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【考察】念仏の勧めについて(29)

本日は法然聖人の教えを伺います。私は法然聖人ほど「念仏の一行」を強調された方はインド、中国、日本のどこを探してもおられないのではないかと思います。それは主著である『選択本願念仏集』という題号と、標宗の文を見ただけでも伺えます。親鸞聖人は「行文類」

『選択本願念仏集』(選択集 一一八三)[源空集]にいはく、「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。

と、本願の念仏が真実の行である根拠として、後の『選択集』結論である三選の文と共に引文されています。

選択本願とは、『浄土真宗辞典』には

阿弥陀仏の四十八願の根本である第十八願において、衆生往生の行が選択されたという意。また、その第十八願を指して選択本願という。法然は『選択集』「本願章」において、称名念仏と諸行を「勝劣の義」「難易の義」(選択集 P.1207)によって論じ、選択の意義を述べている。 そして、衆生が修めるべき浄土往生の行について、難劣である諸行が選び捨てられ、勝易二徳をそなえた行である称名念仏が選び取られたのが第十八願であるとする。 さらに

弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。(選択集 P.1209)

と述べ、いかなる者も修めることのできる称名念仏を浄土往生の行として誓う阿弥陀仏の選択の願心は、一切衆生を平等に救おうとする大慈悲心のほかならないことを明らかにしている。このように法然は念仏往生を誓った第十八願は平等の慈悲がまさしく具現したものであるとうけとめ、これを「本願の王」(選択集 P.1228)とも呼んでいる。


とあると紹介されています。阿弥陀仏が本願において、衆生往生の行として称名念仏一行を選び択られたというのです。親鸞聖人は選択本願「信文類」に第十八願の別名として挙げ、『御消息』には

浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。

と仰せられています。「選択本願」=「浄土真宗」であるというのです。今でこそ「浄土真宗」とは教団名となっていますが、親鸞聖人が言われる「浄土真宗」とは、教団名ではなく教法の名称でした。その「浄土真宗」とは、「選択本願」の教法であることが分かります。

これは『御消息』のみに言われていることではありません。親鸞聖人は『高僧和讃』にて

智慧光のちからより
 本師源空あらはれて
 浄土真宗をひらきつつ
 選択本願のべたまふ


と仰せられています。「浄土真宗」は本師源空法然聖人によって開かれた教えであり、それは「選択本願」の教法であるというのです。親鸞聖人は続けて

善導・源信すすむとも
 本師源空ひろめずは
 片州濁世のともがらは
 いかでか真宗をさとらまし

曠劫多生のあひだにも
 出離の強縁しらざりき
 本師源空いまさずは
 このたびむなしくすぎなまし


とも仰せです。いくら善導大師や源信僧都がおられても、法然聖人がましまさなかったならば親鸞は救われることがなかったに違いないとその恩徳を讃えられています。そのような親鸞聖人が、法然聖人と共に

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

と理解されていることは論ずる余地のないことです。
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選択本願念仏

ども、林遊@なんまんだぶです。

御開山は、『教行証文類』の後序で、

 『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪殿兼実、法名円照]の教命によりて撰集せしめるところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。
まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。年を渉り日を渉りて、その教誨を蒙るの人、千万なりといへども、親といひ疎といひ、この見写を獲るの徒、はなはだもつて難し。
しかるにすでに製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴(しるし)なり。
よりて悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す。
http://wikidharma.org/5d862976a8010

と、されておられます。
著書で自己の出自を示すことなく、また感情的な表現はなされなかった御開山でした。しかし、ここでは法然聖人から『選択本願念仏集』の伝授を享けられたことを「悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す」といささか感情をこめて述べておられました。よほど法然聖人に出あえたことが嬉しかったのでしょう。

さて、その伝授を享けられた『選択本願念仏集』には念仏(なんまんだぶ)を選択した意を「八選択」としてあらわされていました。
そこには、阿弥陀仏が我が名を称えよとして、

しかのみならず『般舟三昧経』のなかにまた一の選択あり。いはゆる選択我名なり。弥陀みづから説きて、「わが国に来生せんと欲はば、つねにわが名を念じて、休息せしむることなかれ」(意)とのたまへり。ゆゑに選択我名といふ。
http://wikidharma.org/5d862c952aed1

と、『般舟三昧経』を引いて、阿弥陀仏が我が名を称えよと「選択我名」といわれていました。

ともあれ、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」と主張するAさんは、折角「行信論」を学びながら、「行信不離」ということが理解できなかったのでしょう。愚鈍な林遊のような凡夫の口先に称えられる なんまんだぶが「選択本願」の「大行」であり往生成仏の「業因」であるということに思ひが至らなかったのでしょう。
「信心正因 称名報恩」という名目に騙されて、まるで、なんまんだぶの大行を信心のオマケのようにしか捉えられなかったのだと思ふ。
Aさんは、知性と教養が邪魔をして「聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる」(『西方指南鈔』浄土宗大意)ということが解らんのでした。
浄土真宗は、生死出づべき道(生死の迷いから出ることのできる道)は、一介の凡愚にかえり、選択本願の なんまんだぶを称えて成仏するご法義でした。ありがたいこっちゃ。

参照→「八選択の釈意」
http://wikidharma.org/5d8632b0c0609

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

A先生の頭には、「親鸞聖人の教えはこうだ」という確固とした概念のようなものがあるのでしょう。それに合うように聖教を理解している節があります。ですから、話のところどころに聖教と合わない部分が出てきてしまうのです。

そこで、自分の頭に合わせず聖教の言葉に合わせていれば今問題にしているような説は出てこなかったはずですが、聖教の言葉に合わせず自分の頭に合わせたために林遊さんの仰るような「本願の行信の破壊」とも取れる邪義が生まれてしまったのでしょう。このような、聖教の言葉に合わせず自分の頭に合わせる理解の仕方は高森顕徹会長と同じです。そして、聖教と合わない部分を「それは法然聖人の教えだ」などと詭弁をもって正当化しているところも高森顕徹会長と同じです。

ところで、A先生は親鸞聖人の教えでは阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていないが、「真実信心必具名号」で信心獲得すると念仏が出てくるとも言っています。これも林遊さんの仰るように

> なんまんだぶの大行を信心のオマケのようにしか捉え

ていないとしか思えないです。なんまんだぶという真実の行も、なんまんだぶを正定業だと受け容れる信心も、共に阿弥陀仏より回向せられる行信であって、二つは別々のものでも、片方を勧めて片方は勧めないというものでもありませんでした。『教行証文類』にはそうした一行一心の勧めが書かれているのに、一体この先生は何を読んでいるんだろうと疑問でなりません。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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