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首里城炎上に思う

那覇市の世界遺産、首里城跡に復元された首里城正殿がほぼ全焼した。

正殿巡回1時間後に出火=尚家資料など400点超焼失-管理財団が会見・首里城火災

沖縄県民の方々の悲しみは計り知れない。


浄土真宗では、かつて蓮如上人の時代から戦国時代末期にかけて、吉崎御坊、山科本願寺、石山本願寺が焼失するという事件が起こっているが、焼けていく坊舎を見た先達も深く悲しみ嘆いたに違いない。


この事件をテレビで知ったが、色々と思わされる。

一つ目は、何年とかけて復元してきた城が、一夜、それも数時間にして失われてしまったこと。長い間築き上げたものも、壊れるのはあっという間。それを思うと恐ろしい。

二つ目は、炎の激しさ。消防隊員の会見を聞いたが、あまりに高温で近距離での消火活動が出来なかったというのである。また、輻射熱による隊員への二次災害を防ぐため、放水と退避を繰り返しつつ消火に当たらねばならなかったそうだ。そして、首里城付近は近くまで消防車が入って行けない環境にあり、ホースを伸ばして伸ばしての消火で、活動は相当に困難だったようである。

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

「信文類」に親鸞聖人はこう教えられているが、今回の事件の炎の激しさは、我々の煩悩の炎の激しさを連想させる。苦心して善根を積み重ねてきても、怒り憎しみの炎が焼いてしまうというのである。

この煩悩の炎は学問や修養の水くらいでは到底消すことができない。そして、せっかく修めた善根も一時の欲や怒りや憎しみのために灰になってしまうというのである。聖道門ではその中を、さとりを目指して懸命に修行するというのだから、その厳しさ、過酷さは計り知れない。

自力聖道の菩提心
 こころもことばもおよばれず
 常没流転の凡愚は
 いかでか発起せしむべき
『正像末和讃』

若き日の親鸞聖人の苦心が偲ばれる。


凡夫が仏に成るには、それこそ大千世界に満ちる火を過ぎ行かねばならないだろう。私には到底歩める道ではない。だから私には、法蔵菩薩が大千世界に満ちる火を過ぎて、南無阿弥陀仏と成って私に飛び込んできて下さったと思わざるを得ない。

何とも有難く、かたじけない。ようこそ、ようこそ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・
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吉崎御坊焼失

ども、林遊@なんまんだぶです。

首里城正殿がほぼ全焼したといふニュースで、蓮如さんの吉崎御坊焼失の「お文」を想起しました。
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E5%90%89%E5%B4%8E%E7%84%BC%E5%A4%B1%E6%99%82%E3%81%AE%E3%81%8A%E6%96%87

ともあれ、

 これによりてこの界は有无不定のさかひなれば、いかなる家いかなる宝なりともひさしくはもちたもつべきにあらず。たゞいそぎてもねがふべきは弥陀の浄土なり、いま一時もとくこゝろうべきは念仏の安心なり。

ということを教えてくださるのでしょう。
あらゆる事象を、往生浄土の一点に絞って「後生の一大事」を勧化された蓮如さんはやっぱり偉大なオルガナイザーであった。ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> あらゆる事象を、往生浄土の一点に絞って「後生の一大事」を勧化された蓮如さんはやっぱり偉大なオルガナイザーであった。ありがたいこっちゃ。

まことにその通りですね。ただ悲しいで終わらせずに、また勢力拡大というためでなく、浄土往生の一大事を人々に教える縁とされ、日本に浄土真宗を弘められた蓮如上人がおられたからこそ、私もお聞かせにあずかることができたと思います。有難いことです。


ところで、吉崎御坊焼失の「お文」を紹介して頂いて、自分の中で二つの新発見がありました。一つ目は、蓮如上人は「念仏の安心」を教えられた方だということ、二つ目は、還相回向についても御文で伝えられていることです。

信心、信心というけれど、それは念仏の安心、念仏の信心であって、念仏一行を称えて往生しようとしている方々のその信心を厳しく突いて教えられたのが蓮如上人であることがより明確になりました。

80通の御文章では還相回向についてはほとんど(全くといっていいくらい?)触れられていないので、蓮如上人は御文での布教では還相について教えられなかった方だという思いを持っていました。それが今回のことで覆りました。

林遊さんが示して下さることには何かしらの新たな発見があり、有難いです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

「法然聖人の明らかにされた真宗の教えは選択本願念仏の教えであり、選択本願念仏の教えとは、信心で助かる(信心正因の)教えだ。」これが法然聖人から直接教えを受けた親鸞聖人の受けとめであったので正信偈にそのように書かれたのだと受けとめています。

『教行信証と歎異抄の味い』(稲垣瑞剣師)には「唯信教義は念仏往生と内容に於いて少しもちがったものではなく、むしろ念仏往生を徹底せしめて異解、異見、別解、別見をはらったものが、親鸞聖人の信心正因の法門、唯信教義である。(略)信心一つと云えば念仏がじゃまになるようにおもい、念仏が要ると云えば、称名正因の邪見におちいる。また両方ともなければならぬと云えば、称名と信心の軽重を問うたり、どちらかに偏したり、信行相扶論に陥ったりする。」と念仏往生の徹底こそが、信心正因の教えだとあります。 

たのめ、まかせよ、で信心正因を強調された蓮如上人は、無宿善の人には読ませるなと歎異抄の写本の末尾に書かれましたが、そこには『当流大事の聖教』とはっきり書いておられます。蓮如上人も、「選択本願念仏の教えは信心で助かる(信心正因の)教えだ。」という親鸞聖人の受けとめをそのまま大切にされたと思います。
だからこそ法然聖人と親鸞聖人の教えは違うのだとか、念仏を軽視するような人が出てくることを危惧して、教えの浅い人には歎異抄を読ませるなと言われたのでしょう。

浄土真宗聖典全書

ども、林遊@なんまんだぶです。

帖外の御文章は、『浄土真宗聖典全書』第五巻がお奨めです。
https://hongwanji-shuppan.com/item/detail.html?icd=978-4-89416-813-8

ほとんど積読(つんどく)状態ですが、読みたい帖外の御文章や伝記があったので入手しました。
蓮如さんは、いわゆる文書伝道という手法を用いられたのですが、『浄土真宗聖典全書』第五巻の『天正三年記』に、

 越前の吉崎の御坊にて彌(いよいよ)佛法ひろまり申し候て、「御文」を御つくらせさふらふ事は、安藝法眼申させさふらひて御つくりさふらひて、各有難く存さふらふ。かるがると愚癡の者の、はやく心得まひらせさふらふやうに、千の物を百に選び、百の物を十に選ばれ、十の物を一に、早く聞分申樣にと思しめされ、「御文」にあそばしあらはされて、凡夫の速かに佛道なる事を、おほせたてられたる事にてさふらふ。開山聖人の御勘化、今一天四海にひろまり申事は、蓮如上人の御念力によりたる事に候也。 (『天正三年記』p.637)

と、あるように在家の一門徒である安藝法眼の懇請からでした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%81%82%E3%81%8D%E3%81%AE%E3%82%8C%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%86

また蓮如さんは、日本語で阿弥陀さまとの回路を開かれた方でもありました。
いわゆる漢語の「南無阿弥陀仏」を、和語で「たすけたまえと弥陀をたのむ」と表現されたのだと思っていたりします。
この「たのむ」の御開山の用例では、「自然法爾のご法語」に

 南无阿彌陀とたのませたまひて、

とあり、この場合は「南无阿彌陀」と「たのませ」は文選読み(語句をいったん音読し,さらにその同じ語句を訓でよむ読み方)の同義語でしたです。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%81%9F%E3%81%99%E3%81%91%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%B8%E3%81%A8%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%B8%E3%81%B0

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

無碍光宗

愚愚流さん。

蓮如さんが『歎異抄』の後書きに、

[右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機においては、左右なく、これを許すべからざるものなり。]

とされたのは、第3条の、

 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

と、善人ですら往生するのに、まして悪人が往生するのは当然であるという悪人正機説が誤解されることをおそれたからでした。
蓮如さんは、当初、御開山の意を引いて「帰命尽十方無碍光如来」という尊号を重視し、衆生の煩悩も、往生成仏には無碍であると説かれました。毎日の生業の中で悪をなすことでしか生きられない当時の民衆にとっては、

 「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。『尊号真像銘文』p.652

といふ、煩悩を断ぜずして浄土へ往生できるといふ教説は、殺生という悪を為さなければ生きていけない大衆に熱狂的な支持をうけたのでした。
しかし、このような教説は廃悪修善を事とする比叡山の宗教論理では決して受け入れられない教義だったのでした。ですから比叡山側では、蓮如さんの説く法義を造悪無碍の「無碍光宗」の邪義であるとして弾圧したのでした。

そのような意図において蓮如さんは「無宿善の人には読ませるな」とされたのでしょう。
そもそも論ですが、『選択本願念仏集』を真面目に読んだことがありますか?
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E6%B3%95%E7%84%B6%E6%95%99%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6_/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AB%A0_%E9%81%B8%E6%8A%9E%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B%E3%81%A8%E5%B1%95%E9%96%8B#.E7.AC.AC.E4.B8.83.E7.AF.80.E3.80.80.E9.81.B8.E6.8A.9E.E6.9C.AC.E9.A1.98.E8.AB.96.E3.81.AE.E7.B6.99.E6.89.BF

ともあれ、浄土真宗における行信論とは煩いのですが、なんまんだぶを称えることが、選択本願に相応するという信を「行信不離」といふのでした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A1%8C%E4%BF%A1%E4%B8%8D%E9%9B%A2

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

林遊@なんまんだぶ 様

コメント有難うございました。受けとめは人それぞれだと思います。私の受けとめを人には別段オススメ致しません。自分の思うままを述べているだけです。ただそのように受けとることは重大な誤りであり、これは間違いなく異安心だとわかられるならご指摘頂ければ有難いです。

選択集は当然読んだことはありますが、真面目に読んだのか?と言われると、私はプロではありませんし、仕事の片手間でさえ、読んでいない人間です。素人以下かもしれません。その人間が自由に語ってはいけないところならばそのようにさせて頂きます。このような私のコメントもどうかと思いますが『真面目に読んだことがあるのか』と問われたのでその問いに率直に答えると そのような答えになります。

私は南無阿弥陀仏、念仏がなければ永遠に生まれることも、生きることもできない人間です。

Re: 林遊@なんまんだぶ様

ありがとうございます。帖外の御文の方がずっと多いので、やはりそれも読まずして蓮如上人の教えの全体像はつかめませんよね。奮発して入手しようと思います。

ところで、

たすけたまへと弥陀をたのむ

は現代では非常に誤解が多いでしょうね。「たすけたまへ」は浄土宗一条浄華院流からその語を用いて、意味は一条流で使われる祈願請求の意ではなく信順、許諾の意であるとは、特に私のような古文漢文てんでだめの輩には非常に難しいです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

Re: 愚愚流様

『歎異抄』は唯円房が書いたという説が一番有力ですが、著者名が書かれていないので本当のところは分かりません。それでは、責任の所在がありませんから、蓮如上人が『歎異抄』は「当流大事の聖教」ですとその責任者になって下さったのだと天岸浄圓師は教えられています。(『歎異抄』後序のこころ参照)

ただ、それを封印というか、表に出されなかったのは、林遊さんが指摘されているように第三条の悪人正機説が誤解されるのを防ぐためであったろうと思います。当時の時代背景を知ってか知らずか、また行と信の関係を知ってるのかどうなのか、歎異抄は法然聖人の教えが書かれていて、親鸞聖人の教えと違うから封印したというような説を唱える方がありますが、そうではないでしょう。であれば「当流大事の聖教」と書かれるはずがないです。

阿弥陀仏が選択本願に誓われた念仏一行を称えて往生する。それを疑いなく受け容れたのが信心です。いくら私を救う法が成就し与えられていても、それを受け容れなければ私の救いにはなりません。ですから、念仏往生とは、その肝要は信心正因ということに帰結するのです。稲垣瑞剣師が指摘されているように、行と信の関係がどうもよく分かっていない方が多いように思います。そこんトコロをスパッと説いて下される先生が多いといいんですが・・・

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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