教学聖典(4) 問(22)ー「行の一念」とは

今日は親鸞会発行の教学聖典(4)に掲載されている「行の一念」について取り上げます。

問(22)
「信の一念」と「行の一念」の違いと、その意味を示せ。

答(22)
○信の一念が先で行の一念が後、柱に頭を打って痛いと感じたのが信の一念、痛いと叫んだのが行の一念。
○仏智が徹底して無明の闇が晴れた時が信の一念。
○仏智が徹底して最初に称える念仏が行の一念。



親鸞会では、「信の一念」については親鸞聖人のお言葉を挙げて説明しますが、「行の一念」については教学聖典に上記の設問があるだけで、私の在会中に法話などで話をされることはありませんでした。

親鸞聖人は「行の一念」について、『行文類』で次のように説かれています。

おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。

現代語訳:『聖典セミナー 教行信証 教行の巻』(梯實圓著 本願寺出版)285頁より

およそ往相回向の行信に関して、行にも一念ということが説かれており、また信にも一念ということが説かれています。行の一念とは、称名の数の最少単位である一声のところで、阿弥陀仏が選択された易行の称名に込められている究極の意義を顕そうとする教説です。

親鸞会では、行があまりにも軽視されていますが、親鸞聖人は「往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり」と行と信を離れたものとしては説かれてはいないことに注意しなければなりません。行信不離については、『親鸞聖人御消息』の次のお言葉を拝読するとよく分かります。

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。


そして、上で挙げた行一念釈に続いて、

ゆゑに『大本』(大経・下)にのたまはく、「仏弥勒に語りたまはく、〈それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。 まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり〉」と。

と、『大経』の弥勒付属の文を引証されます。親鸞聖人は、この弥勒付属の文の「一念」を「行の一念」と見られました。「行の一念」とは、親鸞会の教学聖典にもあるように、名号を信受した信の一念の後の、最初の一声の称名のことです。

大事なことは、「行の一念」を説くことで何が明らかになったのかです。その点については、親鸞会の『教学聖典』をみても何も分かりません。では、「行の一念」は何を意味しているのでしょうか?

諸行の法は修行を積み重ねることによって功徳が増していく法ですが、それに対し、本願の法は最初の一声のところで大利を得、無上の功徳を具足することが上の『大経』のお言葉で説かれています。もちろん名号を信受したとき功徳が備わるのですが、諸行の法に対し本願の法が勝れていることを、初一声の称名であらわされたのが「行の一念」の説示なのです。諸行の法に対していることは、『行文類』で

大利といふは小利に対せるの言なり。無上といふは有上に対せるの言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。

というお言葉が続くことから分かります。八万四千の仮門には、本願の法以外の全ての法門が含まれますので、本願一乗海(十八願)の法義こそが最勝の法であることが分かります。

また、最初に挙げたお言葉に「称名の遍数について選択易行の至極を顕開す」とあります。
「易行の至極」とは、これ以上の易行はないことです。名号の独用で往生成仏させていただく身になるので、私の力は全く要りません。

つまり、行の一念とは、諸行の法に対し、本願の法が「至易・最勝」であることを初一声の称名で顕された説示だったのです。


なお、最初に挙げた『行文類』のお言葉は、「行の一念」の「遍数釈」といわれるものです。「行の一念」について「行相釈」も説かれています。同じく『行文類』に

「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。

と説かれているのがそれです。余行を並べず、ただ念仏の一行を修めることをいいます。その直前には、

釈(散善義)に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。

と説かれており、『信文類』の「信の一念」の信相釈

「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。

を顕された後にも、

宗師(善導)の「専念」(散善義)といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」(同)といへるは、すなはちこれ一心なり。

と説かれています。このように、善導大師の散善義の専心専念の釈文と合わせることで、「行の一念」に「行相釈」を施して一行と釈し、「信の一念」に信相釈を施して一心と釈し、如来より回向された真実の行と信は決して離れることのない一行一心という行相と信相をもっていることが明らかにされているのです。


こうして、親鸞聖人は、

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。(『教行証文類』総序)

と、本願力回向の行信一つをを勧めていかれたのです。本願の法が「至易・最勝」なのですから、親鸞聖人が、ひたすら本願の法(十八願)を勧めておられるのは当然です。親鸞会の皆様も、十九願もどきの行に迷っていないで、親鸞聖人のお勧めに従い、はやく最勝の直道に帰して頂きたいと念じてやみません。


明日も行の一念の遍数釈について取り上げたいと思います。

(つづく)





【補足】
「行の一念」については、『やさしい 安心論題の話』行一念義行一念義といったサイトにより詳しく書かれていますので参考にされたらよいと思います。
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