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【考察】念仏の勧めについて(22)

今回は善導大師の「念仏の一行」の勧めを

『飛雲』「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い5

より伺います。

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信心とは、念仏を称えて往生できると疑いなく信じたことです。言い方を換えると、念仏一行と心が定まったことです。
しかし、この念仏一行にも、自力と他力がありますので、他力の方の、念仏一行を親鸞聖人、蓮如上人は強調されたのだけです。
ということは、自力ではあっても念仏一行となっていない、もっと言うと、形式上でさえ善をしている人が、そのままいくら求めたところで他力の念仏一行になることはないということになります。言い換えると、雑行を捨てていない状態で、いくら努力しても念仏一行と心が定まるわけがないです。

(中略)

善導大師のところでは

慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲

を蓮如上人は

一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば、韋提希夫人とひとしく、喜・悟・信の三忍を獲べきなり。

と解説なされています。「一心念仏の行者」は、今回最初に私が言った内容と合致します。信心を「一念慶喜」と表現されただけではなく、「一心念仏」とも仰っていることが重要です。
なお、「一心念仏」にも自力の「一心念仏」と他力の「一心念仏」がありますので、普通に考えれば、自力の「一心念仏の行者」が「一念慶喜の信心さだまり」、他力の「一心念仏の行者」となるのです。

では、自力の念仏を称えていれば、他力になるということか!

と親鸞会は短絡的な反論をしてくるでしょうが、私が言っていることは、雑行の行者がいきなり「一念慶喜の信心さだま」った後に他力の「一心念仏の行者」になるのではないということです。

親鸞会では未だに、

雑行を捨てよとは、善をするな、ではない、自力の心を捨てよだ

と寝惚けた妄言を吐いていますが、自ら選択して念仏一行一心念仏になってからの自力と他力の話になるのです。諸善にしがみついて形の上でさえ念仏一行になっていない者が、他力を語ること自体が片腹痛いというものです。

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なお上記事は親鸞会への批判を書かれたものですが、真宗内でも同様の事が言えます。正行と雑行の区別もなく、往生を願って念仏一行を修めてもいない者が、ただ「阿弥陀さまがはたらいているから安心せよ」と言われたって何のこっちゃでしょう。それで蓮如上人は門徒を勧化する際に「正雑二行の沙汰」をなされたのです。これについて詳しくは蓮如上人について考察するところで見たいと思います。


現今の真宗では信心正因が強調されます。一方、称名は報恩と教えられますから、聞く側はともすると信心さえ獲ればいい、念仏は要らないという考えに陥りがちです。または念仏は信心の必然であり、往生に関しては無意味だと勘違いしてしまう方もあるでしょう。真実の信心を獲たら必ず念仏となって表れるのだから、信前に一生懸命念仏を称える必要は無い、逆に念仏に力を入れるのは称名正因の異安心だ。こんな風に思って念仏がなおざりになっている方もあるかも知れません。

しかし、称名は信後の報謝に限るのではありません。また、信心についてくるオマケでも、往生に関して無意味というわけでもありません。何度も書いていますが、信心とは、念仏を称える際の信心です。念仏ありきの信心なんです。まず如来から信心というものを賜って、その信心から念仏が出てくるように思っている方もあるかも知れませんが、逆です。如来より賜っている念仏を領受するのです。その領受する信心も、自分の心で起こすものではなく、本願の自ずからなる計らいによって起こされた、生じたものです。それを法然聖人は

如来よりたまはりたる信心」(『歎異抄』後序

と仰せられたのでした。

念仏は本願にただ一つ選び択られた往生の行です。ところがその念仏を誤解して自分の功徳、自分の手柄のように思い、これを積み重ねて往生をより確実にしようと力んでいるのは定散心、自力の信心です。それに対して、阿弥陀仏の本願は、名号を称えることわずか十声一声の者に至るまで間違いなく往生させて下さると疑いなく信ずることを真実の信心というのです。善導大師が『往生礼讃』

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。

と教えられている通りです。信心は称名という行に就いての信心であり、

弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知

するのです。善導大師は、念仏が救いの絶対条件だと教えられています。

親鸞聖人は『集諸経礼懺儀』からという形で、『教行証文類』にはこの善導大師の御文を「行文類」「信文類」に引文されています。親鸞聖人も『教行証文類』において

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

と解釈されていることは明々白々です。でなければ、この御文を引文する意味が判りません。

親鸞聖人は、ただ名号を聞いて信じるものも救う本願だと言いたかったために『往生礼讃』から直接ではなく、「」の語が入っている『集諸経礼懺儀』からこの御文を引かれたのでしょう。だからといって、「念仏を称える者を往生させる」本願であることを否定されているのでないことは当然です。



【参照】
『飛雲』二種深信も知らず創価学会の信心を真実信心だと本気で思っている高森顕徹会長と愉快な仲間達
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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