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【考察】念仏の勧めについてⅡ(5)

今回は少々細切れになりますが、『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』から親鸞聖人当時問題となっていたこと、親鸞聖人が『教行証文類』を著すきっかけになったと言われる事件を伺っていきます。

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   貞応(元仁)の念仏禁制

 元仁元年(一二二四年)は貞応三年で、十一月二十日に元仁と改元されたのですが、この年は恩師法然聖人の十三回忌にあたり、ふたたび専修念仏が停止(禁制)になった年でもあったのです。法然聖人在世中の承元元年(建永二年、一二〇七年)に起こった承元の法難によって専修念仏が禁制になりましたが、法然聖人が亡くなられたあと、門弟たちの活躍によって、ふたたび専修念仏の教えが隆盛に向かい、京都をはじめ全国のいたるところに念仏の声が響きわたるようになっていきました。それが法然聖人の十三回忌を機縁として、いっそう強まる気配を見せたので、ついにこの年の五月十七日に比叡山延暦寺から朝廷へ、専修念仏を禁制にし、念仏者たちを厳重に処分するようにという訴訟状が提出されたのです。これを「延暦寺奏状(延暦寺大衆解)」といいます。この訴訟状によって、この年の八月五日に、法然聖人の教えは邪教であると認定され、ふたたび専修念仏停止が宣下されたのです。貞応三年、すなわち元仁元年は、念仏が禁制にされた年であったということを忘れてはなりません。

 しかも、それから間もなく、定照という天台宗の僧侶が、法然聖人の主著である『選択本願念仏集』を批判する『弾選択』という書物を著しました。それに対して、法然聖人の高弟だった隆寛律師が『顕選択』という書物を著して反論し、定照の批判は「闇夜のつぶてのようなもので、一つも当たらない」といわれたものですから、比叡山の学僧たちは憤慨して、隆寛律師をはじめ、「法然の流れを汲むものは一人も残らず処罰せよ」と朝廷に迫ったのです。そこで朝廷は、嘉禄三年(一二二七年)、念仏者を一斉に検挙し、隆寛律師は八十歳という高齢にもかかわらず奥州へ流罪となり、空阿上人は薩摩へ、成覚房幸西上人は壱岐(実際は阿波?)へ、それぞれ流罪になったのです。

 それでもまだ比叡山の衆徒の怒りはおさまらず、『選択集』(建暦本)の版木をことごとく没収して根本中堂の前で焼き払い、法然聖人の墓を暴いて、遺骸を賀茂川へ捨てようとまでしたのです。しかし、法然聖人の弟子であった宇都宮頼綱兄弟が、六波羅の兵を率いて僧兵たちを追い払ったので、墓の建物は壊されましたが、遺骸だけは守ることができました。この事件を、嘉禄の法難といいます。親鸞聖人が五十五歳のときのことでした。

(中略)

 「延暦寺奏状」の第四条に、法然やその弟子たちは、今は末法の時代だから念仏以外に救いの道はないといっているが、天台の『浄名経疏』などの説によれば、今はまだ末法の時代ではないことになる。それに、たとえ末法であったとしても、まだ初期であるから、修行さえすればさとりを開くことができる時代である。また仏滅後五千年間は証を得るという説もある。それなのに念仏以外に生死を超える道がないというのは、釈尊の教えを否定する邪説であると非難しているのです。
(p.34~p.37)
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聖道門からは、専修念仏、末法の世は念仏以外に救いの道はないという教えが非難されています。


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   承元の法難

 ところで、法然聖人の教えの真意を顕すといいましたが、それは法然聖人ほど多くの誤解と、非難中傷を受けた方はいなかったからです。外部からの非難中傷の最たるものは、承元の法難の引き金となった「興福寺奏状」や、元仁の念仏停止や、嘉禄の法難のもとになった「延暦寺奏状」であり、さらには明恵上人高弁の『摧邪輪』『摧邪輪荘厳記』などがあります。

 「延暦寺奏状」のことは先ほど述べたので、ここでは「興福寺奏状」について少し述べておきます。それは元久二年(一二〇五年)十月、親鸞聖人が三十三歳のとき、奈良の興福寺から、法然聖人の教えは正当な仏法ではないということを九か条に分けて数えあげ、法然をはじめ主だった門弟たちを処分し、その教えを禁止せよと、朝廷に上奏した文書のことです。「興福寺奏状」の執筆者は、当代一流の学僧として崇められていた笠置の解脱上人貞慶(一一五五~一二一三)でした。

 この「興福寺奏状」が、専修念仏者の風紀問題とあわせて朝廷にとりあげられ、建永二年(承元元年、一二〇七年)二月に念仏停止の勅命が下り、住蓮房、安楽房など、門弟四人が死刑に処せられ、四国へ流罪となった法然聖人を含めて八人(実際は七人)が流罪に処せられるという大弾圧事件が起こりました。このとき親鸞聖人は越後へ流されたのです。

(中略)

 こうして「興福寺奏状」や「延暦寺奏状」、あるいは明恵上人の『摧邪輪』などの論難に対して、選択本願念仏の法門の真実性を顕し、浄土真宗こそ真の仏法であるということを、釈尊の言葉と祖師たちの釈文によって証明していこうとされたのが『教行証文類』だったのです。

 さらに法然聖人の門下には、法然聖人の在世中から、すでに念仏往生を誤解して、一念義と多念義という両極端の異義が生まれ、互いに自己の立場の正当性を主張して、まるで水と火のごとく、激しく争っていました。また、諸行本願義というような説を立てて、聖道門の教えと妥協し、法然聖人がせっかく開かれた万人平等の救いの道を閉ざしてしまうような人も出てきていたのです。

 このように、法然聖人滅後の浄土宗は、外的にも内的にも、ざまざまな困難な問題に直面していました。こうした状況のなかで、選択本願念仏の真実義を明らかにし、法然聖人に対する非難や誤解を正していくという直弟子としての思想責任を果たしていかれたのが、親鸞聖人の『教行証文類』の述作だったのです。
(p.49~p.53)
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外的には聖道諸宗の批判、内的には一念多念の諍論や諸行本願義といった異義と、浄土宗は多くの困難な問題に直面していたことが分かります。なお、諸行本願義については以下もご覧下さい。


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こうして、本願の行であるから正定の業であるといわれた法然聖人の教学を、根底から揺り動かすような学説を立てるものが出てきました。天台宗の学僧であった出雲路の住心が、第十九願によって諸行も本願の行であると説き、法然門下でありながら、師の滅後に住心の弟子となって諸行本願義を学んだ覚明房長西(一一八四~一二六六)が、第二十願によって、諸行も本願の行であると主張したことがそれでした。

 称名が正定業であるのは、本願の行であるからだというのが、法然聖人の称名正定業説の論拠でした。ところが長西は、念仏が第十八願の行であるように、諸行も第二十願の行であるから、本願の行であり、選択行である称名と比べれば、勝劣、難易、傍正の違いはあるが、称名と同じように往生を得、不退の益を得る行であると主張したわけです。こうして、法然聖人が「諸行を捨てて念仏一行を専修せよ」といわれた選択本願念仏論が、根底から揺り動かされかねない状況になったのです。
(p.211~p.212)
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諸行本願義はもともと、天台宗の学僧である住心によって説かれたものですが、長西は特に第二十願を基に諸行も本願の行であると主張したようです。聖道門との教義の融和を図り、浄土宗を守ろうとしたのかも知れません。長西の真意は分かりませんが、とにかくこのような主張により、

「もろもろの雑行(諸善)を投げ捨てて念仏一行を専修せよ」

という法然聖人の教えが、あろうことか法然門下の者によって捻じ曲げられようとしていました。



ちなみに、以下に浄土宗及び『選択本願念仏集』を批判した「興福寺奏状」「延暦寺奏状」『摧邪輪』についてリンクを貼っておきますので参照して下さい。

↓↓↓

『WikiArc』興福寺奏状
『本願力』延暦寺奏状
『摧邪輪』巻上
『摧邪輪』巻中
『摧邪輪』巻下
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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