FC2ブログ

善を悪のように言って避けさせ、一方で一部の者の私利私欲を満たすためだけの悪業悪行を善のように言ってやらせる親鸞会

親鸞会の教義は本当にいい加減であり、矛盾だらけです。

雑行を五雑行と諸善万行に分けるという独自の説もそうです。本当は、雑行に五雑行と諸善万行とがあるのではなく、布施・持戒等の無量の行を雑行と言い、その中の一例を五種の正行に対して五種の雑行で説明された、というだけです。

次に雑行は、すなはち文(同)に、「この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく」といふこれなり。意はいはく、雑行無量なり、つぶさに述ぶるに遑あらず。ただしばらく五種の正行に翻対してもつて五種の雑行を明かすべし。一には読誦雑行、二には観察雑行、三には礼拝雑行、四には称名雑行、五には讃歎供養雑行なり。

第一に読誦雑行といふは、上の『観経』等の往生浄土の経を除きてのほかの大小乗顕密の諸経において受持し読誦するをことごとく読誦雑行と名づく。
第二に観察雑行といふは、上の極楽の依正を除きてのほかの大小、顕密、事理の観行をみなことごとく観察雑行と名づく。
第三に礼拝雑行といふは、上の弥陀を礼拝するを除きてのほかの一切の諸余の仏・菩薩等およびもろもろの世天等において礼拝恭敬するをことごとく礼拝雑行と名づく。
第四に称名雑行といふは、上の弥陀の名号を称するを除きてのほかの自余の一切の仏・菩薩等およびもろもろの世天等の名号を称するをことごとく称名雑行と名づく。
第五に讃歎供養雑行といふは、上の弥陀仏を除きてのほかの一切の諸余の仏・菩薩等およびもろもろの世天等において讃歎供養するをことごとく讃歎供養雑行と名づく。

このほかまた布施・持戒等の無量の行あり。みな雑行の言に摂尽すべし。
『選択集』五雑行

ですから、読誦雑行、観察雑行、礼拝雑行、称名雑行、讃歎供養雑行、これらは諸善なんです。雑行と名づけられていますが、悪じゃないんです。善なんです。善い行いなんです。

親鸞会では、五雑行は悪のように言い触らして、会員に徹底的に避けさせます。阿弥陀仏以外の諸仏、菩薩、諸神に仕えてはならないとし、初詣に神社に参ってはならないとか、浄土真宗以外の墓に参ってはならないとも学生時代に聞いてきました。

善をしなければならないなら、積極的に神社仏閣に参って仕えるべきだし、たとえ他宗の墓であっても墓参りは父母孝養の一つですからこれも積極的に行ってしかるべきですが、高森教は根本から間違っているのでそうしません。

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。「化身土文類」雑行釈

で往生の因ではないからやってはならないというなら、

顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。三経隠顕問答 隠顕釈

同じく、定散二善、世戒行の三幅は報土の真因ではないからやってはならないということになります。親鸞会教義は完全に矛盾・破綻しています。


また、信後の諸善は御恩報謝になるというなら、信後はますます諸神・菩薩・諸仏に仕えてしかるべきでしょう。これらの本懐は念仏一行を勧めて往生を願わせることにあるのですから、その報恩感謝の気持ちを込めて観察し、礼拝し、称名し、讃嘆供養すべきです。繰り返しますが、雑行とついていますが五種の雑行は悪ではなく、間違いなく善です。ところが、そういう善行は全くしないのが親鸞会です。

それでいて諸仏・菩薩・諸神を軽んじています。これらでは助かる力が無いから仕えるな、すがるな、たのむな、あて力にするな、と言うばかりで、おかげさまで本願を信じ念仏する身にさせて頂きましたと会員に感謝の気持ちを持たせることすらしないのです。尤も、会員が本願を信じ念仏する身になっていないので仕方ありませんが、信後の諸善が御恩報謝なら、同じく信後の五雑行も御恩報謝です。


善、善とうるさい割に同じく善である五雑行は悪の如く扱い、主に善と言って勧めているのは

・高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと
・親鸞会に人を勧誘し、会員(学徒)にすること
・親鸞会に財施すること
・高森会長や上司の指示に無条件で従うこと


等の善もどきの善、悪業悪行、「高森の行」であるのが親鸞会です。また、高森顕徹会長を始め一部の幹部や講師部員は、とても廃悪修善を実践しているとは言い難いものがあります。教義面に絞っても、

・「親鸞会教義の誤り」への反論を依頼した特専部員を除名する。
・反論もしないのに、「これが親鸞聖人の正しい教えだ」と主張し、間違った教えを弘め続ける。「誤りを犯さないことを誇りとするよりも 誤りを直ちに改めることを誇りとしよう」ではなかったのか。
・大沼氏や伊藤氏から盗作しておきながら、あたかも自分が書いたものであるかのように振る舞う。
・意図的な断章をした御文を教学聖典に用い、会員に親鸞会ドグマを浸透させる。
・根拠が存在しなかったり、根拠が間違った御文を教学聖典に掲載し続ける。
・法論すれば相手の主張を歪曲し、相手があきれて論戦放棄すると、勝手に勝利宣言。
・過去の法論では頑なに自説を曲げなかったのに、後になってしれっとそれまでの主張を修正してくる。若不生者の「生」の解釈が典型例。㈱チューリップ企画と田中一憲の法論はまさに勝他のための議論。
『飛雲』との公開法論に応じないまま8年以上経過。


等々、教えを説く者としての誠実さはカケラもありません。とにかく善がしたくない、善をするのが嫌なようです。教義面でこの有様であり、そんな教えを説いているのが高森顕徹会長ですからその下は推して知るべしです。不倫疑惑、セクハラ、万引き、偽装勧誘、偽装ベストセラー、詐欺サイトの運営、挙げればキリがありません。とにかくやり放題。親鸞聖人の教えを悪人製造の教えにしているのは他ならぬ親鸞会です。これでは獲信・往生は勿論、善果も来るはずがありません。たとえ一旦善果に恵まれたとしても、その後の果報は自分が受けねばなりません。

善を悪のように言って避けさせ、一方で一部の者の私利私欲を満たすためだけの悪業悪行を善のように言ってやらせる親鸞会は、本当に許し難いです。
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

当為と存在

高森顕徹氏が本願寺に怨嗟の思いをもったのは、親鸞会の『顕正』によれば、大谷派の柏原祐泉氏の名による、布教使の資格を持たない者には教団の施設で法話することは禁止すべきであるといふパンフレットに対する私怨が元だと思ふ。
当時は、熱狂的な法話をする高森顕徹氏を招く寺院や教団施設も多かったのですが、節談説教のように卑俗な譬えや聴衆の感情を煽り、浄土真宗の信心(プラサーダ)と誤解せしめるバクティ(熱狂的信)として本願寺派でも高森顕徹氏の法話スタイルにしばしば注意をしていました。
そこで、柏原祐泉氏の門徒に対する警告のパンフレットの提言を受け容れて布教使の資格を持たない者の本願寺派の施設での説教を抑制したのでした。当然、真宗寺院でも高森顕徹氏を招くことはなくなり、門徒主導の法話でも高森顕徹氏を忌避しました。かっての高森顕徹公式ページには、困窮した高森顕徹氏を訪ねた会員のエピソードがあったのですが、都合が悪いので削除されたのか見つからん。
そこで、高森顕徹氏は、たちまち生計の道を断たれてしまったのですが、この怨みのエネルギーが高森親鸞会が本願寺を仮想敵としての「藁人形論法」でした。
そして、当時、熱狂的な折伏運動を展開していた創価学会の運動論に着目して創価学会二代会長の戸田城聖の「絶対的幸福」といふワードを導入し「絶対の幸福」といふ言葉で大衆を幻惑してきたのが高森顕徹氏でした。

「「絶対的幸福」は弘安2年10月12日の大御本尊の信受のみにる」
https://www.youtube.com/watch?v=PB1GkEwPB7w

高森親鸞会では、創価学会用語の、正本尊とか正本堂とか「正」の字にこだわるのは、創価学会の正法蓮華経を強調する意かもです。アホです。
親鸞会興隆は、人生経験の少ない大学生をターゲットとした中根氏の世間を知らない若い大学生を対象としたところから金と人の面では飛躍的発展を遂げました。その意味では若者を搾取の対象とする高森親鸞会は一定の利益をあげ、富山の田舎に教団施設を造りあげました。(そのうち廃墟になって廃墟マニアが出没するかも 笑)

それはそれとして、若者は、我、何を信ずべき(beeing)かと、我、何をなすべき(doing)とを、ごっちゃするから浄土真宗の御法義は難しいのであった。知らんけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


Re: 林遊@なんまんだぶ様

高森会長は打倒本願寺を目的に、真宗の流れを変えるということでやってきましたが、教えはデタラメ、古参の会員が辞めていく、後継は育たず、たのみだった大学での勧誘も厳しい、もう会長自身が人前で話が出来ない、ということでもう末期的な様相を呈しています。それでも新しく会館を建てたりと隆盛ぶりをアピールしていますが、どこまで持つやら・・・

ただ、人生の目的とか、なぜ生きるという問いに真剣に向き合い、彼らなりの答えを順を追って説きますから、そこら辺の人生相談よりも魅力を感じ、ハマってしまう人はこれからも出続けるでしょう。できるならあまりハマる前に正しい浄土真宗の教えを聞いてもらいたいものですが、絶対の幸福に魅力を感じても、浄土往生、成仏を願う人は稀かもです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

有漏善・無漏善

ども、林遊@なんまんだぶです。

人生の目的とか、なぜ生きるといふようなテーマは仏法上の大事な要点です。
ただ高森親鸞会は、その問いを深く考察することなく信心獲得の一点で説いたため、怪しげな高森教義とあいまって偏頗で狂信的な求道者集団となってしまったのでしょう。真実に嘘を混ぜると全体が嘘になってしまうのでした。
通常は仏教を学ぶ場合には、「仏教概論」などによって仏教の全体像を俯瞰するのでした。そして自らが帰依する宗教(本来は無数の仏教の「教」えの中からどれを「宗」とするかといふ仏教語) を学ぶのでした。ですから、一般の仏道体系では信解行証(教法をまず信じて、理解し、行じて、証果を得る)といふのでした。
ですから「信」とは、仏道に入る初門であり、菩薩の五十二位説の階位の初めは十信といふのでしょう。その意味では信は仏法の初門でした。
ところが浄土真宗では「信心正因」として、信を中核に据えますからいろんな誤解・錯覚を生じるのかもです。浄土真宗では「救い」を強調しますから、人生の目的や、なぜ生きるといふ問いを、金魚掬いの救いのように錯覚したのかもでした。
仏法による「すくい」とは、生まれ変わり死に変わりしてきた生死(輪廻)からの離脱であり、輪廻の煩悩の迷いを転じて、さとりを開くことで、これを蓮如さんは「後生の一大事」の転迷開悟といわれたのでした。
「後生の一大事」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BE%8C%E7%94%9F%E3%81%AE%E4%B8%80%E5%A4%A7%E4%BA%8B

高森親鸞会では、うるさく間違った因果の道理を主張し、高森親鸞会への献金(善なる行為)を因なる善の行為だとし、その果としてスーパー信心が得られることを「因果の道理」として説くそうですが、そもそも仏教上で説く「有漏」の善と「無漏」の善の違いが判らないから、某ブログのコメント欄で真実の無漏善を知らず、有漏善の妄言を述べる狂惑者が暴れているのでしょう(笑

ともあれ、二度とかえらない青春の一時期を高森親鸞会に搾取されたことは察するにあまりあるともいえようか。しかして四十過ぎて高森親鸞会の呪縛から逃れることが出来ない輩は可哀そうである。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 浄土真宗では「信心正因」として、信を中核に据えますからいろんな誤解・錯覚を生じるのかもです。

同感です。信心とは本願についての信心、本願の念仏という行についての信心です。これを弁えていなければ親鸞会等のように誤解錯覚が生じると思います。

親鸞会では、善をしていって微塵の善もできない自分でしたと弥陀の光明に照らされ知らされた時にスーパー信心が得られると説きます。一応、善は信心を獲る因ではないことを申し伝えておきます。尤もこんなのは詭弁であり、結局は善をしなければ絶対に獲信できないのですから、善が信心を獲る因であると言っているようなものですがね。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード