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【考察】念仏の勧めについて(32)

『飛雲』「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い9より。

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言うまでもなく、親鸞聖人は法然上人から阿弥陀仏の救いの教えを聞かれて、救われられています。

その法然上人の教えられた結論が『選択本願念仏集』にある三選の文です。それを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれています。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに

(現代語訳)

そもそも、速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、二種のすぐれた法門のうちで、聖道門をさしおき、浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正行と雑行の中で、雑行を捨てて正行に帰せ。正行を修めようと思うなら、正定業と助業の中で、助業を傍らにおいておきもっぱら正定業を修めよ。正定業とは、すなわち仏の名号を称えることである。称名するものは必ず往生を得る。阿弥陀仏の本願によるからである。

どうすれば救われるのか、法然上人・親鸞聖人が具体的に仰ったお言葉です。

簡潔に言いますと、

Q.どうすれば救われますか?

A.聖道門を閣きて、雑行を抛ちて、助業を傍らにして、仏の名を称することをもっぱらにせよ。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

対してA先生。

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない
阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない
念仏を称えて往生は親鸞聖人の教えではない


信心を「我にまかせよ」と表現することは賛同しますが、なぜ「念仏を称えよ」ではないとなるのか、不明です。七高僧方は勿論ですが、親鸞聖人以後も、どなたとしてこのように信心と念仏を対立関係で見て、称名念仏を仏の本意ではないように教えている方の言葉は見受けられません。


称名念仏は阿弥陀仏の「本願の行」です。

称名念仏はこれかの仏の本願の行なり。『選択集』五正行

それを法然聖人は「選択本願念仏」と仰っていますが、「本願の行」である称名念仏は

「選択」とはすなはちこれ取捨の義なり。「選択と摂取」

とあるように、諸善の中から他の一切を選び捨て、ただ一つ選び取られた行ということです。誰がそうされたかと言えば、他ならぬ阿弥陀仏ご自身です。阿弥陀仏が法蔵菩薩であった時、二百一十億の諸仏の浄土をご覧じて、布施や持戒、忍辱や精進、禅定や般若、菩提心や六念、持経や持呪、起立塔像、飯食沙門、孝養父母、奉事師長等の種々数多の行を全て選び捨て、ただ称名念仏一行を衆生往生の行として選び取られたのです。

すなはちいま前の布施・持戒、乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す。ゆゑに選択といふ。

このように、念仏は阿弥陀仏の選択された行だったのです。

それだけではありません。法然聖人は、「三選の文」の直前に八つの選択(選択本願選択讃歎選択留教選択摂取選択化讃選択付属選択証誠選択我名)があると言われ、

本願・摂取・我名・化讃、この四はこれ弥陀の選択なり。讃歎・留教・付属、この三はこれ釈迦の選択なり。証誠は六方恒沙の諸仏の選択なり。しかればすなはち釈迦・弥陀および十方のおのおのの恒沙等の諸仏、同心に念仏の一行を選択したまふ。余行はしからず。ゆゑに知りぬ、三経ともに念仏を選びてもつて宗致となすのみ。

と、念仏は弥陀、釈迦、諸仏の選択であると教えられています。念仏こそは弥陀、釈迦、諸仏の本意にかなった行であるということです。それゆえ親鸞聖人は本願の念仏を「大行」と讃え、

選択本願の行

と言われて、「もつぱらこれを行ずべきなり」と念仏一行を勧められています。つまり親鸞聖人も

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

と解釈されているのです、『教行証文類』において。


ただし、勘違いしてもらっては困ります。念仏を勧めるというと、どうも自力念仏の勧めに聞こえる方があるようです。そういう方は、他力の救い、無条件の救いに私達の念仏を足して救いが成立するように思うようですが、親鸞聖人は、いわゆる現在の浄土宗で言われているような念仏を勧めておられるのではありません。

念仏は確かに私達の口に現れていますが、決して私達の煩悩妄念から出たものではなく、また私達の恣意的な行いでもなく、本願力によって与えられた行、本願力によって私達の上に顕現している如来行だったのです。念仏することは如来に「奉へ」ていることであり、如来のはからいにまかせていることと言えます。親鸞聖人は、このことを「自然法爾」の念仏と仰せられました。

念仏は称えて我が功徳とし、浄土に近づこう、往生をより確かなものにしようという自力の行ではなく、浄土より届いた本願力回向の行である。称え聞こえる南無阿弥陀仏は「我をたのめ、我にまかせよ」という大悲招喚の声なのだ。だから私達は本願のはたらきに身も心もすっかりまかせて、本願の仰せの通り念仏して成仏すべきである。このように、法然聖人が「念仏を称えよ」と仰せられた心を親鸞聖人が明らかにされたのです。それが

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。(中略)しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。

という大行釈であり、

しかれば南無の言は帰命なり。(中略)ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。

の聖人独自の六字釈であり、

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

という決釈の御文でした。こうした本願の念仏が、法然聖人の仰せられた「本願の行」「選択本願念仏」であると親鸞聖人が明らかにされたのです。それを、何をどう誤読したら

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない
阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない
念仏を称えて往生は親鸞聖人の教えではない


と解釈できるのでしょうか。疑問は尽きません。
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選択本願念仏

ども、林遊@なんまんだぶです。

法然聖人の「選択本願念仏」の念仏とは、第十八願の「乃至十念」を指していたのですが、御開山が第十七願によって念仏行(なんまんだぶ)を開示されたことによって、まるで行と信が別物であるように誤解されていったのでしょうね。

御開山は、第十八願の乃至十念のなんまんだぶを第十七願の「諸仏称名の願」とされることによって弥陀・釈迦・諸仏が全て称名を勧めておられるという広大な仏教思想を顕そうとされたのでした。それが『御消息』で、

 選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。(p.737)

と、「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」とされた意でした。
深川倫雄和上は、お聖教を読むときには御開山の問題意識によって読まないといけません、と仰っていました。そして「行巻」引文で、

選択本願念仏集{源空集}云
南無阿弥陀仏{往生之業 念仏為本}

の『選択本願念仏集』劈頭の文と、その結論である「三選の文」を引かれているのは、『選択本願念仏集』全文を引文するという意であるから、ここから『選択本願念仏集』を読むようにとのおすすめでした。

と,いうわけで「念仏の勧めについて」への支援です。

「選択思想の成立と展開」
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E6%B3%95%E7%84%B6%E6%95%99%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6_/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AB%A0_%E9%81%B8%E6%8A%9E%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B%E3%81%A8%E5%B1%95%E9%96%8B

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re:林遊さん

お久しぶりです、Abcです。

> 選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。(p.737)

>と、「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」とされた意でした。
>深川倫雄和上は、お聖教を読むときには御開山の問題意識によって読まないといけません、と仰っていました。そして「行巻」引文で、(云々)

原文:「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。」

書き下し文:「選択本願は浄土まことの教えであり、定散二善は(三選の分では「抛てて」といわれるように)方便、仮の教えである。浄土まことの教えは「大乗のなかの至極」である」

→また、この深川和上の御言葉は、私は「その書物を記した方の問題にされたことについて読まないといけません」と見ました。

 確かに『教行証』は「御開山の問題意識によって」で問題ありませんが、『御文』も「御開山の問題意識によって」と見ましたら少し語弊が出ます。
 『御文』を読むときは「蓮師の問題意識によって」ですし、
 『口伝抄』を読むときは「覚如上人の問題意識によって」です。

横槍を申しわけございません。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

コメント返信

林遊@なんまんだぶ様

ありがとうございます。『法然教学の研究』、絶版なので手に入らなく、有難いです。

> お聖教を読むときには御開山の問題意識によって読まないといけません

その通りだと思います。そして、親鸞聖人の思想は七高僧、特に法然聖人の教えの相承の上で理解しなければならないと思います。少なくともそうすれば今問題にしているような説は出てきようがないです。



Abc様

仰る通りだと思います。文章の裏にある当時の情勢や対機、問題意識などをある程度知っておかねばならないでしょうね。

親鸞聖人の御時は対聖道門のウエイトが強いので、行である本願の念仏の真実性を証明し、これを勧める文が多いです。と同時に、法然聖人や門下の方々のご活躍によって念仏が広まりつつありましたから、念仏の信心も合わせて強調されています。

覚如上人、蓮如上人の時代とは問題点や主に勧化をする対象が違いますから、蓮如上人の信因称報説に立って親鸞教学を理解しようとすると御開山の釈と違ったものが出てくる可能性があります。特に行に就いての勧化がかなり異なっていますから、蓮如教学に立って信心を強調する話をするなら、せめて親鸞聖人の念仏往生説を否定することなく説くべきです。

選択本願論の継承

ども、林遊@なんまんだぶです。

ABC(龍敎房)さん。

浄土真宗(教団)では、聖典(聖教)といふことについて、ちょとうるさい事情があります。そもそも聖典の現代語化に関して、現代語にされたものが聖典と呼べるのかとうるさい議論がありました。
それは、聖典というものをどのように理解するかの論義でしたが、林遊は御開山以後の書物は「聖典に準ずるもの」としてWikiArcで示しています。例せば『恵信尼消息』を聖典として見ることは?ですね。
御開山のことを親鸞と呼び捨てるABCさんに、「聖」という言葉の意味を知って欲しくて以下のリンクを示したこともありましたですね。読んでないか(笑
「聖典による学び」
http://www.hongwan.net/index.php/%E8%81%96%E5%85%B8%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E5%AD%A6%E3%81%B3_(1)

淳心房さん。

淳心房さんは、そこいらへんの真宗坊主より浄土真宗の教義を正確に把握していると思っていたりします。真宗の坊さんは勉強しませんから。
たまたま宗学を学ぶと、Aさんのように念仏(なんまんだぶ)否定論者になり、いわゆるキリスト教の「恩寵論」に嵌って阿弥陀仏を人格化してしまうのですが、これは「蓮如教学」に嵌ったからです。
キリスト教の受肉(インカネーション:〈化肉〉〈托身〉とも。神の子たるキリストが人類の救済のためにイエスという人の肉体をまとって出現したことをいうキリスト教の根本教義。コトバンクから引用)との混同でした。

仏教では釈尊以来、行じて証すと「行」を重視するのですが、浄土真宗の彼の土で「証」を得る行という、口称のなんまんだぶという「行」を理解出来なかったのがAさんかもです。Aさんは、「選択本願念仏」という、なんまんだぶを称える浄土教の「大行」に思いが至らなかったのだと思ふ。

ともあれ、浄土宗は法然聖人、浄土真宗は親鸞聖人といふ差を強調する為に、なんまんだぶの大行を極力否定し「信」を強調してきた末路が

>>引用開始
「南無阿弥陀仏」って 阿弥陀さまの仰せでしょ。
南無阿弥陀仏を釈してあるのは、行巻 六字釈でしょ。六字釈のどこに、念仏称えよと書いてあるんですか?って言うんです。
こういう議論です。
言ってないです。
「まかせよ」と言っている。
「タノメ」と言っている。

タノメってことと、念仏せよってことは…。
まあ、結果は同じですよ。
だけど、「タノムという心」から、「おまかせしますという念仏」が出るんだから。
心で押さえるか、口の言葉で押さえるか、の違いだけど、中心は心でしょ。
「まかせよ」ということに対して、まかせたのを「信心」と言うんだから。
だから、「南無阿弥陀仏」は 「まかせなさい」なんですよ。念仏称えなさいじゃないです。
>>引用終了

といふ発言になるのであった。
ともあれ、Aさんは浄土真宗における「行」といふことに一顧もしないのだが、困ったものである。ある意味、どうでもいいか。

「選択本願論の継承」
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E6%B3%95%E7%84%B6%E6%95%99%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6_/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AB%A0_%E9%81%B8%E6%8A%9E%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B%E3%81%A8%E5%B1%95%E9%96%8B#.E7.AC.AC.E4.B8.83.E7.AF.80.E3.80.80.E9.81.B8.E6.8A.9E.E6.9C.AC.E9.A1.98.E8.AB.96.E3.81.AE.E7.B6.99.E6.89.BF

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

とんでもございません。私は真宗学や仏教学を体系的に学んだことも無く、唯識等の知識も、仏教用語に関する知識も得業の僧侶の方はおろか、龍大生にも及ばないでしょう。

浅学は承知の上で、それでも如来の本願、如来の願心を中心に物事を考え、本願力回向、只今の救い(平生業成)、真実の教行信証などを軸に少しずつ教義を学んでいるところです。それでいくと、どうも「真実の教行信証」に照らして考えるに、かの先生の説は聖人と異なります。

林遊さんが強調されているように、行のない仏教、行のない真宗はないです。親鸞聖人は行のない真宗を説いたのではなく、自力の行を否定されただけでしょう。そして、聖人の仰る信心とは、往生行として念仏一行を称える人の信心ですね。それを自力と他力に分けられました。

阿弥陀仏が「乃至十念」、我が名を称せよと仰っているのですから、その通り念仏を称えるのは当たり前のことです。その念仏をどう思っているのかということを聖人は問われているわけですね。決して「念仏を称えよと仰っていない」などとは仰せられなかったのです。

何を五願に開いたか、位の問題であれば私も口出しはしませんでしたが、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」と発言した上にその根拠が「行文類」の親鸞聖人の六字釈だと言うのに至っては私は勘弁なりません。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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