親鸞会が会員の疑問をかわすためによく使う言葉

親鸞会では、よく以下のように話して会員の疑問をかわしています。

「あなたはまだ救われていないから分からないのだ」
「そんなことを言うのは、教えが全く分かっていないからだ」
「一念の決勝点まで進んでいないから、矛盾としか思えないのだ」
「そんなことを言うのは後生が全く問題になっていないからだ」
「先生の深い御心なんだ」


このように言われて、納得してしまう会員、何も言えなくなってしまう会員が多いことと思います。
私もその一人でした。

何が分からないのかと言えば、
・救われた一念の瞬間が、火に触ったよりもハッキリ自覚できること
・地獄しか行き場のない自己の姿
・「獲信の因縁」と「往生の資助」の違い
・一念で助かると説いているのに、善をしなければ信仰は進まないともいわれる


何が矛盾としか思えないかと言うと、
・地獄一定と極楽一定が同時に知らされているということ
・十八願で微塵の善もできない極悪人と見抜かれた弥陀が、なぜ十九願で善を勧められているのか
・自力の善では浄土へ往けないのに、なぜ善を勧められるのか
・親鸞聖人は御自身はこのようにして救われたとその道程をほとんど説かれていないのに、親鸞会の教学講義では「三願転入の御文」ばかりが強調されて話されるのはなぜか


どんなことで「教えが全く分かっていない」「後生が全く問題になっていない」と言われるのかというと、
・勧誘や聴聞参詣など、親鸞会での活動に消極的
・救いと修善の関係について、無関係ではないのかと質問する
・インターネットをみて思った疑問を質問する
・退会者による親鸞会批判に対して


そして「先生の深い御心」が使われるのは、
・たびたび変わる方針


などなど。まだまだ事例はあると思いますし、かぶる内容もあるでしょう。


一念の向こう側は神秘のベールで覆い隠されており、

「そこまで求めよ。救われたらハッキリする。」
「求めることは幸せであり、求めないのは教えが分かっていない、後生が問題になっていない、だから矛盾としか思えないのだ。」
「方便が方便としらされるのは真実に入ったときだ。方便だからといって馬鹿にして実行しないのは、観念の遊戯で、この道は進めない。」
「先生は私達の後生の一大事の解決を念じて御教導されているのだ。必要ないことなら教えられるはずはない。」


と主張して、参詣、献金、勧誘などを要求してきます。


結果として救われるまで何十年とかかったということはあるでしょうが、これから何年、何十年と頑張って求めていって、ようやく救われるかどうかと思わせるように説くのは親鸞聖人の教えではありません。
それでは無常迅速の機である私達は助からないからです。
老い先短い方は勿論、若者といえど事故や災害に遭ったり、事件に巻き込まれたりして死ぬのは一瞬先にもあり得ることですから、みんな本願に漏れてしまいます。

因果の道理が知らされて、廃悪修善の気持ちが強くなって、真実の自己が知らされて、後生の一大事が知らされて、より一層善に励んで、善のできない自分が知らされて、念仏にすがるよりないと知らされて、一生懸命念仏称えても念仏も称えきれない、善も自力念仏も間に合わないと知らされて・・・
このように進んでいくのだろうと観念の遊戯をして、それなりに活動をしてはいますが、未だ因果の道理も分かっていないというのが会員の実情ではないでしょうか? 会員の皆さんは如何ですか? そんなことをしている内に今死なねばならないとなったらどうするつもりですか?



常に阿弥陀仏は「今、ここ、私」に働きかけておられます。
本願の名号は既に私達に届いていますから、今、ここで、私が救われます。
それを自力が撥ね付けているために救われないのです。本願に背を向け、阿弥陀仏から逃げ回っているのが凡夫の相です。
その逃げる私を追いかけ、言葉は悪いですが、ひっ捕えて助けて下さるのが阿弥陀仏です。
我々は逃げ続けて十劫かかってしまいました。もう逃げるのはやめて、南無阿弥陀仏と向き合いましょう。
「必ず救う」仰せを、仰せのまま受け入れている相がすなわち信です。「助けるぞ」を聞くことの他に信心はありません。
このように本願を信じ念仏申さば、仏に成るという教えが浄土真宗です。救われるのに聞法歴も学問も修善も関係ありません。



冒頭に挙げたような言葉を受けて思考を停止せずに、会員の皆さんは只今の救いが説かれていない実態に疑問を持って頂きたいと思います。そして早く私一人を救う本願に救われて下さい。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

No title

少し前の、親鸞会が出した対談にこう書いてありましたね

------------------------------------------------

支部長:阿弥陀仏も善知識方も皆、善を勧めてくださっているのに、私たちはどのくらいの気持ちで光に向かっているでしょうか。

学徒:日常生活でもっと仏法に向かえるのに、くだらないことに時間を使っていると思います。

学徒:「仕事やめて聞け」と教えていただいているのに、朝から晩まで仕事ばかり。雑行が何やら知らないのは、寺から何も聞かされていない人だけのことではなく、弥陀の願心の分からぬ私のことだと思います。

学徒:後生の一大事が問題になっていないことを反省せずにおれません。自分の心を見ていかねばなりません。

学徒:「どだい後生が問題になっていないのだ」というお言葉がズシッときました。蓮如上人時代はいつ死ぬか分からぬ戦国時代でした。現代も、今日にも交通事故で死ぬやら分からぬ火宅無常の世界です。ところが、「仕事やめたら生きていけなくなるから、そんな気持ちになって聞けばいいのだとう」と得手に解釈しています

------------------------------------------------

これを読んでると、日常生活で仏法に向かわない時間はくだらない時間で、仕事辞めて聞くくらいの姿勢でない人は、(仕事の合間に聴聞すればいいか、程度のものでしかなく、そんな考えでは)どだい後生は問題にならないという論理のようですね。

俗世を捨てて親鸞会という世界に「出家」しない人間はスタートラインにも立てない、みたいな、出家仏教的な論理が垣間見えます。

また、この対談の言葉からも、現実に親鸞会員は後生の一大事が問題になってないところという方がたいへん多いことがわかります。自分たちでそう白状してるし。

ゴール地点まで行かないと何も分からないし何も知らされないし矛盾してるとしか思えない。分からない、矛盾してるとしか思えない、のは問題になってないからだ、もっと真剣にならなければ。でもゴール地点(一念の決勝点)まで行かなければ何も分からない、・・・

この迷宮の先に出口があると教えられ、迷ってることはわかるけど出口は見えてこない状態にあるのに、それを不安に思わない(思えない)のだったら、それはむしろ真剣に出口を求めている姿ではないのかもしれませんね。
出口を求め、出口に行かなきゃ意味が無いと教えられ、一方でいま現に迷ってることを疑問に思うと「わかってないからだ」で切り捨てられるのは怖いですね。

>名無し様

仰る通りです。
引用された対話で分かるように、会員は親鸞会で言う後生の一大事が分かっていませんし、後生の一大事が分かるために徹底していなければならないという三世因果の道理も徹底されていません。
「分かる」「徹底する」といっても人それぞれ理解の仕方が異なりますし、「常に頭から後生の一大事が離れず、夜も眠れないほど」分かっているという人はいないでしょう。
「聴聞を重ねていけば、廃悪修善に励んでいけばやがて後生の一大事が知らされるハズだ」と観念の遊戯をし、未来の救いを求めて活動しているのが会員の実態です。その時点ですでに平生業成ではありません。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード