無上大利の念仏を軽視し、有上小利の余行にもならぬ活動を殊更に勧めているのが親鸞会です

教学聖典(4) 問(22)ー「行の一念」とはで紹介した『教行証文類』の行文類のお言葉は、遍数釈と言われていますが、それについて梯實圓和上より学んでみましょう。


聖典セミナー教行信証[教行の巻](梯 實圓著)より引用

  遍数の釈

 さて「行文類」に、「行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す」といい、続いて『無量寿経』の付属の経文が引用され、称名が大利を得しめる無上功徳の法であるということが証明されていきます。この釈を、行の一念の遍数釈といいます。すなわち『無量寿経』の弥勒付属の経文に、初めて称えたわずか一声の称名によって無上の功徳を具足せしめられると説かれていますが、これは、阿弥陀仏が万人を救う行法として選び取られた念仏は、わずか一声で無上の功徳を円満せしめ、決定往生せしめていく、最勝の徳をもった究極の易行であるという法の徳の絶対性をあらわすための教説であったといわれるのです。

 法然聖人は、『選択集』の本願章のなかで、阿弥陀仏が諸行を選び捨てて称名の一行を往生の行として選び取られたのはなぜかという問いに答えて、勝劣と難易の二義をあげて説明されています。念仏は最も勝れた行であって、しかも誰でもが行ずることのできる易行だから選び取られたのであり、諸行は勝れた能力をもっている人でなければ修行することのできない難行であって、しかも念仏に比べれば劣った行であるから、阿弥陀仏は選び捨てられたといわれるのです。

 念仏が最も勝れた行であるということは、阿弥陀仏の名号には、阿弥陀仏がさとりあらわされている無量の功徳がこめられていて、そっくりそのまま名号を称えるものの身に与えられるからであるといわれるのです。また念仏が易行であるということは、たもちやすく、称えやすく、仏教の教義を知らなくても称えられるし、老人であれ子供であれ、臨終の病人でも行ずることができるから、一人も落ちこぼれる人はありません。阿弥陀仏が本願をたてられたのは、万人を平等に救って、安らかな涅槃のさとりを恵み与えようという平等の大悲心に促されてのことでした。それゆえ、善人であれ悪人であれ、知者であれ愚者であれ、出家であれ在家であれ、平等に救って、最高のさとりを得させることのできる易行であって、しかも最勝の行である念仏を選び取られたのであると、念仏選択の仏意を顕されたのです。

 こうして、念仏は易行であるから誰でもが歩めるし、どんな愚悪なものも最高のさとりを獲ることができるわけです。このような至極の易行であって、しかも最も勝れた行であるといういわれを端的に表しているのが、「わずか一声の称名に無上の功徳を具えている」と説かれた『無量寿経』の付属の経文であるといわれたのが、『選択集』利益章でした。そこには、

しかればもろもろの往生を願求せん人、なんぞ無上大利の念仏を廃して、あながちに有上小利の余行を修せんや。(『註釈版聖典』七祖篇一二二四頁)

と結ばれています。それを承けて、親鸞聖人は、行一念の釈を施して、「大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなわちこれ八万四千の仮門なり」といい、本願の念仏こそ一切の衆生が速やかに、確実に成仏することのできる、最高にして唯一無二の仏教であり、それ以外の八万四千の法門は、すべて未熟なものを念仏に導くためにしばらく仮に与えられた権仮方便の法門であると言い切っていかれたのでした。こうして行一念の遍数釈は、本願の行法の徳の普遍性と絶対性を顕すための釈であったことがわかります。このように、釈尊は『無量寿経』の最後に本願の法が一乗無上の徳をもつことを明らかにして、当来の教主弥勒菩薩に付属されたのです。これが行一念の経文が直接表している意味です。


(p.292~p.295)



元々阿弥陀仏が非本願の行として選び捨て、『大経』や『観経』でも釈尊は付属されていない、難行であり劣行である諸行(諸善)ですから、

・獲信の因縁として善を修せよ
・修善は獲信とよい関係にある
・善をしなければ信仰は進みません


などという珍説は出ようはずもないのです。

曲解した宿善論と、独自の方便説、三願転入の解釈によって「獲信の因縁として善を修せよ」と言い、その実、善もどきの行(主に献金と人集め)を会員に勧め、そのためには手段も選ばず平気で妄語の罪を犯させ、「親鸞学徒の本道」から完全に外れて外道化しているのが親鸞会です。

会員自身がそのような教えを「唯一絶対にして真実の宗教だ」と信じるのは、確かに信教の自由で保障されています。話を聞くなり献金するなどして、救いを求めたらよろしいでしょう。しかし、人まで巻き込んで迷惑をかけるのは止めて頂きたいと思います。
どうしてもというなら、自分自身がまず「鮮やかな一念の体験」とやらを実地に体験し、そして教義批判に根拠を持って正確に答えてからにして頂きたい。論も証拠もないのでは話になりません。

教義の誤りに加えて偽装勧誘、不透明な資金の流れ、幹部の不倫疑惑、様々な隠蔽体質、などなど不誠実な問題が多すぎて、それらについては反省もなければ懺悔している様子も見られません。彼らの説く因果の道理からすれば、それらは皆「親鸞会の蒔いたタネ」であって、批判を「本願寺の陰謀」「真実知らぬ者達の妄言」などと言っているのは、「ナワをうらむ泥棒」と同じです。
自らが説くことにさえこのように矛盾を抱えているのですから、そんな団体が唯一絶対にして真実の宗教団体なのかどうかは言うまでもありません。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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