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【ツッコミ】皆々信心決定あれかし(R02.01.01 顕正新聞【年頭所感】より)2

前回の続きです。

高森顕徹会長の頭では、悪人とは「人間の代名詞」であり、善人、悪人と分けて教えられていても実際は世の中には悪人しかいないようです。自分こそが悪人であり、しかもそれに恥じることもなく、それでいて周囲には「無二の善知識」「蓮如上人以来五百年に一度の善知識」等と思わせ言わしめてきた人間、更に世の人々を「どう生きるかしか知らない人達」と見下しているのですから、ある意味仕方ないのかも知れません。

では、高森会長の頭では善人とは何を指すのか、年頭所感では次のように書いています。

 では聖人の「善人」とは、どんな人をいうのであろうか。

“善を励んで助かろう”“念仏称えて救われよう”と努める人である。励めば善ができ、念仏ぐらいは称え切れると思っている人だから、「自力作善」の善人と聖人はおっしゃる。

“諸善も念仏も、いずれの行もおよばぬ悪人”と見極められて建てられた、弥陀の本願を受け入れられず、疑っている人だから、「疑心の善人」とも言われている。


いつもの高森会長の妄想です。

善人とは、仏陀の戒めを守って悪をつつしみ、善をつむことによって、自分も周囲の人々も、安らかな幸せに向かってゆくような生活をしている人のことです。勿論最高の善人は仏陀ですが、善人の中にも煩悩を断じた初地以上の聖者もあれば、まだ煩悩は断じていないがさとりを目指して廃悪修善に努める善凡夫もあります。

要は善悪因果の道理を信じ、できる限りを尽くして廃悪修善に励み、さとりを開こう、あるいは浄土に往生してそこで仏道を完成しようという人を善人というのです。その内、因果の道理を深く信じている人は上品中生の人であり、浅くでも因果の道理を信じている人は上品下生の人であると『観経』には説かれています。

私が会員だった時、信心決定のことを「深信因果」と話す講師部員もいましたが、それでは悪人が信心決定して上品の仲間入りをするということであり、悪人正機を完全否定していることになります。

また、事あるごとに親鸞会では因果の道理を説いてそれを信じるよう勧めていますが、前述したように浅くでも信じていれば上品下生の人です。そういう人は、もはや必堕無間の極悪人ではありません。いずれにしても、悪人正機を完全否定して、善人になれと教え勧めているのが親鸞会であると分かります。


ところで、上の引用文によって高森会長の中では諸善と念仏は同じ位置づけなのだなということも分かります。何ですかね、この

念仏ぐらいは称え切れる

というのは。実相の念仏とか、観相の念仏ならできないというのは分かりますが・・・。

念仏とは何か高度なものだと思っているのかも知れませんが、そうではありません。念仏は、

ただこれ男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず『選択集』難易義

と法然聖人が仰せのように、 男でも女でも、 身分の高いものでも低いものでも、 行住座臥の区別なく、 時・処やいろいろの場合を論ぜず、 これを修めるのに難しくない行です。そしてそれは、性懲りもなく煩悩を燃やし続け、仏の戒めに背いて悪を犯し、生死の迷いを離れられない我ら凡夫を哀れにみそなわして、衆生往生の行として成就され、善悪賢愚の隔てなく平等に与え施されている本願力回向の行です。

本願文では「乃至十念」と誓われていますが、善導大師はこれを「下至十声」と教えられ、南無阿弥陀仏とその御名を口に称えることだとされています。法然聖人は念声是一と言われ、念と声は一つだと明確に教えられています。親鸞聖人も『唯信鈔文意』

「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃 七一一)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

と、ただ口に十返南無阿弥陀仏と称することだと教えられています。

この愚かな悪人を救おうと平等の大悲から至って易く、それでいて最も勝れた行として念仏の一行を本願の行として阿弥陀仏が選び択られ、我々に施されている、それが本願の念仏です。いつでも、どこでも、うちの三歳の末娘でも称えられる至極の易行です。だから称えられるんです。なんまんだぶと口を動かしてみて下さい。簡単にできるでしょう。『観経』の下品下生で、臨終の悪人に勧められているのはこの口称の念仏です。

ただ、その選択の願心を聞かず、あるいは疑って、見失って、これを自分の功徳として、他の諸善万行を修するのと同じように称えて往生しようという自力心があっては報土往生は不可です。なので『歎異抄』には

自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

と、自力のこころをひるがえして阿弥陀仏の本願力にまかせたならば報土往生すると教えられています。

念仏は我々の上に現れていますが、決して我々の行いではなく、いずれの行も及び難い我々を目当てとして救おうと願い立たれた阿弥陀仏の大慈悲心の顕現なのです。念仏が「わがちからにてはげむ善」ではない、「行者のために非行・非善なり」と言われるのはそのためです。


ですから、高森会長は弥陀の本願を

“諸善も念仏も、いずれの行もおよばぬ悪人”と見極められて建てられた、弥陀の本願

なんかと表現していますが、これもデタラメであることが分かります。そして高森会長は念仏とは無関係な信心を勧め、「みなみな信心決定あれかし」の蓮如上人の言葉だけ用いて、実際は会員を信心決定させる気がないということも分かります。

本願を疑う自力の心をふり捨てて、他力の信心を獲得すれば、真実の浄土へ往生できるのである。

などと書いていても、教えが自力の心を増長させるような教えですから、それをまともに信じている会員が自力の心をふり捨てて、他力の信心を獲得できないのは当たり前の当たり前のことです。

信心獲得して真実報土の往生を遂げたければ、さっさと親鸞会を離れましょう。ただし絶対の幸福という妄想を捨て切れない人はお好きにどうぞ。



【参照】
『報徳寺』聖典セミナー 「歎異抄」第三条 ~悪人正機の伝承~
『WikiArc』念仏
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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