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【考察】念仏の勧めについて(12)

釈尊が阿弥陀仏の第十七願によってこの娑婆世界に応現し、『無量寿経』を説いて阿弥陀仏の本願真実の救いを説かれたように、十方世界に数限りなくまします諸仏方も、阿弥陀仏の本願真実を広く説かれています。「教文類」にはそれを讃えて

十方称讃の誠言

と仰せられています。それは具体的には第十七願成就文

十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。

や、『阿弥陀経』にある六方諸仏の証誠の教説に顕れています。


「化身土文類」では、『観経』に準じて考えてみると『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義があるとして、親鸞聖人は経に顕わに説かれている教えと、ひそかに説かれている真実義についてこのように述べられています。

顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(同・意)といへり。

これはこれこの『経』(小経)の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。ゆゑに甚難といへるなり。釈(法事讃・下)に、「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」といへり。これはこれ隠彰の義を開くなり。

『経』(小経)に「執持」とのたまへり。また「一心」とのたまへり。「執」の言は心堅牢にして移転せざることを彰すなり。「持」の言は不散不失に名づくるなり。「一」の言は無二に名づくるの言なり。「心」の言は真実に名づくるなり。この『経』(小経)は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。しかれば如来、世に興出したまふゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。ここをもつて四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。
「化身土文類」三経融会問答

【現代語訳】
その顕についていうと、釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。このようなわけで、『阿弥陀経』には、「念仏は多くの功徳をそなえた行である」と説かれ、善導大師の『法事讃』には、「さまざまな自力の行を修めるものもみな念仏することによって不退転の位を得るがよい」といわれ、また「念仏して西方浄土に往生する教えにまさるものはない。少ししか念仏しないものまで、阿弥陀仏は来迎して浄土に導いてくださる」といわれている。

以上は『阿弥陀経』の顕の義を示すものである。これが真門の中の方便である。その彰とは、自力の心では信じることができない他力真実の法を彰すものである。これは不可思議の本願を明らかに説き示して、何ものにもさまたげられることのない他力信心の大海に入らせようという思召しである。まことにこのお勧めは、あらゆる世界の数限りない仏がたのお勧めであるから、信心もまた数限りない仏がたにたたえられる信心である。だから自力の心では、この信心を得ることなどとうていできないというのである。善導大師の『法事讃』には、「仏がたは次々世に出られて、その本意である阿弥陀仏の本願を重ねてお説きになり、凡夫はただ念仏して、ただちに往生させていただくのである」といわれている。これは隠彰の義をあらわすものである。

『阿弥陀経』には「執持」と説かれ、また「一心」と説かれている。「執」という言葉は、心がしっかりと定まって他に映らないことを顕している。「持」という言葉は、散失しないことをいうのである。「一」という言葉は、無二すなわち疑いがないことをいうのである。「心」という言葉は、真実であることをいうのである。『阿弥陀経』は、大乗経典の中で、問うものがいないのに仏が自ら進んで説かれた教典である。だから、釈尊が世にお出ましになったのは、あらゆる世界の数限りない仏がたがこれこそ真実の経典であると明かしてお護りくださる本意、すなわちただ他力真実の法を明らかにすることにあるのである。このようなわけで、すべての衆生のよりどころとなる浄土の教えを広めてくださったインド・中国・日本の七人の祖師方は、他力念仏を説き示し、五濁の世のよこしまな心を持つ人々を導かれるのである。


『阿弥陀経』の顕説は自利一心の自力念仏往生ですが、隠彰の義では諸仏に讃えられ、護念せられる執持、一心による他力念仏往生が説かれているというのです。だから七高僧方は

真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く

と仰せられ、他力念仏を説き示し、五濁の世のよこしまな心を持つ人々を導かれたのだと教えられています。


ポイントなのは、ここは『大経』『観経』の三心と、『小経』の一心の一異を問題にされた問答、つまり信心を問題にされた問答でありながら、念仏についても書かれているということです。念仏と信心は切り離せないのです。真宗の信心は、念仏を称える際の信心であって、念仏を抜きにした信心ではありません。

他力真実の一心が「恒沙の勧め」であるということは、同時に他力真実の一行である「真宗念仏」もまた「恒沙の勧め」であるということです。それゆえ、親鸞聖人は念仏諸善比挍対論において

勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。
証不証対、念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。
讃不讃対、念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。


等と顕されたのでした。本願の念仏は、十方の諸仏方が証誠している真実の法なのです。それは勿論、

自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。


とあるように、阿弥陀仏自身が説かれ、選び取られ、本願に誓われた行法だったからです。要するに、

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

から、諸仏が名号を讃嘆し、念仏を勧めるのでした。私達も諸仏のお勧めに順って、本願を計らいをまじえずに受け容れて(真実の信心で)、仰せの通りお念仏申しましょう。
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存在の分析<アビダルマ>

ども、林遊@なんまんだぶです。

櫻部建師を知ったのは、体系的に仏教思想を俯瞰してみようと、『仏教の思想 第2巻 存在の分析<アビダルマ>』上山春平共著を読んだ時でした。
「存在の分析」という語に引かれたのですが、もちろん読んでもサッパリ解りませんでしたが、仏教語の語彙を知るには役立ちました。
「仏教の思想シリーズ」12巻は、角川文庫本で現在でも入手可能です。興味のある巻を読むのもありです。

仏教の思想 1 知恵と慈悲<ブッダ>
仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ>
仏教の思想 3 空の論理<中観>
仏教の思想 4 認識と超越<唯識>
仏教の思想 5 絶対の真理<天台>
仏教の思想 6 無限の世界観<華厳>
仏教の思想 7 無の探求<中国禅>
仏教の思想 8 不安と欣求<中国浄土>
仏教の思想 9 生命の海<空海>
仏教の思想 10 絶望と歓喜<親鸞>
仏教の思想 11 古仏のまねび<道元>
仏教の思想 12 永遠のいのち<日蓮>

ただ注意すべきは、日渓法霖師が、

 今宗の学者、 大蔵中の三部を学ぶなかれ、 須(すべから) く三部中の大蔵を学ぶべし。 三部は根本なり。 大蔵は枝末なり。 今の人、 三部を以て小となし、 大蔵を大となす、 謬れるというべし。

という視座で読めば、御開山の仏教思想上での視点が解るかもです。

で、話の腰をへし折りますが、『存在の分析<アビダルマ>』を述した仏教学者である櫻部建師は、結局は、念仏(なんまんだぶ)することをおすすめでしたです。
こういうところが、学問と実践ということの違いなのですが「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」などという教化をしている輩は「観念の遊戯」をしているのだと思ふ。

「櫻部 建さん「修行の道、念仏の道」
http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/sakurabe.htm

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

興味深いですね。中古でも売っているので、今後何冊か買って読んでみたいものです。

櫻部 建さん「修行の道、念仏の道」
読みました。私もよく自転車や自動車に乗っている時にお念仏申しています。念仏して浄土へ参ることが阿弥陀仏より与えられた私の生きる道であると知らされます。
A先生が観念の遊戯かどうかは確かめようがありませんが、ともかく本願から念仏を抜いてしまうような発言は撤回し、厳に慎むべきであると思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

絶対の真理<天台>

ども、林遊@なんまんだぶです。

御開山は天台の学僧でしたから「仏教の思想 5 絶対の真理<天台> 」を読むことはお勧めです。

なお、本願寺には「総合研究所」(旧 教学研究所)という組織があり、電話で教学相談ができます。
http://j-soken.jp/category/ask/ask_2

実名と住所を伝えれば、約一か月後に文書で回答がもらえます。何回か問い合わせをし文書で回答を得た経験があります。
で、「あさ川進の、宗教と私」のブログのURLを示し、Aさんが「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」と言っているのだが、如何なものかと問い合わせをしてみました。林遊はアホですから、Aさんは、あまりにも空華の「法体名号」に捉われて、門徒の口に称えられる〔なんまんだぶ〕を軽視しているのではないか?とぐちゃぐちゃ語ったのですが、Aさんの発言を正確に伝達することが出来ない為に、「あさ川進の、宗教と私」のブログのAさんの「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という発言をネットの資料として提示するから、それに対する浄土真宗本願寺派「総合研究所」の見解を伺いたいとしておきました。
ただ、著作権法上の制約があるので、まとめとしてAさんの発言をコピペすることには若干の躊躇があり、Aさんの発言に疑義を呈して正法誹謗とまで言われた淳心房さんにおいては、当事者ですから事の経緯である「あさ川進の、宗教と私」のブログの内容を引用する権利があると思ふので、当該ブログの文章を転載して頂ければ、第三者として「総合研究所」への問い合わせが可能です。
もちろん「総合研究所」が、ご法義の内容を裁定するのではないのですが、一つのけじめとして「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」というAさんの語に対する見解を問うこともありでしょう。

ちなみに、林遊は、なんまんだぶ育ちですから「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という坊主に対してはブチ切れていますです(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 御開山は天台の学僧でしたから「仏教の思想 5 絶対の真理<天台> 」を読むことはお勧めです。

ではまずこれを読んでみます。先ほど注文しました。


> 本願寺には「総合研究所」(旧 教学研究所)という組織があり、電話で教学相談ができます。

そういう手段があるのですね。
ただ、まぁこの問題に関しては聖教に照らして明らかにA先生が間違っていますから(笑)
間違っていない、正しいというなら、聖教の根拠を提示して頂きたいものです。勿論、親鸞聖人の六字釈をもって根拠とはなりません。どこにも「念仏を称えよと仰っていない」なんて書かれていませんので。

世俗の仕事をせずに浄財だけで生活しているんですから、自説に執着することなく、親鸞聖人の教えを正しく説いてもらいたい。そして多くの同行を浄土へ導いてもらいたい。私が望むのはこれだけす。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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