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【ツッコミ】念仏に三通りあると言われた親鸞聖人(R01.11.15 顕正新聞【論説】より)

親鸞会発行『顕正新聞』令和元年11月15日号の論説には、御正忌の御文章

それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。

の御文を出して、蓮如上人当時の人々の念仏に対する心得と、念仏の「区別」「違い」のあることが述べられています。そこには、

・親鸞聖人の教えは「信心正因・称名報恩」といわれる。
それは決して、信心決定するまで念仏は称える必要がないとか、称えるな、ということではない。

・浄土真宗では「自力は捨てもの」と嫌われるが、捨てねばならないのは、弥陀の救いを疑っている「自力の心」であって、「念仏」ではない。


などと、部分部分で多少まともなことも書いてありますが、全体を見るとやはり多分に邪義が雑じっています。本日はそれにツッコミを入れていきます。


まず論説の著者は、タイトルに示したように

念仏に三通りあると言われた親鸞聖人

と題して、文の途中にも「親鸞聖人は、念仏に三通りあると教えられている」と書いています。そして

万行随一の念仏
万行超過の念仏
自然法爾の念仏


という語を出し、それぞれの説明をしています。ところが、親鸞聖人の聖教を読んでもそのようなことは書いてありません。これはおそらく後の宗学者か布教使の誰かが言い出したのでしょう。願海を真仮に分け、真仮を三願、三経に配当して教えられた聖人の教説を受けて、『観経』十九願意の念仏はこう、『阿弥陀経』二十願意の念仏はこう、『大経』十八願意の念仏はこうというような説教をしたのだと思われます。

『用管窺天記』選択本願念仏

には、

昔の布教使は、『観経』の意による、なんまんだぶを万行随一の念仏と言い、『阿弥陀経』の意による、なんまんだぶを万行超過とし、『無量寿経』の意、つまり第十八願の、なんまんだぶを、選択本願の、なんまんだぶと言って御法話をしていたものである。


と書かれています。ここでは3つ目の念仏については「自然法爾」ではなく「選択本願」となっています。

いずれにせよ、「定散自力の称名」とか「真実信心の称名」と仰って、称名念仏に自力他力の違いがあることは教えられていますが、「念仏に三通りある」とか、「万行随一の念仏」等の名称を用いて教えられている箇所を私は知りません。どこかからパクって得た知識をろくに調べもせずに使い続けている高森顕徹会長と愉快な仲間達にはため息しか出ません。


次に、以前親鸞会では信前の称名を軽視する傾向にありました。最も酷かったのが

自力念仏の者は必堕無間

という邪義です。ところが、例えば

『飛雲』本願寺を非難すればするほど、馬鹿にされる親鸞会

等の飛雲さんの批判によって、「信前に念仏を勧めることが邪義なら、諸善を勧めることは当然邪義」であるということを認めざるを得なくなったのでしょう。それで、信前に諸善を勧めることを正当化するために教義を修正してきていることが今回の記事から伺えます。この度、

・決して、信心決定するまで念仏は称える必要がないとか、称えるな、ということではない
・捨てねばならないのは、弥陀の救いを疑っている「自力の心」であって、「念仏」ではない


と書いてきたことに関しては評価できます。ただ、親鸞会が言いたいのは

・決して、信心決定するまで善はする必要がないとか、するな、ということではない
・捨てねばならないのは、弥陀の救いを疑っている「自力の心」であって、「諸善」ではない


であるということです。未だに親鸞会流「三願転入の教え」や、親鸞会流宿善論に迷っている人は、このように脳内変換してますます邪義に迷い込んでゆくことでしょう。早く気付いて頂きたいものです。


そして、今回最大のツッコミどころは論説の最後

信仰が進めば必ず、念仏を称えずにおれなくなり、その心も万行随一から万行超過に変わっていく。そして、信心決定の上に自然法爾の念仏を称える身になることが、我らの出世本懐、昿劫多生の目的なのである。

の部分です。未だに「信仰が進めば・・・」とか言ってます・・・。親鸞聖人の教えの一枚看板は「平生業成」じゃなかったのかよ・・・。いつまでも十九願の「万行随一」に会員をとどめておいて、一体いつその念仏が二十願の「万行超過」に変わって、そして十八願の「自然法爾」に変わるというのでしょうか。会員も会員で、いつまで信仰とやらを進めるための活動に挺身し、露の命をすり減らすのでしょうか。今日にも自分が死んでゆかねばならないとしたら、そんな教えで助かるのでしょうか。

また、結局のところ親鸞会では信仰とやらを進めるための、信心決定までの階梯としての、いわば自力の念仏を勧めていることが分かります。しかし親鸞聖人が勧められたのは最初から他力の念仏です。今は、このことについて詳しくは『飛雲』親鸞聖人の仰る往生の道とは5等を参照して下さい。


弥陀の五劫思惟の願は早や成就して、南無阿弥陀仏という本願の名号となって既に私の元へ届いています。南無阿弥陀仏と称えれば、南無阿弥陀仏と聞こえてくるでしょう。その南無阿弥陀仏の六字に込められている阿弥陀さまのお心を正しくお聞かせ頂くのが重要です。それが聴聞であり、他力の信心なのです。

本願の念仏は、称えて我が功徳とし、その功徳によって浄土へ往生しようというような、私から阿弥陀仏へ回向するものではありません。いずれの行も及び難い身であり、常に煩悩に狂って迷いの世界を出ることのできぬ私達に、「これで助かってくれよ」と阿弥陀仏の方より与えられているのが本願の念仏です。それは

我にまかせよ、必ず救う
助けるぞ
必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい


という阿弥陀さまの方からの招喚のお呼び声であると示されたのが親鸞聖人でした。私達はただ、この如来のみ言葉を仰せの通りに受け容れて、念仏し、浄土に生まれさせて頂くと思い取らせて頂くのみです。

このように念仏、南無阿弥陀仏の六字のこころを正しく聞き受けることがすなわち他力の信心です。それゆえ御正忌の御文章には、

他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。

と言われた後で南無阿弥陀仏の六字について懇ろに教えられています。「南無」には、もろもろの雑行を捨てて、一心一向に阿弥陀仏におまかせする信心のいわれが、「阿弥陀仏」には、そのようにはからいなく弥陀をたのむ衆生を造作も無く助けるという法のいわれがあるというのです。

親鸞会の論説では、勿論このような六字のこころについて一切触れていません。筆者が六字のこころに全くもって昏いからです。これで信心決定だとか、自然法爾の念仏を称える身になるだとか言っているのですから失笑すらおきない、まことに哀れなものです。


なお、「自然法爾」ということは既にこの記事でツッコんでますので参照して下さい。会員の皆さんが早く親鸞会の邪義に気付いて脱会し、本願を信じ念仏を申されることを願っています。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『WikiArc』トーク:念仏
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No title

>他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。

この蓮如上人のお言葉、何となく有り難いですね。
親鸞会にいた頃は、このお言葉がすんなり読めませんでした。
変な理屈を捏ねていると読めません。
自分に差し向けられ与えられた名のりであると気付くだけですけどね。

Re: 名無し様

> 自分に差し向けられ与えられた名のりであると気付くだけですけどね。

その通りです。しかし親鸞会教義に毒されていたらそう言われてもサッパリ分からんでしょうね。

何はともあれ、信心といっても六字の他には無いことを示された有難いお言葉です。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

三重の念仏

ども、林遊@なんまんだぶです。

『用管窺天記』で使った「万行随一」、「万行超過」の語の出拠をUPしたのでリンクしておきます。ご参考までに。

「トーク:念仏」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E5%BF%B5%E4%BB%8F

そもそも、なんまんだぶには自力も他力も無いのですが、機の方で自力にしたり他力にしてしまうのでしょう。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

リンクありがとうございます。記事にも【参照】としてリンク貼らせて頂きました。

少なくとも明教院僧鎔師の時代から既に「万行随一の念仏」という名称は使われていたことが分かりました。蓮如上人までの聖教には私が調べた限りでは見られませんので、およそ1500~1700年位の間に真宗で使われ始めたのかなという考えに至りました。また、トークの中で梯和上は第二十願位の念仏を語る上で「万行勝過」という名称を使われていますね。

林遊さんが称えようが、淳心房が称えようが、我が娘たちが称えようが、その他何人が称えようがなんまんだぶはなんまんだぶ。称えられるなんまんだぶに自力も他力もありません。称える人の心に自力あり他力ありというわけですね。昔(今も?)他人の念仏を批評して「あれは自力の念仏」「あれは他力の念仏」なんかと言っている人があったそうですが、そういう発言は驕慢の極みではないかと思います。お前阿弥陀仏かよ(苦笑)

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

万行随一

ども、林遊@なんまんだぶです。

万行随一の念仏という用語は、 良忠((1199-1287))の『選択伝弘決疑鈔』にもあります。

選擇本願念佛集

問此之題額其意如何
答傳云於斯題中且有三義
終成一意一者念佛二者本願念佛三者選擇本願念佛也
初言念佛者萬行隨一念佛也
是當諸師所立念佛之義未分別正雜助正故
次言本願念佛者於萬行中分別正雜於正行中細判助正其正
業者稱名念佛順彌陀本願故故止雜行專行念佛是當今家所立念佛之義
http://www.jozensearch.jp/pc/zensho/detail/volume/7/page/189

「下手な読下し」
選擇本願念佛集

問ふ、この題額その意いかん。
答ふ、伝に云く、この題の中においてしばらく三義あり。
終(つい)に一意となる。一とは念仏、二には本願念仏、三には選択本願念仏なり。
初めに念仏といふは万行随一の念仏なり。
これまさに諸師所立の念仏の義なり、いまだ正雑・助正を分別せざるが故なり。
次に本願念仏といふは、万行の中において正・雑を分別し正行の中において助正を細判す。その正業は称名念仏なり。弥陀の本願に順ずるが故に。故に雑行をとどめて専ら念仏を行ず。これまさに今家所立の念仏に義に当たれり。(以下メンドクサイので略)

要するに、ここでの「万行随一の念仏」とは、聖道門に於ける観念の念仏を指しているのでしょう。

なお『口伝鈔』p.888には、

 聖人のたまはく、「念仏は唐土(中国)の念仏か、日本の念仏か」と。修行者しばらく停滞す。しかれどもきと案じて「唐土の念仏を求むるなり」と[云々]。聖人のたまはく、「さては善導和尚の御弟子にこそあるなれ」と。そのとき修行者、ふところよりつま硯をとり出して二字を書きてささぐ。鎮西の聖光坊これなり。

という逸話がありますが、これは『法然上人行状絵図』にある一段にある「三重の念仏」のエピソードを覚如上人は御存じだったからかもです。
「三重の念仏」
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E9%87%8D%E3%81%AE%E5%BF%B5%E4%BB%8F

高森親鸞会では、用語の歴史的背景を説明せずに、安易に宗学用語を使うので会員は頭がぐちゃぐちゃになるのかもです。知らんけど。
宗学用語を使う時に、その言葉の出拠と言葉の使われてきた歴史を学ぶと、安心して言葉が使えます。で、林遊は自分の学びの現場をネットで晒しているのですが、これはこれで面白いです。ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ ←これが最強ですね

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 万行随一の念仏という用語は、 良忠((1199-1287))の『選択伝弘決疑鈔』にもあります。

お調べ頂きありがとうございます。良忠上人までは調べるに至りませんでした。いやはや、さすが林遊さんです。

親鸞会教義はご存知のようにパクリと創作の教説ですから、教えられてもいないことをさも親鸞聖人や蓮如上人がそう教えたかのように話します。少し前の「法の鏡」といい、今回のことといい、誰よりも林遊さんご自身がよく知ってらっしゃる通りで枚挙にいとまがありません。こういうことをきっかけに会員の方も、退会したばかりの方も、親鸞会教義を厳しく検証して頂ければと思います。

いつもありがとうございます。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

No title

林遊さんありがとうございました。
知りたい内容でした。そのような歴史や議論があったのですね。
親鸞会にとって念仏は単なるオマケ程度の認識で会員に教えているので、念仏について深く考察することもなく、疑問にも思っていなかったのでしたが、そこから抜け出てみれば、
なぜ称名念仏一行なのか?ここが一番の眼目でした。
ありがとうございました。
なむあみだぶつ なむあみだぶつ

名号論

ども、林遊@なんまんだぶです。

チュウビさん。

高森親鸞会は、宗教を使った自己啓発セミナーみたいなものですね。
いわゆる自己実現といふ餌を使って大衆を引き付けるのですが、若い頃はコレに嵌りやすいので要注意です。
もっとも、若い頃にこの自己実現といふ病に嵌らないのは人生に対する情熱が足りない輩です。しかして、30~40歳をこえてもコレに嵌っている者は頭脳が足りないのだと思っていたりします。

九條 武子女史は、

 なにをもて なぐさめやらん かの日より
  胸のいとしご おとろえゆきぬ

と、いふ句を作られたそうですが、人と交わって、己と他者の利己と生きる醜さを知ったところから、なんまんだぶの称名に心が開かれるかもです。そういふ意味では、御開山の示された浄土真宗は大人の宗教でした。
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2011/08/12/%e5%a4%a7%e4%ba%ba%e3%81%ae%e5%ae%97%e6%95%99/

浄土真宗では、肝心な「名号論」に対する考察が少ないのですが、20代の頃に読んだ、鈴木大拙師の「名号論」は、少しく禅仏教の匂いがするのですが、真如と凡夫の媒介という意味では、面白かったものです。
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%B3%BB%E6%80%9D%E6%83%B3%E8%AB%96%E2%94%80%E5%90%8D%E5%8F%B7%E8%AB%96

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

No title

林遊さんありがとうございました。
「大人の宗教」なるほど納得です。

「浄土系思想論」さすが鈴木大拙先生です。が、難しいので繰り返し読みたいと思います。ありがとうございました。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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