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【考察】念仏の勧めについて(31)

本日は法然聖人の「念仏の一行」の勧めを

『飛雲』「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い8

より伺います。

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法然上人の御著書である『選択本願念仏集』には、10回以上も「念仏一行」と仰っています。つまり、法然上人の教えは、「念仏一行」の教えそのものなのです。
法然上人のお弟子であった親鸞聖人は法然上人のことを『正信偈』で

本師源空は、仏教をあきらかにして、

と、ここでは念仏という単語を出されずに仰ったのですが、それを蓮如上人は『正信偈大意』で

日本には念仏の祖師その数これおほしといへども、法然聖人のごとく一天にあまねく仰がれたまふひとはなきなり。これすなはち仏教にあきらかなりしゆゑなり。されば弥陀の化身といひ、また勢至の来現といひ、また善導の再誕ともいへり。

と解説なされています。日本における多くの「念仏の祖師」の中でも法然上人以上の方はないということで、法然上人も当然「念仏の祖師」だと表現なされています。

その法然上人の教えられた「念仏一行」の教えで、親鸞聖人が特に注目されたのが、

生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもって能入とす

です。
蓮如上人はこれを

生死輪転の家といふは、六道輪廻のことなり。このふるさとへ還ることは疑情のあるによりてなり。また寂静無為の浄土へいたることは信心のあるによりてなり。されば『選択集』にいはく、「生死の家には疑をもつて所止とし、涅槃のみやこには信をもつて能入とす」といへる、このこころなり。

疑情」と「信心」で「生死輪転の家に還来る」か「寂静無為の楽に入る」か分かれる、いわゆる信疑決判です。(中略)「疑情」とは「念仏一行」を疑う心です。もう少し言葉を加えると、「念仏一行」で往生できるとは思えない心のことです。

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10回以上も「念仏一行」と仰ってい」るのか~、と思って改めて調べてみました。以下、該当箇所を抜き出しますが、漏れているお言葉があればコメント等で教えて下さい。

なんがゆゑぞ、第十八の願に、一切の諸行を選捨して、ただひとへに念仏一行を選取して往生の本願となしたまふや。「勝劣と難易」

弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。「難易義」

初めに同類の助成とは、善導和尚の『観経の疏』(散善義)のなかに、五種の助行を挙げて念仏一行を助成すこれなり。「助正」

後には定散二善を廃して、念仏一行に帰す。「輩品開合」

ただ念仏の一行につきてすでに選びて讃歎す。「利益章」

これすなはちかの仏願に順ずるがゆゑに、念仏一行を付属す。「王本願」

また道綽禅師念仏の一行において始終の両益を立つ。「約対章」

ただ念仏三昧の一行をもつてすなはち阿難に付属し遐代に流通せしむ。「念仏」

ただ念仏の一行をもつて、すなはち後世に付属流通せしむ。「観仏三昧と念仏三昧の一経両宗」

三に選択付属といふは、また定散の諸行を明かすといへども、ただ独り念仏の一行を付属す。
しかればすなはち釈迦・弥陀および十方のおのおのの恒沙等の諸仏、同心に念仏の一行を選択したまふ。「結勧流通」

『選択集』はそれほど長い書物ではありませんが、確かに10回以上「念仏一行」という言葉を使われています。また「念仏一行」という言葉ではありませんが、ただ念仏「廃立」)、一向念仏、みな念仏「傍正」)、無上大利の念仏「無上功徳」)、まつたく念仏、殊に念仏、ひとへに念仏「特留章」)、ただ念仏の一法「結勧流通」)等々、それに近い言葉は多数見られます。そのように法然聖人が念仏の一行を勧められたのは、当然ですが

・弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる
・念仏の人みなもつて往生す


からでした。言葉を換えると

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

からでした。『歎異抄』にはそうした法然聖人の教えを

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

と表現されています。これに対する親鸞聖人の応答は

・よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり
・ただ念仏のみぞまことにておはします


です。これと同じことが「行文類」にて示されています。すなわち、

選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに

という法然聖人の教えを引いて、

念仏成仏すべし

と親鸞聖人が応答されているのがそれです。『歎異抄』の応答と「行文類」の応答は、言葉は違えど同じであることが分かると思います。親鸞聖人は念仏の一行を勧められた『選択集』を

真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。後序」

とまで絶賛していますが、普通に考えたらそのような親鸞聖人が

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

などと、法然聖人と真逆なことを仰せられるはずがないこと位は小学生でも分かりそうなものです。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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