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阿弥陀さまが選択されたのが称名念仏一行でよかった

消費増税前後の駆け込み需要のために物量が膨らみに膨らんで、先週から仕事づめで休憩時間も中々取れない状況が続いています。ホントお前らいい加減にしろよと言いたくなります。

帰ったらもうクタクタで、なんにもできないと言っていい位なんにもできないです。

しかし、お念仏を申すことなら通勤中でも、車を運転しながらでも、軒先でお客さんを待っているほんの少しの間にもできます。

もし造像起塔(仏像を造り、塔寺を建てること)や智慧高才、多聞多見(仏の教えを多く見聞して学問があること)や持戒持律(戒律を守って犯さないこと)、布施や忍辱、精進や禅定、発菩提心等を阿弥陀仏が往生の行と定めていたら、俺みたいな奴は絶対助からなかった。

以下、『選択本願念仏集』本願章より。

第十八の念仏往生の願は、かの諸仏の土のなかにおいて、あるいは布施をもつて往生の行となす土あり。あるいは持戒をもつて往生の行となす土あり。あるいは忍辱をもつて往生の行となす土あり。あるいは精進をもつて往生の行となす土あり。あるいは禅定をもつて往生の行となす土あり。あるいは般若[第一義を信ずる等これなり。]をもつて往生の行となす土あり。あるいは菩提心をもつて往生の行となす土あり。あるいは六念をもつて往生の行となす土あり。あるいは持経をもつて往生の行となす土あり。あるいは持呪をもつて往生の行となす土あり。あるいは起立塔像、飯食沙門および孝養父母、奉事師長等の種々の行をもつておのおの往生の行となす国土等あり。あるいはもつぱらその国の仏の名を称して往生の行となす土あり。

かくのごとく一行をもつて一仏の土に配することは、これしばらく一往の義なり。再往これを論ぜば、その義不定なり。あるいは一仏の土のなかに、多行をもつて往生の行となす土あり。あるいは多仏の土のなかに、一行をもつて通じて往生の行となす土あり。かくのごとく往生の行、種々不同なり。

つぶさに述ぶべからず。すなはちいま前の布施・持戒、乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す。ゆゑに選択といふ。

(乃至)

答へていはく、いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮せんとにはあらず。ただこれ男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にしかざればなり」と。[以上]

ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。

しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。

もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。

まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。


阿弥陀さまが選択されたのが称名念仏一行でよかった。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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まあち

今月より、病院清掃の仕事が、それまでの午前中のみから
丸一日となりまして(企業秘密の厳守によりココましか書けません)、
夕刊配達の仕事は先月で終了…なんですが…

夕刊配達の引継ぎをしたヒトが《ドタキャン》したと、
あとで夕刊配達の店のヒトから聞かされました…

通勤中とかお昼の休憩時間とかなら《お念仏申す》
コトができるのは、まことありがたいコトであります。

>阿弥陀さまが選択されたのが称名念仏一行でよかった。

私も、同じ意見です!
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

ウッカリタイトルの方に《まあち》と…

…はい。
久々にコメントを寄せたもので、思いっきり
書く箇所とか間違ってしまいました。
大変失礼いたしました。

No title

最近、乃至十念についていろいろと思うところがありました。「乃至」と聞くと、回数の多い少ないは問わない。声の大きい小さいは問わない。心が乱れても定まっても問わない、と受けとるのですが、単に言葉の解釈ではなく、人間のはからいなど関係なく、そんな次元ではなく、とにかく称えよという仏の勅命としか思えません。どんな形でもいいから、とにかく称えて欲しいという仏の願いそのものではないかと思います。私たちが称えることこそ仏の願いであり、称えさせないと救うことのできない阿弥陀様のやるせない嘆きを感じます。

「乃至」がなく、称えるための条件が付けば、ほぼ念仏を称えることは私にはできません。また「乃至」がなく条件もなければ永遠にはからう私です。そのための「乃至」だと思います。
『仏の救いに人間のはからいは不要だ』
『どうでもいいからとにかく称えよ』です。

信後は称えないとどうにもならないという実感です。日頃南無阿弥陀仏にどれだけ救われているかを自覚していれば聞名、称名いずれも大切で称名を軽視することは考えられません。称名を軽視するのは南無阿弥陀仏を軽視するのと同じです。

信心が大切なのは当たり前で、念仏を軽視する必要はありません。そもそも親鸞聖人と法然聖人の教えを分けなければならないというのは宗派根性ではないでしょうか。物事には言い方があるはずです。師匠の教えと違う教えだと断定された親鸞聖人は喜ばれるのでしようか。

Re: まあち様

お疲れ様です。しかし、毎日ブログとひとりごとを継続更新されているのはさすがです。たまに訪れて、逆さに読んで楽しんでいます(笑)

> 夕刊配達の引継ぎをしたヒトが《ドタキャン》した

⇒配送業特有なんでしょうかね? 私も、前職も現職もドタキャンする輩が絶えません。困ったものですね。しかもたいていそういうのは男です。女性はあまりドタキャンというのは聞きません。現職の同僚の女性方は責任感があり、辛抱強く仕事をしています。しかも能力の高い方が多い。私含めて男共の不甲斐なさに男の存在意義如何と心配しています(勿論、働く人は働いているんですけどね・・・)。


念仏は行住坐臥、時節の久近を問わず、しかも心が静まっていても煩悩が逆巻いていても、一声一声が如来より与えられている本願の行ですから有難いです。また、他事を止めてそれに集中しなければできないというものでもなく、長い時間が必要ということもありません。煩悩を障りとせずに摂取したもう如来の利他の誓願力に、うれしやありがたやかたじけなやとまたもお念仏です。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

Re: 愚愚流様

『経』(大経)に「乃至」といひ、釈(散善義)に「下至」といへり。乃下その言異なりといへども、その意これ一つなり。また乃至とは一多包容の言なり。(行文類)

「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。(尊号真像銘文)

等とあるように、乃至は念仏の数の多いとか少ないとか、行住坐臥や時節の久近を問わないということでした。それは、本願の念仏は一声一声が如来より与えられている無上の功徳であるような最勝真妙の正業であって、決して人間の営みではないことを表しています。数の多少や時節の久近を問題にするのは人間の側にあり、そのような凡夫の浅智で本願を推し量ることを自力のこころというのです。私達はそのような自力のこころにたぶらかされずに、「どうぞ私の名を称えて浄土に生まれてきておくれ」という本願の仰せのままに称名し、「ありがとうございます。仰せの通りひとえに貴方様の名を称えて浄土に生まれさせて頂きます」とお受けすべきでしょう。このように本願の仰せを計らいをまじえずに受け容れていることを信心というのです。

信心は行者の至要ですから重要です。ただしそれが自力か他力かというのは、念仏一行を往生の行として称えて浄土を願っている人に問題となるのです。念仏を称えない人が自力、他力といっても詮無いことです。しかもこれは、念仏と信心を対立関係で捉え、

阿弥陀仏は「我にまかせよ」と仰っているのであって「念仏を称えよ」ではない

というようなことではありません。念仏と信心を分けるからわからなくなるのです。念仏の他に信心はないし、信心の他に念仏はありません。

信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。(信行一念章)

とある通りです。念仏と信心は共に如来の本願です。『御文章』には

・されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。(3帖目2通)
・ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、それは極楽には往生せず。この念仏のいはれをよくしりたる人こそほとけにはなるべけれ。(3帖目3通)

等と仰っていますが、当時蓮如上人が勧化なされた対機は真宗の門徒を始めとして、浄土宗、時宗といった、すでに念仏を称えて往生を願っている方々だったようです。ですから、必然的に念仏の信心を開いて強調していかれるわけです。しかし、それでも信前の念仏を押し留めたり、

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

などと門徒を勧化して回るということはありませんでした。その証拠に、そのような根拠は蓮如上人の書かれたものにも言行録にも見当たりません。


法然聖人と親鸞聖人の思想を同一視する方もあればしない方もあると思います。しかし、どちらにせよ親鸞聖人は法然聖人が浄土真宗を開かれたといい、法然聖人の教えを信ずべしと勧められているのですから、両者の教えを截然と分けるようなことをするのは如何かと。しかも彼の先生は「念仏を称えて往生は親鸞聖人の教えではない」とまで言っていますからね。どうもお聖教の言葉をえり好みし、自説に合わないものは切り捨てるといった傾向が伺えます。違和感を感じざるを得ないところです。
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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