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【考察】念仏の勧めについて(25)

親鸞聖人はご自身の六字釈の中で

帰命は本願招喚の勅命なり

と仰っています。このように南無阿弥陀仏を衆生に帰せよと命じる如来のよび声、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せだと解釈される元になったのが、善導大師の二河白道の譬えです。その中で善導大師は、阿弥陀仏を西岸上の人に譬え、本願の仰せを

なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ

と表現されています。これが「本願招喚の勅命」です。そのことは合譬/合法の中で

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて


等と言われている通りです。旅人は、東の岸の人(釈尊)の勧める声と共に阿弥陀仏の喚び声を聞き、もはや尻込みすることなく白道を進む決心をします。この白道が他力の信心を顕していることはご承知の通りです。


さて、この弥陀の願意、すなわち18願意を明らかにされた本願招喚の勅命を、親鸞聖人は『浄土文類聚鈔』と『愚禿鈔』において解説されています。まず『浄土文類聚鈔』には

これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉」と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。(後略)


【現代語訳】
そこで、 善導大師の 『観経疏』をひらくと、 次のようにいわれている 。
「西の岸に人がいて、 〈そなたは一心に正念してまっすぐに来るがよい。 わたしがそなたを護ろう。 水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな〉と喚ぶ声がする」
また次のようにいわれている。
「〈水の河と火の河の間にある白い道〉というのは、 貪りや怒りの心の中に、 往生を願う清らかな信心がおこることをたとえたのである。 浄土へ往生せよという釈尊のお勧めと、 浄土へ来たれと招き喚ぶ阿弥陀仏の仰せにしたがって、 貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず、 阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせるのである」
これによって知ることができた。 「清らかな信心が起こる」 とは、 凡夫が自力で起す心ではない。 大いなる慈悲により回向された心であるから、 清らかな信心といわれているのである。 そして 「一心に正念して」 というのは、 「正念」 とはすなわち称名である。 称名はすなわち念仏である。 「一心」 とは深い心、 すなわち深心である。 (後略)


とあります。

正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり

であり、深心とは真実の信心のことですから、弥陀の悲心招喚、すなわち本願招喚の勅命とは

真実の信心で念仏して(西の岸)に来なさい=白道を歩みなさい

であると判ります。


次に『愚禿鈔』には

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、

「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。

「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。龍樹大士『十住毘婆沙論』にいはく、「即時入必定」となり。曇鸞菩薩の『論』には、「入正定聚之数」といへり。善導和尚は、「希有人なり、最勝人なり、妙好人なり、好人なり、上上人なり、真仏弟子なり」といへり。「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。

「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。

「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。

「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。「能」の言は、不堪に対するなり、疑心の人なり。「護」の言は、阿弥陀仏果成の正意を顕すなり、また摂取不捨を形すの貌なり、すなはちこれ現生護念なり。「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。


とあります。

「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。

とあるように、正念とは第一希有の行である本願の念仏のことです。やはり本願招喚の勅命とは

真実の信心で念仏して報土(西の岸)に来なさい=白道を歩みなさい

であると判ります。


元々、「本願招喚の勅命」=「真実の信心で念仏しなさい」ということなのです。善導大師はそのように教えられたのだと親鸞聖人が解釈されています。それを、「行文類」の親鸞聖人の六字釈を根拠に

阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

などと解説する布教使は、善導大師の立場でも、親鸞聖人の立場でもないということです。その布教使には、喚び声の「正念」に当たる善導大師の

わが名号を称すること下十声に至るまで(『往生礼讃』

わが名字を称すること、下十声に至るまで(『観念法門』


もなければ、親鸞聖人の

名号をとなへんものをば(『御消息』

もありません。その点においては、高森顕徹会長と同じです。本願成就文を重視する人は、やはり似たような思考になるのでしょうか。

善導大師も親鸞聖人も、念仏を称えることが救いの条件として明確に仰っているのです。親鸞聖人の場合は厳密に言えば、念仏を称えて極楽に往生できると深く信じることが救いの条件として仰っています。救われていない人に対して、念仏はお礼だから救いには不要だとは仰っていないのです。念仏は救いの絶対条件です。

と飛雲さんも仰っている通りです。その念仏を本願から抜いてしまうような発言は、本願の破壊であり、本願の救いを無に帰せしめる行為であると感じます。いつまでも根拠の無い自説を曲げないところまで高森顕徹会長とそっくりです。言っておきますが、親鸞聖人の六字釈は根拠になりません。『教行証文類』を読んでもそのようなことは書かれていません。本人でも信奉者の方でもかまいません、もし

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない
阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない


というのならば、根拠を出して頂きたいです。出せないのなら、それは真実の仏法ではなく「珍らしき法」です。



【参照】
麻原教祖を未だに信じているアレフの信者より幼稚な高森顕徹会長信者
善導大師の教えられ方でも高森顕徹会長を攻撃しておきます
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No title

ども、林遊@なんまんだぶです

本願招喚の勅命とは、小便がしたいときに、自然がわたしを呼んでいる(Nature call me)とは違うのでした。
聞ということは、私が称えわたくしが聞くことをいふのですが、Aさんはこれが解らんのです、賢いから(笑
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%9C%AC%E9%A1%98%E6%8B%9B%E5%96%9A%E3%81%AE%E5%8B%85%E5%91%BD

Aさんは門徒のご法義の学びを「無理です。だいたい30年かかるって言われてる。教行信証だけ、専門で取り掛かって。それが真宗の坊さんの世界ですよ」と豪語してますが、『教行証文類』に説かれていることは「本願を信じ念仏を申せば仏に成る」ということを説かれているのであり、Aさんはこれが解らんのでしょう。
たしかに、御開山以後に、種々に展開した「教学」の学派の全体を学ぶには30年かかるかも知れない。その中で、Aさんは、種々に展開した学派の中で、行を「称名」ではなく「名号」とする大瀛和上の説をとるから、信の一念に固執し、凡夫の口先に称えられている、なんまんだぶを莫迦にするのであった。
それは以下のテープ起こしの投稿の文からも判る。

>>引用開始
◯(阿部先生)教行信証を読んでいないんです。だから、何度も言うけど、教行信証が親鸞聖人の教えなんですよ。教行信証の上で、ものを言ってくださいって。読んでないからね。読んでないからって…、ハッキリ言うけど、今から 読んだってわからないです。
そういう言い方をすると、偉そうに聞こえるかもしれないけど…。無理です。だいたい30年かかるって言われてる。教行信証だけ、専門で取り掛かって。それが真宗の坊さんの世界ですよ。
それをねぇ、何か仕事をしながら、片手間に歎異抄を読んで、親鸞聖人の教えは、こうですって…。
正法誹謗だってことだけ言っておきます。
だから、困るのは、アンタです。こっちは、全然困んない。
批判されても痛くも痒くもないですよ。

教行信証を元にして、議論して来るんだったら 私は、受けて立つけど。

だから、私は相手にしないですよ、それは。
シロウト、相手にしない、だいたい。
そうでしよ。
プロのボクサーが、シロウトと喧嘩しますか。

だから、やらないです。勝負になんない。勝ち負けじゃないけど。
そういうレベルの話しです。
http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/2019-06.html
>>引用終了

Aさんは、大瀛和上の教学によるとされるのだが、ざっくり解説した信楽峻麿さんの論文をリンク。信楽峻麿さんのご法義理解は、あまり好かんのだが学者としての考察は有意であった。
http://sugano.us/butu/20.htm#3-1

御開山が、

(101)
曠劫多生のあひだにも
 出離の強縁しらざりき
 本師源空いまさずは
 このたびむなしくすぎなまし

とされた法然聖人は、選択本願の念仏一行を示されたのだが、これを形而上の観念である法体名号と理解するとAさんのような発想になるのだろう。教学を学ぶ者の陥る罠であった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

No title

週刊みんなの法話
■ただ念仏して  A〔本願寺派布教使〕                          (みほとけとともに/本願寺の時間2004(H16)6月放送)
(略)
   
仏様が働いていてくださるのに、なぜ私の上にお念仏としてあらわれてくださらないのか?それは私がお念仏をしないからです。「お念仏しなさい」と私にお念仏を勧めてくださったのは、お釈迦さまです。私がお釈迦さまのお勧めに素直にしたがってお念仏する。(略)
    
『歎異抄』というお書物があります。唯円というお弟子が、聖人のお言葉を聖人亡き後、書き記したものといわれています。その中の一節に次のようなお言葉があります。(略)

「私はただ念仏して阿弥陀さまに助けて頂きなさいという、よき人の仰せを信じてお念仏しているのであり、その他に仏様に助けて頂く道は知りません」とおっしゃり、また「お念仏を取って信じるのも、捨てるのも、皆さんのお決めになることです」と聖人はおっしゃいます。
    
他の人の言葉に惑わされて、遥々関東から京都まで訪ねて来たお弟子に対してのお言葉です。私たちも世の中の言葉に惑わされることなく、聖人のお勧めにしたがって、お念仏申してまいりましょう。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

==================================

仮に同じ先生が
「阿弥陀仏は念仏を称えよとは言われていない」、
「お釈迦様、聖人は念仏を勧められている。称えましょう。」と説法されたなら、どのようにお聞きすればよいのか。「世の中の言葉に惑わされる」その前に、私は惑います。今度、二時間半で参加費5000円(僧侶) 、 3500円(一般)の勉強会を開催されると聞き、本当にこのままでいいのだろうか、と思った次第です。今回はどちらのお話なのでしょうか。

Re: 林遊@なんまんだぶ様

信楽峻麿さんの論文、一読しました。

興隆師の「三法は展転循環して端なきなり」などは、私も似たようなことを考えていました。やはり私が考えつくことは既に先哲によって考察され、文章化されていますね。私の考え方は、論文からすれば月珠師、深励師が近いようです。


いわゆる所行系の理解も読ませて頂きましたが、しかしながらどなたの学説にも

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない
阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

ということはありませんね。A先生一押しの大瀛和上にも見られません。調べた限りでは、直接の師である桐谷順忍和上、稲城選恵和上にも見られません。完璧にA先生独自の説です。


それと、私は『歎異抄』を出して言っているのではなくて、七高僧の聖典や『教行証文類』の本文と引文、その他親鸞聖人が書かれた聖教や御消息を根拠として発言しているんですが・・・。以前A先生には

http://shingikensho.blog12.fc2.com/blog-entry-1222.html

に示した通りの質問をしましたが、【質問の経緯及び考察】以下は取り扱ってくれず。『尊号真像銘文』のお言葉は

それは法然聖人の教えだ

と言われてしまったです。『歎異抄』を毛嫌いするA先生の妄想が時折混ざっているようです。

『教行証文類』だけ取り掛かって30年と豪語する方が聖教に根拠の無い妄想を説いて振れ回っているのは困りものです。雑行(悪業悪行)を勧めないT会長だ、と言ったら失礼でしょうか。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

Re: 愚愚流様

A先生は、『歎異抄』や、親鸞聖人の関東でのご教化、御消息も親鸞聖人の教えではないと言っています。

【投稿文】光蓮寺のご縁と 東京恵日会のお話し
http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/53198008.html

親鸞聖人、ご自身のご教化っていうのは、これは、関東でどういうご教化をなさったのか、ってことは、具体的には、記録というのはないわけですけどね。ただ、歎異抄に、84歳の頃ですね、宗祖が 84歳の頃に、関東から弟子たちが、やってきて、そこで問答があってという記録がありますけどね。あと、手紙、ご消息の内容、お手紙の内容ですね。60過ぎて 京都にお戻りになってから、今度は関東のお弟子たちと、お手紙によって、やり取りをされた。そういう内容を見てるとね、ほとんど、念仏して浄土へ生まれて行くという法話の内容について、いろいろ、歎異抄もそうですし、お手紙でもそういうことになっています。ってことはねぇ、これは親鸞聖人の教えじゃないんですよ。(2019年3月10日、築地本願寺にて)


また、いつだかのご縁の際に、親鸞聖人は関東の同行に法然聖人の教えを説かれたと言っておりましたですよ。つまり親鸞聖人の教えは『教行証文類』のみに説かれており、他の聖教や御消息は法然聖人の教えであって親鸞聖人の教えではないというのがA先生の主張です。

挙げて頂いた「週刊みんなの法話」は2004(H16)6月放送とありますが、十数年の歳月を経てその説くところはすっかり変わってしまったようです。その勉強会では、最近の傾向でいけば「阿弥陀仏は念仏を称えよとは言われていない」という話になるでしょう。もし「お釈迦様、聖人は念仏を勧められている。称えましょう。」とか説いたら頭の中身を疑います。

追記

ちなみに「これは親鸞聖人の教えじゃないんですよ。」の後には、こう続いています。


要するに、法然聖人の教えなんです。だから、親鸞聖人は関東で、どういう位置づけにあったかと言ったら、法然聖人の高弟ですよね。
だから、他の方々は、親鸞聖人から教えを聞こうなんていうのは、サラサラ思っていない。法然聖人の教えを聞くために、親鸞聖人を呼んでいるんですよ、関東にね。
だから、そのように、法然聖人の教えは、どういう教えですかってことを、親鸞聖人が説いているんですよ。それは、ただ念仏して弥陀に助けられ参らすべし、ということです、と。だから、ご教化のやり方としては、 お念仏を勧めていかれたわけね。だから、念仏して弥陀に助けられ参すべしってことは、念仏をなさいませ、お念仏すると、お念仏する者は、皆 お浄土へ参れますよ、仏さまになれますよ。と言って、25日のお念仏というのは、法然聖人のご命日が2月25日ですから、その25日に集まって、みんなで念仏をしたわけですよ。それはお浄土へ参る者同士が、より集まっては、喜びを分かちあったんです。それを法然聖人のご命日にやったんです。こういう形態ですよね。


違うんですけど・・・。親鸞聖人は、例えば『末灯鈔12通』では

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E8%81%96%E4%BA%BA%E5%BE%A1%E6%B6%88%E6%81%AF#.E6.9C.AB.E7.81.AF.E9.88.94.2812.29

と仰っています。「お念仏する者は、皆 お浄土へ参れますよ、仏さまになれますよ」なんて説いてないです。一向に名号を称えていても、信心あさくは、つまり自力の信心の者は往生しがたい、辺地に生まれると仰っています。

親鸞聖人は、浄土真宗は法然聖人が開いたものだと仰っています。聖人には、生涯恩師法然聖人の弟子として師の教えを明らかにすること以外無かったのでしょう。『教行証文類』にせよ、師説の正当性を世に知らしめ、念仏往生こそ万人共通の往生のみちであることを論証されたものです。そこには現生正定聚や往生即成仏など、法然聖人には無い思想も見られますが、決して法然聖人を離れた教えではありませんでした。

今の浄土宗は法然聖人のお弟子が開いたものですから、その説くところは法然聖人の教えとは少し違っています。それと浄土真宗とを対比するのは結構ですが、間違ったことを親鸞聖人の教えとして説くことは止めてもらいたいものです。

愚愚流さんへ

ども、林遊@なんまんだぶです

愚愚流さん。
Aさんは、世俗という宗門に迎合する生き方と、自らの信念を使い分けているだけなんでしょう。ある意味では、左派特有の指導する我らと指導される愚昧な民衆(門徒)という視点です。なお言葉を引用するときは出来るだけ出拠を示しましょう。読んでいる人はエスパーじゃないのです。

みんなの法話 TEXT
■ただ念仏して  阿部信幾〔本願寺派布教使〕

http://kousanji.net/Houwa/2011/Aug/houwa_20110802.htm

「本願寺公式動画配信サイト」
ただ念仏して 阿部 信幾(あべ しんき)≪群馬県西福寺住職/本願寺派布教使≫
http://broadcast.hongwanji.or.jp/html/radio.html?bclid=5086017403001

御開山は、なんまんだぶを称えることによって起こる信を、

 おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正観にあらず邪観にあらず、有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。
http://wikidharma.org/5d790a5e940bf

と、いわれていましたです。
自分には判らなくても、本願に選択されている、なんまんだぶを称える者は、なんまんだぶを称えたものを必ず浄土に迎えとるという仏願に順ずる故に

 正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに
http://wikidharma.org/5d790bc87d210

という、念仏成仏のご法義でした。
浄土真宗の教学とは、私の救済を示すものではありません。浄土真宗のご法義は、第十八願の、

 たとえ私が、仏陀(真実に目覚めたもの)となりえたとしても、もし生きとし生ける全てのものが、ほんとうに(至心)疑いなく(信楽)私の国に生まれる事が出来るとおもうて(欲生我国)、たとえわずか十遍でも私の名を称えながら(乃至十念)生きているものを、もし私の世界に生まれさせる事が出来ない様なら(若不生者)、私は本当に目覚めたものと呼ばれる資格がない(不取正覚)のだ。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%85%AB%E9%A1%98

といふご法義ですから、意味や訳が判らなくても、なんまんだぶを称えさせていただきましょうや。これがアルファでオメガでした。ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

No title

真宗の世界(本当の世界)はプロだとか、シロウトだとか、区別はありません。阿弥陀様の平等の救いを聞く人ならば、人を分け隔てすることの愚かさはわかっているはずで、自分がわかった側の人間になるのは大変恐ろしいことです。どこまでもわからない存在だから、共に南無阿弥陀仏を称え、聞き、生きていくのが本当のお同行です。

一人の先生だけに従って生きるのは大変難しいことです。たとえ信心決定したとしても、知識だのみという間違いはあります。気づかずにそのまま一生を過ごすこともあるでしょう。それはその人の生き方なので何とも申し上げられませんが。少くとも私は人を分け隔てしてはいけないと思っている先生から真宗の教えを聞かせて頂きます。


林遊@なんまんだぶ 様
根拠を出して下さって、有難うございますww
林遊さんがエスパーであることがわかりました。
   

本願名号正定業

ども、林遊@なんまんだぶです。

Aさんの真宗理解には違和感を持ってていたのですが、

>>引用開始
私は、いっとき キリスト教徒だったんです、坊さんをやる前に。
だから、新約聖書も全部読んだし、旧約聖書も全部読んだし、聖書の解説書も読んでるし…。
その中には そういうことが書いてあるわけです、聖書に。
だから、キリストは もうすぐ神の国が近づいているよ、ということを伝えた、これを福音て言うんです。
浄土真宗て、これに近い。
なんでかって言ったら、お釈迦さまが 南無阿弥陀仏のいわれを説いた。南無阿弥陀仏とは何か、これが無量寿経なんです。
南無阿弥陀仏とは何かと説いた内容が、それは
あなたを仏にできないうちは、私は仏とは名乗りません、と誓った法蔵菩薩が、もう悟りを開いて、あなたを仏にすると、はたらいている、それが 南無阿弥陀仏の六字の名号だって言うんです。
仏さまのはたらきって目に見えませんから、「私は必ずあなたを仏にするとはたらいておるよ」と、私に告げてくださる仏の言葉が南無阿弥陀仏の六字の名号なんです。
だから、これを聞いて、「どうする」って話しは無いんですよ、浄土真宗には。
南無阿弥陀仏のいわれを聞いたら、「あ、私はもう仏に成れるんだ、良かったなぁ」しか無いんです。
これが浄土真宗ですよ。

http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/53787949.html
>>引用終了

という理解から、いわゆるキリスト教の恩寵説で、仏教を把握しているのだと判断しました。

「恩寵」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%A9%E5%AF%B5_(%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99)

Aさんは、仏教に於ける救済論とキリスト教においての救済論について混乱しているのかもです。

禅門の居士であった鈴木大拙師は、キリスト教における救済と仏教の済度の違いについて、

 キリスト教徒は救済を求めて正覚を願わない。魂を堕獄から救う事がキリスト教の信仰生活の内容となっている。仏教徒の願うところは証(さとり) に至ること、無明より離れること、即ち生死(輪廻)の絆を脱することである。しかし真宗は、外から見ると、キリスト教の罪悪に相当する罪業から救われることを求めるものの如くに見える。が、実際からいうと、真宗信者は、この相対の世界にいる限り、このことが到底不可能であることを承知している。どれほど相対的存在として人間の知力・道徳力を尽しても、業の必然性から遁れる術はない。だから彼等は業に随順する、業を遁れたり、業に打ち克つことを企てぬ。業をそのままにして、却ってこれを超える方法を求める。そしてそれによって本来の自由に立ち戻らんとする。その方法は、最高の正覚達成に必要なあらゆる条件を具備した安楽浄土の主人公としての無量寿・無量光の仏陀を信ずることである。かくして真宗信者の第一の目的は浄土に往生することである。そして即時に無上覚を証することである。
事実、往生は即ち成仏で、この二つの語は全く同義語である。真宗生活の窮極の目的は正覚を達成することで救済を得ることではない。業と相対性を性格としているこの世では、最高の智慧を得るのに好都合な環境は与えられない。またそういう理由があればこそ、弥陀は彼の信者のために、特に一仏土を建設し、その土の一切の事物を、往生者の無上覚超証に資するようしつらえられたのである。かくして無上覚を証れる時、彼等は急いでこの世界に還り来り、一切衆生を利益(り-やく)するのである。自分自身ではそれを知らずにいても、真宗人は正しくこの世界全体の正覚を増大するために生きている。罪悪を意識し、業繋の生を意識してはいても、彼等は正覚を求めて努力しつつあるもので、個人的救済を願っているものではない。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%B8%88%E5%BA%A6

と述べておられましたが、仏教は自分だけが救われる教えではなく、『歎異抄』で、

 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%AD%8E%E7%95%B0%E6%8A%84#.E7.AC.AC4.E6.9D.A1

と、信の無い人間にとっては死とは虚無への墜落であるが、なんまんだぶを称える浄土真宗の門徒には、往生という新しい生のはじまりなのでした。
「往生」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%81%8A%E3%81%86%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86

Aさんは、往くべき躍動する浄土を持たないから、キリスト教風救済論の恩寵論に嵌ったのかもである。(Aさんは、かってFBで、いわゆる小乗の「灰身滅智」を主張するフレンドに賛意を示したことがあるのだが、往生して成仏するといふ浄土教というものを理解していないのだと思ったものである。正統派から自性唯心と突っ込まれていたけど。)

現代においては、浄土思想とは非常に理解しにくい思想になってしまったのだが、生まれかわり死にかわって、なお仏法のさとりの実現を目指すのが浄土門の仏法であった。この仏陀に成る正因を「念仏成仏 これ真宗」と、御開山は示されたのである。これが「本願名号正定業」である。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

No title

林遊さん、鈴木大拙師の文を紹介下さりありがとうございました。今回の問題は、なるほどそういうことか、と納得しました。今回の件は、人間関係的にいろいろあるので発言はしたくないのですが、自分の中で腑に落ちました。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
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