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変化すること、しないこと

よく私は、自分のことを「本願を信じ念仏を申す身になった」と言います。本願の救いという言葉は使いますが、あまり「救われた」とは言いません。それは、阿弥陀仏に「救われた」「救われる」という言葉のイメージが、本願に遇わせて頂くということとかけ離れているように感じるからです。それは私が親鸞会を通して浄土真宗に遇わせて頂いたからなのかもしれません。

私事ですが、自分は阿弥陀仏に「救われる」とは、心が常に幸福感いっぱいで、大きな喜びに満たされ、何物もそれを壊すことはできず、どんな苦しみや困難も乗り越えて行けるようになることだと、そんな風に想像していました。「救われる」という言葉に対するイメージは各々違うでしょうが、特に親鸞会の退会者の方は私に近いイメージを持っているのではないかと思います。これはきっと、「絶対の幸福」という言葉による弊害でしょう。

阿弥陀仏に「救われる」ということに過大な期待をして、人生の諸問題まで全て解決、または大幅に改善するように勘違いをされるかも知れないため、私は本願のはたらきに対して「救われた」とはあまり言わないのです。


本願に遇わせて頂いた後も、目の前の現実は変化しません。自分の能力、健康状態、経済状態、人間関係、仕事、その他周囲の環境は変化がありません。病気を抱えている人は抱えているまま、借金がある人は借金があるまま、人間関係もそのまま、自分の能力や今抱えている仕事もそのままです。末期のがん患者だったのが健康体に変わるとか、借金が貯金に転じるとか、激務だった仕事が軽くなるとか、今まで厭い憎んでいた人が大好きな人に変化するとか、そういうことはあり得ません。

また、煩悩具足の身であることも変わりません。相変わらず欲望、怒り腹立ち、ねたみそねみ、人やものを疑う心、うぬぼれ心などは次々起こってきます。気に入らないことが起こったり、嫌味の一言でも言われたりしたら腹は立ちますし、自分より幸せそうな人の環境をうらやんだり、ねたんだりする心は変わりません。

急に人間の中身が入れ替わって、身体ですることも、口に言うことも、心に思うことも全て清らかで正しい行いに変化するとか。親不孝ばかりしていた者がいきなり孝行な子供に変わるとか。ケチで舌出すのも嫌な人が、広く人々のために施すようになるとか。とか!?

そんな人はあっても稀ではないかと思います。


変わるのは、本願力に摂取されて必ず往生成仏すべき身に定まった点です。十方衆生をみな漏らさずに往生させるというのが本願の誓いであり、平生に本願を聞信する一念に、臨終を待つことなく往生は決定してしまいます。煩悩を抱え、迷いの世界から離れられない者が、煩悩を断じないままで涅槃を得る身となる。そのことを親鸞聖人は正定聚の位に入ると教えられました。

一方、煩悩は変化がありません。自分の生活や周囲の環境も変わりません。なので、ぶっちゃけ往生の問題以外は全て残されています。阿弥陀仏の本願はそういった問題を何とかするとか、少しでも良い状態にするとか、そういった誓いではないため、現世を生きていく問題は自分で立ち向かい、自分で解決していくしかありません。当たり前と言えば当たり前の話なのですが、信心決定しさえすれば全て解決みたく思っていた人からすれば、びっくりする位何も変わらない現実に戸惑うこともあろうと思います。私もその一人でした。

それはちょうど、医者の仕事は病気を治すことであって、生活や環境、人間関係を改善することではないようなものです。この場合、医者は病気を治すことが仕事で受け持ちです。その医者に、自分の人生の全てを面倒見てもらおうというのは酷な話です。

また、治そうとする病気によって薬が違うようなものです。心臓の薬は心臓の病に、肝臓の薬は肝臓の病に効果がありますが、心臓の薬でもって肝臓の病を治すことはできません。本願醍醐の妙薬は無明業障の病には効能があります。しかし、肉体的精神的な病、人間関係の病、仕事上の病、その他様々な生きていく上での病にも効能があるかといったらそうは教えられていません。


変化することもあればしないこともあります。また、少しずつ変化していくということもあります。それについては別記事で書きたいと思います。なお、当記事では本願力に遇わせて頂くことを「救われる」という語で表現されている方を否定しているわけではありません。念のため。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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No title

わかりやすい話ですね、有難うございます

ホントですね。

お疲れ様です。
私も、救われたとは、言いません。
やっと会えたんだと思いました。
ありがとうございます。

Re: a様、いいちこ様

本願力に遇ひぬれば、一生造悪値弘誓、多生にも値い難く、というように、親鸞聖人は遇う、値う、という表現をされていますね。

救われる=往生すべき身に定まる、二度と迷いの世界に還らない身になる

ということならよいのですが、「救われる」という言葉は聞く人にそれ以外の意味を想像させるでしょうから、この表現を用いるのは躊躇われます。

No title

はい、私もそのように感じます。救うぞ、助けるぞは阿弥陀さまの方からの仰せで、その仰せに信順してお念仏申すだけです。それを確信と解釈しても構わないとは、思いますが、
私の方から「救われた、助かった」と言うと、久保田ルパンくんのように、変なものを掴む恐れがありますね。
なまんだぶ、なまんだぶ

Re: チュウビ様

彼は相変わらず脱会ブログで暴れていますね。書き込みを止めたら負けみたく思っているのでしょうか。名聞や勝他のために真宗を利用し、教義を捻じ曲げることは本当にやめてもらいたいです。チュウビさんはじめ、一々コメントして差し上げている皆様には頭が下がります。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

No title

 散々向こうで飛雲さん真偽顕正さんの悪態つきてましたが、アレでいて久保田ルパンくんは、飛雲さんや真偽顕正さんの言葉に納得している部分があることを告白しました(笑)
 説明をこちらがすれば、「それは前から俺は解っていたことだ」と言わんばかりに、だんだん意見を寄せてきていましたが、そんな気持ちも久保田ルパンくんは持ち合わせていたということがわかり大笑いです。
 やはり、不思議な声を聞いたことで、信心決定した。ゴールした。絶対の幸福になった。全てがわかったハッキリした。退転しないのだ、そのように振る舞いたいから、絶対に人から批判されたくない、負けたくない、意見変えたと言われたくない気持ちいっぱいのプライドが邪魔するのでしょうね。
 また例のやむわっか寺さんも同じ系統のようで、今は手に入らない貴重な資料を精力的にあげて大変有り難いですが、それに付随する彼の言葉は、傲岸不遜で久保田ルパンくんと同じだなと思いましたね。

Re: チュウビ様

彼の理屈は高森教に自流が加わったというものですから、真宗教義からしたらおかしさ満点です。教義に照らせば飛雲さんや私の言うことを認めざるを得ない部分が出てきます。しかし勝他の心や承認欲求が強い彼は一部認めつつも相変わらず自流に走っています。ミニ高森会長みたいな印象を受けます。浄土真宗とか親鸞聖人の教えとか言わなければ、また批判サイトに書き込んでこなければこうまで炎上することもありませんでしたが、彼には自分を抑えるのが無理なようですね。

やむわっかさんはこちらへの決めつけ、レッテル貼りが激しいです。能称立信とか能称正因とか・・・。元々はA先生の主張の是非に関しての議論だったのが、随分と脱線してしまいました。ちょっと念仏を前に出すとこうなってしまうのか、こう取られてしまうのかと思うと残念です。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

No title

やむわっかの何とかさんは、まためちゃくちゃなことを言ってキレまくりです。
能力の問題より人格の問題の方が大きいのかもしれません。

No title

もしかしてここにちょっと私が書いたコメントに即座反応してやむわっか寺さんは記事を更新したのですね。
 あれだけもう二度と真偽検証は見ませんといってるのに気になるのだね(笑)
 こちらがやむわっか寺さんのところに行けば、してなかった足跡解析をしはじめたり、クソリプ禁止といきなりクソリプ扱い(笑)するし、個人のブログだから、友人に向けて書いているから、関わって来るな、書き込むなと書いて来るもんでコメントは即座に辞めたのに(笑)
 未信の人とは話しができない!など、僧侶なのに普段誰に向けて法話をしてるのか甚だ疑問です。
多分あたまから、親鸞会とその脱会者は、カルトな奴らとレッテルを貼って見下しているから、こいつらが信心決定するわけないと思っているのでしょう。基本的な会話すら出来ないのはどっちだよ(笑)と思います。余裕がないですね。
 真宗って仏教なんかよ、天台宗で少し修行してきなよ、とああいうすぐキレる僧侶みると思います。意味のない職業だなと思います。天台宗行かなくても、民間企業で働いてみればいいのにと思います。顧客にすぐキレそうだから雇われないかな。

 

Re: 南様、チュウビ様

ちょっと覗いてみましたが、とある記事のコメント欄が目を引きました。どうも私には、記事に書いたことに対するツッコミにまともに答えていらっしゃらないように感じます。

自力念仏→他力念仏というパターン、つまり念仏→信心というパターンは善知識方の仰せの如くです。それを丸っきり否定することも、否定する必要もないと思います。A先生にしてもそうですが、なぜ真宗の僧侶でありながら聖教の言葉を素直に受け取らないのか、個人的にはそこが疑問です。宗派意識でしょうか?

まぁあちらはあちら、こちらはこちらということで。何にせよ、見られた方が本願を信じ念仏されるご縁となるならよいと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

No title

彼らは未だに天動説を信じているのでしょう。
あるいは移動する乗り物に乗っているのに周りが動いているというようにしか思えないのでしょう。
はじめましてさんがスライドさせたのではなく、東さん自身がスライドしているので、はじめましてさんがスライドさせたと思い込んでいるのには爆笑しました。

しらずさんも同類で、都合の良い御文を引っ張ってきてと言ってますが、しらずさんにとって都合が悪い御文なわけで、その御文を否定して自分の都合の良い御文だけを肯定する、完全に親鸞会の思考ですよ。
御文に都合の良し悪しがあるのではなく、彼らの思考にとっての良し悪しがあるのです。

会話が成立しないので、相手にしてはいけません。

Re: 南様

> 御文に都合の良し悪しがあるのではなく、彼らの思考にとっての良し悪しがあるのです。

仰る通りと思います。

いわゆる正統派の方々は、念仏を主張すると必ず信因称報説を盾に対抗してきますが、親鸞聖人、蓮如上人の教えられた信心とは「念仏の信心」でした。無疑心にしても、仏願、本願、念仏に対する無疑です。

そして対機説法で、親鸞聖人は当時の念仏聖や、法然聖人やそのお弟子の方々から教えを聞かれていた方々に、蓮如上人は真宗門徒は勿論、当時隆盛であった浄土宗や時宗の人々に「念仏の信心」を説かれたのです。浄土を願い、その行として念仏を称えている、そういう人々に自力他力の分際、当流安心の一途を明かされたのでした。

念仏は万人に与えられている往生の正定業ですから称名正定業です。その法が私個人の上に実現するのは、私がその法を受け容れた時ですから、正定の因は唯信心なりと示されます。だから念仏成仏と示され、信心正因と示されるのですが、どうも真宗の布教使の方々の中には、前者を否定して後者ばかりを強調する方が見受けられるように感じます。

親鸞聖人、蓮如上人は決して念仏往生を否定することなく、念仏往生の肝要たる「念仏の信心」を説き示されたのですが、宗派意識にがんじがらめだとそれを読み取ることは困難かも知れません。それどころか、たまたま念仏を勧める人を見ては「あれは自力念仏を勧めている」などと見下すことでしょう。悲しいことです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

No title

東さんにしてもしらずさんにしても、このブログとあさ川さんのブログから逃げ出して、自分のブログで憂さ晴らしをしている親鸞会レベルの人物だとばれてしまいました。
お聖教の御文どころか、自分の紹介した紅楳師の論文さえ読めないのにお聖教が読めるわけないわ。

あれこれ言われておりますが、
教義のやり取りなら、私のブログ上でしたら、いつでも、お待ちしております。
ただし、常識のある方のみでお願いします。
以上

No title

常識のない天動説を未だに信じるも人とは会話できないでしょう。
せめて紅楳師の論文が理解できるようになってからですね。

この際ですから、ちゃんとしておこうと思います。
私の考えに対するご意見は、自身のブログにて承ります。
それ以外はご遠慮します。
淳心房様には憶測でものを言わないで下さい、とお願いしたはずですが、聞き入れていただけなかった様ですね。
非常に残念に思いますが、いたし方ありません。
では、さようなら、ごきんげよう

No title

二度とこないでください、天動説の信者さん

No title

アメリカでは、熱心なクリスチャンに天動説を信じている人が一定数いるそうですから、東さんもクリスチャンなのかもしれません。クリスチャンなら仕方がないです。

No title

クリスチャンでしたか(笑)
だから真宗の話が通じないわけだ。

Re: 東様

> 淳心房様には憶測でものを言わないで下さい、とお願いしたはずですが、聞き入れていただけなかった様ですね。
> 非常に残念に思いますが、いたし方ありません。

すみません。何をどのように憶測し、誤解しているのか示して頂けたら幸いです。


さて、東さんは上述のように仰いますが、憶測でものを言っているのはどちらでしょう?

> 断っておきますが、念仏から信心というパターンを認めよ、と云う方は、私のブログを見ない方が健康に良いと思いますよ。

> 絶対に認めませんから、私は。

という憶測でものを言って、はじめましてさんにツッコまれてズレた返答しかされていないのはどなたですか?


それから、最近の貴方の記事は、私や異安心さん、EMSさん、念仏往生さん等を意識して書いているというのはどう読んでも明らかです。初めから我々を能行立信だと憶測し、その上でものを言っておられるようですが、他人の事はわかっても自分の事となるとトンと分からなくなってしまうようですね。親鸞会で「他人鏡」「自分鏡」の話でも聞いてみたらいかがでしょう?


東さんが信心が先、念佛が後という信体験をされたと仰るならそれはそれで結構です。私はそれを否定するつもりはありません。しかし自分の体験だけが全てではありません。実際、お聖教には念仏が先、信心が後という信体験が書かれていることはそちらのコメント欄にある通りです。自分の体験で物事を判断すると親鸞会のように体験至上主義になりますのでご注意下さい。

淳心房様
少し、冷静にらなられた方が良いと思いますよ。
私は、信体験だけでものを言ってきたわけではありません。
私の信体験を、無理矢理聞き出そうとしつこく聞いてきた人がいましたので、お応えしたまでです。

少なくとも、議論をしようとするなら、最低限の礼儀は必要であろうとも思います。

チューリップの話はどうなりましたか?
あれがなかったら、もう少しまともなやり取りが出来たと思っています。
私は、あのやり取りから、あなた方と議論する意思が全くなくなりました。

私からは、もう何も言いませんから、どうぞ、お好きになさってください。

以上です。

No title

やむわっか寺の東さんに、名指しされましたので経緯を書きますが、やむわっか寺さんのブログに最初にコメントした内容が全てです。
 たまに巡回していたのですが、もちろん素晴らしいと思ってですよ。しばらくぶりに見たら書き方が随分と攻撃的になられてました。コメントをみてわかりました。ああ、あさ川さんのところで書き込んでいた立ち寄って者さんかと。私は当初はあさ川さんのところでも、やむわっか寺さんのところでも悪感情は抱いてませんでした。やりとりも、残ってますよね。
 しかし、やむわっか寺はでのやりとりには、「どなたさまもようこそ」トップに書いてる(笑)ではなく、放っからカルト親鸞会を抜けた者も、カルトという悪意ある侮蔑的な表現で満ちてますよね。カルトな脱会者が、親鸞会のように真宗界(笑)そんな統一的な組織があるのか笑えますが、攻撃してるらしいですね。妄想ですね。
 その真宗界を背負って立つのが東本願寺派のお寺なのに、元西本願寺派だという、どちらに属してるのかよくわからない僧侶が、西本願寺派の宗法宗制だかなんだかで、一般人を睨めあげる東さんですね。
 一般人からしたらアホかどこの法律で言うこと聞かせようというのか(笑) と全く教義云々の前に普通に対応できない東さんに対しては悪感情がありますね。僧侶なら僧侶らしくしたらどうですかね。まあ門徒に高圧的態度で威張っておれば門徒がもちあげてくれたような世襲にあぐらかくようような僧侶は淘汰されるでしょう。私が門徒ならば即やめますな。普通に働いてている在家を舐めるなですよ。よほど自信があるならば法話をネット公開してみなさいよ。
と書くと煽られたと思って荒れるでしょうね。
久保田ルパンくんにそっくり(笑)信心決定したと公言する人にはろくなモノはいないですね。他人より高みに登るのでしょう。そんな高みに登って在家を見下すぐらいの信心など大した価値などないので掴んでないで捨てたらいいですよ(笑)

 

チュウビさん。
あなたが反発されるのは自由ですが、私は関わらないで欲しいと再々、申し出ています。
あなたのしていることは
常軌を逸していますよ。
それくらいは理解できるでしょう。
あなたと、私とは、お念仏への向き合い方が違うだけで、お念仏そのものは、何にも変わらないですね。
私にとって、お念仏は、時に厳しくもあり、底抜けに温かくもあります。
最初に貴方から論難をうけた時から、私とは関わらないで、と言ったはずです。
あなたはそれを無視して、今の争いを生んでいるんですよ。
もうこれで、わかったでしょう。
私とは関わらないでください。

追記
そもそも論ですが、発端はRCさんでしょうね。
阿部師とのやり取りに巻き込まれた形になり、私のブログにRCさんの名前が出てから、真偽検証さんはいつも私のブログを攻撃してきました。一昨年の2月から昨年の10月13日まで、10月13日に私は紅楳私上とコンタクトをとっています。
その前後のブログの内容、真偽検証と私のブログを対象してみてください。
間接的にやりやっている事がわかるでしょう。私はずっと淳心房様にもう争いをやめるように言い続けて来たのですよ。
それを聞いてもらえなかった事は非常に残念です。ここまで言うつもりはありませんでしたが、僧侶失格とまで言われましたので、最後のコンタクトとして、述べさせていただきます。
では、失礼します。

No title

あれだけ言われても、東さんの主張である

念仏から信心というパターンは絶対に認めない

の文証を出して反論できないのです。
真宗の僧侶なら、親鸞聖人や蓮如上人がそのパターンは間違いであると仰った文証を出す筈ですが、出さない。
なぜなら真宗の僧侶ではなく天動説を信じるクリスチャンだから

あなた、飛雲さんでしょ。
みっともないことは、もうやめにした方がいいですよ、親切で申し上げておきます。
文句があるなら、いつでもお待ちしていますから、グダグダ他人のブログで喚くのはやめていただきたい。

No title

飛雲さんにまで飛び火ですか(笑
誰彼かまわず非難しまくりですね。
反論があるなら文証を出せば良いものを出さない。
出せないが正しいでしょう。
天動説を信じるクリスチャンが真宗僧侶を名乗っているのは滑稽ですからやめてはいかがでしょうか?
あっ、日本語も分からないか

Re: 東様

> そもそも論ですが、発端はRCさんでしょうね。

→これに関してはその通りです。本来は東さんと私は別段諍う必要もありませんでした。

しかしなぜか東さんは「立ち寄った者」と称してあさ川さんのブログに介入してきて、RCさんを擁護するような書き込みを激しくしました。その結果、RCさんは絶対に間違いを認めないばかりか、自分は間違ってないんだと変な自信を持つようになり、私の質問に逆質問したりして、遂に元々の私の求める

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていないという聖教上の根拠

を最後まで挙げることはありませんでした。更には後に貴方のコメント欄で二人して私を非難していましたね。そもそも部外者の貴方が下手に首をつっこまなければよかったのではないですか?


> 阿部師とのやり取りに巻き込まれた形になり、私のブログにRCさんの名前が出てから、真偽検証さんはいつも私のブログを攻撃してきました。

→やはり貴方の方が憶測でものを言っていますね。私は貴方のブログをほとんど巡回していませんでした。最近当ブログに貴方のブログに関するコメントがあったのでようやく少し閲覧した程度です。真偽検証さんはいつも私のブログを攻撃? してません。ひどい誤解です。私が問題にしてきたのは、A先生の

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない
阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

という発言についてです。間接的にやりあっていると言っても、東さんが勝手に意識しているだけです。私は東さんがご自身のブログで何を書こうがかまいません。最近はコメントがあったのでそれに応じたまでです。

No title

憶測でものをいうのはよくないと言ったのは東さんですが、東さんは憶測でしか物を言いませんよね。

日本語が少しでも解るなら教えてあげますが、東さんが他人を非難する言葉は全て東さん自身のことなんですよ。これを巷ではブーメランと言われます。
天動説にブーメラン、自分が紹介した論文が自分の首を絞める、
吉本芸人も真っ青のギャグですよ。

発言自体をやめられた方が宜しいかと思います、これ以上東さんの評価が落ちるのは気の毒ですから。

しかしギャグ発言を続けるのも良いですよ、コロナでストレス溜まっている皆さんにわらってもらえるならクリスチャンとしては本望かもしれないですね。

念佛為本さん、あなただけでしょうね。
裸の王様ですよ。ずっとやっていなさい。
淳心房様、ハリネズミの夫婦と言う話はご存知ですか?
傷つけ合うことを知ったら、傷がつかない距離を持って、お互いに尊重する、と言うやり方もあるんですよ。
そういう風に考え方を転換していただけたら、ありがたいと思います。
では、ごきげんよう。

No title

さよなら
ごきげんよう

何度も最後と言いながらコメントしまくり。
あさ川さんのブログでも半分が東さんという異常事態でしたが、今回も東さんのコメントで埋まりそうですね。

それで文証は出てこないのですね
あるわけないのですから、絶対に認めないと言った手前認める訳にはいかないとスライドしまくりで、お前がスライドさせているとまたいうのかな?

天動説のクリスチャンは場違いなんですよ。
ホント迷惑

No title

相変わらずのボケで、朝から笑わせて貰いました。

それで元の話として
「念仏から信心というパターンを絶対に認めない」
この根拠を出しましょうよ。
親鸞聖人は、20願から18願に転入されたと仰っているのは周知の事実なので親鸞聖人は
「念仏から信心というパターン」
蓮如上人も御文章一帖一通で、昔は自力念仏だったと告白されているので蓮如上人も
「念仏から信心というパターン」
梯師も三願転入は法の必然と言われているので梯師も
「念仏から信心というパターン」

一方で東さんは
「無念仏から信心というパターン」

明確な差があるのですが、「無念仏から信心というパターン」以外のパターンを認めないという根拠を出しましょうよ。

天動説は聞き飽きたので、スライドさせないでお願いしますよ。

No title

東さんは、スライド禁止されたので、逃亡ですか?

「念仏から信心というパターン」
親鸞聖人
蓮如上人
梯師
殆どの退会者

「無念仏から信心というパターン」
東さん
しらずさん
RCさん


どちらのパターンが真実信心であるのか、本願寺派でお尋ねになってはいかがでしょうか?

Abcです

「念仏から信心というパターンは絶対に認めない」という見方が誤っていることについて


こんにちは、Abcです。

東さんからしましたら、「法螺吹きのAbc」でしたっけ?東さんがそのように思われるのならば、それで構いません。私はあくまで『お聖教』に準じてといていくまでです。

『愚禿抄』(下巻)には
 「
 「一仏の所説は、すなはち一切仏同じくその事を証成したまふなり。これを人に就いて信を立つと名づくるなり」と、知るべし。

 「次に行に就いて信を立つとは、しかるに行に二種あり。
一には正行、二には雑行なり」と。

 正行について、五正行・六一心・六専修あり。

五正行とは、
一には一心に専読誦、    二には一心に専観察、
三には一心に専礼仏、    四には一心に専称仏名、
五には一心に専讃嘆供養なり。
またこの正のなかについて、また二種あり。
一には、「一心に弥陀の名号を専念する、これを正定の業と名づく」と。
二には、「もし礼誦等によるはすなはち名づけて助業となす」となり。
六一心とは、次いでのごとく一心なり。
六専修とは、次いでのごとく専修なり。

 また正雑二行について、また二行あり。
  一には定行、二には散行なり。

 また正雑について、また二種あり。
  一には念仏、二には観仏なり。

 また念仏について、また二種あり。
  一には弥陀念仏、二には諸仏念仏なり。
  法身   報身   応身   化身

 また弥陀念仏について、二種あり。
  一には正行定心念仏、二には正行散心念仏なり。

 弥陀定散の念仏、これを浄土の真門といふ、また一向専修と名づくるなりと、知るべし。

 また諸仏念仏について、二種あり。
  一には雑行定心念仏、二には雑行散心念仏なり。
   諸仏定散の念仏は、これ雑中の専行なりと、知るべし。

 また観仏について、また二種あり。
  一には正の観仏、二には雑の観仏なり。

 また正の観仏について、また二種あり。
  一には真観、二には仮観なり。

 また真仮について、十三の観想あり。

日想   水想   地想   宝樹想
宝池   宝楼   華座   像想
真観   観音   勢至   普観
雑観

 また正の散行について、四種あり。

読誦   礼拝   讃嘆   供養



 上よりこのかた定散六種兼行するがゆゑに雑修といふ、これを助業と 名づく、名づけて方便仮門となす、また浄土の要門と名づくるなりと、知るべし。

 また雑の観仏について、二種あり。また真仮あり。
  一には無相離念、二には立相住心なり。

 また雑の散行について、三福あり。

  一には、孝養父母・奉事師長・慈心不殺・修十善業なり。
  二には、受持三帰・具足衆戒・不犯威儀なり。
  三には、発菩提心・深信因果・読誦大乗・勧進行者なり。



 上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。おほよそ聖道・浄土、正雑、定散、みなこれ回心の行なりと、知るべし。
 」

とございます、
東さんがおっしゃる、「行者自らが自分のためにと称える念仏」はたしかに「真門の行者」であり、七宝獄往生となりましょう。ですが、

だからといって「念仏から信心というパターンは絶対に認めない」としたならば、

(今示した)「単語に対して事細かな説明」を加えられた『愚禿抄』
「念仏にはこれほどの功徳があるのだ」と言われている『教行証』及び『正信偈』
「阿弥陀さまのお謂れにはこのようなものがある」と別号を顕わされた『弥陀名号徳』
「称名を専ら行ずるものはこのような功徳がある」といわれた『浄土和讃』
「それらを「お手紙」という形で」とされた『ご消息集』
関東の同行に読むようにと言われている『唯信抄』『後世物語』『自力他力事』


などは、「一心に弥陀の名号を専念する、これを正定の業と名づく」という事を言われていることであります。

そして地動説さんが

親鸞聖人は、20願から18願に転入されたと仰っているのは周知の事実なので親鸞聖人は
「念仏から信心というパターン」
蓮如上人も御文章一帖一通で、昔は自力念仏だったと告白されているので蓮如上人も
「念仏から信心というパターン」
梯師も三願転入は法の必然と言われているので梯師も
「念仏から信心というパターン」


と言われているように、どちらかが前でどちらかが後ろという訳ではありません。

『ご消息集』
 「信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

 これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。」

とございます通りであります。よくよくお読みください

なもあみだ、なもあみだ
 Abc

追記です

申し訳ございませんAbcです

先ほど

「だからといって「念仏から信心というパターンは絶対に認めない」としたならば、

(今示した)「単語に対して事細かな説明」を加えられた『愚禿抄』
「念仏にはこれほどの功徳があるのだ」と言われている『教行証』及び『正信偈』
「阿弥陀さまのお謂れにはこのようなものがある」と別号を顕わされた『弥陀名号徳』
「称名を専ら行ずるものはこのような功徳がある」といわれた『浄土和讃』
「それらを「お手紙」という形で」とされた『ご消息集』
関東の同行に読むようにと言われている『唯信抄』『後世物語』『自力他力事』


などは、「一心に弥陀の名号を専念する、これを正定の業と名づく」という事を言われていることであります。」

としましたところは、

「だからといって「念仏から信心というパターンは絶対に認めない」としたならば、

(今示した)「単語に対して事細かな説明」を加えられた『愚禿抄』
「念仏にはこれほどの功徳があるのだ」と言われている『教行証』及び『正信偈』
「阿弥陀さまのお謂れにはこのようなものがある」と別号を顕わされた『弥陀名号徳』
「称名を専ら行ずるものはこのような功徳がある」といわれた『浄土和讃』
「それらを「お手紙」という形で」とされた『ご消息集』
関東の同行に読むようにと言われている『唯信抄』『後世物語』『自力他力事』


などは、「一心に弥陀の名号を専念する、これを正定の業と名づく」という事を言われていることでありますから、「念仏から信心というパターンは絶対に認めない」としたならば、これらを「間違った書物」とせねばなりません。」です。

長文を書くとどうしてもこのような齟齬が出てまいります。申し訳ございません

Abc

No title

東さんやっぱり出てきた(笑)
「常軌を逸してる」そうですね。私が書いていることはあなたの発言を書いてるだけです(笑)しかも公開してる情報ですよ(笑)東さんがこんなことを言ってる。
あとの判断はここを見てる皆さん次第です。
都合の悪いことを見つけられてバラされたら「常軌を逸してる」ルパン久保田くんもそうですけど、この手の人は強い意味を持つ言葉を使って相手にレッテルを貼ります。理屈を書くのが苦手なのでしょう。だから強い言葉で相手を制しようとする(笑)
時間軸も都合よく解釈してますね。どう見てもやむわっか寺のブログはあさ川さんのところに東さんが書込みをしだしてから急増してますし、内容もガラッと変わってます。
前も書いたように前からたまに見させていただいていたから分かったことです。
 「論難された、関わりたくない」(笑)
 論難しましたか?論難の意味わかって使ってますか?私はあなたのブログには質問はしましたが、論じて非難しましたか(笑)論ずるとこまでいく前にそうそうと書込み辞めましたよ。なぜならば話が通じないから(笑)論難という言葉、これも強い言葉で相手を制しようとしてますね。
とこうして論じて非難することを論難といいます。今回からが論難ですね(笑)
私は、書けばキツイですけど、いきなり噛み付くことはしないですよ(笑)ところが「噛みついてきた」とかけちゃう東さんの人間性がルパン久保田くんと同じで面白いですね(笑)よほど自分が偉いのでしょうね。そんな人の法話がどんなものかみたいですよ。公開してくださいよ(笑)

No title

東さんのブログは、当初好きでたまにまとめて見てた訳ですが、いつか今のような状況じゃないころだと思いますが、「どっちでもいいじゃん」と書いておられました。おおらかさがありました。私も、今、お念仏申しておるならば「どっちでもいいじゃん」と思ってます。また当初は、「難しい言葉をわかりやすく伝えたい」と書いておられたので実際読みやすかったです。そこも共感ポイントでした。
それが、自分が論難(笑)されたことに腹を立て相手を論破する為に、難しい言葉を出して権威付け、少しでも論難(笑)されたならば、クソリプ(笑)とレッテルを貼る。そのようなブログに舵を切ったわけですね。「真宗界(笑)に教義理解の未熟者が攻撃してくる、彼らは親鸞会と同じカルトだ」という扱いです(笑)
はい、たしかに私は、教義理解未熟者ですね(笑)
どうぞ教義理解熟達者と認定した人だけの素晴らしい世界を作ったらよろしいかと(笑)ずいぶんと選民思想者なんですね(笑)

No title

>そんな高みに登って在家を見下すぐらいの信心など大した価値などないので掴んでないで捨てたらいいですよ(笑)

真宗の僧侶、親鸞会の講師、全部一緒だとおもいます。

親鸞聖人のご遺徳とか口で言ってそれを職業としてなりわいにしている以上、名誉、財などを求める自分の都合によって言動や評価は常に醜く揺れ動きます。
そういった恐ろしい業を人間は持っています。特に、布教師という職業は恐ろしいです。

そういった職業僧侶の在り方を、親鸞聖人も嫌われたのでしょうね。

a

現代人に念仏の教えが届くのか、親鸞会も結局この答を出すことはできませんでした。

宗教の在り方が本質的に問われている今日、北海道の田舎の寺院経営で人生を終える僧侶の方には、決して問題意識にあがることはない問題なのでしょう。

Re:aさん

こんばんわ、Abcです。

>真宗の僧侶、親鸞会の講師、全部一緒だとおもいます。

>親鸞聖人のご遺徳とか口で言ってそれを職業としてなりわいにしている以上、名誉、財などを求める自分の都合によって言動や評価は常に醜く揺れ動きます。
そういった恐ろしい業を人間は持っています。特に、布教師という職業は恐ろしいです。

>そういった職業僧侶の在り方を、親鸞聖人も嫌われたのでしょうね。

まことにお恥ずかしい限りではございますが、仰る通りであります。
かつては「能化」といわれ、ある一定の「立場があった」私のところではありますが、

戦国時代に顕如上人が「大坂御堂再興のため」といったか聞こえがいいですが、越前、加賀、能登、越中にある「高田派の寺院」を強奪の限りを尽くし、燃やし「真宗の敵」として「織田三郎信長と同じだ!」と追い出し、美談を作る。そのような「名誉、財などを求める自分の都合によって言動や評価」を変える醜い集まりであります。

いまは「宗派の垣根を越えて」などを旗印としていますが、ことあるごとに「異安心」です。こんな団体が衆生を教化できるとは到底思えません。

ですが、どうやら本願寺も一枚板ではないようで様々なものに手を出されています。その果てには、どのようなものがあるのでしょうか。私も気にかかるところであります。

なもあみだ、なもあみだ
 真宗高田派 布教使
 Abc

Re: 東様

> グダグダ他人のブログで喚くのはやめていただきたい

はてさて、どの口が言っているのやら・・・


> ハリネズミの夫婦と言う話はご存知ですか?
傷つけ合うことを知ったら、傷がつかない距離を持って、お互いに尊重する、と言うやり方もあるんですよ。

知りませんでしたので検索しました。よいお話ですね。
ただそれには、東様と私でしたら、今は干渉し合わないことが最適かと思います。
私はやむわっか寺のささやきブログを攻撃しようという意図で記事を書いたことは一度もありません。
東さんのブログでの、東さんとRCさんとのやり取りを教えてくれた人があり、実際に見ましたが、干渉しないことが一番かと思って放置し、書き込むのは止めておきました。
今後、しばらくはお互いのブログを見ない、コメントしないというのが諍わない一番の方法ではないかと思います。


それで、他の皆さんも待望している

念仏から信心というパターンは絶対に認めない

という文証はあるのですか? 無いのですか? あるのなら出して下さい。余計な説明は要りません。根拠のみで結構です。無いのなら早々に該当記事からこの文言を削除することをお勧めします。
勘違い、間違い、思い込みは誰だってあるのですから、指摘されたら素直に勘違いだった、間違いだった、思い込みだったと認めて、正しい方向に歩み出せばよいのではないですか? そのようにしない、聖教を無視して自説を貫く、というのならば、私はA先生に続いて東さんもかと、真宗僧侶に失望せざるを得ないです。

No title

Abcさんの高田派の事情を、ブログで東さんは大谷派や高田派にも自分は友人がいる。聞いたがそんな事実はないとAbcさんを早々に嘘つき認定をされてましたね。ホントに聞いたか不明です。高田派の人には実際は聞いてないでしょうね。自分の言ってることは全て正しい。真宗界(笑)を代表して語ってるそうです。他の布教師に聞いてみろ皆自分と同じ意見だと(笑)Abcさん布教師ですけどね違う一言すでに見つけました(笑) 
 そもそも宗名は本願寺派だけが、浄土真宗ですよ。他の派は真宗です。あらら調べたら、東さんの寺は、真宗大谷派から別れた浄土真宗東本願寺派でしたね。東本願寺派も、ここも浄土真宗とつけてるのですね。
 とまあ、真宗界なるものを想定して、さも統一見解があり、一枚岩であり、その真宗界の権威を使って威圧するなど、とは権威がお好きなんですね。だからまともな対話にならないので、日本語を理解してますか?本を読めてますか?と基本的なことを揶揄されるのです。
 揶揄されて腹が立つから、もう見ないといいながらも、ジッと監視して、ことあるごとに自分ブログに書いてるわけです。このブログは友人に向けて書いてるから書き込むなと制止されたチュウビでした(笑)すごい自己中だよな(笑)久保田ルパンくんと同じだな。
 友人に向けてる割に、なぜか私の名前まで書いて記事にして下さり有難うございました(笑)
東さんの出される貴重な本の紹介はとても勉強になり、その提示された本の内容と、そのあとの東さんの解説が秀逸ですね。矛盾点を探すゲームを提供してくれてるようです。面白いです。
二枚起請文か!出た出た!個人的に一枚起請文と二枚起請文は好きですね。解説早く読みたい。

No title

abc様

>まことにお恥ずかしい限りではございますが、仰る通りであります。

高みに立ったような意見にもかかわらずコメントいただき恐縮です。

私は、親鸞会の元講師でした。組織の在り様に嫌気がさして講師をやめましたが、自分自身を振り返るに、自分は常に都合と欲望で振り回されただけの存在でした。そんな自分を見せつけられました。

親鸞会の元講師の中には東西本願寺で得度をされ布教に身を投じる人もありますが、私はそのような気持ちになれません。

真宗の一在家信者としてお念仏に生かされて生きたいとおもっています。

>浄土真宗東本願寺派

こちらの方々も、知る限り、財産と権力闘争から逃れることはできない業をおもちなのでしょうね。

宗教団体は、渦の真ん中にいる人たちほど自分は清いところにいると声高に主張されます。いつの時代も変わらない凡愚の世界なのでしょう。

No title

ハリネズミ(ヤマアラシ)のジレンマ…(笑)なんで、それなの?(笑)

好きだけど近づきくて悩む。なぜならば近づくと、自分たちの針で傷ついてしまう、傷つけてしまうのでまた悩む。というジレンマをいうのですが、誰が誰にジレンマを抱えているのか?念仏為本さんか、淳心房さんかいやいや、ジレンマなどないですよ(笑)私もないです。最初に偉そうなことを書いてあさ川さんのブログを荒らした、また自分のブログにならバレないだろうと非難した。見つけられたら、お前らヤマアラシのジレンマを抱えているから距離をとれ(笑)
ジレンマを抱えているのはそんなことをいう東さんでしょう。好き勝手書いてるのだから、そうは思えませんが(笑)兎に角言葉選びやたとえ方が全てにおいてピントがずれていますね。その程度の言語能力で、偉そうに僧侶をして教義解釈未熟者たちが!と言える精神が素晴らしく選民意識ですね。
たぶん言いたいことは、干渉するなと言いたいだけなんだろうけど(笑)


No title

分からずに書いているでしょうから、少しだけ教えてあげましょう。

東さんのいう一心五念と皆さんが言っている
「念仏から信心というパターン」
とはほぼ無関係。
時間の話と空間の話が混じっていて混乱しているんだろうね。
時間も長い短い
距離も長い短い
同じ言葉でも意味が違うのだけど、日本語がまともに使えないから全く同じだと思ったようで、笑えるが本人は
はあ?
でしょう。

No title

ドヤ顔で

> 信心に五念門行の功徳が具わっている

と言っているのが笑える。

念仏から信心というパターン
言い換えると
自力念仏から他力念仏というパターン

の反論になっているのかどうか、中学生に訊ねてみたら良いでしょう。
国語のテストは0点。

天動説信じた日本語も使えないクリスチャンが真宗僧侶とは、吉本の芸人でしょうか?

No title

元会員というのは、浄土真宗親鸞会の牧野講師ではないでしょうかね。
あるいは、任務で書き込みをしている弘宣部員
一般会員でもないし、ましてや元会員ではないとおもいます。

実に情けない任務ですね。こんなことが布教だとおもっているのでしょうか。
こんなことをするためにあなたは、自分の人生をかけて親鸞会に殉じたのですか。

だらぶつとか、一応自分を卑下しているようですが、親鸞会以外の人間については高森説に従わないもの、と見下すことでしか接することができない憎悪の塊。そんなにだらなら、自分こそビーヤングから読めばよい

高森会長もどうしようもないカルト組織を作ったものです。

私が今おもいますに、もう高森会長も先は長くないとおもいます。死ぬ前に、
自分のやってきたことを清算してほしいです。

間違いを認め、講師部や会員に対する精神的な拘束を解き放ち、広く真宗の教えを聞き求めるべき、と宣言することです。

高森一家は、金や財だけ相続できればよいのだとおもいます。それはだらな彼らにくれてやりましょう。

No title

失礼しました、ここに書くべきではありませんでした

Re:aさん

こんばんわ、Abcです。
先日は、生々しい内情を汲んでくださりありがとうございました。
そのような「ドロドロした現場」が「真宗界」であり、財を成している方々は「そのドロドロした現場を清らかにしよう」という殊勝な心は持ち合わせておらず、「なるべく一線を引いておこう」という保守的な動きです。

さて、
>私が今おもいますに、もう高森会長も先は長くないとおもいます。死ぬ前に、
自分のやってきたことを清算してほしいです。

>間違いを認め、講師部や会員に対する精神的な拘束を解き放ち、広く真宗の教えを聞き求めるべき、と宣言することです。

とございますが、おそらく「そのようなシーン」はないでしょうね。
なんせ「絶対の幸福を主張する、高森信心の団体」ですから。

大変私事にはなりますが、私は本願寺が嫌いです。
 本願寺も専修寺は「仏敵なり」と言い放った過去がございますので「どっちもどっち」という具合です。むしろ「そこに溝があるから均衡が保たれている」とも言えます

その「私的に大嫌いな本願寺」から僧籍をはく奪された高森会長が「広く真宗の教えを聞き求めるべき」とするでしょうか? もし大穴で、その通りにされたら私は高森さんに対して考え方を改めます。

なもあみだ、なもあみだ
 Abc

No title

>おそらく「そのようなシーン」はないでしょうね

おっしゃる通り、ありえないでしょう。

どうでもいいけど、チュウビってヤツのコメントがイヤミで嫌い。
こんなヤツとは、マジでリアルで友だちになるヤツがいるとは思えず(笑) コメントはいいから、はよ死んで。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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