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「ふかく」=「他力」、「あさく」=「自力」

いや~、日本語って、非常に難しいですね。色々な国の言葉が混じり合っているだけでなく、親鸞聖人や蓮如上人の時代のいわゆる古文漢文と我々が日常用いている現代文とでは同じ言葉でも意味が違うのですから。

特にセンター試験で古文漢文30点だった自分には、聖典と向き合うのは厳しい厳しい。先哲の解説をもとに、読み誤りのないように注意して拝読したいものです。


さて、昔と今とで意味が違う用語の中でも、「あさく」「ふかく」とか、「たすけたまへ」「たのむ」等は誤解が多いのではなかろうかと感じます。

まず前者の「あさく」「ふかく」ですが、漢字で当てれば「」「」です。これは現代の感覚では相対の世界での浅い、深いという意味に捉えがちです。井戸が浅い、深いとか、信じる度合いが浅い、深いとか。

しかしそうではなく、信心について「あさく」「」と言ったら自力を、「ふかく」「」と言ったら他力を表します。

これについては二種深信がまさにそうです。

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。
「散善義」

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。『往生礼讃』

決定して深く・・・と信ず」「信知」とありますが、これは現代の感覚で深く信じ込むこととは違います。『正信偈』にも源信讃

専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり。

とあります。専修になり極まった念仏の行者の信心は他力なるが故にふかく、雑行雑修を捨てやらぬ機の信心は自力なるが故にあさいということです。

念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。『末灯鈔』12通

のお言葉など典型例です。「ふかく信じて」とは他力の信心、真実の信心であり、自力で信じ込もう信じ込もうとすることとは全く異なります。本願力にまかせたてまつる信心は他力なるが故に「ふかく」と表され、逆にどんなに強く深く信じ込んでいようとそれが自力であれば「あさく」の範疇になります。

一心一向に阿弥陀如来たすけたまへとふかく心に疑なく信じて5帖目4通

等の『御文章』のお言葉もそうです。「ふかく心に疑なく信じて」とあるから、現代の感覚では疑わないように深く強く信じ込むことのように思いがちですが、どんなにそうだそうだと強く深く信じ込もうとそれは自力の信心の範疇であり、「ふかく心に疑なく信じて」という他力の信心、真実の信心ではありません。5帖目4通では後に

仏にまかせまゐらせて

とあるように、これは自力を離れて阿弥陀仏におまかせした他力の信心を意味しています。久しく聖典を拝読している方には敢えて尋ねたり注意したりする必要も無い常識ですが、自力雑行の捨てやらぬ親鸞会の会員や退会して間もない方、それほど聖典を勉強していない方は知らないことかもしれません。


『御文章』ではこの「ふかく」に加えて「たすけたまへ」「たのむ」「たすけたまへとふかくたのみ」等とあり、現代の感覚では更に誤解しやすくなっています。こちらについては記事を改めてみてみたいと思います。
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No title

揚げ足を取るつもりはありませんが現代語と古語の違いではなく一般的表現と専門用語の違いかと思われます。
ついでに言いますと「たのむ」は現代語でも普通に「期待する、あてにする、ゆだねる」と言う意味で使うことはあります。
弥陀たのむは「依頼する、お願いする」意味ではないとしつこく言う人もいますが(笑)そんなこと間違えませんよね普通。まあ三業惑乱に陥らないようにとの配慮ですかね。

補足

私も古語は得意ではありませんので現代語の場合ですが、
弥陀にお願いする・依頼する場合は「弥陀にたのむ」
弥陀にまかせる場合は「弥陀をたのむ」
となって表記が明らかに違うと思います。

Re: 名無し様

> 現代語と古語の違いではなく一般的表現と専門用語の違いかと思われます。

⇒そうですね。古文をマスターしていても、仏教、真宗の専門用語を知らないとやはり誤解するでしょうね。


> 弥陀たのむは「依頼する、お願いする」意味ではないとしつこく言う人もいますが(笑)

⇒某会の会長さんや会員の皆さんがそうですね(笑) まぁでもそのように説明すること自体は悪いことではないと思います。問題はその後、どのように弥陀をたのむのかについて、雑行もどきの組織拡大活動を勧めてくるところかなと。

「たのむ」だけならまだいいのですが、「たのむ」に「たすけたまへ」などが絡んでくるとややこしいと思ったので、次に書こうと準備しています。名無しさんのような方には今更目新しくもない常識中の常識と存じます。「この説明は違う」「ここはこう改めたらよい」といった箇所がありましたらご指摘下さい。

言葉の奴隷

ども、林遊@なんまんだぶです。

古文はややこしいですね。林遊は古文の語句分解も出来ないので、『和語灯録』や『西方指南抄』を読んでいて文脈の意味が取れずに悩んでいたのですが、声に出して読むことで、ああこういう事かと意味がとれることがありました。で、自分のメモ用に脚注を付けたりして遊んでいます。
ある意味では、何が言いたいのかということを基底にすれば、意自ずから通ずかもです。
林遊は言葉を信じていないので、言葉に固執することを「言葉の奴隷」と揶揄してりたりします。高森親鸞会の方は異常に言葉に執着するのですが、その言葉を離した時に、なんまんだぶ なんまんだぶと称えることが出来るのかもです。知らんけど。
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2011/05/31/%e6%94%be%e4%b8%8b%e8%91%97/

ともあれ、ぐちゃぐちゃと学んだ言葉捨てる時、法然聖人や御開山が見ておられた世界がわかるのかもです。
『大乗起信論』には、

 一切の言説は仮名にして実なく、但だ妄念に随うのみにして、不可得なるを以つての故に、真如と言うも亦た相あることなし。謂わく、言説の極みは言に因つて言を遣るなり。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%83%BD%E8%AA%AC%E3%81%AE%E2%80%A6%E7%9F%A5%E3%82%8B%E3%82%92

といいますが、言葉によって言葉を離れた世界が浄土なのでしょうや。まだ往ったことがないから知らんけど(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたいこっちゃ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> ある意味では、何が言いたいのかということを基底にすれば、意自ずから通ずかもです。
> 林遊は言葉を信じていないので、言葉に固執することを「言葉の奴隷」と揶揄してりたりします。

⇒四依の文で言えば「義に依りて語に依らざるべし」でしょうか。


> 高森親鸞会の方は異常に言葉に執着するのですが、

⇒そうですね。ただあまりに間違ったことを教えられ、それを長年本物と信じ込んできたので、ある意味仕方ない面もあるかと思います。


> その言葉を離した時に、なんまんだぶ なんまんだぶと称えることが出来るのかもです。

⇒安心の一義に関してはそうであろうと思います。ぶっちゃけ、「ごちゃごちゃ言ってないでなんまんだぶせい、なんまんだぶして、なんまんだぶに往生をおまかせいたせ」と思いますです(笑)

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

彼土得証/此土入聖

ども、林遊@なんまんだぶです。

>⇒四依の文で言えば「義に依りて語に依らざるべし」でしょうか。

四依には人四依と法四依といふことが云われますね。
「四依」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%9B%E4%BE%9D

で、言葉を信じないという意味は、『中論』の「滅諸戲論」の戯論寂滅からです。
もっとも空と言われても何のこっちゃですけど、浄土へ往生すれば解るのでしょう(笑
「中道」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%AD%E9%81%93

浄土教は浄土に於いてさとりの完成を目指す仏法なのですが、自力で浄土往生を目指すなら、まるで歩いて小惑星「イトカワ」 へ往こうとするようなものです。
「信心正因」とは、浄土の主宰者である阿弥陀仏の本願の教説に随順し、因位の阿弥陀仏の菩提心を信知することなのでした。
「彼土得証/此土入聖」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BD%BC%E5%9C%9F%E5%BE%97%E8%A8%BC/%E6%AD%A4%E5%9C%9F%E5%85%A5%E8%81%96

そのような意味(釈尊の仏教思想を超越している)では、聖道門仏教からは理解され難いのですが、仏果を得ることでは同じやないけ、と、在野の門徒の林遊は云ふのでした。
その意を、法然聖人は「成仏、難しといえども往生は得易きなり。道綽・善導の意に依らば、仏の願力の仰せを強縁となす、ゆえに凡夫浄土に生まると云々」と仰せでした。
「五 大原問答について」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%86%8D%E9%86%90%E6%9C%AC%E6%B3%95%E7%84%B6%E4%B8%8A%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E8%A8%98#.E4.BA.94.E3.80.80.E5.A4.A7.E5.8E.9F.E5.95.8F.E7.AD.94.E3.81.AB.E3.81.A4.E3.81.84.E3.81.A6

ともあれ、法然聖人は、浄土教として全く新しい仏教を開創し「浄土宗」といふ仏教を開かれたのであり、御開山はその真意を追求された方なのでした。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

なにやら難しい話になってきましたが、仰せの如く「言葉によって言葉を離れた世界が浄土」であり、詳しくは急ぎ参りて知るべしですね。

法然聖人はまさに日本仏教に革命をもたらした先駆者でした。その真意が誤解され、抹殺されようとしていたところを、親鸞聖人が真実の仏法だと明らかにして下された。私は『教行証文類』は法然・親鸞両聖人の合作だと思っております。拝読の度に両聖人の御恩徳を偲び、選択本願の念仏一行を一心に称えよとの仰せを頂いています。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

「信の一念」

ども、林遊@なんまんだぶです。

>詳しくは急ぎ参りて知るべしですね。

浄土教は、こういふ世界観を持てるのがありがたいですね。急いで往生したいとも思わないけど、生きることに意味があるように、死ぬることにも意義があると、死の意味を往生と説いてきたのが浄土教でした。
「いそぎまいりてみるべし」でした。

「禅勝房との十一箇条問答」
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E8%A5%BF%E6%96%B9%E6%8C%87%E5%8D%97%E6%8A%84/%E4%B8%8B%E6%9C%AC#P--214

法然聖人は、AですかBですか?という門弟の問いに、Xですと意表をつく答えをされるのですが、さすが天才ですね。法然聖人は恐ろしい方です。
その法然聖人が、40歳も年齢が違う33歳の若造の御開山に『選択本願念仏集』を付属されたことは、御開山の才能を法然聖人が見抜かれたからでしょう。
その師恩に報いるために著されたのが『教行証文類』なのですが、Aさんのように重箱の隅をつついて、念仏往生か信心往生かと門徒を迷わせるのでした。
ともあれ、御開山の思想を正しく把握するためには、法然聖人に学ぶことが大切なのですが「信心正因 称名報恩」とは覚如上人の、称名の自力性を否定する論理であって、ある意味では称名行を「行者のこころもち」である衆生の相念に堕さしめる危険性もあるのだと思っていたりします。
三角錐を真上から見れば「円」であり、真横から見れば三角形なのですが、判りたい病に侵された信心至上主義者には、これが解らんのです。
はてさて、御開山が示された「信一念の転釈」である「信心」が信心至上主義者に発っているにだろうかと思ふ。どうでもいいけど。
「一念転釈」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%80%E5%BF%B5%E8%BB%A2%E9%87%88

浄土真宗の「信心」をなめんなよと、なんまんだぶを称えない信心至上主義者に言いたい(笑

ともあれ、本願成就文に立ってご法義を論ずる者は、なんまんだぶの一行が私のものになったことを「信の一念」といふのですが、これがワカランのでした。
「信の一念」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BF%A1%E3%81%AE%E4%B8%80%E5%BF%B5

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

No title

お世話なっております。
急いで浄土に参って見てご覧なさい。と言われる法然聖人の言葉を、親鸞聖人は確かに師から教わったのだと、西方極楽浄土に参る指南を書き残されたのですね。
なぜ、法然聖人と親鸞聖人の教えが違うように聞こえる教え方をする人がいるのでしょう。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。

ども、林遊@なんまんだぶです。

チュウビさん。

『西方指南抄』は真宗では法然聖人の言行録ということで、また浄土宗側では親鸞聖人の著述であるということで、あまり研究されて来なかったのでした。
真宗側では、浄土宗(宗派名)=法然聖人とみる見解が強かった為に、浄土宗との差別化を図るために意図的に法然聖人と御開山の差異を強調してきたのでした。その弊害で「違いがわかる男」というCMのフレーズ(古い 笑)ではないのですが、法然聖人と御開山の違いを強調することが真宗の学問だと思われてきたという経緯があります。
まあ、現代でも学術論文を書くときには独創性が重要だそうですが、Aさんも論文を書くそうですが、その轍に嵌ったかもです。
ちなみに御開山には後年できた宗派意識は無いですから、往生浄土の宗義といふ意味で「浄土宗」と呼ばれたり、浄土真宗を開かれたのは法然聖人だとされています。

智慧光のちからより
 本師源空あらはれて
 浄土真宗をひらきつつ
 選択本願のべたまふ

たしかに御開山には、浄土系思想の上で独自の発揮(お手柄)がありますが、それは法然聖人の開かれた「選択本願」に基づく「念仏往生」の法義への論難に対して法然聖人の思想の真髄を顕わすのだという矜持(自信や誇りを持って)、『教行証文類』を著されたのでした。「信心正因」説は、願作仏心 度衆生心といふ「菩提心正因」説でもあるのですが、まるで金魚掬いのように阿弥陀仏の大悲を恩寵だけで理解する観念論の信心至上主義者は、これが判らんのです。なんまんだぶという仏名を称する実践を無視した、信心に偏頗した考察が「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という論になるのでした。
「選択」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E9%81%B8%E6%8A%9E

御開山は、「略選択」といわれる三選の文を引文されて、

称名必得生(名を称えるは必ず生ずることを得る)、依仏本願故(仏の本願によるが故に)、と、されておられましたが、「称名必得生」は《行》であり、「依仏本願故」は《信》なのでした。実に単純明快な「行信」のご法義なのですが、自力の信心の「智愚の毒」に迷ふ人にはこれが解らんのです。

いま、死なんとする3歳の幼児に、「信心正因」と言って何になるのか、惚けたばあちゃんに「信心正因」と示して何になるのであろう。
『観経』には〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉とあるのだが、意業である信心を用いないということは、衆生の側の発心ではなく、本願力回向の口業の称える〈なんまんだぶ〉で往生したといふことであった。
そんなこんなで「称名報恩」説は、受取り方を間違えると、愚直になんまんだぶを称えている林遊や、我々の先輩が称えてきた南無阿弥陀仏は、信心のオマケに成り下がる危険性があるのであろう。

 つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。p.141

ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

No title

お世話さまです。いつもありがとうございます。
「いま、死なんとする3歳の幼児に、「信心正因」と言って何になるのか、惚けたばあちゃんに「信心正因」と示して何になるのであろう。」

実に痛快明快な回答でした。私の疑問もそこにありました。
昔こちらに書いたかもしれませんが、「まんまんあ」(なむあみだぶつの幼児語)と疑問なくお念仏する息子や娘は、もし今死んで行くならば、疑問のあるオレより容易くお浄土に行くのでなかろうか…
 理屈が分からぬ幼子に信心正因がわかるはずがない。伝えられるのはお念仏申すこと。阿弥陀さまが浄土におられること。幼子とボケてしまった人は助けない本願じゃないはずと思っておりました。
ありがとうございました。

 質問をします。宜しくお願いします。信前行後というのをどう思えばよいのか? です。
 私としては、 信前もお念仏だし、信後もお念仏を益々喜んでする。はなっから教える側は、疑いなくお念仏申せと虎の説法する。受けとる私は疑心ある時は、よくわからないけど時々念仏ぐらいかな、疑心がなくなれば一心に念仏相続に勤しむ姿。
そう思うのですが、なぜ信前行後と言ってお念仏を軽くしているのでしょうか?元親鸞会員は、元々念仏ないから信心一つとお念仏軽くみてるので益々信心決定しなければならない!!!と力みます。力んでました。
宜しくお願いします。
なむあみだぶつなむあみだぶつ




 

「信前行後」

ども、林遊@なんまんだぶです。

チュウビさん。

「信前行後」という表現は、わたくし(機)の上に往生の業因(果を得べき行徳)が成立する《時》を論ずるときに使う名目(教義上の術語)です。
こういふ教義上の名目は、しっかりした師匠に学ぶべきであって安易に使うと訳が判らなくなります。要するに何を言いたいのかといふことを、正確に理解していないと言葉に迷います。(経験者です 笑)
で、「信前行後」とは、信と行(法)の関係についての考察なのですが、梯和上の講義の一端をUPしておきます。

>>引用開始
時間を顕わす時には信で言う。行は法です、行法です。所修の行法なのですから時間はありません。その所修の行法が衆生の上に実践されていく時には時間が出てくるのです。何故かというと我々が時間的存在だからです。だから時間を語る時には必ず信で語るのです。念仏の所では時間は語りません。だから「時節の久近を問わず」正定業というのは時節の久近を問わない。「時節の久近を問わない、念念に捨てざるをこれを正定の業と名づく」(p.221)と善導大師はおっしゃった。時間を語るのは必ず信です。「信心のさだまるとき、往生またさだまるなり」(p.735)これは信一念と行一念でもそうです。行一念は絶対に時は言いません。行の一念、つまり称名の一念という時には時は言わないのです。あれは「称名の偏数について選択易行の至極を顕開す」(p.187)というのが行の一念であって、決して時は言いません。時を言うのは信です。「信楽開発の時剋の極促を顕す」(p.256)或いは「信心をうるときのきわまりをあらわす」(p.678)とおっしゃっています。時という概念は信の上で語る概念であって、称名の上で時という概念は語らないのです。これが特長なのです。
>>引用終了

念仏(なんまんだぶ)は、名号法といふ時間を超越した行法なのですが、これが時間的存在である、わたくしのものとなった時間の前後関係を「信前行後」といふのでした。機の上に法が成就したコトをいふ概念なのでした。

『歎異抄:第1条では、

 一 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり
と信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

といわれていて「信前行後」の表現になっています。なお改行を「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり」でしていますが、ここまでが信心の内容だからです。(利井和上から伝承)

法を論ずるときと機を論ずるときには、論理構造が違うのですがこれをぐちゃぐちゃにするとワケが分からなくなります。
ちなみに『教行証文類』は、教・行・信・証と「行前信後」になっています。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

コメント返信

林遊@なんまんだぶ様
チュウビ様

コメントありがとうございます。チュウビさん、私も聞きたい内容でした。「行文類」の始めには

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。

とあり、大行と大信は共に如来より回向せられる行信で、決して離れたものではありませんでした。それは「信文類」

もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。

や「信行一念章」

信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。

のお言葉を見ても明らかでしょう。他、真実の行信、選択本願の行信、この信行によりて等、行と信を一体に教えられている御文は多数存在します。それをどっちが先でどっちが後だなどという議論は、本来は「弥陀の御ちかひ」、如来選択の願心になまじいの凡夫の計らいを差し挟む、本願に対する不敬なんじゃないかと考えます。


親鸞聖人の上では行と信のどっちが先でどっちが後だなどという問題意識は見られません。信前行後をやかましく言うのは、後に多く発生した無帰命安心、十劫安心、称名正因などといった様々な異義に対して、信心を有無を明らかにし、信心決定を強調するためであると思われます。

ちなみに私は、称名正因に関しては

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。(尊号真像銘文)

とありますから必ずしも間違いであるとは言えないと考えます。本願を深く信じていないのが問題ですね。

本願のお心を聞いていない、あるいは無視、あるいは疑い、あるいは信じられずに、念仏を我が功徳と思っている自力疑心が問題なわけで、念仏自体は何も悪いことはありません。かつて大厳和上を疑って原口和上を遣わせた本山は何をやっとるんじゃと思いますです(笑) まぁ、そのおかげで大厳和上も原口和上も尊い法語を遺して下さいましたのでそこは有難いですが・・・

こう発言すると色々ヤジが来るかな。まぁいいか。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

No title

林遊さん、淳心房さんありがとうございました。
某所で、能称正因の邪義だ、信前行後だ、あなた方は異安心の疑いがある。とコウバイ先生を持ち出して論文を読めと言われる方の発言を見て、その方が意味を本当にわかられて批判してるのか?言葉の使い方が合ってないのでは?と思いましたので質問させていただきました。
 よく理解できました。私の上に信心決定するという時を示したのですね。信心に対して疑心ですから、疑心が無くなった時をあらわしているのですね。
 信前信後の称名を否定している根拠にならないことがわかりました。
 原口針水和上の話が出ましたが、原口和上にお慕いしお会いするために何度も鳥取の山奥から入京された源佐さんは、たとえシイラの念仏でも、お慈悲で実を入れてくださると答えたり、お念仏でるかえと愚直なまでに周りの人にお念仏勧めておられたそうですが、大巌和上と通じるものがあります。原口針水和上の返答の詩は出しても大巌和上の最初の詩を出さない人は、何か目を塞いているのでしょうかねと思うのです。
 ともあれ某所の着地点がどうなるか気になるのですけど、入信過程はどうでも今お念仏申して相続されてるなら共に喜びたいですね。
なまんだぶつ、なまんだぶつ、なまんだぶつ

Re: チュウビ様

某所のことは少し遅れて知りました。

論点がA先生の説からRCさんの領解に移行し、更にRCさんの信心そのものについて移行と、移行を繰り返して歯止めがかからず(かからないようにしていた人達のためでしょうね)、今更私がアレコレ書き込みしたところで元に戻すことはできないだろう、逆に一部の方々にとっては火に油だろうと思って書き込みはやめておきました。それに毎日毎時間見ているわけでもないので・・・

念仏往生さんが言いたいことは、「RCさんの領解、理解に間違った部分があるからそこを改めよ」ということです。RCさんの全てが間違いだなんて誰も言っていません。それがまるで信心も含めて領解を全否定しているかのように一部の方々には映るのでしょう。あの高森会長でさえ100が100、1000が1000全て間違いとは言えないのに、どうして全て間違いだと言えるでしょうか。

問題になっているのは大きく二つ。頑なまでにA先生絶対ということと、親鸞聖人の御消息にある念仏往生についての領解です。A先生が念仏往生と平生業成は違うことのように説き、その説を絶対視していれば念仏往生についての領解がおかしなものになってくるのは当然でしょう。

それを正さんとしているのを、擁護に入った方々が更にややこしくしているのかなと思います。一見、念仏往生さんのご意見は手厳しいものがありますが(自分も受けたら相当堪えるなぁと思いますが)、それ以前のやり取りをご覧になればお分かりのように、RCさんが絶対に主張を曲げない、間違いを認めないからです。

信心を獲ても、間違いや誤解は大なり小なり誰でもあります。てか間違いのない人って、それ人じゃありません。仏です(笑) 間違っていたり誤解していたりしたら、その都度正していけばいいんじゃないでしょうか。その正すものさしがお聖教ですね。お聖教に照らして、理解が正しいか否かを判断し、間違っていたら正してゆく。しかしお聖教に向き合わないのでは正しようがありません。

かつて本寂上人は庄松に「よう意見してくれた」と言ったと聞いていますが、そのような姿勢が大事かと思います。
http://www2.synapse.ne.jp/syouhukuji/myou5.htm

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

「三法門」と「四法門」

ども、林遊@なんまんだぶです。

RCさんとあることから「あさ川進の、宗教と私」といふブログですね。
それにしてもムゴイことになってますね。
発端は、

 RCさんの「お念仏を称えよ。お念仏称えてお浄土へ参ると深く信じよ、と言われて自力を捨てる事ができますか?」の発言かな?

こういう発言は、御開山が仰った、

 大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(p.141)

と、いふ、口称のなんまんだぶが「破闇満願」の「大行」であるという事に心が及ばなかったのかもです。
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E7%A7%B0%E5%90%8D%E7%A0%B4%E6%BA%80%E3%81%AE%E9%87%88%E7%BE%A9

また、自力云々の表現では、「お念仏称えてお浄土へ参ると深く信じよ」といふことが阿弥陀仏の仰せを領解した他力を信じたことであって、念仏といふ「行」と「深く信」ずる「信」を具しているのであって「捨自帰他」が成立しているのですが、信心正因の語をドグマ化して信心に固執すると、これが解らんのです。
ようするに「三法門」と「四法門」といふ概念を正確に知らないからで、浅川さんのブログの激論のように念仏VS信心対決になるもかもです。ある意味での投稿者の「承認欲求」ゴッコなのですが、匿名のハンドルネームのやり取りですからついついエスカレートするのでしょうや。
で、こういうことを書き込むと、上から目線(芝居の舞台用語)と突っ込まれそうですが、どうでもいいか(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

発端に関しても、なぜそのような領解になったのかも、御推察の通りと思います。

現在は念仏往生についての異なった領解を正さんとする側と、RCさんを擁護する側に分かれてのコメントの応酬となっています。双方が水と火の如く争って落しどころもなく、しばらく止めることは難しそうです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

No title

皆さん知っておられたんですね。

何だかなあ。

阿弥陀様が泣いておられる。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

Re: とくよしみね様

私はコメントが百以上ついていたらへんで気づきました。しかし、既に述べた理由の通りで議論には参加していません。

随分な泥仕合ですね。互いの利害と正義のため、譲れない諍いをしているようです。まさに見濁という感じが致します。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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