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【コメント返信】「わかりません」さんへのコメント返信

今回は、「わかりません」さんへのコメント返信です。なお、秘密コメントで書かれているので、記事としては一部を引用してそれに応える形式にしました。枠の中が「わかりません」さんのご意見です。


如来の仰せとして「正しい」とか「間違っている」というのは身の丈にあわない問題なので、そのような観点からの判断はできません。


私も、私自身の智慧や理解能力では如来の仰せがどのようなものであるかは皆目分かりません。分かりませんから、経典を始め、それを解釈された菩薩の論や高僧の釈、親鸞聖人の釈を通して如来の仰せを知らせて頂いているわけです。その経論釈の上では、どのお言葉を取ってみても

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

としか書かれていません。十八願の「乃至十念」に始まって、高僧方の本願文の解釈にも、親鸞聖人の本願文の解釈にも、全て「念仏を称える者を往生させる」本願だと教えられています。A先生が重視する本願成就文にも念仏の意があると親鸞聖人も存覚上人も仰っています。

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

ということがただの一つも言われていない、それどころか逆の事ばかり説かれている。この事実を基に、私は、このように教えることは仏説、師説に反すると主張しているのです。


ところで、私も、「我にまかせよ」に関しては問題視していません。問題視しているのは

阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

と、信心と行とを対立関係で説いていること、そして念仏を本願から抜いてしまっていることです。また、A先生の説明では、行は信心の必然と言えば聞こえはいいけれども、要するに念仏は信心の後という位置づけです。これでは『教信行証』となってしまいますが、そうではありません。信は行についての信であり、信に先立つものが行であるから、『教行信証』も行、信の次第で説かれているのです。

それと我々はよく『教行信証』と言い慣わしていますが、正確には『顕浄土真実教行証文類』です。仏教である限りは教行証です。真実の行によってさとりを開く。その真実の行は、当然我々の上に現れる行いでなければなりません。それが本願の念仏であり、法然聖人の明らかにされた選択本願の行であると顕かにされたのが「行文類」です。真実の行には当然真実の信が具足していますが、それを開いて顕かにされたのが「信文類」です。行と信は分けて説かれてはありますが、別々の二つのことではありません。それゆえ、信行一念章には

 四月七日の御文、五月二十六日たしかにたしかにみ候ひぬ。さては、仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
 これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。


と教えられています。この手紙を頂いた高田の覚信房はおそらく『教行証文類』を読んでいたのだと思います。それで親鸞聖人に質問し、それに対して答えられたのがこのお手紙なのでしょう。ここには行と信を分けるようなことも、信が先で行が後だというようなことも書かれてはいません。


「念仏を称えよとは言われていない」については、信一念時の大悲領解を勧め、自力をまったく必要としない無条件の救いである事を教え勧める表現として理解できます。


かなりA先生に対してひいき目なご意見ですね。尤もかく言う私も当初はそのように理解しようとしていました。しかしですね、そんな表現をしている善知識方は勿論、和上様方の中にも、このような表現をして説いている方を私は知らないんです。わかりませんさんはご存知ですか?

それと、阿弥陀仏が往生の条件として信心と念仏をご指定なんです。また、信心といっても念仏を称える際の信心のことを真宗では問題にしているのです。それは勿論本願力によって回向せられる行信で、我々が用意するものではないのですが、信も行も共に南無阿弥陀仏を心に領受し、口に称えるのであって、片方を取って片方を捨てるというようなものではありません。念仏を称える際の自力心を誡めるなら話は分かりますが、念仏自体を本願から抜いてしまうような発言は私としては看過できないのです。

ましてや、そのように発言している根拠が「行文類」親鸞聖人の六字釈であるとか、『教行証文類』以外の都合の悪い御文は法然聖人の教えだなどと発言していることを聞いてからは、その独善的な聖教の解釈を受け容れることはできなくなりました。


「念仏を勧めている」だけでは大悲が現れているとは言えないように思われます。


なので私は、「本願の仰せを計らいをまじえずに受け容れて」等と信心を一具にした念仏の勧めを書いているつもりです。現今の真宗の主流は空華だからなのか、信心については語っても、行を語る布教使の方は少数派な感が否めません。念仏は本願の行であって、一声一声如来から頂いている往生の正定業なのだから専らこれを行じなさいと聖人のお勧め通り説く方には滅多にお目にかかれません。

信なき行は凡夫の不安な叫びですが、同じように、行なき信は観念の遊戯であると思います。信因称報説に立って話をされることは結構ですが、私達が称えるべき念仏を「称えよと仰っていない」はありません。明らかに聖教に反する主張なのですから、私は忖度はせずに間違いだと言っていきます。



以上です。なお、わかりませんさんはA先生の熱烈な信奉者というわけではありません。

(A先生の)念仏往生や平成業成の理解は通常の理解とは異なっていると思いますし、法然聖人の本願念仏集をより詳細に組み立て直したのが教行信証ではあっても両者に思想上の違いがあるとか、能信が同じだが所信が異なるというのは理解出来ません。


このようにも仰っていることを、最後に申し伝えておきます。
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No title

私の考えを聞かれたので別途お伝えするとしつつ、わざわざ秘密コメントにした私信を、私の事前了解を得ないまま公開する手法に問題があるとは思いませんでしたか? また信と乃至十念についての私の考えを意図的に伏せることで私の意見が歪曲されて理解されるおそれがある事について思いをいたさなかったのですか? 「かなりA先生に対してひいき目なご意見ですね。」とも断定していますが、このような表現行為があなたの主観を介したレッテル貼りになるおそれがあるとは考えませんでしたか? 自分の意見に沿わない意見を述べると、このような形で公開処刑するかのような対応をとることは、今後、慎んで頂きたい。見えない関係にあるからこそ守るべき一定のマナーを守りあえる最低限度の信頼関係はあるだろうと理解していた私の期待は一方的だったようですね。

No title

>それと、阿弥陀仏が往生の条件として信心と念仏をご指定なんです。
 
この2つは私に対して阿弥陀仏が課した往生の条件ではありません。大悲である仏名を領解したときに私の上に現れる機受の相です。ですから、私達はただ大悲を受けるだけです。大悲を受けると信と念仏は自然に具足してしまうので、私には往生の条件というものは一切無くなってしまいます。信と乃至十念は一体・一対のものであるから、称名が大行である以上、称名に具足する信もまた大信となり、そのいずれもが仏の救済行なのです。ですから、仏の救いが無条件であるとされるのです。大悲を領解することで信が自然に具足するのと同じように念仏も自然に具足されます。大悲の自然の働きによって信行ともに具足するので、私にとって往生は無条件となるのです。これが計らいのない乃至十念の念仏であり、このような念仏を仏は勧められているのです。私の具足している「至心信楽」にも「乃至十念」にも、このような大悲が顕れているのです。私からすれば無条件の往生なのです。 勘違いされませんように。

No title

念仏は往生の条件です。
以下参照。
http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/53666633.html

阿弥陀仏が我々に直接仰せられていることは、本願しかないが、最も重要なのが念仏往生の十八願である。十八願がどんな意味であるのか、善知識方は様々な言い換えをなされている。親鸞聖人は、『教行信証』行の巻で引文されているので、紹介する。

もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得(十住毘婆沙論)

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ(観念法門)

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ(往生礼讃)

龍樹菩薩と善導大師のお言葉であるが、それを引文された時点で、親鸞聖人のお言葉でもある。この3つに共通することは、「名を称して」「わが名字を称すること」「わが名号を称すること」となっているので、称名念仏を救いの条件として阿弥陀仏が誓われていると親鸞聖人が領解なされていたことが解る。

次に、十八願の直接の言い換えではないが、喩えをもって十八願文を顕わされているのが、二河白道の譬喩である。『教行信証』では信の巻に引文されている。十八願文に当たるのが

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

である。この解釈は、『略本』である『浄土文類聚鈔』に詳しい。

「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ無上心なり。無上心はすなはちこれ淳一相続心なり。淳一相続心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心を獲れば、この心三不に違す、この心三信に順ず。この心はすなはちこれ大菩提心なり。大菩提心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。

簡単に言うなら、
「一心」=真実信心
「正念」=称名念仏
である。

『教行信証』における阿弥陀仏の招喚の勅命は、「真実の信心で称名念仏をしなさい」となされているのは、念仏往生の願である故、当然なことである。ただし、他の箇所において「念仏」が「聞名」になっている御文もあることより、『教行信証』では「念仏」と「聞名」は、並列的に扱われていたと言える。

次に、十八願文の「乃至十念」の逐語訳をされた箇所を見てみる。

『尊号真像銘文』

「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。

『唯信鈔文意』

「乃至十念 若不生者 不取正覚」といふは、選択本願の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。

『一念多念証文』

本願の文に、「乃至十念」と誓ひたまへり。すでに十念と誓ひたまへるにてしるべし、一念にかぎらずといふことを。いはんや乃至と誓ひたまへり、称名の遍数さだまらずといふことを。この誓願はすなはち易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきはまりなきことをしめしたまふなり。

これら3つ共に、念仏が救いの条件であると親鸞聖人が領解されているのである。

最後に、十八願文を親鸞聖人が御自身の言葉で顕わされたものを挙げておく。

『御消息』に

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

との仰せがある。
阿弥陀仏の招喚の勅命を親鸞聖人は、
「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふる」
=「一心正念にしてただちに来れ」
=真実の信心で念仏してただちに来なさい
と顕かになされたのである。

Re: わかりません様

すみません。しかし、返信しようにも、ある程度言葉を載せなくてはきちんとした返信ができません。そもそも、わかりませんさんは何が目的でコメントを寄せて来るのですか?

私に何を期待しているのか知りませんが、私はわかりませんさんのように、聖教に反することを公言してはばからない先生の発言を「・・・と理解できます」などと忖度するようなことはしないことにしました。あの発言は間違っているから間違っていると発信しているだけです。

それと、私は聖教に基づいて「阿弥陀仏が往生の条件として信心と念仏をご指定なんです」と言いました。詳しくは後の明信さんが挙げられています。なお信心については

至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり(尊号真像銘文)

と言われている通りです。また、私は

それは勿論本願力によって回向せられる行信で、我々が用意するものではないのですが

と付け加えておきました。これは読まれているでしょうか?


随分と無条件の救いを強調されますが、善知識方は「仏の救いが無条件」とは教えられていません。蓮如上人も

・もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば(5帖目10通)
・なにのやうもなく、わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念なれば(2帖目8通)

往生できますよと仰っています。もろもろの雑行をすてて、弥陀を一心一向にたのみ(真実の信心で)、称名一行を専らにしなさいと教えられています。


雑行は捨てものですが、念仏は捨てものではありません。念仏によって助かろうという自力心が悪いのであって、念仏自体は自力でも他力でもありません。念仏はいつでも、どこでも、誰にでも回向せられている本願の行です。その本願の行を

称えよと仰っていない

は無いと私は主張しているわけです。現にそのようなお言葉は聖教の上に一言もありませんし、それどころかその逆のお言葉ばかりが出てきます。親鸞聖人の上でもそうです。だから私はあの発言は間違っていますと発言しているに過ぎません。

特定の先生の心をあれこれ忖度するのは個人の自由ですが、明らかに聖教に反する主張にまで適用するのはどうかと思いますよ。それとも

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない
阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

は聖教に合致した主張? わかりませんさんと私が問題にしている点はおそらく違いますが、私はこの主張が聖教に合致しているかどうかを問題にしているので、とりあえずはそこをご理解ください。

No title

条件という言葉には、
1 約束や決定をする際に、その内容に関しての前提や制約となる事柄。
2 ある物事が成立・実現するために必要な、または充分な事柄。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/108170/meaning/m0u/
などの意味があります。

ここでは、上の2の意味で考えます。

例えば、
しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。(証文類)
というお言葉の場合、
「大乗正定聚の数に入る」ということが成立するために必要なことは「往相回向の心行を獲る」ということであり、「往相回向の心行を獲る」ことは「大乗正定聚の数に入る」ための条件と言えます(A)。

では、「往相回向の心行を獲る」ということが成立するために必要なことが「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌」の上にあるのかといえば、
しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。(信文類)
ですから、心行は仏力のみによって回向されるものであり、衆生の上には条件はない、すなわち無条件ということになります(B)。

淳心房さんはAの意味で文章を書いており、わかりませんさんはBの意味で文章を書いているというように見受けられます。両者には視点の違いがあるのみではないでしょうか?

また、淳心房さんは、『善知識方は「仏の救いが無条件」とは教えられていません。』と書かれていますが、御文章にしばしば出てくる「なにのやうもなく」等の語が、衆生の側に何の造作も要しないことをあらわしており、衆生の上では無条件の意味で使われているのではないでしょうか?

例えば、淳心房さんのコメントにもある2帖目8通には、

なにのやうもなく、わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念なれば、かならず遍照の光明のなかに摂め取られまゐらするなり。これまことにわれらが往生の決定するすがたなり。

とあります。「遍照の光明のなかに摂め取られる」条件は「わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念なる」ことですが(上のAの意味)、衆生がそうなるには衆生の上では何の造作も要しないので「なにのやうもなく」です(上のBの意味)。

No title

なお、「なにのやうもなく」が、衆生の上で何の造作もないという意味をあらわしていることは、2帖目7通に詳しいです。

その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。これによりて『大経』(下)には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。

ここでは、信心のことを
「なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる」
「やうもいらぬとりやすの安心」
「なにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心」
と言い換えられています。

「なにのやうもなく」=「やうもいらぬ」=「なにの造作もなく」
です。

No title

>ですから、心行は仏力のみによって回向されるものであり、衆生の上には条件はない、すなわち無条件ということになります(B)。

ちょっと違います。
無条件ではなく、因が衆生の側にはないという意味です。
ここでの条件は、阿弥陀仏が与えて下さる因を受け取ることと言えます。

無条件という言葉では、十劫安心と同じです。衆生は何もしなくても、阿弥陀仏を信じなくても、救われることが決まっている、になります。
違いますよね。謗法の人は絶対に救われないと善知識方が断言されていますので、阿弥陀仏を信じて往生の因を受け取るという条件があるのです。
言い換えると念仏と信心という条件を満たさないと往生できません。念仏と信心を選択するのは衆生ですが、その念仏と信心は阿弥陀仏から頂くものです。

No title

「なにのやうもなく」=「やうもいらぬ」=「なにの造作もなく」=因は阿弥陀仏が用意されている
です。

阿弥陀仏が用意され与えて下さっていると受け取ることが信心です。

衆生側の条件は受け取ること。

コメント返信

条件と無条件様
明信様

詳しい解説をありがとうございます。
わかりませんさんの話も分からなくはないのですが、明信さんが仰るように、無条件と言う言葉では、十劫安心になってしまうんですよね。
我々が用意するものは何も無い、という意味では無条件と言えなくもないが、私達が救いの法をお聞かせ頂いて領受しないことには救われません。無条件の中の条件と言いますか、言葉で表現するのは非常に難しいです。

No title

>衆生側の条件は受け取ること、というアンチテーゼが提示されたことを好例として、淳心房さんに理解し考えて頂きたいと思っている事はつぎのことです。
1.
「衆生側の条件は受け取ること」として明信さんが上げている御文は承知しています。また論理としては、大悲を受け取る事が衆生往生の条件であるのはその通りであり、何の間違いもない。しかし、既に大悲を受け取ってしまった自分の側から自分の往生について言えば、大悲は無条件の救いとなる。もはや信も称念も問題とならない。ご承知のように、大悲を自力で受け取ることができないため御名を回向成就されている、その回向は自力を廃捨させる全分の働きであったことが大悲を受けたのちに分かるので、私は無条件の大悲であると言っている。では「衆生側の条件は受け取ること」と「無条件の救い」とは相反しているのかと言えば、そうではない。無条件の大悲であると言っても、それは自分にかけられている大悲が無条件であるということであって、大悲を受けていない者にはやはり大悲を受ける事(信と念仏)を勧めるしかない。このように往生の条件は大悲を受け取る事だという言い方が適当である局面と往生の条件がもはや問題とならなくなってしまった内なる世界とが両立している。私からすれば無条件の往生なのです。それを論理の言葉だけで裁こうとすると自身が感得している大悲との間で大きな乖離が生じることになる。私にとって既に無条件の大悲であるのに、「衆生側に往生の条件がある」というのは大悲からの乖離として感じられてしまう。「大悲を受けると信と念仏は自然に具足してしまうので、私には往生の条件というものは一切無くなってしまいます。」と2番目のコメントで述べたのは、私からすれば無条件の大悲による往生という立場からのコメントでしたが、明信さんには理解されませんでした。それはともかく、話を本筋に戻すと、これまでの「念仏を勧められているかどうか」という議論の仕方は、私からすれば大悲から乖離した内容になっていると感じたため、淳心房さんに秘密コメントとして伝えようとした。「念仏を勧められているかどうか」という議論をするのであれば、自らを回心させた大悲が他に伝わるような議論を期待したいという趣旨で。なお、淳心房さんが本願力によって回向せられる行信で、我々が用意するものではないと言われているのは、もちろん理解しています。

2.
私が秘密コメントとして述べた、「「念仏を称えよとは言われていない」については、信一念時の大悲領解を勧め、自力をまったく必要としない無条件の救いである事を教え勧める表現として理解できます。」というコメントの趣旨は、以上のことを理解して頂ければ、ある程度は納得していただけるのではないですか。純心房さんも一度はそのように理解しようとしたと2度ほど言われたと記憶していますが、それが大悲を受けた者の素直な心情であると思います。では、そのように考えたのであれば、どうして阿部氏にそのような理解で良いのか、確認されなかったのでしょうか。阿部氏は「念仏を称えよとは言われていない」という発言を撤回したと淳心房さんも認めています。そうであれば、なおさらの事、議論の専決事項として阿部氏の真意を確認すべきであったとは思いませんか? 私は阿部氏を擁護する立場ではないし、擁護するつもりは毛頭ありませんが、そのように思います。

3.
私が秘密コメントにした理由を述べます。無条件の大悲だと言ったとたんに「衆生側の条件は受け取ることだ」というアンチテーゼが示されました。このような事態になるのは、「大悲と信行」というものには「論理・知識」と「大悲への心情・共感」というある種相反する性質の双方にかかわる極めて微妙な問題が本質的に内包されているからです。感情や心情で大悲を表すと論理や知識を重んじる側からの反論にさらされます。その反論は実に容易です。明信さんが苦もなく各種の法文を横断的に列挙されたように。しかし、感情や心情で理解された大悲もまた間違いのないものです。つまり法文は大悲を理解し味わう手だてとして読むべきものです。しかし、そのような理解が十分に確立されていないネット世界でそのような微妙な問題を取り上げると、必ず、誤解や無理解が生じます。私はコメントが公開されて新たな誤解や無理解が生じる事を避けたかったため、わざわざ、秘密コメントとして内心を内々に伝えたのです。
不快に思われたことが理由で私のコメントを公開して批判の対象としたのでしょうが、そのことについては素直に謝罪します。が、もし公開して批判したいのであれば、コメント欄で公開して良いかどうか承諾を求めれば足る事であったと思います。また公開するのであれば、一部ではなく全文公開すべきだったでしょう。

No title

>私にとって既に無条件の大悲であるのに、「衆生側に往生の条件がある」というのは大悲からの乖離として感じられてしまう。「大悲を受けると信と念仏は自然に具足してしまうので、私には往生の条件というものは一切無くなってしまいます。」と2番目のコメントで述べたのは、私からすれば無条件の大悲による往生という立場からのコメントでしたが

いろいろと書かれていますが要するに、“味わい”ですね。
味わいを教義に混ぜる危険性を指摘したのですが、理解されなかったようで残念です。

No title

>阿部氏は「念仏を称えよとは言われていない」という発言を撤回した

撤回していません。
善導大師と法然上人と歎異抄の教えでは「念仏を称えよ」だが、教行信証では「念仏を称えよとは言われていない」と言っているのですが、これも理解されなかったようで、残念です。

以下参照

【投稿文】「念仏往生」と 「平生業成」つきまして。
http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/51677988.html

人間に、念仏往生、念仏往生だと合わせているのです。これを方便と言うのです。

その「大無量寿経の法門」と、「観無量経の法門」の違いが、「平生業成」と 「念仏往生」の違いになる、と言うことです。



【投稿文】4月の埼玉恵日会で お聞きしたこと。
http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/53479275.html

もう一つ、決定的なことは、「至心信楽の願」と十八願を名付けて、「これ 念仏往生の願より、出たり」になっている。
「出たり」ってことは、別ってことでしょ。
まるで別じゃない。「念仏往生の願より出たり」。お聖教開いたら、そう書いてあります。信の巻に。信の巻に 十八願が挙げてあって、至心信楽の願と、頭に挙げてあって、そして長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術だとか、いろいろ言葉が出ていて、その後に、「これ念仏往生の願より出たり」になっている。
だから、元は、念仏往生だって言っているわけですよ。
誰が言っているって、法然聖人。、
十八願を念仏往生って言ったのは法然聖人です。だから、そこに座って ものを言っているんですよ、この人達は。

No title

わかりませんさんは、典型的な一念義ですね。
信一念の後は、信心が相続し、死ぬまで念仏の道を歩むのだと善知識方が教えられている通り、信心と念仏が往生の条件であったと死ぬまで知らされ続けるはずですけど。

Re: わかりません様

> 「念仏を勧められているかどうか」という議論の仕方は、私からすれば大悲から乖離した内容になっていると感じた

そうでしたか。議論の仕方が悪いと、そういうことですね。

しかしですね、このシリーズは、元々はA先生の「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」発言に端を発しているのです。それに対して、阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っているし、善知識方はそう解釈されている、勿論親鸞聖人も解釈されている。「【考察】念仏の勧めについて」では、本願から念仏を抜いてしまうような主張を糺し、善知識方は念仏の一行を勧められ、親鸞聖人も一心一行を勧められているんだと訴えるのが目的です。

その中で、善知識方の本願観や蓮如上人の正信偈大意のお言葉を見ていけば、自ずと本願の念仏は阿弥陀仏より回向せられる本願の行であり、仰いでこれを専ら行ずべきだと判ると思います。私としては大悲を伝える縁につながってゆくと思っています。


なお、私がA先生の主張を受け容れようとしていたのは、当時はまだA先生が正しいと信じていた、信じたかったからです。また、自分が誤りであるという可能性も捨てきれなかったからです。しかし、聖教のどこにも根拠は無いし、その逆の根拠は山ほど存在します。先生の主張と聖教の言葉のはざまで揺れ動いていました。それで先生がああ仰る根拠を尋ねたのです。その答えは何度か書いていますが「行文類」親鸞聖人の六字釈でした。これが、A先生を信じられなくなった、間違いと断定せざるを得なくなったきっかけでした。

ですから、私はもう先生の心をあれこれ忖度して善意に解釈することはやめました。明らかに聖教に反する主張でありながらそれを正しいと受け容れる、受け容れようとするのは親鸞会と一緒だからです。なので、

> 「念仏を称えよとは言われていない」については、信一念時の大悲領解を勧め、自力をまったく必要としない無条件の救いである事を教え勧める表現として理解できます。

と忖度しているわかりませんさんも、未だ親鸞会での思考が抜け切れていないと感じたのです。


> 阿部氏は「念仏を称えよとは言われていない」という発言を撤回したと淳心房さんも認めています

認めていません。どこで認めたんでしょうか?
A先生は、法然聖人の念仏往生の立場では「念仏を称えよと仰っている」だが、親鸞聖人の平生業成の立場では「念仏を称えよと仰っていない」と一貫して主張しています。3回の質問時も、その後も、撤回していません。


> もし公開して批判したいのであれば、コメント欄で公開して良いかどうか承諾を求めれば足る事であったと思います。また公開するのであれば、一部ではなく全文公開すべきだったでしょう。

すみません。では次回からはそのようにします。
では、今からでも全文公開しますか?

Re: わかりません様(追記)

追記です。

質問があります。わかりませんさんは信前の人には信と念仏を勧めるが、信後はもはや一体となってしまっているから往生は無条件となり、そういう人にはもはや信と念仏を勧める必要は無いとお考えなのでしょうか? 文面からそのように読み取れました。違うなら否定して下さい。

一応私の考えを述べておきますと、信前の人にも信後の人にも変わらず信と念仏を勧めるし、信と念仏を勧める教えを聞くものだと思っています。そうやって生涯正信念仏の教えに育てられ、縁に触れ折に触れては本願を仰ぎお念仏を申して浄土へ参るものだと考えています。

Abcです

サブタイトル:明信 さんの挙げていただいた発言を受けて

こんばんわ、Abcです。

>もう一つ、決定的なことは、「至心信楽の願」と十八願を名付けて、「これ 念仏往生の願より、出たり」になっている。「出たり」ってことは、別ってことでしょ。
まるで別じゃない。「念仏往生の願より出たり」。お聖教開いたら、そう書いてあります。

→結局のところ、この文では「別ってこと」なのか「別じゃない」なのかよくわかりません。
 確かに『教行証』には、「つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。
この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。」とあります。

このようにご覧になっても、直後に「この大願を選択本願と名づく」とあります。この「選択本願」は『選択本願念仏集』の「選択本願」です。『正信偈』には「選択本願弘悪世」ともありますね。

 それで、「「出たり」ってことは、別ってことでしょ。 まるで別じゃない。「念仏往生の願より出たり」。お聖教開いたら、そう書いてあります。」と言われているので、「別と言いたいのか、別じゃないといいたいのか」よくわからないです。


>信の巻に。信の巻に 十八願が挙げてあって、至心信楽の願と、頭に挙げてあって、そして長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術だとか、いろいろ言葉が出ていて、その後に、「これ念仏往生の願より出たり」になっている。
だから、(彼らは)元は、念仏往生だって言っているわけですよ。

→えぇ、今列挙しました。彼らは「元は、念仏往生だ」って言われているのですよね。それであったら、「阿弥陀さまの本願は、「本願招喚の勅命」であって、元は念仏である」となりますから、何をそんなに騒ぎたてて「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」と曲解する必要があるのでしょうか。その曲解を親鸞は嫌われたのではないでしょうか。

>誰が言っているって、法然聖人。、
十八願を念仏往生って言ったのは法然聖人です。だから、そこに座って ものを言っているんですよ、この人達は。

→私たちの師である、源空聖人をかように仰せられることは極まれたる荒涼ですね。

まず、親鸞の『教行証』信巻
 「まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。」  とあります。

次に、源空聖人の『選択集』
 「念仏の行者かならず三心を具足すべき文。

 『観無量寿経』にのたまはく、「もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生しなん。なんらをか三となす。一には至誠心、二には深心、三には回向発願心なり。三心を具すればかならずかの国に生ず」と。
(乃至)
 三心すでに具すれば、行として成ぜずといふことなし。願行すでに成じて、もし生ぜずは、この処あることなからん。またこの三心はまた通じて定善の義に摂す、知るべし」と
 『観経』の説のごときは、三心を具すればかならず往生を得。なんらをか三となす。一には至誠心、いはゆる身業をもつてかの仏を礼拝し、口業をもつてかの仏を讃歎称揚し、意業をもつてかの仏を専念観察す。おほよそ三業を起すに、かならずすべからく真実なるべし。ゆゑに至誠心と名づく。二には深心、すなはちこれ真実の信心をもつて、自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願、名号 を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまでさだめて往生を得と信知して、乃至一念も疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。三には回向発願心、所作の一切の善根ことごとくみな往生に回願す。ゆゑに回向発願心と名づく。この三心を具すれば、かならず生ずることを得、もし一心少けぬれば、すなはち生ずることを得ず。『観経』につぶさに説くがごとし、知るべし

(乃至)


 正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」

とあります。

源空聖人のいわれは、「名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑ」といわれています。「名を称する」と言うのが条件ですが、心持ちはとわれていません。別の箇所に、「称名は、多善根・多功徳なるがゆえに」とも言われています。

それを発展させた形として、親鸞の「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。」があります。
 こちらは、「真実信心には必ず名号が含まれているが、(その逆である)名号には必ずしも願力の信心が含まれている訳ではない。」といわれています。
 この「名号には必ずしも願力の信心が含まれている訳ではない」と言ういわれは、『正信偈』でも知ることができ、
 「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といわれています。

 なお、この「報化二土」については『教行証』真仏土巻と化身土巻にて言われています。

長々と記しましたが、「ん?」と思って記しました。
 毎度の長文、申しわけございません。

なもあみだ、なもあみだ
 Abc

念仏往生の願

ども、林遊@なんまんだぶです。

>>引用開始
【投稿文】4月の埼玉恵日会で お聞きしたこと。
http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/53479275.html

もう一つ、決定的なことは、「至心信楽の願」と十八願を名付けて、「これ 念仏往生の願より、出たり」になっている。
「出たり」ってことは、別ってことでしょ。
まるで別じゃない。「念仏往生の願より出たり」。お聖教開いたら、そう書いてあります。信の巻に。信の巻に 十八願が挙げてあって、至心信楽の願と、頭に挙げてあって、そして長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術だとか、いろいろ言葉が出ていて、その後に、「これ念仏往生の願より出たり」になっている。
だから、元は、念仏往生だって言っているわけですよ。
誰が言っているって、法然聖人。、
十八願を念仏往生って言ったのは法然聖人です。だから、そこに座って ものを言っているんですよ、この人達は。
>>引用終了

Aさんの主張の意図がワカランのだが、
「行文類」には、

然斯行者 出於大悲願(しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。)

とあり「信文類」には、

斯心 即是 出於念仏往生之願(この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。)

とされ「証文類」には、

即是 出於必至滅度之願(すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。)

とある「出於」(より出[いで]たり)という用語は御開山の意図とは<「出たり」ってことは、別ってことでしょ。>という主張なのか?

「出於」ということが別の意味をあらわしているというならば『教行証文類』の破壊だな。
ようするにAさんは、法然聖人が命名した「念仏往生の願」という語を否定して、標挙の「至心信楽の願」という自覚としての信心を主張したいから、御開山が第十七願であらわされた「乃至十念〕の「大悲の行」を否定したいんでしょうね。
ある意味では、悪しき自覚としての「信一念義」に陥りやすい発想であり、高森親鸞会の脱会者が無意識に忌避する一念義の「説」なのかも知れません。
「法然聖人における一念多念の問題」
http://wikidharma.org/5d4c7d1dbc51f

御開山は、第十八願の「乃至十念」は、あらゆる衆生をさとりに至らしめる大乗仏教における真実の行であることを示す為に、第十七願の諸仏の証誠讃歎に、その根源を見られたのでした。だから第十七願を「大悲の願」より出たりとされたのでした。
法然聖人の「選択本願念仏」とは、無縁の大悲の顕現であるということをあらわされる為に「行文類」を著述されのでした。
第十八願の「乃至十念」は「誓願一仏乗」の「教」であり「法」であり「行」であることを第十七願によって証明されたのでした。だから御開山は第十八願を「この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり」とされたのでした。
Aさんは、覚如上人が提唱し、蓮如さんが余流(主として時宗)に対して盛んに述べられた「信心正因 称名報恩」説のみを取り上げて信をドグマ化しているのでしょう。
ある意味では、阿弥陀如来を人格化して、「誓願一仏乗」の「法」であるなんまんだぶに対して思いが至らなかったかもです。
行の無い仏法というものはあり得ないのです。だから御開山は法然聖人の『選択本願念仏集』を、『教行証文類」と教と行と証の三法門であらわされたのでした。
「三法」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%89%E6%B3%95

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ



No title

A師が自説を撤回したと思われている方がいるようですが、A師の一貫した立場は、称えて往生は親鸞聖人の教えではない、ということです。

歎異抄だけでなく、宗祖の関東でのご教化、お手紙も宗祖の教えではないとまで言っています。

【投稿文】光蓮寺のご縁と 東京恵日会のお話し
http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/53198008.html

親鸞聖人、ご自身のご教化っていうのは、これは、関東でどういうご教化をなさったのか、ってことは、具体的には、記録というのはないわけですけどね。ただ、歎異抄に、84歳の頃ですね、宗祖が 84歳の頃に、関東から弟子たちが、やってきて、そこで問答があってという記録がありますけどね。あと、手紙、ご消息の内容、お手紙の内容ですね。60過ぎて 京都にお戻りになってから、今度は関東のお弟子たちと、お手紙によって、やり取りをされた。そういう内容を見てるとね、ほとんど、念仏して浄土へ生まれて行くという法話の内容について、いろいろ、歎異抄もそうですし、お手紙でもそういうことになっています。ってことはねぇ、これは親鸞聖人の教えじゃないんですよ。

Re:横からさん

おはようございます、Abcです。

>60過ぎて 京都にお戻りになってから、今度は関東のお弟子たちと、お手紙によって、やり取りをされた。そういう内容を見てるとね、ほとんど、念仏して浄土へ生まれて行くという法話の内容について、いろいろ、歎異抄もそうですし、お手紙でもそういうことになっています。ってことはねぇ、これは親鸞聖人の教えじゃないんですよ。(Aさんの主張)

→ここにきて憤りを感じました。私からすると「なにしれっと、「ってことはねぇ、これは親鸞聖人の教えじゃないんですよ。」などとのたまっているのですか」と言いたいです。 できるだけ感情を交えず、穏便に済ましたかったのですが・・・難しいらしいですね。

 それに、大谷の方の『歎異抄』まで「これは親鸞聖人の教えじゃない」と言われていますね。やはり、「高森さんと同じ道」しか見えません。

 私のところ真宗高田派は、1225年のころ、親鸞が信州善光寺より「一光三尊弥陀如来像」をお運びいただき、その像を縁(えにし)として、「専修寺」というお寺を結ばせて頂いております。  法灯を真仏、顕智、専空、定専、空仏と結ばれており、いまなお「お念仏の教え」として伊勢の地にて続いており、本寺(ほんでら・ほんじ)である、下野の地でも「お念仏」は息づいております。

 そのため、私のところの別称としまして「念仏高田」と言う謂れもあります。

 そのような出目のものが、「ってことはねぇ、これは親鸞聖人の教えじゃないんですよ。」などと聞くと、苦笑いしかでません。

 取り急ぎ、主張を記しておきました。

なもあみだ、なもあみだ
 Abc

No title

>阿部氏は「念仏を称えよとは言われていない」という発言を撤回していません。
283. 淳心房 2019年07月15日 08:01  コメント281の続きです。次に、2018年12月の埼玉恵日会で第二回目の質問時(これは自発的に質問したのではないのですが)に親鸞聖人の六字釈を出して ・阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって、「念仏を称えよ」ではない といったお答でした。ちなみに●阿弥陀さまが念仏称えよとおっしゃるいるかいないかの件で、阿部先生は埼玉恵日会で、 「私の言い方が極端でしたからねー。この方のおっしゃるように、確かに、阿弥陀さまは、念仏称えよと、言っていますよ。」と言われた上で ・・以下、引用を省略・・というA先生のお答えは、2018年6月での発言かと記憶しています。ただ、前半部分に関してはそう言えるのですが、後半部分に関しては2018年6月にそう言われたかどうか記憶があいまいです。
「私の言い方が極端でしたからねー。この方のおっしゃるように、確かに、阿弥陀さまは、念仏称えよと、言っていますよ。」と阿部氏は明言し、極端だとした前言を撤回していることが淳心房さんの記憶から明らか。

>わかりませんさんは、典型的な一念義ですね。
往生は聞信で決定し念仏は生きている限り継続することは善導大師や法然上人の教えの通り。一念義ではないし多念義でもない。とてつもなく大はずれの指摘は慎んでもらいたい。印象操作を企てようと意図しているのか。

>「念仏を称えよとは言われていない」については、信一念時の大悲領解を勧め、自力をまったく必要としない無条件の救いである事を教え勧める表現として理解できます。と忖度しているわかりませんさんも、未だ親鸞会での思考が抜け切れていないと感じたのです。
これは意味がまったく不明。 どこが忖度? 親鸞会の思考? 思考が抜け切れていない? どこが? くどいようだが、私が阿部氏を忖度する必要は微塵もない。親鸞会?そんなクソ団体があったが、親鸞聖人の教えに真っ向から反した異安心集団。心底、憎みきっている。そんな私によくもそんな誤解が生まれるものだとあきれかえる。これがまさに印象操作の典型だろう。自分の思い込みで的外れの指摘をすることは厳に慎んでもらいたい。人を侮辱するに等しい上記の暴言は即座に撤回し、謝罪されたい。この点は特に強く要請する。

>味わいを教義に混ぜる危険性を指摘したのですが、理解されなかったようで残念です。
教義を味わいで変更することが必要であるという事を言っているのではないし、言うつもりもない。明確な線引きが必要なのは当然の事。その上で、大悲への共感を抜きにした議論は空しいだけだ、と言っているのである。それが理解できないのだろうか。誤解されないようによりいっそう明確にしておくが、「念仏を称えよとは言われていない。まかせよと言われている。」との発言を私は「教義に照らして適合しているから理解できる」と言っているのではない。だから、純心房さんから求められた私の意見をわざわざ「秘密コメント」にして内々に述べたまで。つまる所、阿部氏の発言は自らの味わいとして述べたものなのか、教義として述べたものかを確認する必要があったという事だ。とくに、少数の集まり(私は参加した事がない)の中で述べられた状況を考慮すると、自らの味わいとして述べた可能性を完全に否定することはできない。上記のとおり阿部氏は自ら発言撤回を明言している。同氏が本願に照らしてその発言を撤回した可能性が無かったのかを確認すべきだという事だ。本願招喚の勅命を根拠にした「まかせよと言われている。」との阿部氏の発言をことさら問題視しないのは教義上問題がないからなのか、それとも味わいとして理解可能だからか、どちらと考えているのか。阿弥陀仏が「まかせよ」との言語表現をした箇所があるのか。それと本質上同じ問題があると言う事だ。問題点を論理的に整理すると上記のようになるのではないか。

横からさんの指摘される阿部氏の発言は、内容的には法然聖人と親鸞聖人の思想が異なっている事を述べたものであることが明らか。阿弥陀仏が念仏を勧めているかどうかという論点に直接かかわる内容ではない。指摘されるこの阿部氏の発言は「称えよとは言われていない」発言とは別に大きな問題となるが、それは別のテーマだ。

Re: わかりません様

> 「私の言い方が極端でしたからねー。この方のおっしゃるように、確かに、阿弥陀さまは、念仏称えよと、言っていますよ。」

この文言が「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という発言を撤回したと捉えているところが間違い。これは恐らく2018年6月の時と記憶しているが、もしその時かの主張を撤回したとしたならもうその後はこのような発言はしないはず。私も問題にしない。ところが、その後A先生は、親鸞聖人の立場、大無量寿経の立場、平生業成の立場からすると「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」と主張し、その姿勢を曲げていない。

(1)法然聖人ー観無量寿経ー念仏往生ー歎異抄
(2)親鸞聖人ー大無量寿経ー平生業成ー御文章

と二つの立場を設け、(1)の立場では「称えよと仰っている」だが(2)の立場では「称えよと仰っていない」、私は親鸞聖人の立場から話をしているのだと説明している。相変わらず、その後も言い続けていることは

http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/53479275.html
だから、「阿弥陀さまは 念仏称えよと言ってる」って人には、逆に聞きますよ。教行信証のどこを押さえて言っているんですか?教行信証にどう書いてあるんです?

阿弥陀さまは「念仏申しなさい」と、教行信証のどこに書いてあるんですか?と聞きたい。(2019年4月)

などから明らか。どこが撤回してるんですか? 尤も、当事者でないわかりませんさんにはわからないかも知れませんね。

No title

>上記のとおり阿部氏は自ら発言撤回を明言している。同氏が本願に照らしてその発言を撤回した可能性が無かったのかを確認すべきだという事だ。

未だにこんなことを問題にしているから、他の人の意見が聞けないのでしょう。
淳心房さんの直前のコメントをまずは理解しましょう。
話が始まらない。

一応言っておくと、阿部師は教義として

親鸞聖人は教行信証において「念仏を称えよ」とは教えられていない

と断言しているのですよ。理解できないでしょうが、味わいでなく、教義としての断言。

No title

W部さんに似てますね。
文章はやたら長いが、ピントがずれている。
一言で言えることをグダグダ長く書く。
W部さんとやや違うところは、他人の意見を理解する能力。
W部さんが特に優れているとは言わないが並以上なのに対して、並かそれ以下。

No title

人格非難やそれに類似する応対はもう結構だから論理的に理解可能な論述をしましょう。それをしないで一部の者が人格非難を加えて意見を封殺する手法はもうアキアキですよ。渡部氏か誰か知らないが、淳心房さんのような「単純な印象だけ」で親鸞会の思考から抜けていないなどと心象操作をするのと同様なやり口はやめにしてもらいたいと言ったはず。これ以上の対話は無理な人達だと理解できたから、次の質問を最後の質問とすることにしたい。
阿部氏の「「まかせよ」って言ってることと、「念仏せよ」ってことは、実は同じなんだけど…。タノメってことと、念仏せよってことは…。まあ、結果は同じですよ。」と「だけど、「タノムという心」から、「おまかせしますという念仏」が出るんだから。心で押さえるか、口の言葉で押さえるか、の違いだけど、中心は心でしょ。」については、どう理解しているのか?

Re: わかりません様

対話云々の前に、まずA先生が発言を撤回したわけではないということはお分かり頂けましたか?


わかりませんさんが親鸞会に対して強い憎しみを抱いていることはよく分かりました。A先生を忖度する必要は微塵もないとのことですので、未だ親鸞会での思考が抜け切れていないと感じた私の感覚は誤りだったわけですね。すみませんでした。これについてはお詫びし、撤回します。


心象、印象操作をするつもりはありませんでしたが、コメントの中に人格攻撃と受け取れる発言がありますね。これからはそういった発言はなるべく控えて頂くようにコメントされる皆様にはお願い申し上げます。


> 「「まかせよ」って言ってることと、「念仏せよ」ってことは、実は同じなんだけど…。タノメってことと、念仏せよってことは…。まあ、結果は同じですよ。」と「だけど、「タノムという心」から、「おまかせしますという念仏」が出るんだから。心で押さえるか、口の言葉で押さえるか、の違いだけど、中心は心でしょ。」

については、同じならなぜ違うことのように、片方を取って片方を捨てるように言うのか疑問です。たのむ心も念仏も大悲の願心の回向によって生じるものです。

もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。(信文類)

そのたのむ心を「至心信楽欲生我国」、念仏を「乃至十念」と誓われているわけで、

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

というのは本願から「乃至十念」を抜いているようなものです。信文類のお言葉をどう理解しているのか疑問に思います。

No title

やっぱり気がつかなかったですね。
この手法は、阿部師が行なった印象操作を変えたもの。
阿部師は、自分の主張を非難する人を、正法誹謗ということで、言論封殺を狙ったわけですよ。逆効果でしたが。
それともう一つの阿部師の印象操作は、
前言撤回です。
全く撤回していないのですが、「言い過ぎた」の一言で簡単に印象操作をしているのですね。それに簡単に引っかかる人が意外に多いのには、びっくりしていますが。

では、論理的な話です。

わかりませんさんは、今でも阿部師が前言撤回したと思っているのか?
YES or NO
明確にお答えください。

「まかせよ」と「念仏せよ」

「「まかせよ」って言ってることと、「念仏せよ」ってことは、実は同じなんだけど…。タノメってことと、念仏せよってことは…。まあ、結果は同じですよ。だけど、「タノムという心」から、「おまかせしますという念仏」が出るんだから。心で押さえるか、口の言葉で押さえるか、の違いだけど、中心は心でしょ。」

阿弥陀さまは、お念仏となっておはたらきくださる仏さまです。
だから、阿弥陀さまの仰せの通りに、おまかせすれば、南無阿弥陀仏は、私のお念仏となって、私の口からお出ましくださる。だから、「阿弥陀さまにまかせよ」ってことは、結果としては、「お念仏せよ」と同じことです。
おまかせしてのお念仏は、他力のお念仏ですが、おまかせずに お念仏したら、それは他力のお念仏にはなりません。
「まかせよ」の仰せに従ったのが、信心で、まかせた者の上に現れる阿弥陀さまのおはたらきが、「お念仏」です。

なもあみだぶつ

No title

わかりません様

>阿部氏の「「まかせよ」って言ってることと、「念仏せよ」ってことは、実は同じなんだけど…。タノメってことと、念仏せよってことは…。まあ、結果は同じですよ。」と「だけど、「タノムという心」から、「おまかせしますという念仏」が出るんだから。心で押さえるか、口の言葉で押さえるか、の違いだけど、中心は心でしょ。」については、どう理解しているのか?

「まかせよ」と「念仏せよ」ということが同じと一見言っているように見えますが、A師の説明は、「おまかせしたら念仏がでる」という、一方向からの説明のみです。

同じならば逆から説明してもよいはずです。

「念仏せよという仰せ(本願)に信順したことはおまかせした」ことにほかなりませんから、「念仏せよ」と「まかせよ」は同じ、というように。
「念仏せよ」とは、阿弥陀仏が、私が往生の行として選択した「念仏を称えよ」と仰っていることであり、仰せのままに「念仏する」ことは、阿弥陀仏の仰せに「おまかせしている」ことになります。

しかし、この逆からの説明をA師はしません。同じだといいながら、説明が不足していると感じます。

なお、このあたりがわかりませんさんが一番問題だと言っているA師の考え(所信が宗祖と元祖で異なる)につながっているのだと思います。

【投稿文】ある座談会での質問 No.2
 http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/53368275.html
「所信が18願というたて方が歎異抄で、所信が、信ずる対象が、名号だっていうたて方が、ご文章なんです。」

これも、
(1)法然聖人ー観無量寿経ー念仏往生ー歎異抄
(2)親鸞聖人ー大無量寿経ー平生業成ー御文章
というA師の立場に密接に関連しているのでしょう。

No title

RCさんへ
阿部師は
念仏往生、念仏成仏は、善導大師、法然聖人の教えで、親鸞聖人は違う
と断言していましたが、撤回したのですか?
「まかせよ」と「念仏せよ」は実は同じだという詭弁で誤魔化せるほど曖昧な話ではないです。

念仏往生つまり念仏を称えて往生するをRCさんも否定していましたが、RCさんは撤回するのですか?

No title

RCさんのコメントhttp://blog.livedoor.jp/skai_as/lite/archives/53479275/comments/3193946/
以下引用

でも、「浄土真宗は、他力の教え、自力を捨てて阿弥陀さまにおまかせして お念仏して、お浄土へ参る教えです」というお説教を聞いても、「で、どうやって 自力を捨てるのか、どうやって阿弥陀さまにおまかせの身になれるのか? 」と。真面目に教えを聞く人には、その事が大きな厚い壁になります。
「お念仏を称えよ。お念仏称えて お浄土へ参ると深く信じよ」と言われて 自力を捨てる事ができますか?

No title

わかりませんさんもRCさんも、擁護が難しいと思いながら突破口を見出そうともがいているようですが、現在の論点は「念仏を称えよと仰っていない」を阿部師が撤回したかどうかの一点。
議論するまでもなく、

【撤回していない】

にしかならないが、阿部師の発言の一部を切り取って、いわゆる断章取義をして、

この発言からは撤回しているだろう

というのが、わかりませんさんとRCさんの論法ですが、全体を見て言いなさいと助言しておきます。
断章取義は親鸞会の得意技ですが、その真似をしているならば、親鸞会思考が残っているとの誹りは免れないでしょう。

No title

私は常々、救いに条件を付けない大悲を感得ないし感受することが信であり、その信は如来の大悲そのものであり、信から称えられる念仏は如来の大行であると理解しているし、至る所にそのように書いている。如来が衆生に至心信楽して乃至十念せんと勧められている事は18願文から直接伺えるし、祖師が尊号真像銘文において「乃至十念と申すは如来の誓いの名号をとなへんことを勧め給ふに遍数の定まりなきほどをあらわし、時節を定めざることを衆生に知らしめんとおぼして乃至の御言(みこと)を十念に添えて誓い給へるなり。如来より「御誓い」を賜りぬるには尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽を深くたのむべしとなり。」と解釈されていることからも如来の大悲を伺い知る事ができる。また、大悲たる御名が信であり、念仏は御名そのものの現れであるから、祖師は大行を称名と指定されたあとに称名は最勝真妙の正業、最勝真妙の正業は念仏、念仏はすなわちこれ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀はこれすなわち正念なりと解釈されている。つまり大行とは南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏は正念(ここでは大信)であると言われる。この理解からは、乃至十念の念仏を如来が勧めるという事は大悲(誓願)を勧める事であり、それはそのまま大悲を領解する至心信楽を勧める事になり、その逆として、大悲を領解する至心信楽を勧める事は乃至十念の念仏を勧める事になる。この関係を端的に言えば、信と行とは不離の関係というよりも一体・一対の関係であると言える。信と念仏はともに大悲の現れとして一体・一対の関係にあるから、乃至十念の念仏(外形)から信(内心)へとその現れ方を遡及して大悲を感受しても良いし、信(内心)から念仏(外形)へと大悲の感受が展開しても良い。そのいずれかは問わない。大悲を感受する事に何らの違いはないからだ。このような視点に立つと、阿部氏の「念仏せよってことは実は同じなんだけど…。タノメってことと念仏せよってことは…。まあ結果は同じですよ。」と「だけど「タノムという心」から「おまかせしますという念仏」が出るんだから。心で押さえるか口の言葉で押さえるかの違いだけど中心は心でしょ。」については十分に首肯できる。心で押さえたのが大信であり、口で押さえたのが念仏(大行)だという理解である。こうした趣旨であると理解することが可能であるから、阿部氏の「私の言い方が極端でしたからねー。この方のおっしゃるように、確かに阿弥陀さまは念仏称えよと言っていますよ。」との発言を遡って見直すと、阿部氏が極端だとした前言を撤回していると理解する事が出来る。本当にこのように言えるかどうかは、今後の阿部氏の発言を注視してゆく必要があるが、その事はここでは置いておく。多分、私の性格上、阿部氏の発言を継続的に注視する事は面倒くさいのでしないだろうが、情報がアップされれば、何らかのコメントをするつもりではある。
阿部氏の発言はその場にいた淳心房さんの質問に対する回答としてはとてもなおざりであり、もっと丁寧に十分に質疑応答すべきであったとの責めを免れることはできないと思う。発言の趣旨を誰でもが分かるように説明すべきであった。それを怠り、誤解を解かぬまま帰してしまった後に法謗罪だと誹るのはもっての外である。しかし、阿部氏の発言の趣旨を十分に確認しなかった側面もあるように思う。軽々に怒る前に発言の趣旨を十分に確認したのかと言いたいのである。
なお、「わかりませんさんも擁護が難しいと思いながら突破口を見出そうともがいているようですが」などという論旨不明なコメントは今後するものではない。教義を重んじるのであればもっと論理を重んじろと言いたいし、もう少し人格を磨けと言いたい。

No title

>教義を重んじるのであればもっと論理を重んじろと言いたいし

全くです。念仏往生、念仏成仏は善導大師、法然聖人の教えであり、親鸞聖人の教えは念仏往生でも念仏成仏でもないと断言する阿部師とそれを擁護する人に、そう言い続けているのですが、未だに阿部師の言い分が理解できるとか言っているなんて、驚きを通り越して呆れていますよ。

阿部師の言っていることさえ理解できないのに、阿部師を非難している我々の言っていることなど到底理解できないでしょう。
頓珍漢なコメントは、やめた方が良いですよ、人格もしくは知能を疑われますからね。

No title

いや〜、これだけ皆さんが説明されてもまだ「撤回した」と言っているなんて、断章取義が親鸞会より酷すぎですよ。
空想なのかそうあってほしいの願望からの夢想なのか知りませんが、皆さんのコメントをよく読んで理解してからコメントしましょうよ。
だらだら長い文章を書けば説得力が増すと勘違いしているみたいですが、優秀な人は簡潔にまとめることができますがね。

一応解説しておきますと

念仏称えよとは仰っていない

言い過ぎた。
善導大師法然上人は念仏称えよと教えられているから、善導大師法然上人の立場でなら念仏称えよで良いですよ。
しかし親鸞聖人は念仏称えよとは仰っていない。


少しは他人の言うことを理解しようと努力したまえ。

Re: わかりません様

> 阿部氏が極端だとした前言を撤回していると理解する事が出来る

http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/53559094.html

のコメント欄(281、283、285、286)でも書き、またここのコメント欄でも説明しましたが、私の説明が理解して頂けず残念です。

そもそも、撤回したならその後の議論は無いはずなんですよ。おわかりですか? もし私がここで「やっぱりわかりませんさんは親鸞会での思考が抜け切れていないですね」と発言したとしたら、8月9日に撤回した私の言葉は何だったのかと思うでしょう? 撤回とは、自分の主張は間違っていたと認め、その後それについて発言しないことです。でなかったら撤回になりません。


A先生の主張は、

「私の言い方が極端でしたからねー。この方のおっしゃるように、確かに、阿弥陀さまは、念仏称えよと、言っていますよ。」ただし、観無量寿経の立場、法然聖人の立場、念仏往生の立場ではね

ということです。大無量寿経の立場、親鸞聖人の立場、平生業成の立場からすると「念仏称えよと言ってない」と主張しているのです。どこが撤回しているのでしょうか?

そこで、大無量寿経の立場、親鸞聖人の立場、平生業成の立場からしても「念仏称えよと言ってない」とはならないだろうとツッコんでいるのが私です。

わかりますか? 多分読者の中でわかっていない、わかろうとしないのはわかりませんさんお一人だと思われます。もし他に、A先生が「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という自説を撤回したと理解している方はコメント下さい。

つづき

ただしA先生の信奉者は除きます。

No title

皆さまお世話さまです。
わかりませんさんの書いていることは、わかりやすい言葉をむしろ敢えて難しくしているようで、わかりませんでした。
 てっきり親鸞会会員が、根拠では勝てないので淳心房さんへの人格攻撃に、いつもシフトするので、それかと思いました。しかし以前からコメント若しくは自分のブログに書いているようなコメントをされているので脱会者なのでしょう。
 そこでわかりませんさんは、結局「阿弥陀仏は念仏称えよと言っていない」これは間違いだと思っていますか?
「まかせよ」が先で「称えよ」は後と順番があるのですか?
私にはわかりませんさんの書くことが難しく感じるのでできれば簡単にわかるようにお願いします。

No title

淳心房さんが紹介した阿部氏の次の発言 : 「親鸞聖人がご主著の教行信証の六字釈で、南無阿弥陀仏をまかせよ、救うとしているところをおさえて、阿弥陀さまはまかせよ、救うとおっしゃているのであって、念仏称えよとおっしゃっているのではないと言ったのです。」
さて、淳心房さんが問題点として取り上げたいと思っている思い(コメント欄281、283、285、286など)を、改めて読み直しているうちに、阿部氏の上記の発言が六字釈の解釈として正しいか間違っているか、というところに論争の真の問題点がありそうだと気づいた。つまり、南無の解釈として祖師は「帰命」と「発願回向」の二義があること、そのうちの「発願回向」の解釈において祖師は「衆生の行を回施したまふ心なり」と言われている。衆生に回施される「衆生の行」とは「乃至十念」の念仏であると理解されるので、阿部氏の上記発言は祖師の行巻の立場から言っても間違っている。淳心房さんの真意を分かり易くすると、こうなると理解したが、それでよいだろうか? もっというと阿部氏は「帰命」の解釈に立って発言し、淳心房さんは「発願回向」の解釈に立って反論しているという構図になると理解した。 

No title

わかって論点をずらしているのでしょうね。
そうなら人格を、そうでなければ知能を疑います。

Re: わかりません様

それで、A先生は自説を撤回していないことはお判り頂けたんですか? まずはここをお答え下さい。

それとも、わざと論点すり替えという親鸞会のようなことをやっている?

このような発言は明信さんの仰る通り、貴方の人格を疑いますよ。

No title

わかりませんさんは、何が「わかりません」なのですか?わかっていてわざと問題点をずらして人格攻撃をするのですか?何か、前にもコメントを書いていたようなことが書いてあるので、淳心房さんへのA師との問題にかこつけて、過去の遺恨、私怨があるように見受けられます。
 
「ところで、私も、「我にまかせよ」に関しては問題視していません。問題視しているのは

阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない
と、信心と行とを対立関係で説いていること、そして念仏を本願から抜いてしまっていることです。また、A先生の説明では、行は信心の必然と言えば聞こえはいいけれども、要するに念仏は信心の後という位置づけです。」

としっかり淳心房さんは書いていますよ。
真の問題点は〜なんて、わかりませんさんが書かないでください。A師は撤回していると言ってながら結局は撤回してないし、それについてわかりませんさんは撤回してないと理解できたのか?そのうえでやっぱりA師が正しくて淳心房さんが間違いと言いたいけど、根拠をあげられないので、だから人格を攻撃して否定したいのか?はたまたやっぱり偽装脱会者で叩くチャンスと思って来たのか?

チュウビ様

「わかりません」さんのハンドルネームは隣のブログでコメントしていたときの名前をそのまま継続して使っているだけだと思います。

今はPCにアクセスできず正確な引用はできませんが、わかりませんという名前の由来は、A師は発言内容を撤回したとあるのに、私や他の人が「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という点を未だに問題にしているのが分からないということだったと思います。

また、過去の発言などから、わかりませんさんも、A師の説には種々問題があると感じている一人であり、A先生信奉者でないことは伺えます。
しかし、「念仏となえよ」と仰っているかいないかを問題にするよりも、別の点を問題にした方がよいのではないかというスタンスなので上のようなコメントが出てくるのだと思います。

いずれにせよ、わかりませんさんのコメントの中には、人格攻撃にあたる部分はないと思うので、
「人格攻撃をするのですか?」みたいな発言はやめましょうよ。

A師が自説を撤回していないことを理解したかについては、次のコメントを待ちましょう。

No title

明信さんも淳心房さんも失敬だな。
淳心房さんと阿部氏が主張する対立点をどのような視点から理解すると、正しく論点を理解することができるのか、について問い直しているだけですよ。論点を正しく理解出来れば、半分以上正しい解にたどり着けると考えています。ちなみに淳心房さんの考えは理解しました。淳心房さんは祖師の立場でも如来は念仏を勧めているとした上で、阿部氏は六字釈の解釈を誤っていると書かれていましたよね。そうすると、六字釈の解釈について両者はどのように理解しているのかを正しく把握しておく必要があるのではありませんか。この事に改めて気がついたということです。祖師の六字釈の解釈はとても重要な教学上の問題です。その解釈について両者の対立があるのであればその対立する双方の主張を明確にしなければ、両者の立場が曖昧なままとなり、正しい方向での議論はできないでしょう。そう考えているのです。教義を重んじるのであればもっと論理を重んじろと言うのは、そう言う事です。ハッキリ言うと表面的には両者の対立は念仏を勧めているか否かという対立としか当初は考えておらず、その対立の根底にあるより根源的な対立がどこにあるのかについては深くは考えていなかった。そのことについて淳心房さんのコメントなどを読み直している内に気づいたという事ですよ。正しく論点を理解する方向で知性を使っていなかったということです。当初からその視点からの議論を開始することができれば良かったと今になって思いますが、私の実力不足でした。淳心房さんからイレギュラーな事をされたのでちょっと紆余曲折しましたからね。上記の解釈問題を議論する事に比べたら、阿部氏が発言を撤回したと評価できるかどうかを議論するなんて些細な問題で派生的な問題ですよ。その評価の問題は後回しにしましょう。因みに一週間ほど返信はできません。

No title

論理的に話をしましょうと言いながら、論点をずらして平気なんてね。
理屈っぽいだけではここでは通用しませんよ。

Abcです

Sub Title:みなさまへ

こんばんわ、Abcです。

まず、わかりません さんの、長い文章は目が潰れそうになったことは基より、「なにを伝えたいのか」が伝わってきておりません。

なお、私がよく文節ごとにこのようにマスを空けるのは、「会長先生にご意見・ご質問がある場合は、1マス空けて記すこと」という規定からきております。これは親鸞会での規定ですが、私はこの「1マスあけて記す」という筆記法は「大変見やすい」と考えておりますので、いまだに使用させていただいております。

さて、
>阿部氏の発言 : 「親鸞聖人がご主著の『教行信証』の六字釈で、南無阿弥陀仏をまかせよ、救うとしているところをおさえて、阿弥陀さまはまかせよ、救うとおっしゃているのであって、念仏称えよとおっしゃっているのではないと言ったのです。」 というセリフですが、

 よくもまぁ、こんな飄々と「念仏称えよとおっしゃっているのではない」などと言われますね。大谷には、様々な学生がいらっしゃると聞いておりましたが、まさかの「念仏称えよとおっしゃっているのではない」と仰る方のお出ましですか。いやはや、たまげたものですね。

淳心房さんが、已今当として、様々な『和讃』をお挙げになられていらっしゃいますし、私も淳心房さんの手助けや、チュウビさんや他の方への理解の手助けとして記したいと思っております。 時には林遊さんから、「その発言では誤解を生むのでは」と言われますが、そのときは改めて自分の発言を「どの箇所が」と尋ねたりもしております。 それが、「私が考える切磋琢磨のかたち」とも受け取れますね。 今後ともよろしくです。

話がずれてきましたね。親鸞は『和讃』にて、

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる (浄土和讃)

と言われています。この事から対象は「念仏の衆生」と見れます。

ーーー ※ここから次の「ーーー」は、「読みたい人だけ」読んでください

 あ、伝え忘れていましたね。私が『和讃』や『偈文』、『お手紙』から教義を説く背景としては、「『教行信証』(『教行証』)は「大谷が代々伝えるべきものであるから、そのほかの家(高田家、横曽根家、出雲路家)は、『教行信証』から披いてはならない。けだし、『正信偈』に関しては、「おつとめ」等で、広く流布しているため、この限りではない。」といわれている。(正しくは、後述するように「いわれていた。」でした。)」 古くは、「『教行信証』を説くことができないと布教できない」と嘆かれ、横曽根家、出雲路家は大谷家に吸収される形をとりました。

 その後、時代が下って明治に入ると、「軍国主義」の色が濃くなってゆき、「仏教とは」と問うことも少なくなりました。今にしてその時代を鑑みると悲しい次第ですが、神戸や横浜から異文化が入ってきており、当時の人々はそれを「ハイカラ」といわれ、散切り頭で市井を歩いていた時代でした。この頃には「大谷がどうこう」ということは形骸化しておりました。それよりも「共に真宗をひろめよう」と「真宗教団連盟(現:真宗教団連合)」と建てられました。 なお「高田派」と言われたのが、明治5年からですので、それまでは「真宗専修寺派」と言われていたと聞き及んでおります。(また文献にて読み取りました。)

ーーー

また、
「南無阿弥陀仏をとなふれば」とあるという事は、「南無阿弥陀仏と称えることの功徳利益」について説かれていますし、

「~に帰命せよ」とあることは、「ふたごころなくおまかせせよ、ふたごころなく称えよ」のいわれであります。「これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。」のいわれからであります。

私ごとですが、高田の覚信御房は、大変篤い行者でありました、『お手紙』にもあります通り、「此処で帰っても、とどまっても果てるときは果てるのだ」と言われた方です。顕智御房は、同行の不調を気にかけておりましたが、「最後まで「南無阿弥陀仏と称えること」を顕された方」として、後世に伝わっております。

 最初に戻りますが、このように「様々な「南無阿弥陀仏」の謂れ」がありますのに、

>善導大師法然上人は念仏称えよと教えられているから、善導大師法然上人の立場でなら念仏称えよで良いですよ。
しかし、親鸞聖人は念仏称えよとは仰っていない。(Aさん)

と、「~の立場」、「~の立場」と「おなじ行者の立場にてさらに、条件を付ける」というのが私の気に障ってしまいます。

ましてや、「親鸞聖人が関東で布教されていたときは、「法然上人の立場の教え」をしており、あれは正しい親鸞聖人の教えではない」と一蹴されていることが、一番の「深いキズ」です。

 なもあみだ、なもあみだ
 Abc

Abcです

Sub Title:投稿文236に記されていた文を受けての感想

>少なくとも教行信証を理解しているプロだと大見え張っていたA師の基本的間違いが明白になったことだけでも良いでしょう。


A師の発言
http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/53479275.html

だから、当然 、法然聖人との違いは、親鸞聖人が それを解決しようとして書かれた教行信証に 座らないと、親鸞聖人の教えの独自性っていうのは出てこないんですよ。
だから、歎異抄だけ読んで、親鸞聖人の教えはこうですよ、っていうのは…。
私は過激な言い方をするけど、それは、シロウトです。坊さんでもそんなこと言ってる坊さんは、初心者。だいたい 教行信証を読まない坊さんて言うのは、私は半人前だと思っているんですよ。
で、教行信証はねぇ、坊さんじゃなきゃ、読めません。申し訳ないけど。
なんでかって言ったら、あれを学ぼうと思ったら、三十年くらいね、しっかり勉強しないとわからない。あればっかりやってて 三十年です。それを専業って言うんでしょ。それをやるのが浄土真宗の坊さんです。
私はそんなこと出来ませんって、そういう人は、だから普通の仕事を、いろいろ皆さんやって、で お寺に来て お聴聞するっていうんだから。そういう人には、教行信証を読みなさいって、私は言いません。読めない。無理。ハッキリ言って無理です。私は 未だに、教行信証を読んで講義しているけど、こんなのね、片手間で分かる書物じゃない。全部 世の中のことを投げ捨てて、専門に取り掛かってやらなかったら、わからない。
それをやるのが、真宗のお坊さんです。


→私の家柄は江戸時代まで大谷から「『教行証』にて説いてはならぬ」、「『教行証』を説くのは、この大谷だけであるから、説いてはならぬ」と言われ続けていたのですが、、、やはり「自分の主張」ばかりで「真宗史」もかじってないのでしょうね。

>「私は過激な言い方をするけど、それは、シロウトです。坊さんでもそんなこと言ってる坊さんは、初心者。だいたい 教行信証を読まない坊さんて言うのは、私は半人前だと思っているんですよ。」

→「教行信証を読まない」ではなく、「教行信証を読むことができない環境」です。そんなある意味「ワケありの同行」を「シロウト」と言い放つところに、やはり憤りを感じました。

>全部 世の中のことを投げ捨てて、専門に取り掛かってやらなかったら、わからない。 (抜粋)

この結果が、「阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない」ですか。あまりに「称えることのと謂れ」を見たくないからと『行巻』をほっぽり出していませんか。『行巻』には『正信偈』も含まれるというのに・・・

Abc

No title

>阿部氏が発言を撤回したと評価できるかどうかを議論するなんて些細な問題で

その些細な問題を長々とコメントしてきた人物が、自説が不利になったから論点変えましたで、通ると思っているのですか?
わかりませんさんの自己顕示欲を満たすために、付き合いたい人は付き合えば良いと思います。
私からすれば、
自分のブログで勝手に言っていれば
と思いますので、相手にしません。悪しからず。

論点さんに同意。


わかりませんさんにはもっと判り易く言いましょう。以前わかりませんさんは

> 未だ親鸞会での思考が抜け切れていないと感じた

という私の感想に撤回を求めましたね。もしその時

私の言い方が極端でしたからねー。わかりませんさんのおっしゃるように、確かに、わかりませんさんは親鸞会での思考は抜けていますよ。
私はわかりませんさんの、聖教と真逆なことを言っている知識の発言に「・・・と理解できます」と言っているところ、都合の悪い議論に関して論点をすり替えるところをおさえて「未だ親鸞会での思考が抜け切れていない」と言ったんです。

と私が答えていたとしたら、私は前言を撤回したことになりますか? わかりませんさんは、私が前言を撤回したと理解しますか?


こういう話です。

A先生は親鸞聖人の立場では「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」と未だに主張しています。私は親鸞聖人の立場でも「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」という教えを踏襲していることを聖教の言葉を通して見ています。他に考察したいことがあるなら、論点さんの仰る通りと私も思います。

No title

わかりません様

>上記の解釈問題を議論する事に比べたら、阿部氏が発言を撤回したと評価できるかどうかを議論するなんて些細な問題で派生的な問題ですよ。その評価の問題は後回しにしましょう。

A師が発言を撤回したか否かは、
http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/53559094.html?ref=popular_article&id=5172344-3025255
のコメント122辺りからわかりませんさんが問題にしてきたことではありませんか?

(以下、引用)
RCさんへの批判をしている方々にいくつかの疑問があります。
1.RCさんは、阿部氏は「念仏称えよと言ってはいないとは言いすぎた」旨を述べて発言を撤回したことを述べています。その撤回は承知できないという事なのでしょうか?
(引用ここまで)

そして、長々と今まで議論してきたことで、A師が言うところの親鸞聖人の立場、大無量寿経の立場、教行信証の立場からは「念仏称えよとは仰っていない」という説を、A師は何ら撤回していないということが明白になったと思います。

皆さんも言っていますように、まずは、こちらの決着をつけましょう。

時系列で簡単にまとめると、

●2018年6月:A師「私の言い方が極端でした」(淳心房さんの記憶:上のURLの記事のコメント283を参照)

●2019年2月:A師「行文類」の六字釈を根拠に、阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって、「念仏を称えよ」ではない。「念仏を称えよ」と仰ってますか?(上のURLの記事のコメント285を参照)

●2019年4月:A師(http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/53479275.htmlを参照)

・「教行信証で どう言ってるかってことは、阿弥陀さまは、どう言ってるかってことです。それは、行巻 六字釈です。どう言ったって。
 あそこに 如来の本願召喚の勅命なりって、言っているわけね。私はあそこに座って 物を言ってるんです。 教行信証 行巻 六字釈に。
 あれは阿弥陀さまの呼び声ですよ。何て言ってるか。
 「まかせなさい」って言ってる。
 「まかせなさい」と、「称えなさい」って違うでしょ。それが、わからないんだよ。」

・「◎「阿弥陀さまは 念仏称えよと おっしゃっていない」とおっしゃったことについて。
 無量寿経が、「十八願を説いているんだという説」に座るのか、「本願成就文が無量寿経の中心、成就が無量寿経の中心という説」に座るのかが、この議論なんです。」

・「だから、「阿弥陀さまは 念仏称えよと言ってる」って人には、逆に聞きますよ。教行信証のどこを押さえて言っているんですか?教行信証にどう書いてあるんです? 
  阿弥陀さまは「念仏申しなさい」と、教行信証のどこに書いてあるんですか?と聞きたい。」

となります。

「言い方が極端でした」といっていながら、自説を撤回していないことは明らかです。

追記です。一応、わかりませんさんの以下のコメントにも意見を述べておきます。

>このような視点に立つと、阿部氏の「念仏せよってことは実は同じなんだけど…。タノメってことと念仏せよってことは…。まあ結果は同じですよ。」と「だけど「タノムという心」から「おまかせしますという念仏」が出るんだから。心で押さえるか口の言葉で押さえるかの違いだけど中心は心でしょ。」については十分に首肯できる。心で押さえたのが大信であり、口で押さえたのが念仏(大行)だという理解である。こうした趣旨であると理解することが可能であるから、阿部氏の「私の言い方が極端でしたからねー。この方のおっしゃるように、確かに阿弥陀さまは念仏称えよと言っていますよ。」との発言を遡って見直すと、阿部氏が極端だとした前言を撤回していると理解する事が出来る。本当にこのように言えるかどうかは、今後の阿部氏の発言を注視してゆく必要があるが、その事はここでは置いておく。

『A師の発言は○○と理解できる、ここから「言い方が極端でした」という発言を遡って見直すと、極端でしたと言った前言を撤回したと理解できる』という理屈ですが、A師の「結果は同じですよ」という発言の後に出てくるのが、上のコメントで挙げた

・「だから、「阿弥陀さまは 念仏称えよと言ってる」って人には、逆に聞きますよ。教行信証のどこを押さえて言っているんですか?教行信証にどう書いてあるんです? 
  阿弥陀さまは「念仏申しなさい」と、教行信証のどこに書いてあるんですか?と聞きたい。」

です。「結果は同じですよ」という発言をどのように理解しようと、A師の基本的立場は、教行信証の上では「阿弥陀さまは念仏申せとは仰っていない」であることに疑いようはありません。つまり、わかりませんさんが述べる理屈で、A師の「言い方が極端でした」という発言を自説の撤回発言と見なすのは、不適切であると言わざるを得ません。

A師の思想や立場は、A師の発言内容から把握するのが筋でしょう。

わかりませんさんが些細なことという、撤回発言があったか否かの問題についてすら合意が得られないようでは、この後、話題を変えて議論をしたとしても、お互いにすれ違いが生じるのみだと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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