【考察】念仏の勧めについてⅡ(2)
ここで改めて、七高僧方はなぜ、何のために念仏の一行を勧められたのでしょうか。それは、
願はくはもろもろの行者、おのおのすべからく心を至して往くことを求むべし。また『無量寿経』(上・意)にのたまふがごとし。
「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現に世にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。(『往生礼讃』)
いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮するにはあらず。 ただこれ、男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜずして、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にはしかじ。
(中略)
いはんやまた、もろもろの聖教のなかに、多く念仏をもつて往生の業となせり。(『往生要集』念仏証拠)
それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。(『選択本願念仏集』三選の文)
等とあるように、浄土に「往く」ため、「往生を得」るためです。「往生を願求」して、「往生の業」としてです。「生死を離れ」、浄土に「生ずる」ためです。つまり、往生のためです。
この世界は迷いの境界であり、自身は煩悩罪業にまつわられて、果てしない過去から今日、そしてこの先未来永劫に至るまで、我々は六道二十五有生を転々して苦悩を離れることができません。ですから、迷いを離れて悟りを開き、清らかな涅槃の境界に至れと教えられているのが仏教です。
その仏教について、聖道門と浄土門という二種類の勝れた教えがあります。
おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。(「化身土文類」聖浄二門判)
一つは、この世で聖者となってさとりを開く聖道門、難行道です。そしてもう一つが、
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。
浄土に往生してさとりを開く浄土門、易行道です。
この内、聖道門は時は釈尊在世ならびに正法の教え、機は聖者、善人のための教えであり、像末、法滅の時機の衆生には相応しない教えです。現在は末法に当たりますが、時代は釈尊を去ること遥か遠くであり、教えは深くして衆生の理解能力は乏しいため、聖道の諸教は我々には高嶺の花であります。この時機になりますと、教えはあっても如説に修行してさとり得る者は一人もいないと教えられます。
大乗の聖教によるに、まことに二種の勝法を得て、もつて生死を排はざるによる。 ここをもつて火宅を出でず。 何者をか二となす。 一にはいはく聖道、二にはいはく往生浄土なり。
その聖道の一種は、今の時証しがたし。 一には大聖(釈尊)を去ること遥遠なるによる。 二には理は深く解は微なるによる。このゆゑに『大集月蔵経』(意)にのたまはく、「わが末法の時のうちに、億々の衆生、行を起し道を修すれども、いまだ一人として得るものあらず」と。当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。 ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。
このゆゑに『大経』にのたまはく、「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。(『安楽集』聖浄二門判)
対して浄土門は、阿弥陀仏の本願力によって順次に極楽に往生し、浄土にて迷いを離れてさとりを開く教えです。聖道門は険しい陸路を歩いて行くような教えであるから難行道と言われ、浄土門は自らの力に依らず、船に乗って風を受けて水路を進んで行くような教えであるから易行道と言われます。聖浄二門判で言えば、浄土真宗は浄土門、易行道に当たります。
釈尊一代の教えは教理行果を出ないといいます。親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』を著されましたが、聖道門にしても浄土門にしても、教があり、行を修して、果(証)を得ることは共通です。聖道門の行は諸善万行と言われるようにありとあらゆる善根功徳ですが、浄土門、とりわけ浄土真宗の行は、称名念仏の一行です。それは阿弥陀仏の本願に「念仏の衆生往生せずは我も正覚を成らじ」と誓われているからです。称名は阿弥陀仏が選択された行だからです。念仏は阿弥陀仏の勧めだからです。
行の無い仏教はありません。「ただ信心のみ」とは、キリスト教でも言うことです。親鸞聖人は行の無い仏教を説かれたのではなく、一切の自力を否定されただけです。ですから、七高僧方、親鸞聖人は、生死を離れる(出離する)ため、浄土に往生してさとりを開くために、その往生の行として念仏を勧められたのです。(最初から)報恩の行として念仏を勧められたのではありません。
浄土真宗の目的は、生死を出離すること、浄土に往生し成仏することです。ひいては、仏の大慈大悲をもって一切衆生を救済することです。その教が浄土三部経、中でも『大無量寿経』を根本とする教えであり、その行が称名念仏の一行です。この土台無しに親鸞聖人の教えがあるわけではなく、蓮如上人も、この土台無しに信心正因称名報恩の法義を説かれたのではありません。
ただ親鸞聖人と蓮如上人では、時代背景も異なる上に問題とされていることも随分と違います。それについて、まず親鸞聖人の時代背景や問題を次回以降に追って紹介していきたいと思います。
ともあれ、穢土を厭い、浄土を願うならば、
速やかに迷いの世界を離れ、浄土に往生しようと思ったら、聖道門をさしおき、雑行をなげうち、助業をかたわらにして、専ら称名念仏の一行をつとめよ。仏名を称すれば必ず浄土に生ずることができる。阿弥陀仏が本願にそう誓われているからである。
という法然聖人の教え、それを無我に相承された親鸞聖人の教えに順じて一心に本願をたのみ、一向に称名念仏の一行をつとめましょう。
私が念仏を称えるから往生するのではありません。「念仏する者を往生させる」という本願があるから往生するのです。信心は、上の赤字の内容を深信すること、すなわち、本願の仰せ、善知識方の勧めを仰せの通り受け容れて、身も心もすっかり阿弥陀仏にまかせることです。私達の拠り所は私達の心ではなく、本願であり、本願成就の名号、念仏です。
願はくはもろもろの行者、おのおのすべからく心を至して往くことを求むべし。また『無量寿経』(上・意)にのたまふがごとし。
「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現に世にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。(『往生礼讃』)
いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮するにはあらず。 ただこれ、男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜずして、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にはしかじ。
(中略)
いはんやまた、もろもろの聖教のなかに、多く念仏をもつて往生の業となせり。(『往生要集』念仏証拠)
それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。(『選択本願念仏集』三選の文)
等とあるように、浄土に「往く」ため、「往生を得」るためです。「往生を願求」して、「往生の業」としてです。「生死を離れ」、浄土に「生ずる」ためです。つまり、往生のためです。
この世界は迷いの境界であり、自身は煩悩罪業にまつわられて、果てしない過去から今日、そしてこの先未来永劫に至るまで、我々は六道二十五有生を転々して苦悩を離れることができません。ですから、迷いを離れて悟りを開き、清らかな涅槃の境界に至れと教えられているのが仏教です。
その仏教について、聖道門と浄土門という二種類の勝れた教えがあります。
おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。(「化身土文類」聖浄二門判)
一つは、この世で聖者となってさとりを開く聖道門、難行道です。そしてもう一つが、
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。
浄土に往生してさとりを開く浄土門、易行道です。
この内、聖道門は時は釈尊在世ならびに正法の教え、機は聖者、善人のための教えであり、像末、法滅の時機の衆生には相応しない教えです。現在は末法に当たりますが、時代は釈尊を去ること遥か遠くであり、教えは深くして衆生の理解能力は乏しいため、聖道の諸教は我々には高嶺の花であります。この時機になりますと、教えはあっても如説に修行してさとり得る者は一人もいないと教えられます。
大乗の聖教によるに、まことに二種の勝法を得て、もつて生死を排はざるによる。 ここをもつて火宅を出でず。 何者をか二となす。 一にはいはく聖道、二にはいはく往生浄土なり。
その聖道の一種は、今の時証しがたし。 一には大聖(釈尊)を去ること遥遠なるによる。 二には理は深く解は微なるによる。このゆゑに『大集月蔵経』(意)にのたまはく、「わが末法の時のうちに、億々の衆生、行を起し道を修すれども、いまだ一人として得るものあらず」と。当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。 ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。
このゆゑに『大経』にのたまはく、「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。(『安楽集』聖浄二門判)
対して浄土門は、阿弥陀仏の本願力によって順次に極楽に往生し、浄土にて迷いを離れてさとりを開く教えです。聖道門は険しい陸路を歩いて行くような教えであるから難行道と言われ、浄土門は自らの力に依らず、船に乗って風を受けて水路を進んで行くような教えであるから易行道と言われます。聖浄二門判で言えば、浄土真宗は浄土門、易行道に当たります。
釈尊一代の教えは教理行果を出ないといいます。親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』を著されましたが、聖道門にしても浄土門にしても、教があり、行を修して、果(証)を得ることは共通です。聖道門の行は諸善万行と言われるようにありとあらゆる善根功徳ですが、浄土門、とりわけ浄土真宗の行は、称名念仏の一行です。それは阿弥陀仏の本願に「念仏の衆生往生せずは我も正覚を成らじ」と誓われているからです。称名は阿弥陀仏が選択された行だからです。念仏は阿弥陀仏の勧めだからです。
行の無い仏教はありません。「ただ信心のみ」とは、キリスト教でも言うことです。親鸞聖人は行の無い仏教を説かれたのではなく、一切の自力を否定されただけです。ですから、七高僧方、親鸞聖人は、生死を離れる(出離する)ため、浄土に往生してさとりを開くために、その往生の行として念仏を勧められたのです。(最初から)報恩の行として念仏を勧められたのではありません。
浄土真宗の目的は、生死を出離すること、浄土に往生し成仏することです。ひいては、仏の大慈大悲をもって一切衆生を救済することです。その教が浄土三部経、中でも『大無量寿経』を根本とする教えであり、その行が称名念仏の一行です。この土台無しに親鸞聖人の教えがあるわけではなく、蓮如上人も、この土台無しに信心正因称名報恩の法義を説かれたのではありません。
ただ親鸞聖人と蓮如上人では、時代背景も異なる上に問題とされていることも随分と違います。それについて、まず親鸞聖人の時代背景や問題を次回以降に追って紹介していきたいと思います。
ともあれ、穢土を厭い、浄土を願うならば、
速やかに迷いの世界を離れ、浄土に往生しようと思ったら、聖道門をさしおき、雑行をなげうち、助業をかたわらにして、専ら称名念仏の一行をつとめよ。仏名を称すれば必ず浄土に生ずることができる。阿弥陀仏が本願にそう誓われているからである。
という法然聖人の教え、それを無我に相承された親鸞聖人の教えに順じて一心に本願をたのみ、一向に称名念仏の一行をつとめましょう。
私が念仏を称えるから往生するのではありません。「念仏する者を往生させる」という本願があるから往生するのです。信心は、上の赤字の内容を深信すること、すなわち、本願の仰せ、善知識方の勧めを仰せの通り受け容れて、身も心もすっかり阿弥陀仏にまかせることです。私達の拠り所は私達の心ではなく、本願であり、本願成就の名号、念仏です。
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