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自分こそが一番親鸞聖人を悲しませていることに気付かない高森顕徹会長

先日1月5日(日)は富山で高森顕徹会長の初聞法会があったそうです。演題は

「親鸞聖人の悲しみ」

でした。親鸞聖人が喜ばれる年とさせて頂くには、悲しまれたことを知ることが大切だというのです。それを

かなしきかなやこのごろの
 和国の道俗みなともに
 仏教の威儀をもととして
 天地の鬼神を尊敬す
『正像末和讃』愚禿悲歎述懐

のお言葉を通して話があったとのことでした。

説明を一通りした後、私達の禍福は鬼神がもたらすものではなく、我々の身口意の三業による善悪の行為が引き起こすものであると因果の道理を出します。その後、釈尊は、私達は身口意の三業で悪ばかり造り続けていると説き()、親鸞聖人はその姿をハッキリと照らし抜かれて

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

と述べておられ、かかる我々を救おうと阿弥陀仏は本願(設計図)を立て、大悲の願船を作られたということを話しています。そして、

・大悲の願船には迷信を破らなければ乗せて頂けない
・鬼神が禍福を与えるという迷信を破らねば、大悲の願船には乗れない


と言って、冒頭の和讃は現在の日本人について嘆かれた聖人のお言葉、悲しみであると話していたようです。


高森会長は、自分は親鸞聖人が喜ばれることをしていると思っているのかも知れませんが、実は、自分こそが一番親鸞聖人を悲しませていることに気付かない様子です。

親鸞聖人は『教行証文類』において二ヵ所、「悲しきかな」と仰っています。一箇所は「信文類」

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。

です。これは、金剛心を獲て諸仏方に真の仏弟子と讃えられる身となったにも関わらず、依然として広い海、大きな山のような煩悩にまつわられて、必ず往生すべき身に定まったことを喜ばず、日々仏のさとりに近づいていることを楽しまない己に慚愧されているお言葉です。これは親鸞会的に言えば、

絶対の幸福になったのに、煩悩のために絶対の幸福を喜ぶ心が無い

という告白です。阿弥陀仏に救われたことを「絶対の幸福」とか表現する愚かさがよく知られます。

もう一箇所は「化身土文類」

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。

です。ここでは煩悩にまみれた愚かな凡夫が迷いの世界を出離することができない理由を、

助正間雑し、定散心雑するがゆゑに

と教えられています。称名念仏一行を往生の正定業として選択し、回向して下さる弥陀の願心に背き、五正行の中の読誦、観察、礼拝、讃嘆供養の助業と称名の正定業とを同格にみなして修め、その功徳によって往生しようという「定散心」すなわち自力心が雑じっているからだというのです。それを高僧和讃では

助正ならべて修するをば
 すなはち雑修となづけたり
 一心をえざるひとなれば
 仏恩報ずるこころなし


と讃詠されています。善導大師は往生行を正行と雑行とに分けられ、更に正行を称名の正定業と、読誦等の前三後一の助業とに分けられています。そして、上の一つ前の和讃を読めば判るようにその意は

ひとへに専修をすすめしむ

すなわち専修念仏、専修称名を勧めるためであったと親鸞聖人は見ておられます。

その専修念仏、専修称名に対して、助業と正定業を同格にみなして修めるのは雑修であり、これは他力の一心を獲ざる自力の信心の人であるから仏恩を報ずる心が欠けていると言われるのです。

なお上の「化身土文類」のお言葉は真門決釈の御文ですから、その行者はもはや雑行を離れて正行に帰した20願の行者です。ところが20願の行者も、本願のおこころを知らずに助正並べて修め、その功徳によって助かろうという自力心にたぶらかされて本願力に身をまかせることがない、信心の大海に入ることができないから、迷いの世界を出離することができません。そのことを「悲しきかな」と仰っているのです。


親鸞聖人は20願の行者を悲しまれています。では、20願の行者以前の、正行と雑行の分別もつかず、雑行をやることは救いに近づく手段だと思ってこれを修めている人を親鸞聖人はどう思われるでしょうか。また、雑行をやることは救いに近づく手段だからやりなさいと勧める人を親鸞聖人はどう思われるでしょうか。

親鸞会では、因果の道理、七仏通戒偈、19願「修諸功徳」、『観経』「定散二善」等を根拠に、信前の人に六度万行で言い表されているような布施、持戒等の諸善を勧めています。

この正助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。

ですから、親鸞会では雑行を勧めています。雑行をやっている者は、大悲の願船に乗れるでしょうか。

仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。「化身土文類」雑行釈

ですから、雑行をやっている者を、阿弥陀仏の光明は照らし摂めることはありません。すなわち、雑行をやっている者は、大悲の願船に乗れません。

雑行をやっている者を、親鸞聖人は喜ばれるでしょうか。悲しまれます。

雑行を勧める者を、親鸞聖人は喜ばれるでしょうか。悲しまれます。


高森会長も会員も、親鸞聖人が悲しまれることを平然とやっていることが分かります。先日の高森会長の言葉をもじって言えば

・大悲の願船には迷信を破らなければ乗せて頂けない
・雑行をやることによって救いに近づくという親鸞会の迷信を破らねば、大悲の願船には乗れない


と言うことができます。「親鸞聖人の悲しみ」は親鸞会に向けられています。いつまでも親鸞聖人を悲しませる「親鸞学徒」とは何ぞやと、ため息が出るばかりです。
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No title

高森学徒は悪ばかりしていますからね。
口ばかりではなく少しは六度万行をしたらよいと思います。
肝心の六度万行も会長の珍解釈で捻じ曲げてあるのは困ったものですが。
例えば布施に二種類あると称して如来直説の無畏施を亡き者にするとかね。

Re: 名無し様

高森教に毒されて、善悪の価値判断が随分と狂っていますから仕方ないです。
大沼師のパクリ損ないの教義を聞いていますから六度万行の何たるかを知りませんし、自らの求道を美学とする教えなので他力回向ということが分かりません。まったく、教えを説く者の責任です。
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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