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「たのむ」=「たすけたまへ」=「たすけたまへとたのむ」=たのみにする、おまかせする、信順する

前回の続きです。

『御文章』は浄土真宗の門徒に大変親しまれている、「凡夫往生の鏡」とも言われる大事な聖典です。かな交じりで漢文を読み解くような難しさはなく、平易な文章で浄土真宗の安心の一義を教えられています。浄土真宗から『御文章』を取ったら何も残らないと言った人もある位、特に本願寺派、真宗大谷派にとっては重要な書物です。

ただ、今から五百年前に書かれたものであり、特に安心を表す重要な言葉が現代の我々の感覚とは違う用い方をされています。誰でも読める平易な文章である反面、安心の一義をよくわきまえた方から教えて頂かないと非常に誤解が多かろうと思われます。

その重要な言葉が、タイトルでも示した「たのむ」とか「たすけたまへ」、あるいは「たすけたまへとたのむ」等です。これが、普段我々が使う言葉の意味とは真逆の意味で用いられているので注意しなければならんのです。

普段我々が「たのむ」といったら「用事をたのむ」「たのむから許してくれ」というように「お願いする」「請う」という意味で用いています。昔は「たのむ」に「お願いする」「請う」という意味は無かったそうですが、いつの間にやらそのような意味が追加され、それが今では主流になってしまったようです。

なお、名無しさんのコメントによれば現代語でも普通に「期待する、あてにする、ゆだねる」という意味で使うことはあるそうですが、私の周囲では中々お耳にかかりません。地域性や年代の違いでしょうか。

このような、「お願いする」「請う」といったいわゆる祈願請求の意で「たのむ」の語を捉えると、永久に浄土真宗の信心とはかけ離れることになるので注意しなければなりません。ここをお読みの皆様にはそのような心配は無用かとは思いますが、一応述べさせて頂きます。蓮如上人が使われる「弥陀をたのむ」とは、われらがごとき末代不善の凡夫を「我ひとり助けん」と仰せの本願を聞いて、その本願の仰せに我がなまじいの計らいや疑いをまじえずに

たのみにする、おまかせする、信順する

といった意味であり、

どうか阿弥陀さま一つ私の後生何とか助けて下さい、お願いします

といった、凡夫の側から救いを請い求める意味はありません。

阿弥陀仏の「我ひとり助けん」という願いは既に南無阿弥陀仏と成就して、今現に我々に届いています。我々が「助かりたい」と願うより先に既に届いている「助けるぞ」の先手の法に対して計らいをまじえずに受け容れ、おまかせし、仰せの通りに順うというのが「弥陀をたのむ」ということです。


さて、「たのむ」だけならまだよいのですが、問題は「たすけたまへ」が絡んできた場合です。『御文章』にはしばしば「たすけたまへとたのむ」とあります。現代の感覚で言ったら間違いなく「お助け下さいとお願いする」という意味になってしまいます。特に

ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば・・・2帖目13通

等を拝読した時です。こうした御文の誤解から三業帰命等の異説が発生したのだろうかとも思われます。

どうやら、蓮如上人はゆかりのあった浄土宗(一条流)が用いていた「たすけたまへ」の語を、語はそのままで、意味を許諾(こだく)という意味で転用されたらしいです。許諾とは

他人の要求や希望などを聞き入れて、それを許すこと。承諾すること。

というほどの意味ですが、ここでは阿弥陀仏の願いを聞き入れて、仰せの通りに受け容れることです。

先ほども書いた通り、私達が「後生助かりたい」と思う以前に、阿弥陀仏は既に私達の「後生助ける」と願いを発し、今やその願成就して、南無阿弥陀仏の念仏と成って届いて下さっています。南無阿弥陀仏の声は

我にまかせよ、必ず浄土に迎えて仏にする

という仏勅であり、その仏勅をそのまま聞き入れて、それでは仰せの通り「たすけたまへ」ということです。ですから、「たのむ」と「たすけたまへ」は同義であることが分かります。またこのことから、「たすけたまへとたのむ」とは、例えば「二度と再び」というように同じ意味の語を重ねている言葉なのだということも分かります。


阿弥陀仏は衆生往生の行として称名念仏の一行を選択し、「我が名を称えよ」と与えて下さっています。念仏とは、阿弥陀仏のお願いなんですね。「お願いだから我が名を称えて浄土に生まれてきておくれ」というのが念仏に込められた阿弥陀さまのお心です。

だからお念仏申すとは、阿弥陀さまのお心を聞いて、その通りに順うことを言うのです。念仏を自分の功徳だと思って称え、それを当てにして往生しようというのは、阿弥陀さまのお心、本願のお心を聞いていないのです。

蓮如上人の当時は浄土の教えは相当広まっていて、浄土宗や時宗が大変盛んでした。浄土を願ってお念仏を申される方々が相当あったんでしょう。しかし、その信心は必ずしも正しくなかったのです。ただ称えていればいいとか、念仏はお助け下さい阿弥陀様という凡夫の祈りだと思っている人が多かったわけです。そういう人々に、念仏のこころ、念仏の信心を「たのむ」「たすけたまへ」という言葉で明らかにされ、浄土真宗を再興されたのが蓮如上人でした。それで『御一代記聞書』には

一 聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせられ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。

と言われています。


なお、一条流の「たすけたまへ」の意味とか、蓮如上人は最初は「たすけたまへ」を否定的な意味で使われていたことについては、長くなりますのでここでは割愛させて頂きます。



【参照】
安心論題/タノム・タスケタマヘ
『本願力』梯實圓和上  『攻めの蓮如上人』
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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