親鸞会は「まわり道をしなければ近道には入れない」と説いているのです

今日は、親鸞会発行の『教学聖典』に掲載されていない『教行証文類』総序のお言葉を取り上げます。

しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。

『聖典セミナー 教行信証「教行の巻」』(梯實圓著 本願寺出版)58頁から現代語訳を紹介します。(以下、同本と記します)

こういうわけですから、浄土真宗は、下劣な凡夫も行いやすい真実の教法であり、どのような愚かなものも易く、しかも速やかに往生することのできる成仏の近道です。釈尊がその一代に説かれたさまざまな教えのなかで、この海のような広大無辺な徳をもつ本願の教法に勝るものはありません。


今回は「捷径」に注目してみていきたいと思います。
同本62頁には、
すみやかに目的地に到達できる近道のこと。「往き易き捷径」の語は『楽邦文類』の「張総管の勧縁の文」に「浄土はなはだ往き易し、八万四千の法門、この捷径にしくなし」とあるのによられたものである。
と解説されているように、「捷径」とは、「近道」ということです。何の近道かというと、仏教の目的である成仏の近道です。成仏の近道ですから、親鸞聖人は、ひたすら十八願の行信を勧めていかれたのです。
このことは、総序の次に続くお言葉からも明らかです。

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

(現代語訳:同本78頁より)

煩悩に汚れた穢土を厭い、清らかな涅槃の浄土を願いながら、自力のはからいをまじえて本願を疑うから、歩むべき行道に迷い、まことの信心の何たるかを知らずに惑い続け、心は迷妄に閉ざされて暗く、さとらねばならない大切な事柄についてはあまりにも無知であり、しかも身に具えた悪は重く、障りの多いものは、とりわけ浄土往生を勧めたまう釈迦如来の発遣を仰ぎ信じ、最も勝れたさとりへの道である本願に帰依して、如来よりたまわったこの行にひたすら奉え、ひとえにこの信心を崇めなさい。


近道の反対は、回り道、遠回りです。そのような表現を同じく『教行証文類』から見てみましょう。

まず、『信文類』の横超釈に、

横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。

と、横超(十八願に対応)と横出(十九願・二十願に対応)について教えられています。

横出は、定散二善を修め、化土に往生する教えで、「遠回り」の善の教えなのです。
それに対して、横超は、「すみやかに」この上ないさとりを開く教えです。

また、『行文類』の念仏諸善を比校対論されている中に、

頓漸対
径迂対
捷遅対


(現代語訳:同本341~342頁)

頓漸対、念仏は速やかに成仏し、諸善は長い時間を要する。
径迂対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である。


と説かれています。


親鸞聖人は、繰り返し、十八願は成仏への近道であり、十九願はまわり道であると教えられていることが分かります。親鸞聖人は、成仏の最短の道を示して下さっていたのです。それが、十八願です。

ところが、親鸞会では「十九願を通って二十願に入り、二十願を通って十八願に転入する」と説き、十九願を根拠に、十九願の善(実態は高森会長・親鸞会にとって都合のよい活動)を勧めます。これでは、「成仏のまわり道の教えを通らなければ、成仏の近道である十八願には入れない」と教えていることになります。聖人が示して下された「愚鈍往き易き捷径」に近づけなくしているのが、親鸞会の説き方なのです。

十八願をひたすら勧められた親鸞聖人は、総序の続くお言葉で、本願疑惑を誡め、本願を信受することを勧められています。

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。

(現代語訳:同本79頁)

ああ、このような力強い本願力には、いくたび生を重ねても値いたてまつることは難く、清らかな真実の信心は、無量劫を経ても、獲る機会はなかった。思いがけなくも、いま行信を獲、本願を信じ、念仏をもうす身になったものは、遠い過去世からの阿弥陀仏のお育てのご縁に思いを致して慶べ。もしまた、このたびも疑いの綱に覆い隠されて本願の法をいただかないようなことがあれば、ふたたびまた永劫の迷いを続けねばなりません。誠なる仰せではありませんか、私たちを摂め取って捨てぬとの真実の言葉、世にたぐいなき正法は。この真実の教えを、はからいなく聞き受けて、決して疑いためらってはなりません。


最も勝れたさとりの道である南無阿弥陀仏は、「まかせよ、助ける」との勅命です。如来の仰せをはからいなく聞き受けるのが、すなわち信です。
そして、南無阿弥陀仏を聞き受けるのは、「長らく方便の善を実行して地獄一定の自己が知らされてから」ではなく、「只今」のことです。長くて100年前後という人生の中でどれだけ方便の善をやろうと、地獄一定の自分であると知らされるほど、私の迷いは浅くありません。
常に「今、ここ、私」の上に本願は働きかけて下さるのであって、決して未来の救いに向かって求めるものではないのです。

総序のお言葉にも反している団体の講師が、ブログで、

親鸞学徒というのは、
「親鸞聖人の〃正統な〃教えを
 我も信じ
 人にも教え聞かしむるばかり」
これに徹する人をいいます。

「私は親鸞学徒である」という自覚から、こうして書いているので、それは「僕が僕らしくあるために」やっているわけではありません。


と書いていても全く説得力がありません。
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そうなんですよねぇ・・・
本来、一念で救う阿弥陀仏の本願こそ、最短の「近道」なのに、
「近道を説くものは全て土蔵秘事かそれに類するものだ!」と会員さんに力説し、一生懸命に印象操作をしようとするのですから無茶苦茶です。
表向きは「一念往生こそ真宗の肝要」と言いながら、「今生で救われることなどあるもんか。遠生の結縁なのだ。救われたと言っているものは皆、異安心に決まってる!」が彼らの本音です。
こんな幼稚なダブルスタンダードに騙されず、会員さんは早く誤りに気づいて目を覚ましてほしいです。

これがまぁ聖道門なら、三大阿僧祇劫のあいだ学問修行すれば成仏できますが、
彼らは浄土門にも聖道門にもなっていない、単なる外道ですから、百年どころか三大阿僧祇劫かかっても救われませんな。

>Rudel様

親鸞会では『なぜ答えぬ』を始めとして、講師試験に問題まで作って、「19願、20願を通らねば救われない」という誤った理解を会員に植え付けていました。
その結果、会員の理解は、「阿弥陀仏の救いは一念だが、その一念の救いまで進むには通らねばならない道程があり、自分はその軌道にすら乗っていない。もっと真剣に教えを聞いて、まず軌道に乗らなければならない」というものになっています。ダブルスタンダードの弊害ですね。
「只今救われる」とはもう思えません。只今の救いなら、通らねばならぬ道程はありませんから。
「死ぬまでに解決ができればいい」「遠生の結縁になればいい」と思っている会員ばかりではないでしょうか?

「聞き始めてから救われるまでにこういう心境の変化があった」と獲信の現在から過去を振り返って言うことはあります。しかし、これから救われようという人に、獲信までの筋道を作って通らせようとするのは、只今救う本願への直入を妨げる以外の何ものでもありません。
会員の皆さんは「こういう道程を通るハズだ」と観念の遊戯をさせられています。既に道程を通り終えて、教えられる通りに救われたというなら別かもしれませんが、活動しているから観念の遊戯ではないというものではありません。
横出の教えであり、救われるまでに長い時を費やす漸教であって、化土往生の行である定散二善を根拠に、善にもならぬ善を実行させられ、只今の救いを妨げられていることを知って頂きたいと思います。

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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