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【考察】念仏の勧めについてⅡ(7)

これまで見てきたように、親鸞聖人の御時は教義的には大きく二つ、対聖道門と、対浄土門内の異流の問題がありました。聖人の時代は、そこからおよそ200年後の蓮如上人時代の問題とは異なり、対聖道門のウエイトが大きいです。鎌倉初期は、まだ浄土宗が聖道門から離れて一宗として独立せんとしてからそれほど年月が経っていません。浄土宗の開宗は1175年と言われ、およそその辺りから末法五濁の我らでも救われる浄土の教え、念仏の教えがだんだんと民衆に弘まっていくわけですが、そこに大きく立ちはだかったのが聖道諸宗でした。

いつの時代、どこの国でも、保守と革新と言いますか、やはり何か新しいことを発そうとすると、必ず旧勢力がそこに立ちはだかるものです。興福寺奏状では、まず

第一 新宗を立つる失

を挙げて正統な論拠を示すことなく、勅許も得ずして、新しい宗派を立てることはおかしいという非難に始まり、全九箇条に亘って徹底的に浄土宗を非難攻撃しています。浄土宗の教義に関しては主に

第四 万善を妨ぐる失
第六 浄土に暗き失
第七 念仏を誤る失


の三箇条ですが、他条にも所々、諸善を捨てて専修念仏はおかしいということに触れています。また、専修念仏を信奉する一部の者達による非常識な言動についても述べられています。このように、法然の説くところは教義的にも、それを信奉する人々の倫理的な側面から見ても仏教ではない、こんな教えが世に弘まったら国の終わりだ、そうなる前に何とかしてほしいと訴えています。

そうやって、浄土宗誕生からわずか30年余りで起こった専修念仏の大弾圧事件がかの承元の法難です。その思想的根拠となったのが興福寺奏状です。更にそこから20年後には、嘉禄の法難が起きています。その原因となったのが延暦寺奏状です。その他にも浄土宗、法然聖人の教えは何度も窮地に立たされ、多くの念仏者が死刑や流刑といった極刑に処されたり、今では考えられない暴力を振るわれたりと、様々な迫害を受けました。


なぜこうも執拗に浄土宗、法然聖人の教えが弾圧されたのでしょうか。それは教義的に言えば

法然の教えは仏教ではない

と見做されたからです。特に聖道の修行である諸善万行をことごとく雑行と名づけて廃し、どんな愚かな者もただ称名念仏の一行のみで往生できると主張したことが、彼らにとって最も許せないことであったに違いありません。最下の悪人でも行ずることのできる称名念仏という劣行をもって往生の行と定め、仏教に広く説かれる諸善万行を捨てしめることは謗法であり、断じてこんな教えは仏教ではないと、激しい怒りを買ったわけです。

それに対して親鸞聖人は、いや、法然聖人の教えこそ真実の仏教だと。それを証明しようじゃないかと『教行証文類』、正確には『顕浄土真実教行証文類』を著されたのでしょう。この題号には、

ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。

と「後序」の文にある如く、時代が経るについて滅びゆく聖道門の教行証に対して、どんな時代のどんな人も平等に救われる浄土門の教行証があるんだ、これこそ真実の仏教だ、これはお師匠様の法然聖人や親鸞が勝手に言っていることではなく、お釈迦様を始めこれまでインド、中国、朝鮮、日本に出られた高僧知識方が仰っているんだ、そのことを経、論、釈の文を集めて証明した書がこれだ、という意味が込められていると推察します。


では、どうしたら法然聖人の教えこそ真実の仏教だと証明することができるでしょうか。お分かりのように、聖道諸宗からは「諸善を捨てて専修念仏、称名念仏の一行」という行を否定されています。これに対して、法然聖人の教えの真実性を明らかにするためには、専修念仏、称名念仏の一行こそが真実の仏教であることを証明する必要があったのです。

仏教と言えば教行証です。存覚上人はこれについて

「教行証」とは、いわゆる次の如く所依・所修・所得の法なり。霊芝の『弥陀経義疏』に云わく「大覚世尊一代の教は、大小殊なるといえども、教理行果を出でず。教に因りて理を顕わし、理に依りて行を起こし、行に由りて果を克す。四法にこれを収むるに鮮〈すこ〉しきも尽くさざることなし」已上。教行証と教理行果と、その義は大いに同じ。中に於いて教行の二種は全く同じ。理はこれ教に摂す。彼の『義疏』に云わく「理は即ち教の体なり」。即ちその義なり。証は即ち果なり。果に近遠あり。近果は往生、遠果は成仏なり。証に分極あり。分証は往生、究竟は成仏なり。その義は同じなり。『六要鈔』巻一之一

と示されています。釈尊一代の教えは、教理行果、すなわち教行証を出ません。

行の無い仏教はありません。では聖道門の様々な行に対して、浄土門の行は何かと言ったら念仏です。中でも法然聖人が正定の業と仰り、専らにせよと勧められているのは難しい実相の念仏や観想の念仏、また観像の念仏ではなく、阿弥陀仏の名号を口に称える口称の念仏、称名念仏の一行です。

どうして釈迦一代の勝行をことごとく雑行と捨てて、最も浅劣な称名念仏一行と言うのか

聖道諸宗の言いたいことを一言におさめたらこれでしょう。これをどうしても経、論、釈の上で正しい仏教なんだと証明する必要があったのです。



【参照】
『Wikipedia』興福寺奏状
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お世話様です。
火星人ルパン久保田くんから伝言を受けてます(笑)やっと答えを見つけたようですよ。以下 山も山さんのブログより

》Abc

》ルパンさん

(ルパンさん)
>まだ三年目の青二才の講師でも、質問したらいとも簡単に19・20願をすすめられた根拠を出しおったわ。

→では、その「19・20願をすすめられた根拠」を「青二才から聞いた文」でもいいですから、ここに記してください。それを以て、「親鸞聖人が19願を勧めた根拠」とします。

Abc




》 ルパン

》蓮如上人仰せられ候。「方便を悪しと言う事は有るまじきなり。方便を以て真実を顕和す廃立の義、よくよく知るべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をば獲ることなる」由、仰せられ候と云々(御一代記聞書177)
方便から真実に入るという事を知るべし。方便は、本願疑惑心を捨てさせる為に必要なものなので、要門と言われます。
弥陀の方便というのが、19.20願の事を指します。



》》 ルパン

ちなみに釈迦の方便は、観経と小経になり、蓮如上人の言う方便はまことに宿善まかせであり、親鸞聖人と法然上人の言う方便は称名念仏を称えなさいであり、親鸞会の言う方便は、求道せよ宿善を厚くせよになります。
ーーー
 以上となります。ツッコミどころ満載です。長老と呼ばれ皆賀挨拶してくれるらしいルパン久保田くんが、若い人から教えてもらうことが恥ずかしいのか、わざわざ「3年目の青二才の講師」と書くところが病的なプライドが見えてますね(笑)

やっぱり浄土へ往生

ども、林遊@なんまんだぶです。

『興福寺奏状』を著した解脱坊貞慶上人は、死の半月前に口述された「観心為清浄円明事」では、「予は深く西方を信ずる」としているから、いつしか「但だ予の如き愚人は観念に堪えず」と述懐していた貞慶も浄土教に帰順したのでした。
「観心為清浄円明事」
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%B3%E5%BF%83%E7%82%BA%E6%B8%85%E6%B5%84%E5%86%86%E6%98%8E%E4%BA%8B

また念仏停止を命じられた後鳥羽上皇も承久の乱に負けて隠岐に配流されたのですが、晩年には無常講式を作られて「願くは離垢の眼を得て、安楽国に往生せん。南無阿彌陀佛」といわれておられました。
「後鳥羽天皇御作無常講式」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%BE%A1%E4%BD%9C%E7%84%A1%E5%B8%B8%E8%AC%9B%E5%BC%8F

仏教では理と事(理論と実践)に分けて考察しますが、若い時は「理」に関心を持ち、老いれば「事」に関心が高くなるのかもです。ただ御開山の場合は老いてなお仏教の基本である智慧に関心が高かったのだと思ふ。晩年の『一念多念文意』や『唯信鈔文意』などを拝読すると頭がクラクラします(笑

チュウビさん。

「真実を顕和す廃立の義」や「長老と呼ばれ皆賀挨拶してくれる」は変換ミスですね。高森親鸞会の会員に変換ミスをぼろくそに非難されたことがあった(笑
で、『御一代記聞書』の、

(176)
一 蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。

の文ですが、ここで大事なのは「廃立の義」の文です。
蓮如上人が、なんまんだぶを称える時衆を批判するときに『安心決定鈔』に説かれる「十劫安心」を否定的に用いられますが、これは信に対する廃立の義が欠けているからでした。ぐちゃぐちゃと三願転入を論じる輩は、この「廃立の義」が判らないから三願を求道の階梯と捉えてしまうのでした。
「廃立」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BB%83%E7%AB%8B

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: チュウビ様

善巧方便と権仮方便の違いも知らない無知な輩の言うことです。彼は相変わらず妄想による自説の垂れ流しばかりで、聖教の勉強ということは生涯しないつもりでしょう。日本語が分からないんだから仕方ないですね。

方便といふこと 3
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-136.html

などを見て、真宗で言われる「方便」についてよく勉強することですね。そんなに方便にこだわるなら聖道門という方便もこだわればいいのに、都合の良いことばかり並べ立てて教えを捻じ曲げる高森教信者とルパンは本当に許せません。

Re: 林遊@なんまんだぶ様

「信文類」には律宗の元照師の次の文を引いておられます。

ああ教観にあきらかなること、たれか智者(智顗)にしかんや。終りに臨んで『観経』を挙し、浄土を讃じて長く逝きき。法界に達せること、たれか杜順にしかんや。四衆を勧め仏陀を念じて、勝相を感じて西に邁きき。禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。業儒、才ある、たれか劉・雷・柳子厚・白楽天にしかんや。しかるにみな筆を秉りて、誠を書して、かの土に生ぜんと願じき
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E4%BF%A1%E6%96%87%E9%A1%9E_(%E6%9C%AB)#.E6.B1.BA.E9.87.88.E3.80.80.E8.87.A8.E7.B5.82.E4.B8.80.E5.BF.B5.E4.B9.8B.E5.A4.95.E8.B6.85.E8.A8.BC.E5.A4.A7.E8.88.AC.E6.B6.85.E6.A7.83

確かに「若い時は「理」に関心を持ち、老いれば「事」に関心が高くなるのかも」知れませんね。尤も私は彼らのような智慧も学問も修行もありませんから、仏願に帰して弥陀を称して浄土を願う他にはございません。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

淳心房さん、林遊さん
早速コメントありがとうございます。
変換ミスごめんなさい。スマホだとミスしやすいのです。
ルパン久保田くんから、返信がありましたので転載します。あいかわらずのお笑い文です。俎上にのせて酒のさかなにしてください(笑)


ルパン

一番大事なのは重ねて何度も何度も聴聞する事です。
19願は善巧方便だと言うと必ずそれは権家方便だと反論してくる筈だと言ってました。化身土文類には、浄土の要門だと書かれていますね。方便権仮とも書かれていますので、改めて調べてみます。方便権仮は捨て物ですので、19願の行信により捨てるべき自力の心を明確にするといった意味かと思いますが、詳しくは分かりません。
方便を以て真実を顕す廃立の義、よくよく知るべしの言葉を当てはめるとその様な解釈になります。


ルパン

頼みもしないのに、よくぞ淳信坊に伝えて下さいました。
林遊さんが、「廃立の義」に着目して詳しく解説して下さいました。
御一代記聞書176の言葉は、真仮廃立について言い表されていると思います。真実と方便(自力と他力)を鮮明にして、権仮である方便を捨てさせる。19.20願はその為に必要な願だから要門と言われています。方便の願の行信により18願に入れば不要の願となり捨てますので方便権仮を顕開すとなります。真実の18願に入る為には必要不可欠なので要門だと言われますが、18願に入れば不要となるので方便権仮となります。
方便を以て真実を顕す廃立の義、よくよく知るべしとなります。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によって、真実の信をば獲ることなると更に解説しています。つまり、19.20願を不要だと悪く言う事は言語道断であると蹴り飛ばしています。従仮入真が真実だから当然その様になりますね。



ルパン

方便など方便など要らないなどとは言語道断。方便より真実に入る聖人の教えのイロハも揺らぐ発言だ。弥陀の十九、二十の願を反故にする法謗である。弥陀・釈迦・善知識の種々の御方便によってのみ、大悲の願船に乗ずる(真実の信心を獲る)ことができるのである。
捨てるのは善ではなく、自力の心・本願疑惑心である。弥陀から助けて頂くのに、その弥陀の立てられた本願を方便だら要らないなどという大謗法罪は口が裂けても言うべきものではないのである。真実に入り、それまでの善巧方便はみな権仮であったと捨て去る一念までは、弥陀・釈迦・善知識の善巧方便だと思って白道を進ませて頂きましょう。

以上です。
どうしても強く訴えたいと急に「である」「なのである」と断言しだすのが、久保田くんの特徴です。
 子どもが駄々こねて大声出して威嚇するのと同じですね(笑)根拠が出せなくて自信がないことの裏返しです(笑)

No title

チュウビさんへ

彼はまともに相手にする価値のない存在なので、わざわざここに紹介するのは如何なものかと思います。
管理人さん達にコメントしてもらって彼に伝えたら何か変わりますか?
彼は相手にしてもらったと余計に調子に乗るでしょう。
彼の相手をする時は、ストレス解消したい時、くらいのレベルですよ。

退会者さん
 ルパン久保田くんには「根拠をみつけたから淳心房につたえておけ!」と言われているのです。
そうなんですけど、本心は笑いネタ提供です。

 それをもとに色々と真偽検証さんや林遊さんが書いてくれることが有り難いわけで、楽しみにしております。ルパン久保田くんをどうこうしようと思っておりません。あくまでネタです。
 お陰様で私は、聖典をよく読むキッカケとなりました。
 それから、親鸞会に長くいるせいと元からの性根があいまって、このような極端に固着した人もいると人間観察できて面白いです。

 とはいえ、真偽検証さんに他所のブログのことだから駄目だよ、といわれたら辞めます。
 でないならば退会者さんのお目汚しですけど、私のような炎上好きな変な奴も脱会者にいるんだね。ぐらいでスルーして勘弁してもらいたいです。


なんの為に往生浄土の信心が欲しいの?

ども、林遊@なんまんだぶです。

元照つながりですが、淳心房さんが引用された『六要鈔』にある「霊芝の『弥陀経義疏』」の霊芝とは霊芝崇福寺に住しておられた元照律師のことですね。(仏教の論釈では固有名ではなく、終南(善導大師)、吉水(法然聖人))のように在所によって個人を特定する

この『阿弥陀經義疏』は、『阿弥陀経』を解説した書であり、御開山はここから8文ほど引文されておられます。
「阿弥陀經義疏」
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E7%B6%93%E7%BE%A9%E7%96%8F

この『阿弥陀経義疏』の、

 いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり。

といふ名号摂化の文を、深川倫雄和上の法話で聴いてから好きになり「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」からコピーしUPしたものです。

元照律師は初めは浄土教に否定的だったが、大病を患い浄土教に帰したと言われています。それには天台大師 智顗撰の、浄土へ往生する意味は衆生済度の力を得るためであるといふ『浄土十疑論』の影響があったとされています。
「浄土十疑論」
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E6%B7%A8%E5%9C%9F%E5%8D%81%E7%96%91%E8%AB%96

源信僧都は、菩提心の説明に、この「浄土十疑論」を引いて、

 知りぬべし、念仏・修善を業因となし、往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となし、利益衆生を本懐となす。 たとへば、世間に木を植うれば華を開き、華によりて菓を結び、菓を得て餐受するがごとし。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BE%80%E7%94%9F%E8%A6%81%E9%9B%86%E4%B8%8A%E5%B7%BB_(%E4%B8%83%E7%A5%96)#.E6.A5.AD.E5.9B.A0.E3.83.BB.E8.8F.AF.E5.A0.B1.E3.83.BB.E6.9E.9C.E5.A0.B1.E3.83.BB.E6.9C.AC.E6.87.90

と、「業因・華報・果報・本懐」を示し、浄土へ往生する根本的目的(本懐)は、「浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと欲ふがゆゑなり。」とされていました。
高森親鸞会では自己の「絶対の幸福」を餌として会員を駆り立てますが、これって自分だけ助かればよいといふ小乗仏教と同じ論理でした。
高森親鸞会のように信心を強調しすぎると、まるで信心が目的のようになり、本来の仏教の目的を見失い「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(御消息 p.737)といふ、御開山が示された利他の仏道の本意を見失うのでした。

 つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E6%95%99%E6%96%87%E9%A1%9E#.E7.9C.9F.E5.AE.97.E5.A4.A7.E7.B6.B1

と、利他行が円満する浄土からの大乗菩薩道の「還相」を説いて下さいました。
「証巻」の還相釈は難しいのですが『歎異抄』4条では、

(4) 一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。
「歎異抄 第4条」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%AD%8E%E7%95%B0%E6%8A%84#.E7.AC.AC4.E6.9D.A1

と、「浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて」といふ「念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべき」なのでした。ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

そういえば挙げて頂いた『阿弥陀経義疏』の文は親鸞会でもよく出てきました。当時学友部長だったKさんがこの文を出して話していたのを懐かしく思います。しかしながら、称名が真実行である根拠なのに、この文を出しながら称名一行を勧めず、親鸞会で言う後生の一大事で脅し、絶対の幸福で釣って、学生を組織拡大活動に駆り立てていました。

確かに信心を強調しすぎると信心が目的になり、仏教本来の目的を見失ってしまいますね。また、信心乞食になって彷徨うことにもなります。信心の内容は称名正定業であり、念仏一つで助かるという信心、念仏一つで助けるという本願に疑いない信心ですから、称え聞こえる南無阿弥陀仏の他にはありません。信心が獲られない獲られないと困っている方も少なくないと思いますが、念仏を称え、南無阿弥陀仏の声は「必ず助けるから安心してまかせなさい」の仰せであると聞く以外にないことを知って頂きたいと思っております。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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