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【考察】念仏の勧めについて(26)

帰命は本願招喚の勅命なり。

親鸞聖人の六字釈の一節ですが、聖人の六字釈は元々善導大師が『観経疏』の「玄義分」において、名号のいわれを顕すために施された六字釈を更に展開されたものです。善導大師の六字釈は、

南無といふは、すなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。

というものです。親鸞聖人はご自身の六字釈の直前に引文されています。これは、六、七世紀頃の中国仏教界で流行していた念仏別時意説を批判する論議の中で展開された、善導大師独自の念仏釈義でした。

摂論宗(『摂大乗論』の研究グループ)では、『観経』に称名だけでも往生できるかのように説かれているのは、怠け者を励ますための別時意と呼ばれる方便説であると主張していました。なぜならば南無阿弥陀仏と称えているのは、「阿弥陀仏に南無したてまつる」といって如来に敬意を表し、せいぜいその浄土に生まれたいという願いを表現しているに過ぎないから、行と言われるようなものではない。したがって称名しただけでは願はあっても行がないから、報土に往生する因にはならないというのです。

もっともそれも仏縁には違いないから、称名することは遠い将来の往生のための一つの縁とはなる。だからといって、称名にはさとりの領域である報土に往生できるような価値はない。しかし、そのように教えると怠け者は称名さえしなくなるから、遠い将来に得るであろう往生の果を、まるですぐに得られるかのように説いて怠け者を励まし、仏縁を結んでいく方便の教説である。このように遠い未来(別時)に得られる結果を、まるですぐ(即時)に得られるかのような説き方をするのを別時意の方便説と言いますが、念仏往生はまさしくその典型的な教説であるというのです。

それに対して善導大師は、念仏が往生の業因であるということは、阿弥陀仏の本願に定められたことであり、釈尊を始め十方の諸仏が証明されていることであるから疑いを入れる余地はないと言われます。更に道理から言っても南無阿弥陀仏と称える時、そこには自ずから願と行が具わっているから、念仏往生は決して別時意の方便説ではないと主張されたのです。その道理を明かしたのが上の六字釈です。

南無阿弥陀仏の「南無」は、翻訳すれば「帰命」であるが、「帰命」とは如来の教え(教命)に素直にしたがう信順の心である。それは念仏する者を必ず浄土に生まれさせるという如来の教えに順っているのであるから、「帰命」には仰せに順って浄土に往生しようと願い(発願)、浄土に向かう心(回向)がある。すなわち発願回向のいわれがあることが分かる。また第十八願には、阿弥陀仏の名号を称えることを往生の行とすると定められているから、阿弥陀仏という名号が往生の行体となるいわれがあることが分かる。このように見てくると、南無阿弥陀仏と称えているところには、願と行が具わっているから、よく往生の因になるという道理があると言われたのでした。


なぜ「阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり」、阿弥陀仏という名号が往生の行体となるいわれがあると言われたかというと、それは『大経』の第十八願によってです。第十八願に誓われている行は「乃至十念」、すなわち十念に至るまでせよという称名念仏の一行です。このことから、阿弥陀仏とは単なる名前ではなく、名を称するところに往生の行となるいわれがあると善導大師は読み取られたのです。

以前も言いましたが、善導大師の主著が『観経疏』だからといって、『観無量寿経』一辺倒の善導ではありません。それどころか『大無量寿経』の第十八願から『観無量寿経』をご覧になったから、当時中国の聖道諸師達の『観無量寿経』観が間違いであることが分かり、念仏往生こそ『観経』の真意であると達見されたのです。


その善導大師の六字釈を承けての親鸞聖人の六字釈ですから、当然ですがその中に

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

などという解釈が存在するはずがありません。称名念仏を往生の行と定められたのは阿弥陀仏です。このような発言は弥陀の五劫思惟を無用の長物と片付け、兆載永劫のご修行を無に帰せしめる、極めて重大な本願に違反する発言であるとしか思えません。いくら信心正因、信心を強調するためとはいえ、これでは行の破壊です。

行のない仏教はありません。それは真宗とて例外ではありません。親鸞聖人は行のない真宗を語ったのではなくて、自力の行を否定されただけです。それは言いかえれば如来そのものであるような、称名念仏という本願の行を与えられていることを慶ばれていたのです。

もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。


聖人にとって念仏するということは如来の教えに奉えていることであり、如来のはからいにすっかり身も心もまかせていることでした。決して、我が計らいによって称え、名号の功徳を我が功徳として浄土往生を願うような、自力をつのる行為ではなかったのです。

親鸞聖人がこのように念仏を勧められるのは、阿弥陀仏が勧められているからです。阿弥陀仏がせよと言われたことをやり、阿弥陀仏が捨てよと言われたことを捨て、阿弥陀仏が去れと言われたところを去る、これこそ阿弥陀仏に随順する真の仏弟子というものです。親鸞聖人は真の仏弟子として、本願のこころを私達に説いて下さいました。その教えの中に称名念仏の勧めがあるのは、阿弥陀仏が仰っているからです。阿弥陀仏が仰っていないことを勧められる聖人ではありません。違いますか?

私達は、阿弥陀仏の勧めの通り、また親鸞聖人の勧めの通り、念仏の一行をふたごころなく一心に修めて、今度の一大事の報土往生を遂げさせて頂くべきです。



【参考文献】
『精読・仏教の言葉 親鸞』(梯實圓)
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No title

数年前にある先生が現世利益和讃と仏智疑惑和讃は非常にわかりづらいと言われたことに心が引っ掛かっていました。今回のことで、念仏のことを考える機会が増えたことは有難いと思います。

現世利益和讃は、「南無阿弥陀仏を称えれば」の出だしが多いのですが、今までモヤモヤしていたところがありました。念仏を勧められているお言葉として頂戴しているつもりでしたが今一つ理解できていなかったのではないかと振り返ります。恐らく南無阿弥陀仏を称えるとこのような利益を頂ける、という意味で受けとめていました。確かにその通りです。しかし、それよりも、様々な利益が『既にある』、『既に届いている』という『気づき』、『目覚め』が念仏のはたらきによって与えられるので念仏して欲しいという阿弥陀様の仰せを聖人が私達に伝えておられるのではないかと思えるようになりました。『気づき』、『目覚め』といっても人それぞれですがその人その人に応じて、苦しみ多いこの世の生活のなかに、利益、喜びを阿弥陀様が私に与えようとして下さっているのです。だから『称えよ』は阿弥陀様の仰せです。

仏教の目的は、成仏すること、覚者になることであり、絶えず、気づき、目覚めを起こそうと、はたらいて下さる念仏は平等にすべての人に与えられています。

そしてたとえ信心決定しても終わりではなく、安心して、そこからこの世の本当の生き方が始まる。それが真宗の教えだと思います。すべての人にとって念仏を称えさせて頂くことが成仏への道であることを肝に命じて念仏させて頂きたいと思います。
南無阿弥陀仏

こえにつきて決定往生のおもひをなすべし

ども、林遊@なんまんだぶです。

Aさんは、御開山の教えと法然聖人の教えを分けて理解していますから、法然聖人の念仏思想を否定する為に、

>阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない。

と言うのでしょう。
ある意味では、蓮如教学の泰斗であった稲城選恵和上の教えを誤解したところから生じたのだと思ふ。仏教史上で初めて一つの宗派として浄土宗を開創された法然聖人の「選択本願念仏論」を理解できなかったのでしょう。
いわゆる、御開山の思想を展開発展させた覚如上人、蓮如さんの「信心正因 称名報恩」説に依拠しすぎたから、称名をおまけにしてしまったのだと思ふ。これは御開山が示された浄土真宗の「行信」の破壊である。

それは,あまり好かんのだが、信楽峻麿さんが、

>>
 何れにしても、近世真宗教学における行信理解はきわめて多様であるが、そこでは、すでに上に概観した如く、つねに親鸞の思想のほかに、覚如、存覚、蓮如の教学を、親鸞と同格に認めて、それらの間に介在する思想的矛盾や齟齬を、苦心して会通しようと試みているわけであって、従来において、この行信に関する理解が複雑をきわめ、それに対する理解が難渋であるということは、ひとえにこのことに基因するもののようである。
その意味においては、親鸞における行信理解を原点とし、覚如以下は、すべて真宗教学史上の一見解に過ぎないという立場に立つならば、この問題はきわめて明快に領解されてくるであろう。
http://sugano.us/butu/20.htm#5
>>

と述べていたのだが首肯できるところもある。御開山の往生浄土思想は法然聖人との連関で理解すべきであって、後世に展開された信因称報説だけに依拠すると、Aさんのようなキリスト教的信心論になるのであろう、知らんけど。

ともあれ、御開山は、なんまんだぶと称えて耳に聞こえる「声」を「帰命は本願招喚の勅命なり」とされたのであった。智愚の毒に侵された人は、これがわからんのである。困ったものだ。

>>
 選択本願念仏とは、一切の衆生を平等に大悲し、善悪、賢愚のへだてなく摂取しようとする他力不思議の本願を、念仏において信知するような行であった。それゆえ「大胡太郎実秀への御返事」にも、

 しかればたれぐも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、たゞくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こえにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。(『指南抄』下本)

といい、念仏は廃悪修善の行でもなく、また単に神秘的な咒文でもなく、南無阿弥陀仏ととなえつつ、そこに表示されている本願他力の不思議を信知していくような聞法の行としての意味もあったのである。親鸞が「行文類」の六字釈において、南無の訳語である帰命を釈して「帰命者、本願招喚之勅命也」(帰命は本願招喚の勅命なり) といい、念仏における所称の名号のうえに、本願招喚の勅命をききとっていかれたのは、法然の「こえにつきて、決定往生のおもひをなすべし」といわれた意を、根源的に展開されたものであったといえよう。
本願を信じて念仏し、念仏によっていよいよ本願の仏意によびさまされつつ生きていくのが本願他力に帰する信行の相(すがた)であり、本願他力が願生行者のうえにあらわれていく相でもあったのである。
「第六節 他力の信行」
http://wikidharma.org/5d7b8f794204e
>>

本願招喚の勅命とは、わたしが、なんまんだぶと称え、その声を聞くことであり「聞其名号、信心歓喜」とは、その意であった。
ありがたいこっちゃな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

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愚愚流様

後に林遊さんが紹介されている法然聖人の御文に表れているように、嬉しい時は嬉しいまま、悲しい時は悲しいまま、有難い時は有難いまま、もう生きていくのもつらいと思う時はつらいと思うまま、ただ南無阿弥陀仏と申して、称え聞こえる南無阿弥陀仏は

我にまかせよ、必ず浄土に迎え取る
必ず助けるから安心してまかせなさい

と絶えず喚び続けておられる阿弥陀さまの仰せと心得て、縁に触れ折に触れて申させて頂くのがよろしいと思います。そう気構える必要も無く、助かる縁の絶え果てた私が大悲の懐に抱かれていることに『気づき』、ただ本願の仰せ通りにさせて頂くのみです。そうした真実信心の行人を今生では摂取不捨の利益にあずけしめ、後生は浄土に迎え取るという救いであると示されたのが現世利益和讃であると私は頂いております。


林遊@なんまんだぶ様

仰せのように、御開山の思想は法然聖人から親鸞聖人への伝承という形で理解しなければならないと思います。覚如上人や蓮如上人を軽視するわけではありませんが、少なくともそうすればあのような本願の行信の破壊とも取れる発言は出てこなかったでしょう。
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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