えを信じなさいと勧められています。


平生業成とは、念仏往生の法義を正しく言い表した言葉であって、念仏往生の法義と離れたものではありません。「本願の念仏はわずか一声する者も必ず往生成仏させるはたらきを持つ正定業である」という信心の定まった平生の一念に往生がはや決まってしまうことを、臨終業成に対して平生業成というのです。念仏往生と平生業成を別々の二つのことだと捉えるところに、間違いが発生する元があるのでしょう。

信心とは、南無阿弥陀仏の六字に込められた心を正しく領受することですから、私達にとっては念仏のこころを聞くことが肝要となるわけですが、だからといって称名する必要はないとか、称名せよと仰せでないということでは決してありません。あくまでも、「いまの南無阿弥陀仏」、すなわち私達の口にいま現れ出ている称名念仏、いま称名の声となって耳に聞こえ届いているなんまんだぶの心を聞くのです。

念仏はお前が勝手に称えているのでも、お前の往生させてくださいという祈りでもない。まして、人間の欲望を満たす道具でもない。お前を必ず浄土に連れていくから、安心して我にまかせよと喚び続けている阿弥陀仏の本願の仰せなのだよ。その阿弥陀仏の仰せが、いまお前の口に念仏の声となって届いているのだよ。だから、ただ阿弥陀仏の仰せを計らいをまじえずに受け容れなさい、それがすなわち信心です、ということです。

そのように南無阿弥陀仏の六字を領受し、仰せのままに称名させて頂く。これが真宗の信心であり念仏です。これを宗教詩として顕されたのが『正信念仏偈』でありましょう。正信念仏偈とは、本願を正信し念仏する偈とも、本願の念仏を正信する偈とも読むことが出来ます。いずれにせよ、本願の行信偈であります。

私達は『正信念仏偈』にあるように、ただ「念仏の一行」の勧めを説かれた高僧方の説を信じ、仰せの通り称名すべきであります。これが真実の行信、他力の行信です。
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Abcです

こんばんわ、Abcです。
『和讃』+αについて 示しました。御一読いただけると幸いです。

「→」:書き下し 、 「⇒」:解説(Abcの解説) とする。


本師龍樹菩薩は 『智度』『十住毘婆沙』等
 つくりておほく西をほめ すすめて念仏せしめたり

→本師・龍樹菩薩は、『智度論』や『十住毘婆沙論』などを著され、
 幾多も西を褒められ よく念仏をなされた。

本師龍樹菩薩の をしへをつたへきかんひと
 本願こころにかけしめて つねに弥陀を称すべし

→本師・龍樹菩薩の教えを伝える人や聴く人は、
 本願をこころに掛けて つねに弥陀の名を称えなさい

⇒「本願こころにかけしめて」といういわれは蓮如上人が懇ろになされているいいまわしでもある。『御文』には、

 「されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。」(「白骨の章」より) とある。

不退のくらゐすみやかに えんとおもはんひとはみな
 恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし

→ 阿弥陀さまの浄土へすぐに生まれようと思われた方は、
 ふたごころなく強く持たれて 阿弥陀さまの名をとなえなさい

⇒「恭敬の心」については以下に示す。ここでも「称名」だけではなく、
「恭敬の心 と 称名」として記されている。


⇒今しがた蓮如上人が、「かの龍樹の『十住毘婆沙論』に、念仏をほめたまふに二種の道をたてたまふ。一つには難行道、二つには易行道なり。その難行道の修しがたきことをたとふるに、陸地のみちを歩ぶがごとしといへり、易行道の修しやすきことをたとふるに、水のうへを船に乗りてゆくがごとしといへり。」と言われているように、

 『十住毘婆沙論』にて易行道と難行道の二道をたてられました。また、この書物には「稽首したてまつる」、「恭敬したてまつる」、「一心にしたてまつる」と様々ないわれをしていますが、ともに「ふたごころなく」といういわれである。

「稽首したてまつる」:十方の仏称讃したまふ。このゆゑに稽首し礼したてまつる。

「恭敬したてまつる」:もし人疾く不退転地に至らんと欲せば、 恭敬心をもつて、執持して名号を称すべしと。

「一心にしたてまつる」:阿弥陀等の仏およびもろもろの大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得。また阿弥陀等の諸仏ましまして、また恭敬礼拝し、その名号を称すべし。

とある。(上の文は「例の1つ」として挙げたものであり、『十住毘婆沙論』には他にも同様の言い回しで、記されている。


本師龍樹菩薩は 大乗無上の法をとき
 歓喜地を証してぞ ひとへに念仏すすめける

→本師・龍樹菩薩は 阿弥陀さまの本願をとかれ、
 歓喜地をあらわされ ただ、念仏ひとつをすすめられた

⇒ここも、「ただ、念仏ひとつをすすめられた」とあり、飛雲さんがついでいわれている「「易行道」の念仏を褒め称えておられると仰ったのです。「修しやすき」ですから、行です。」とありますように、「念仏一行」です。

 そもそも、蓮如上人も「「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機」といふは、印度西天といふは天竺なり、中夏といふは唐土(中国)なり、日域といふは日本のことなり。この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。」とありますところの、

「この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたること」と「念仏の一行を勧められたこと」が言われています。


一切菩薩ののたまはく われら因地にありしとき
 無量劫をへめぐりて 万善諸行を修せしかど
恩愛はなはだたちがたく 生死はなはだつきがたし
 念仏三昧行じてぞ 罪障を滅し度脱せし

→総ての菩薩が、「私たちが因位の時にある時に、私の力にて諸善をおこなおうとしましたが、 煩悩(恩愛は「愛着」「愛慕」などであり「行者おのおのの心」である。)はとても断ち切ることが難しく、 (その果(自因自果 の 果)である)生死もとても離れるものではなかった 念仏三昧(ねんぶつざんまい / 念仏ばかりを行う事、「念仏一行」におなじ)を行ってこそ、 つみとがが滅し済度させていただくのである」と言われました。

⇒ 「罪障を滅し度脱せし」について別の『浄土和讃』には

 清浄光明ならびなし 遇斯光のゆゑなれば
 一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ 

→清らかなお働きに並ぶものがない(比べるべきものがない) 「阿弥陀さまにあわれる」ということであるから、 一切のつみとがも除かれる 「最後の依りどころ」を帰命しなさい。

 南無阿弥陀仏をとなふれば この世の利益きはもなし
 流転輪廻のつみきえて 定業中夭のぞこりぬ

→名号を称えたならば、 阿弥陀さまの功徳利益には、限りがない
 生死輪廻のつみとがが消えて (行者自らの業にて)定まっている「いのちの長さ」(定業)や早死に(中夭)が除かれる

とも言われている。あわせてご覧いただきたい。

なもあみだ、なもあみだ
 Abc

Re: Abc様

早速コメントして下さりありがとうございます。
今後も和讃を取り扱っていくつもりですので、よろしくお願いいたします。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

Abcです

こんばんわ、Abcです。

御一読いただきありがとうございます。私のブログが充実してきましたら「此処にありますよ」とリンクを張るのですが、まだ、充実しておらずしばらくはこちらに従来通り記させていただきます。

 さて、先ほどの「和讃の解説」のうち、「恭敬」「稽首」「一心」の下りにて

ーーー

>「稽首したてまつる」:十方の仏称讃したまふ。このゆゑに稽首し礼したてまつる。

>「恭敬したてまつる」:もし人疾く不退転地に至らんと欲せば、 恭敬心をもつて執持して名号を称すべしと。

>「一心にしたてまつる」:阿弥陀等の仏およびもろもろの大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得。また阿弥陀等の諸仏ましまして、また恭敬礼拝し、その名号を称すべし

ーーー

と記しました。今は分かりやすく、太字にしてありますが、
名号を称すべし」とあります。

また、最後の「一心」のところには、「阿弥陀さまやそのほかもろもろの仏がいらっしゃって、共にうやうやしく礼し、(共に)その名号を称えられます」と言われています。

 そもそも論あり、淳心房さんは『【考察】念仏の勧めについて(12)』にてすでに言われていますが、「十方の仏称讃したまふ 、 阿弥陀等の諸仏ましまして、また恭敬礼拝し、その名号を称すべし」とは、17願「諸仏称揚の願」と『大行釈』にていわれている通りであります。

また、これを「あり体にあらわす」と、

阿弥陀仏は(諸仏と共に)わが名を称えよと仰っている

というのは、今示した『文献』から「まことに知んぬ」ですね。

なもあみだ、なもあみだ
 Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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