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勅命を仰せのままに受け容れて、疑いがないのが信心

信心決定、信心獲得とは、「絶対の幸福」とかいうワードが連想させるような、心が常にものすごい幸福感でいっぱいになる体験とは違います。

信心とは本願の信心のことで、それは本願の仰せを疑いをまじえずに受け容れたことです。本願の御言葉は南無阿弥陀仏の六字に結晶し、称え聞こえる南無阿弥陀仏のそのわけは

われをたのめ、われにまかせよ、必ず浄土に迎えるから安心しなさい

と喚んでおられる阿弥陀仏の勅命です。その勅命を仰せのままに受け容れて、疑いがないのが信心です。

この信心は、本願の通りに「必ず浄土に生まれられる」と慶ぶ心となって現れてきます。「欲生我国」の心です。

ですから慶ぶ心は当然あります。ただそれは、往生の慶び、必ず往生できることに定まった慶び、遇うべき法に遇わせて頂いた慶び、聞くべき法を聞かせて頂いた慶びです。欲望を満たした時や、願いがかなった時に感じるような幸福感ではありません。幸福というよりは、安心といった方が近いかも知れません。

また慶びの感じ方もそれぞれではないかと思います。人それぞれ、生き方も感性も、立場も状況も様々です。同じ法を頂き、同じく摂取不捨の利益にあずかって決定往生の身となっても、慶び方、慶びの感じ方はその人その人違うでしょう。淳心房で言えば、法を頂き、お念仏申すところに、有難いなぁ、うれしいなぁ、かたじけないなぁとしみじみ味わわれてくる、静かな慶び、尽きせぬ慶びです。

法に触れていない時は、その慶びは表に出てきません。どんなに煩悩が逆巻いても捨てられる、往生取り消しとはならないので何とも言えない安心感ですが、いつもいつも慶んでいられるというわけにもいきません。悪業の報いでしょうが、つらいこと、苦しいこと、悲しいことは様々起こってまいります。それを受ければやはりつらいし、苦しいし、悲しいです。全然へっちゃらになるというわけにはいきません。

なので、信心決定したら幸せ一杯の生活、光明輝く生活をさせてもらえる、一切の苦労が報われて流した涙の一滴一滴が真珠の玉となって戻ってくるなどと期待しているとしたら、その考えは改めた方がよいでしょう。これは、往生成仏という米を求めるべきところが、現世利益という藁を求めてしまっています。米を取れば自然に藁はついてきますが、藁を求めても米はついてきません。「絶対の幸福」という現世利益を求めて仏法を聞くことは本末転倒です。


慶ばれるとか、慶ばれぬという心配は要りません。慶ばれるから往生一定、慶ばれぬから往生不定、ではありません。我が心を見て法を仰がぬようではなりません。

「ほんとうに、疑いなく、浄土に生まれられると思って、念仏せよ、必ず救う」

こうした本願に身も心もすっかりまかせて、ただ念仏申すのみです。

そして、信を獲た後もよく聴聞させて頂き、聞かせて頂いたことを思い出してはお念仏申すことです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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No title

あら、スミマセン変に昔の記事に書き込みしたようです。

Abcです

こんばんわ、Abcです。

エントリー、ありがたく読ませていただきました。大変私事で恐縮ですが、コメントを記させていただきます。

>ですから慶ぶ心は当然あります。ただそれは、往生の慶び、必ず往生できることに定まった慶び、遇うべき法に遇わせて頂いた慶び、聞くべき法を聞かせて頂いた慶びです。

>また慶びの感じ方もそれぞれではないかと思います。人それぞれ、生き方も感性も、立場も状況も様々です。同じ法を頂き、同じく摂取不捨の利益にあずかって決定往生の身となっても、慶び方、慶びの感じ方はその人その人違うでしょう。

 →「慶ぶこころ」ですか…私の見解では
 『歎異抄』
 「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらん (乃至) よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。 (乃至) 踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなまし」

と窺っておりますから「慶ぶこころの起きないのは煩悩の所為だ」と味わいをいただいております。

また『教行証』信別巻(末)(『教行信証』信巻(末))には

 「真実の一心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり。この心すなはちこれ大慈悲心なり。」

 「また、「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり」とのたまへり。」

と「慶」についての記載がございます。ここに
 「真実信心、金剛信、願作仏心 また 度衆生心 なり」とございますから、他の方のお考えはどのようなものかはわかりませんが、私はこの『文証』より、
 「慶ぶ」とは「念仏行者がむずと慶ぶこころ」ではなく「阿弥陀さま、お釈迦様が「わが善き親友なり」と「慶ぶ」こと」ではと愚考しております。

ですから『浄土和讃』
 「信心歓喜慶所聞 乃曁一念至心者
 南無不可思議光仏 頭面に礼したてまつれ」

→「礼したてまつれ」という強い口調ではありますが、「乃曁一念至心の念仏者」を「阿弥陀さまは慶んでおられる」ぞ と窺わせていただきました

また『正像末法和讃』にて

 「上宮皇子方便し 和国の有情をあはれみて
 如来の悲願を弘宣せり 慶喜奉讃せしむべし

 聖徳皇のおあはれみに 護持養育たえずして
 如来二種の回向に すすめいれしめおはします」

とございます。上宮皇子とは、聖徳皇太子(厩戸皇子 豊聡耳皇子)のお謂れではありますが、この「慶喜奉讃」も「阿弥陀さまが真の念仏者に対して慶喜奉讃せられる」と窺わせていただいております。

 2つ目の和讃には、「如来二種の回向に すすめいれしめおはします」を選ばせていただきました。

 「如来二種の回向とは「17・18願の往相回向」と「22願の還相回向」の言わゆる「往還回向由他力」(『正信偈』)」のお謂れでございます。
 「聖徳皇太子は、浄土より還相教化された」と親鸞聖人は『和讃』に顕わされました。

 最後の最後に、私のところの由緒を織り交ぜましたこと御赦しください。

なもあみだ、なもあみだ
 Abc

信心正因 念仏正因

念仏正因・・・本師源空のみ教え

信心正因
称名報恩・・・親鸞聖人のみ教え

信心正因
念仏正因・・・無知の教え

「疑いをまじえず」だって(@ ̄□ ̄@;)!
精々交わらん様に頑張って(^^)v

「身も心もすっかりまかせて」だって
(。>д<)
貴方、一念の信心知らないね!

阿頼耶識だけだよo(*⌒―⌒*)o

No title

尊号真像銘文には

安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。(念仏正因)


信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。(信心正因)

念仏正因と信心正因の2つが教えられているんだよね。

無知の高森教信者には分らん話だ。

No title

>「疑いをまじえず」だって

異安心まる出しのコメント頂きました~♪


「まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり。」 (信文類)


親鸞聖人は、疑いをまじえないのが信楽=真実信心だと仰っておられますよ。

この御文により元会員さんが、真実信心じゃないということだけは分かりました。
どうもお疲れ様でした。

本師源空のみ教えを親鸞聖人書かれるのは当然至極!

誤解して読まれるのは貴方たち!

疑いをまじえず、ということが全くわかってないね!

だんだんと疑わなくなるのでないがよ!

正因に2つ有ると申されるか!ソナタたち!

あ~紛らわし~

2つの関係は?
どっちなん?聖人のみ教えの正因


追伸
登山で例えると念仏正因の教えは五号目
信心正因の聖人のみ教えは頂上

追伸
聖人一流のごかんけのおもむきは~

あわれあわれ存命のうちにみなみな~

No title

> 正因に2つ有ると申されるか!ソナタたち!

頭悪いね〜

正因の表現に2つあるのであって、違うものが正因ということではないんだよ、わからんだろーな、キミの頭では。

簡単に言うと同じ意味だってこと。

余計わからんだろうな、キミの悪い頭では

No title

法然上人と親鸞聖人とは教えは同じで表現が違うだけなんだよね。
法然上人の教えを聞いて救われたのが親鸞聖人、法然上人に逢えなかったなら救われなかったと仰ったのが親鸞聖人、法然上人を真の知識と尊敬されたのが親鸞聖人。

キミの腐った脳みそでは理解できないだろうね。

No title

>だんだんと疑わなくなるのでないがよ!

なに当然のこと言ってるの?
疑いが無くなるのは一念(時尅の極促)ですよ。


>2つの関係は?
 どっちなん?正因


まず「行信不離」が分かってますかね?
行(念仏)信(信心)不離・・・ここが分からないと説明しても無駄なもんで・・・
お返事お願いしま~っす!




信心正因(弥陀の正業)
称名報恩(信心決定した人の行)

信・・・弥陀のお力
行・・・我々の行い

No title

現役カルト会員冨田信くんは、その昔に、自信満々で本名で法論をして完膚なきまでたたきのめされてからトラウマになりました(笑)短いしょーもないポエムな文しか書けないのです。具体的に何がどう間違いで、何がどう正しいかは、書くと言質とられてしまい叩きのめされるので書けないのでした。

行信

爾者 若行 若信 無有一事 非阿弥陀如来 清浄願心之所回向成就。
非無因 他因有也 可知。

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就
したまふところにあらざることあることなし。
因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。
(信文類)

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信行、共に2種有り。

信・・・弥陀
・・・凡夫

行・・・弥陀
・・・凡夫

No title

淳信坊はコロナダウンかな

No title

コロナじゃなくて東にやられたのかな

淳心房さんて、死んだんですか?

No title

遂に淳信坊は死におったか

あれだけ、ワーワー言うといて。
逃げたままとは情けないの一言。
それとも、浄土に参ったのか?www

情けないにもほどがあり。
貴様のようなヤツのブログを少しでも読んだこと、恥やなっ。
二度と仏教に関して、うだうだ言うな‼️
この、カスっがっ‼️‼️

情けないにもほどがあり。
貴様のようなヤツのブログを少しでも読んだこと、恥やなっ。
二度と仏教に関して、うだうだ言うな‼️
この、カスっがっ‼️‼️

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プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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