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【考察】念仏の勧めについて(19)

今回は善導大師です。まずは善導大師の第十八願観から伺います。

善導大師はしばしば第十八願(意)を引かれています。

(1)一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」と。「玄義分」一々の願にのたまわく

(2)また摂生増上縁といふは、すなはち『無量寿経』(上・意)の四十八願のなかに説きたまふがごとし。「仏のたまはく、〈もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」(第十八願)と。これすなはちこれ往生を願ずる行人、命終らんと欲する時、願力摂して往生を得しむ。ゆゑに摂生増上縁と名づく。 『観念法門』摂生縁

(3)願はくはもろもろの行者、おのおのすべからく心を至して往くことを求むべし。また『無量寿経』(上・意)にのたまふがごとし。
「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現に世にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。
『往生礼讃』後述

【現代語訳】
願わくは多くの行者よ、それぞれにみな仏の真実のお心をいただいて往生を求めよ。また『無量寿経』に説かれている阿弥陀仏の本願には、<わたしが仏になったとき、すべての世界の衆生が、わたしの名号を称え、それがわずか十声ほどのものであってもみな往生させよう。もしそうでなければわたしはさとりを開くまい>と誓われている通りである。阿弥陀仏は今現に成仏しておられる。だから、深重の誓願は間違いなく成就されており、衆生が念仏すれば、必ず往生できると知るべきである。

調べた限りではこの3つですが、他にまだあればコメントにてお知らせ下さい。記事に加えます。

親鸞聖人は(2)と(3)の文を「行文類」に引いて、真実行を証明されています。

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

と善導大師は教えられ、その教えを親鸞聖人も引き継がれていることは明白です。


もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ


これがいわゆる「本願取意の文」でして、大胆にも大事な信心を抜かして、念仏のみで本願を語られています。このような解釈は大信海化現の善導大師でなければとてもできない註釈であります。深重なる誓願は間違いなく成就し、阿弥陀仏は今現に成仏しておられるから、衆生が念仏すればその本願力によって必ず往生できるというのです。

摂論が中国に伝わって以来、「摂論宗の論文を見た者は念仏を称えなくなってしまった」と伝えられるほど壊滅的な打撃を受けた浄土教ですが、この善導大師の力強い断言に、再び念仏の教えが息を吹き返したのです。善導大師の教えが懐感禅師や後善導と讃えられる法照法師を輩出し、日本に至って源信僧都や法然聖人という偉大な念仏者を出現させたといっても過言ではないでしょう。親鸞聖人が『正信偈』に

善導独明仏正意

と讃えられるのも故あることであります。


ではこの場合、信心はどうなるのかという話ですが、それについて以下の問答があります。

ある人問ていはく、善導本願の文を釈し給ふに、至心信楽欲生我国の安心を略したまふ事、なに心かあるや。
答ての給はく、衆生称念必得往生としりぬれば、自然に三心を具足するゆへに、このことはりをあらはさんがために略し給へる也。
『和語灯録』諸人伝説の詞

衆生称念すれば必ず往生を得ると知ったならば、本願の自ずからなる計らいによって本願の三心を具足するという道理をあらわすために、善導大師は第十八願の中で一番大切なはずの三心を省略し、ただ称名のみで本願を語られたというのです。また、法然聖人には以下のようなお言葉も見られます。

しかるに「彼仏今現在成仏」等の釈を信じて、一向に名号を称すべき也と云。ただ名号をとなふるに、三心おのづから具足する也と云り。『西方指南抄』

「彼仏今現在成仏」等の釈を信じて、ただ念仏を称えるところに自ずから三心が具足するというのです。本願を信ずることと、念仏を行ずることとは別々のことではありません。三心といっても「名号を称える者を往生させよう」という本願を疑いなく受け容れていることをいうのですから、本願に信順することとは、本願にまかせてはからいなく念仏することであり、仰せにしたがってただ念仏しているすがたこそ、本願の仰せを疑いなく信じているありさまです。

ですから、信心を抜いているといっても、それは本当に信心を抜いたり、軽んじたり、「信じよと言われてない」ということではありません。実際に善導大師は、有名な二種深信の文や『礼讃』における観経の三心の文を書かれ、また三心の内一心でも欠けたら往生できないと信心の重要性を訴えられていることはご承知の通りです。


親鸞聖人は、法然聖人の真影(肖像画)の銘として、南無阿弥陀仏の名号と上に示した『往生礼讃』の御文

若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生

を法然聖人の御真筆でもってお書き頂いています。そして『選択集』を書写し、真影を写させて頂いたことを

しかるにすでに製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。よりて悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す。

と震えるような感動をもって記されています()。ところで、『選択集』については

真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。

と絶賛しています。その『選択集』は当然ながら念仏往生の法義を説いた聖典です。この『選択集』の真実性を顕かにするために親鸞聖人がお書き下されたのが『教行証文類』ですが、その後序において、親鸞聖人はこのように語られているのです。親鸞聖人が

念仏を称えて往生(成仏)
阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている


という教えを頂かれ、継承されたことは紛れもない事実だと判ります。



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>大無量寿経が真実の教。真実の教は、方便の教に対して、真実の教と言ったんです。ここで言う方便の教とは何か言ったら、観無量寿経と阿弥陀経なんです。

>観無量寿経と阿弥陀経は方便の教であって、大無量寿経が真実だっていう立場。

今回は、こんなことを言っていたそうです。
観無量寿経と阿弥陀経の隠顕を知らないようです。

恥ずかしくないのでしょうか。

Abcです

サブタイトル:明信さんが提示された文章を受けて

こんばんわ、Abcです。
Aさんの発言の提示、ありがとうございます。
以下に、「その意見を受けて」の、いうなれば感想を記しますのでよかったらご一読ください。
 あと、「件の発言を、「私だったらどう説明するか」という試み」も行ってみます。

>>大無量寿経が真実の教。真実の教は、方便の教に対して、真実の教と言ったんです。ここで言う方便の教とは何か言ったら、観無量寿経と阿弥陀経なんです。
>>
>>観無量寿経と阿弥陀経は方便の教であって、大無量寿経が真実だっていう立場。

→明信さんもご指摘の通り、「隠顕」と言う事があるので、単に「方便」と言う事で片付けるのはどうかと思いますが、今回の発言は「おもいっきり間違っている」とも言えないのも事実です。

親鸞は『三経往生文類』にて、
 「観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。 これを双樹林下往生と申すなり。」

 「弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智疑惑して信受せず如来の尊号おのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。」

とそれぞれ言われています。

次に「もし、私が説明するならば」という仮定で説明します。

ーーー
 大無量寿経が真実の教である。ということは親鸞が主著『教行証』で言われている通りであります。「真実」の語は「方便」に対して、いわれている言葉です。
ここで言う方便の教とは、『観経』と『阿弥陀経』にあたりますが、これらにはそれぞれ「隠顕」といういわれがあります。
 『観経』では、「万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむる」と言ういわれでこちらは確かに「方便」ですが、
 『観経四帖疏』には
 「いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。

南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。 「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。」 と顕されております。
 ここに顕された、「南無阿弥陀仏」は「真実」であります。

また、『阿弥陀経』にも同様のことが言えますが、
源空聖人の『選択集』には、「若一日 ... 一心不乱」の箇所を説明する文として

 「念仏をもつて多善根となし、雑善をもつて少善根となす文。

 『阿弥陀経』にのたまはく、「少善根福徳の因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず。舎利弗、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持して、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、心を一にして乱らずは、その人命終の時に臨みて、阿弥陀仏もろもろの聖衆と現じて、その前にましまさん。この人終時に心顛倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得」と。

 善導この文を釈していはく(法事讃・下)、

「極楽無為涅槃の界には、縁に随ふ雑善はおそらくは生じがたし。
ゆゑに如来(釈尊)、要法を選びて、教へて弥陀を念ぜしむること専にしてまた専ならしむ。
七日七夜、心無間なれ。長時に行を起すもますますみなしかなり。
終りに臨みて聖衆、華を持ちて現じたまふ。身心踊躍して金蓮に坐す。
坐する時にすなはち無生忍を得。一念に迎へ将て仏前に至る。
法侶衣をもつて競ひ来りて着す。不退を証得して三賢に入る」と。
 わたくしにいはく、「少善根福徳の因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず」といふは、諸余の雑行はかの国に生じがたし。
ゆゑに「随縁雑善恐難生」といふ。少善根とは多善根に対する言なり。
しかればすなはち雑善はこれ少善根なり、念仏はこれ多善根なり。
ゆゑに龍舒の『浄土文』にいはく、「襄陽の石に『阿弥陀経』を刻れり。
すなはち隋の陳仁稜が書けるところの字画、清婉にして人多く慕ひ玩ぶ。〈一心不乱〉より下に、〈専持名号以称名故諸罪消滅即是多善根福徳因縁〉といふ。今世の伝本にこの二十一字を脱せり」と。{以上}
ただ多少の義あるのみにあらず。また大小の義あり。いはく雑善はこれ小善根なり、念仏はこれ大善根なり。
また勝劣の義あり。いはく雑善はこれ劣の善根なり、念仏はこれ勝の善根なり。その義知るべし。」

と「念仏は多善根である」とされています。ただ、親鸞は「それでも自力が有るうちは胎宮である」と『化土巻』にて記されております。

 よって、「おのれが善根として修する」ことは「方便」であるが、その中にある「称名」は「真実」であると、顕されました。

 以上の謂れでありますから、『観経』や『弥陀経』は「方便である」とはいわれますが、それすべてが「方便」ではなく「真実」もまた顕されているのです。
ーーー


と伝えますかね。「隠顕」と言う事を伝えるためにどうしても文が長くなってしまいますが、まずはこの説明を聞いていただいて、次に各々質問をいただいて、適時追加と言う感じですかね。

 長文、失礼しました。

なもあみだ、なもあみだ
 Abc

Re: 明信様

観無量寿経と阿弥陀経の隠顕について知らないということはないのでしょうが、自説を貫くためにずっとこの話をしています。元々会員さんも指摘されていますが、

・観経の真実だけを、善導大師と法然聖人が教えられ、観経には方便の義もある(もちろん真実の義もある)と教えられたのが親鸞聖人

・観経に真実と方便がある。
観経の真実は、「弥陀大悲の本願」つまり念仏往生の十八願。
観経の方便は、「定散諸善」つまり諸行往生の十九願。
観経が方便じゃなく、観経の方便(十九願意)があると教えられたのが親鸞聖人。

ということですね。この話がA先生にはありません。観無量寿経といったら方便という説明のみです。

それで「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」と主張するのは仏説、師説に反するというのが私の見解ですが、どうも先生や信奉者の皆さんにはご理解頂けないようで残念です。

『大経』はこれ念仏の根本なり

ども、林遊@なんまんだぶです。

Aさんは、もの凄い勘違いをしているのかな。
そもそも論だが、善導大師は『無量寿経』に据わって『観経疏』を著されたのでした。
ですから『観経』を「仏説無量寿観経一巻」とされておられます。(釈名門p301)

ようするに、第十八願の乃至十念が、称名の、なんまんだぶであることを『観経』によってあらわそうとされているのでした。

それが、

 その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。 「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。
 弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%B3%E7%B5%8C%E7%96%8F_%E7%8E%84%E7%BE%A9%E5%88%86_(%E4%B8%83%E7%A5%96)#.E8.A6.81.E5.BC.98.E4.BA.8C.E9.96.80

の要弘二門釈でした。
『観経』は、釈迦・弥陀の二尊経といわれ、釈尊は韋提希の請によって定善・散善を説かれましたが、釈尊が『観経』を後世に流通するにあたって、

 仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%8F%E8%AA%AC_%E8%A6%B3%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C#.E6.B1.9D.E5.A5.BD.E6.8C.81.E6.98.AF.E8.AA.9E

と、なんまんだぶを称えることを付属されたのでした。
この意を善導大師は、

 六に「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。
上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

と、釈尊は、『大経』の第十八願の「乃至十念」を誓われた意に対望して、自らが説いた定善・散善を廃して、称名のなんまんだぶ一行を付属されたとみられたのでした。

法然聖人は、これを承けられて、

 わたくしにいはく、おほよそ三経の意を案ずるに、諸行のなかに念仏を選択してもつて旨帰となす。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%81%B8%E6%8A%9E%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%BF%B5%E4%BB%8F%E9%9B%86_(%E4%B8%83%E7%A5%96)#.E7.B5.90.E5.8B.A7.E6.B5.81.E9.80.9A

と、なんまんだぶが説かれているから、『大経』、『観経』、『阿弥陀経』を浄土三部経と選定されたのでした。
『選択本願念仏集』の草稿本(廬山寺本)には、

 ゆゑに知りぬ、『観経』所説の念仏は、『寿経』より起こる。ゆゑんは『大経』はこれ念仏の根本なり、本願を説くがゆゑに。『観経』はこれ念仏の枝末なり、本願によるがゆゑに。
しかればすなわち、定散諸行を説くといえども、本願に非ざるが故に以て付属せず。(『原典版聖典』七祖篇 校異 1552頁)

とあるように、法然聖人は『寿経(大無量寿経)』に立たれていたことは明らかです。
また『西方指南鈔』にも、

 次に『双巻無量寿経』・浄土三部経の中には、この経を根本とするなり。其故は、一切の諸善は願を根本とす
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E8%A5%BF%E6%96%B9%E6%8C%87%E5%8D%97%E6%8A%84/%E4%B8%8A%E6%9C%AB#.E5.A4.A7.E7.B5.8C

と『無量寿経』を根本とみておられたのでした。

というわけで、
>>引用開始

大無量寿経が真実の教。真実の教は、方便の教に対して、真実の教と言ったんです。ここで言う方便の教とは何か言ったら、観無量寿経と阿弥陀経なんです。

観無量寿経と阿弥陀経は方便の教であって、大無量寿経が真実だっていう立場。

これが、 法然聖人には無いんですよ。

>>引用終了

というような発想は、出来上がった「願海真仮論」を学ぶだけで、浄土教の先人の教学的思惟を知らずに、妄想しているのかもである。

鈴木大拙師は『浄土系思想論』の中で、

 正統派の学者達は出来上がった御膳立を味わうことに気をとられて、そのものがどうしてそう組み上げられねばならなかったということを問はないようである。つまり自己の宗教体験そのものを深く省みることをしないという傾向がありはしないだろうか。お経の上で弥陀があり、本願があり、浄土があるので、それをその通りに信受して、自らは何故それを信受しなければならぬか、弥陀は何故に歴史性を超越しているのか、本願はどうして成立しなければならぬか、その成就というのはどんな意味になるのか、浄土は何故にこの地上のものでなくて、しかもこの地上と離るべからざるくみあわせにたっているのかというような宗教体験の事実そのものについては、宗学者達は余り思いを煩わさぬのではないか。浄土があり、娑婆があるということにたっている。──これをその通りに受け入れる方に心をとられて、何故自らの心が、これを受け入れねばならぬかについて、反省しないのが、彼等の議論の往往にして議論倒れになって、どうも人の心に深く入りこまぬ所以なのではなかろうか。始めから宗学の中に育ったものは、それでも然るべきであろうが、どうも外部に対しては徹底性を欠きはしないだろうか。p.332-333

と、言われていたが、御開山が何故このように領解なさったかという過程を学ぶことで、より深く御開山の示して下さる、なんまんだぶのご法義が領解できるのである。ありがたいこっちゃな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> そもそも論だが、善導大師は『無量寿経』に据わって『観経疏』を著されたのでした。

これがお判りにならないのでしょう。善導大師は『観経疏』を著されたから『観無量寿経』の立場だとかいう、単純というか一方的な見方なのが彼の先生です。

『観無量寿経』で釈尊が仰りたかったことは念仏往生であることが「仏の本願に望むるに」判るのです。つまり仏の本願を説かれた『大無量寿経』によって判るのです。その点からすれば善導大師も『大無量寿経』の立場と言えます。法然聖人も同様です。

念仏往生と平生業成は別々であるかのように説き、親鸞聖人の立場では「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という発言を繰り返す行為は本願の破壊と言われても仕方ないと思います。この点に関しては今後も続けて書いていきたいと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

選択思想の成立と展開

ども、林遊@なんまんだぶです。

Aさんは、ご自分が述べているように「本願成就文」に立ち、そこから浄土真宗を俯瞰しているのでしょう。「成就文」を強調する人は、どうしても信を強調し念仏を軽視しがちになります。名号を法体名号という観念の領域に閉じ込めて、口に称えられるなんまんだぶという「行法」を知らないのでしょう。
このような思想の人は「選択本願念仏」を説かれた法然聖人と御開山を排他的に考えます。ですから何を言っても無駄かもです。

梯實圓和上は「選択思想成立の背景」として、

 ところで法然教学が、善導教学を継承し、またすでにのべた如く源信教学や南都浄土教など日本浄土教の影響をうけながら形成されたとしても、それが平安時代から鎌倉時代へ移行していく文字通り歴史的転換期の、はげしい混乱の時代のただなかで、時代の苦悩と迷いを身に引きうけながら極めて主体的に樹立されたものであることを忘れてはならない。選択は、教義論的にいえば、久遠のむかしに、法蔵菩薩がなされたことにちがいない。しかしその法蔵菩薩の選択のいとなみのなかに、煩悩(わずらい悩み)しつつ生きる現実の社会と人間の姿を見出さなかったならば、その選択論は空論に過ぎない。人々が法蔵菩薩の選択の願心に共鳴し、感動するのは、選択の願心のなかに現実の自己を読みとり、現状を超脱していく道を聞き開くからである。法然の説く選択論のなかには、政治的にも、宗教的にも見捨てられて、現世にも後世にも依り処を失ってさまよう民衆の絶望的な状況が写し出されていた。そうした庶民大衆に救いをよびかけ往生を約束するものとして如来選択の願心が開顕されていたのである。

と述べておられました。信心を骨張する人は、愚癡無知な衆生の為になんまんだぶを称えるという「仏法」を見出された法然聖人の「選択本願」という意図に思索が及ばないのかもです。

浄土真宗では、南無阿弥陀仏という「行」は、法の徳を顕しており、「信」はその行を疑いなく受け容れる機の受け心でした。この「行信」に依って浄土真宗の法義の根幹を示してきたのであり、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」」というような行を否定するような発言は困ったものです。称名は「行業」であるということが判らないのかもである。

ともあれ、参考用に、御開山の思想と法然聖人の関連を示す「選択本願論」をリンクしておきます。

「選択本願論」
http://wikidharma.org/5d60fb96471d2

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 「本願成就文」に立ち、そこから浄土真宗を俯瞰している

その通りだと思います。その本願成就文にも念仏の意があると親鸞聖人も存覚上人も仰っているのですが、お決まりの教行信証の御文以外認めない姿勢で頑なに断章取義しています。大江和上の説にも反旗を翻す方ですから何を言ったところで聞き入れないでしょうが、私はあの説は野放しにしておけないので、自分が納得いくところまで綴っていくつもりです。

リンク先読ませて頂きました。

> 選択本願の行信とは、一心をもってはからいなく一行を修するほかにはなかったのである

これです、これ。親鸞聖人のお勧めは念仏の一行をふたごころなく修める一心一行の勧めであり、その根源は本願の

至心信楽欲生我国乃至十念

にあったのでした。教行信証が読めていないのはどっちかと問いたくなってしまいます。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

江戸宗学

ども、林遊@なんまんだぶです。

ある意味では、江戸宗学ともいわれる伝統教学を学ぶ人は、Aさんのように本願成就文に行き着きます。
これは、醍醐本『法然聖人伝記』(大正6年に真言宗醍醐三宝院で発見された)や、高田派で伝持されてきた『三部経大意』(昭和に入って公開?)や、同じく高田派の『西方指南抄』などを見ずに、覚如上人、蓮如さんの「信因称報説」によって、御開山の説かれた浄土真宗のご法義を解釈しようとしてきたからなのでした。
『西方指南抄』などは、浄土宗側では親鸞聖人の著であるとし、浄土真宗では法然聖人の法語録であるとしてあまり重視されて来なかった歴史があります。
いわゆる宗我(宗派根性の我執)によって、御開山の著作の内容を、これは法然聖人の教え、これは親鸞聖人の教えなどと分類して判ったつもりになっている人です。
御開山を「痩せたソクラテス」にしてはいけない、と当時の流行語に託していわれた和上がおられましたが、御開山は教理を説く哲学者ではなく、実践の念仏者であったという視点を忘れては、御開山の著作は読めないのだと思っています。
たしかに『教行証文類』は、骨太な書物ですが、Aさんのように『教行証文類』だけで御開山の思想を把握しようとすると、御開山が法然聖人から承った世界と違うものになるのではと思います。
その意味では和語(日本語)で、浄土真宗の教えを示された『和讃』や『唯信鈔文意』『一念多念証文』などや『御消息』を拝読できることは、ありがたいことです。

『歎異抄』をまじめに読むなら『教行証文類』に据わって読むべし、とよく言われますが、

 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

の文を、法然聖人の教えであるなどと、法然聖人と御開山の間に違いを見ようとする人は、信心という観念によった信心の観念論者かもです。知らんけど(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 御開山の著作の内容を、これは法然聖人の教え、これは親鸞聖人の教えなどと分類して

A先生そのものです。先生は更に、前々から親鸞聖人のご著書として伝えられてきた『尊号真像銘文』や御消息までも「それは法然聖人の教えだ」などと言います。その理屈で言えば『歎異抄』も「法然聖人の教え」なのでしょう。そうやって分類していった結果が

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

ではね・・・。親鸞聖人には当然ですがこんな発想はありません。根拠も皆無、どころかこれを覆すものしかありません。何も知らない素人と見くびられたのかも知れませんが、いい加減なことを言うのはそろそろやめにしてもらいたいです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

第十七願の願意

ども、林遊@なんまんだぶです。

梯實圓和上は「法然教学の研究 /第二篇/第二章 選択思想の成立と展開」の「選択本願論の継承」で、

 ところで法然が選択本願の行といえば、第十八願の乃至十念をさしていたのに、親鸞は第十七願によって行を建立し、この願を「選択称名之願」と名づけられたことから、後学に種々の論議をよびおこした。

と「後学に種々の論議をよびおこした」とされておられました。

実は、御開山は法然聖人の示唆によって「第十八願の念仏往生の根源を第十七願に見出し、諸仏所讃の名号が、選択の行体であって、これを往生の因体として信受し奉行しているのが第十八願の念仏往生である」とされた法然聖人の意を承けて、第十七願によって第十八願の「乃至十念」のなんまんだぶは往生の「業因」であることを諸仏の讃嘆によって証明されたのでした。
要するに、阿弥陀仏は「十方世界の無量の諸仏」が気づかなかった、なんまんだぶを称える「念仏成仏」という法を説かれたから、十方の諸仏が阿弥陀仏の仏果である名号を咨嗟讃嘆されたのだと、御開山は領解されたのでした。

このようなことは『一念多念証文』で、「乃至十念」を『阿弥陀経』の十方諸仏の護念を引いて証明されておられることからも判ります。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%80%E5%BF%B5%E5%A4%9A%E5%BF%B5%E8%A8%BC%E6%96%87#.E3.80.8C.E5.A4.9A.E5.BF.B5.E3.80.8D.E6.A8.99.E6.96.87.E3.81.AE.E6.96.87.E6.84.8F

Aさんは、

>>引用開始
無量寿経を開いたのが、教行信証だって言うんだったら、成就文を教行信証と開かなかったら、おかしいでしょって言っているんです。

十八願を五願に開いたんだったら 「行」はどうなるかって言ったって「乃至十念」しかない。
ところが、教行信証、行巻には諸仏称名の願て、十七願が上がっているでしょ。おかしい。
ねぇ。
ここで、いろいろ辻褄合わせる、これを会通(エツウ)て言うんだけど。辻褄合わせているわけです。それが今の真宗教学ですよ。だって違うじゃない。十八願を五願に開いたって言い出すから、こういう問題が起きる。
成就文を開いたら、行が十七願、信が十八願で、ピシッと合うんです。何の問題もないじゃない。
だけど、十八願を開いたって説に立つから、教行信証を開いたら、行巻が 十七願、諸仏称名の願になっいる。
で、「諸仏称名」と「乃至十念」が、どういう関係かって言って、それを辻褄合わせる、それが今の行信論です。

それが、私はこの歳になって、ようやくわかったね。
私はねぇ、七十になってこのことがわかって、いろんな面で 面白くてしょうがないんですよ。教学も、生きてることも。これが、もっと若い時にわかっていたらな、とつくづく思いますが。もう、後 何年もないわけよ。何年もないんだけどねぇ。この歳になって…。でも、まだこの歳になって、これがわかって良かったかなぁとも思います。その一つが、これです。

無量寿経は十八願を説いたお経か、本願成就を説いたお経か。
本願成就を説いたお経です。
>>引用終了

と、言っていますが、多分、本願成就文の、

 あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く」と。

とある、「名号」という語と「信心」という語だけによって、浄土真宗のご法義を解釈したのだと思ふ。
前段に、

 十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。

とある教・法に思いが至らなかったのであろう。こういうところは、Aさんが御開山の真如観や仏身観を考察した事がないからだと思ふ。Aさんは多分「証巻」や「真仏土巻」で説かれる御開山の意図が読めていないのだと思ふ。その意味では、多分Aさんは仏教学に触れることなく真宗学の訓詁註疏の罠に嵌ったのかもである。知らんけど。
黄土真宗のご法義は、

 他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。

という、なんまんだぶを称えた者を摂取するという、我が名を称えよという「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」という念仏成仏のご法義なのだが、アホの林遊と違って頭の賢いAさんは、これがわからんのでしょう。そもそもAさんは、深川倫雄和上から何を聞いたのだろうかワカラン(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
追記
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E4%B8%80%E5%BF%B5%E5%A4%9A%E5%BF%B5%E8%A8%BC%E6%96%87#.E7.AC.AC.E5.8D.81.E4.BA.94.E8.AC.9B.E3.80.8E.E9.98.BF.E5.BC.A5.E9.99.80.E7.B5.8C.E3.80.8F.E3.81.AE.E6.96.87.E6.84.8F
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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