【考察】念仏の勧めについてⅡ(1)
【考察】念仏の勧めについて
では、七高僧方がどのように本願をご覧になられたか、そして何を勧め、またそれを親鸞聖人がどのように教えられているかを見てきました。
いずれもいずれも、本願文の説明に念仏を抜かしておられません。それどころか、善導大師に至っては大胆にも大事な信心を抜かして、念仏のみで本願を語られています。念仏は、本願において阿弥陀仏が唯一選び択られた衆生往生の行です。阿弥陀仏は「念仏を称える者を極楽に迎えよう」と仰っておいでですから、私達はその誓いを深く信じて念仏すれば必ず浄土に往生できるのです。
念仏は阿弥陀仏の勧めです。阿弥陀仏が勧められているからこそ釈尊もまた念仏を勧め、諸仏も念仏の法の真実なることを証誠しているのです。釈尊の教えは八万四千を超えますが、末法五濁の世に生きる末代不善の凡夫である我々には、念仏の法による以外に迷いの世を出離することは不可です。ですから三国の祖師方は、ただ念仏の一行を勧めてこられました。それを受け継がれたのが親鸞聖人です。
繰り返しますが、念仏は、阿弥陀仏が本願においてただ一つ選択された衆生往生の行です。信心は、その本願に対する信心、本願の信心であり、言葉を換えると本願が成就して仕上がった名号、念仏を称える際の信心、念仏の信心です。本願の信心、念仏の信心は、「念仏を称える者を極楽に迎える」という本願を深く信ずること、称名念仏の一行で往生が決定すると深く信ずることです。分かりやすく言えば
「念仏一つで助ける」という本願を深く信ずる
「念仏一つで助かる」と深く信ずる
という信心です。「深く信ずる」とは疑いの心を押さえつけて信じ込むのではなく、「念仏一つで助ける」という本願の仰せを計らいをまじえずに受け容れたことです。これは自分で起こす信心ではなく、如来より回向される他力の信心です。また、本願が成就して仕上がったのが南無阿弥陀仏の名号ですから、その名号を称える「念仏一つで助かる」と疑いをまじえずに受け容れたことでもあります。本願の信心、念仏の信心、この二つは同じことです。
本願は既に成就し、南無阿弥陀仏と成って私に至り届いております。救いの法は既に与えられているのですが、これを私が信受しなければ、受け容れなければ、私の救いになりません。そのようなわけで、本願を、本願の念仏を受け容れた信心が往生の正因だと言われるのです。これが信心正因です。これを正確に言うと、念仏の信心正因です。
では、その信心が与えられたから往生は決定、後は何をする必要もない、念仏を称える必要もないのかと言ったらそうではありません。念仏は、一生をかけて相続していく行です。では、往生は決定したのに、信後の人は何のために念仏を称えるんですか、何か意味はあるんですかと言ったら、それは往生を定めて下された御恩報謝のためだよ、そのように心得て念仏しなさいと教えられています。これが称名報恩です。これも正確に言うと、信後の称名報恩です。
親鸞聖人が、往生一定となった後の称名に報恩の義があることを教えられているのは確かです。しかしながら、親鸞聖人は「称名は報恩である」ことを顕すために『教行証文類』その他多くの著書を書かれたわけでないことも確かです。
ただ、お聖教を読んでいきますと、親鸞聖人の上に往生のための念仏の勧めがあることは明らかですが、特に蓮如上人の『御文章』の上では信前は弥陀をたのめ、南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得よという勧めばかりで、顕わに往生のための念仏の勧めは説かれていません。それでいて信後の称名は報恩と心得よという内容で一致しています。この違いは一体何なのでしょうか。
蓮如上人以来、浄土真宗は多く『御文章』による教化がなされてきました。どうも『御文章』に顕著に表れている蓮如上人の教え、蓮如教学をもって、親鸞教学の代用としてきた節があります。ところが近年、清沢満之によって『歎異抄』が世間の注目を浴びることとなり、その影響が真宗界にも及んでいるようです。
『御文章』と『歎異抄』では、文面上に顕わになっている教義が随分と異なるように見受けられます。例えば『御文章』では「後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」ですが、『歎異抄』では
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
等とあるように念仏が強調されています。その他、驚くような内容が書かれています。それで、恐らく説く側の布教使も、聞く側の門徒の方々も困惑しているのでしょう。
中には、『御文章』の教化こそ真宗であり、それを強調するあまりなのか、
・法然上人の教えと親鸞聖人の教えは違う
・信心が往生の因であり、念仏は往生の因ではない
・阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない
・念仏往生と平生業成は違う
・『歎異抄』の教えは親鸞聖人の教えではない
・『教行信証』以外の親鸞聖人の著作や御消息は法然上人の教え
等というような主張まであります。それらは本当なのでしょうか。
この【考察】ではそのような疑問から、その謎を解く鍵を探すべく、念仏往生の法門が七高僧から親鸞聖人、更には蓮如上人へとどのように伝わっていったかを、お聖教や和上方の書物を通して伺っていきたいと思います。
【参照】
『飛雲』念仏往生の願成就文と信心正因称名報恩
では、七高僧方がどのように本願をご覧になられたか、そして何を勧め、またそれを親鸞聖人がどのように教えられているかを見てきました。
いずれもいずれも、本願文の説明に念仏を抜かしておられません。それどころか、善導大師に至っては大胆にも大事な信心を抜かして、念仏のみで本願を語られています。念仏は、本願において阿弥陀仏が唯一選び択られた衆生往生の行です。阿弥陀仏は「念仏を称える者を極楽に迎えよう」と仰っておいでですから、私達はその誓いを深く信じて念仏すれば必ず浄土に往生できるのです。
念仏は阿弥陀仏の勧めです。阿弥陀仏が勧められているからこそ釈尊もまた念仏を勧め、諸仏も念仏の法の真実なることを証誠しているのです。釈尊の教えは八万四千を超えますが、末法五濁の世に生きる末代不善の凡夫である我々には、念仏の法による以外に迷いの世を出離することは不可です。ですから三国の祖師方は、ただ念仏の一行を勧めてこられました。それを受け継がれたのが親鸞聖人です。
繰り返しますが、念仏は、阿弥陀仏が本願においてただ一つ選択された衆生往生の行です。信心は、その本願に対する信心、本願の信心であり、言葉を換えると本願が成就して仕上がった名号、念仏を称える際の信心、念仏の信心です。本願の信心、念仏の信心は、「念仏を称える者を極楽に迎える」という本願を深く信ずること、称名念仏の一行で往生が決定すると深く信ずることです。分かりやすく言えば
「念仏一つで助ける」という本願を深く信ずる
「念仏一つで助かる」と深く信ずる
という信心です。「深く信ずる」とは疑いの心を押さえつけて信じ込むのではなく、「念仏一つで助ける」という本願の仰せを計らいをまじえずに受け容れたことです。これは自分で起こす信心ではなく、如来より回向される他力の信心です。また、本願が成就して仕上がったのが南無阿弥陀仏の名号ですから、その名号を称える「念仏一つで助かる」と疑いをまじえずに受け容れたことでもあります。本願の信心、念仏の信心、この二つは同じことです。
本願は既に成就し、南無阿弥陀仏と成って私に至り届いております。救いの法は既に与えられているのですが、これを私が信受しなければ、受け容れなければ、私の救いになりません。そのようなわけで、本願を、本願の念仏を受け容れた信心が往生の正因だと言われるのです。これが信心正因です。これを正確に言うと、念仏の信心正因です。
では、その信心が与えられたから往生は決定、後は何をする必要もない、念仏を称える必要もないのかと言ったらそうではありません。念仏は、一生をかけて相続していく行です。では、往生は決定したのに、信後の人は何のために念仏を称えるんですか、何か意味はあるんですかと言ったら、それは往生を定めて下された御恩報謝のためだよ、そのように心得て念仏しなさいと教えられています。これが称名報恩です。これも正確に言うと、信後の称名報恩です。
親鸞聖人が、往生一定となった後の称名に報恩の義があることを教えられているのは確かです。しかしながら、親鸞聖人は「称名は報恩である」ことを顕すために『教行証文類』その他多くの著書を書かれたわけでないことも確かです。
ただ、お聖教を読んでいきますと、親鸞聖人の上に往生のための念仏の勧めがあることは明らかですが、特に蓮如上人の『御文章』の上では信前は弥陀をたのめ、南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得よという勧めばかりで、顕わに往生のための念仏の勧めは説かれていません。それでいて信後の称名は報恩と心得よという内容で一致しています。この違いは一体何なのでしょうか。
蓮如上人以来、浄土真宗は多く『御文章』による教化がなされてきました。どうも『御文章』に顕著に表れている蓮如上人の教え、蓮如教学をもって、親鸞教学の代用としてきた節があります。ところが近年、清沢満之によって『歎異抄』が世間の注目を浴びることとなり、その影響が真宗界にも及んでいるようです。
『御文章』と『歎異抄』では、文面上に顕わになっている教義が随分と異なるように見受けられます。例えば『御文章』では「後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」ですが、『歎異抄』では
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
等とあるように念仏が強調されています。その他、驚くような内容が書かれています。それで、恐らく説く側の布教使も、聞く側の門徒の方々も困惑しているのでしょう。
中には、『御文章』の教化こそ真宗であり、それを強調するあまりなのか、
・法然上人の教えと親鸞聖人の教えは違う
・信心が往生の因であり、念仏は往生の因ではない
・阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない
・念仏往生と平生業成は違う
・『歎異抄』の教えは親鸞聖人の教えではない
・『教行信証』以外の親鸞聖人の著作や御消息は法然上人の教え
等というような主張まであります。それらは本当なのでしょうか。
この【考察】ではそのような疑問から、その謎を解く鍵を探すべく、念仏往生の法門が七高僧から親鸞聖人、更には蓮如上人へとどのように伝わっていったかを、お聖教や和上方の書物を通して伺っていきたいと思います。
【参照】
『飛雲』念仏往生の願成就文と信心正因称名報恩
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